二章目スタートです。
やはり『妹』は『兄』に振り回される。
人界歴三七九年。早朝。
セントラル・カセドラル最上階。
本来であれば、選ばれた人物しか出入りの許されないその回廊に、ひとつの足音がこだましている。
黄金の鞘に収められた一本の長剣を携え、僅かにも息を乱さず、金の長髪をなびかせる少女。
彼女の名は、アリス・
美人というのは何をしても映えるとは言うが、彼女自身その例に漏れず、ただ駆けているだけの姿は実に絵になっている。
そんな彼女がこの人界──いいや、あるいはこのアンダーワールドという世界単位で見ても有数の実力者であることを知る者は少ない。
というよりは、このセントラル・カセドラルの住人自体が、認知されることの少ない人間ばかりであると言った方が正しいのだが。
とはいえその実力が確かであることが間違いのないことなのは──最も新しくはあるが──整合騎士に任ぜられたことからも分かるだろう。
彼女がここに来てから未だにこの人界の平穏が崩れたことは無いが、いざそうなった時は無類の実力を発揮してくれることは想像に難くないし──事実、その時は如実に近づいてきていた。
そのことを、アリス自身も当然ながら理解している。
──であれば、こんな朝早くからこうして移動しているのは鍛錬の為か? と問われればもちろんその答えはノーだ。
鍛錬のことなぞ、今のアリスの内心には欠片たりとも存在しない。
あるのは怒りと呆れと怒りである。
そう、アリスは今ハチャメチャにブチギレていた。
具体的に言えばこの最上階で今も安眠をむさぼっているであろうあいつに──!
「起きてください兄さん──いいえ、いい加減起きろ愚兄ーー!!」
ドーン! とぶっ飛ぶように扉が開き、美しい声音が怒声となって響き渡る。
その奥にある、やたらと豪奢なベッドの中で一切身じろぎのしない男へ向かい、アリスはズンズンと歩み寄り──フカフカの布団を一気に引っ剥がした!
「兄さん、いつまで寝ているつもりですか!」
「んぅ……何だ、騒がしいぞアリス」
「"何だ"ではありません! 今日は朝から会議だと昨日、自分で言っていたでしょう!?」
おや、そうであったか、などと宣いながらのそりと起き上がった、アリスに「兄」と呼ばれた男の名はアルフォンス。
カンカンに怒っているアリスなど意にも介さず、アルフォンスは「くぁぁ」と大きく欠伸した。
「分かっている、分かっている。このオレが忘れる訳ないだろう」
「であれば何ですかこの体たらくは……会議はあと数分で始まります。もうアドミニストレータ様や小父さまたちも席についているのですよ」
「それも含めて分かっている、と言っているのだ。なに、安心しろ……オレは遅刻だけはしない男だ」
というか、アドのやつオレを起こさなかったのか……等とぼやくアルフォンス。
因みに今から会議場所である、セントラル・カセドラル五十層《霊光の大回廊》まで行くのに優に十分はかかる。
整合騎士であるアリスが、邪魔も障害も無い中で、全力疾走した上で十分はかかるのだ。
端的に言ってかなりの距離がある。
ゆえに遅刻はもう確定なのである、と言おうとしたアリスは心底馬鹿にされたような顔を向けられ思わず青筋を浮かべた。
こ、この愚兄……!
いずれ絶対に寝首をかいてやる、とアリスはもう何度も抱いた気持ちを握り直した。
「そう怒るな、可愛い顔が台無しだぞ」
「甘い言葉をかけとけば何とかなるとか思ってないですよね、兄さん?」
「ひねた見方をするな……まったく、誰から影響を受けたんだかな」
言いつつ、アルフォンスはさくっと身支度を済ませた。
それこそアリスから見ても、いつの間にか、と形容するしかないくらいの早さで整え、それからアリスの手を取る。
「に、兄さん?」
アリスの困惑した声が漏らされる。
しかしアルフォンスはまったく、気にも留めずに口を開いた。
「いいか、アリス? 今日も一つだけ教えてやろう──何事も、基本的には上がるより下りる方が楽だし早い、ということをな」
「な、何を──」
言っているのですか? と言葉にすることはできなかった。
否、恐らく口にはしたであろう、しかし──ノーモーションで爆砕された壁の悲鳴によって、それはかき消されていた。
というか、壁を破壊した……? 素手で?
セントラル・カセドラルの壁は不壊と名高いのに──!?
「そら、呆けている場合ではないぞ。しっかり捕まっていろ」
「は?」
言われた通り呆けていたアリスはグッと引き寄せられ抱えられた。
そこまでなら良かった。
この程度のことならもう何度も経験しているのだから、恥ずかしくはあるが自分たち以外、誰もいないこの状況で慌てふためくことではない──のだが。
そこで終わる訳が無いのがアルフォンスという男であった。
ヒョイッと、気軽にアルフォンスは跳んだ。
……跳んだ!?
「兄さぁーーーん!!?」
「あっはっは! はしゃぐなはしゃぐな!」
「~~~ッ!」
はしゃいでるんじゃなくて悲鳴と抗議の声ですが!? 等という言葉すら出せず、アリスはアルフォンスにしがみついた。
落下速度は既に、整合騎士たるアリスにすらそうさせるほどの速度であったからだ。
つまり、このまま落下すれば途方もないほどに上昇した彼女の天命値ですら、一撃で空になる。
ざっくり言えば死ぬ。そりゃ怖いのも当然というものであった。
「ば、馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿! 私こんなところで死ぬなんて嫌ですからね!?」
「馬鹿はどっちだ、大馬鹿者め。オレはともかく、こんなことでお前を殺させるわけが無いだろう」
確かに少々刺激的ではあるかもしれんがな、と小さく呟きながら、アルフォンスは片手でアリスを抱きなおした。
その際にかなり体勢が不安定になり、アリスの悲鳴が漏れたが問題はない。
空いた右手を、軽く引いてタイミングを見計らう。
最上階からこの速度で落ちてきたのだから、そろそろだろうか。
引いた右手を基に、イメージを広げ始める。
この世界で何よりも必要なのは強烈なイメージ力だ。
壁を破壊できるのだという確信。
どのような技を以て、どれほどの力を以て、破壊するのだという明確な想像。
それらをすべてを、特に負担なく行いアルフォンスは、そっと壁に右手を突いた──瞬間。
ドゴォン! という爆砕音と共に、《霊光の大回廊》には巨大な穴が空いた。
それからトン、と何も無い空中を一度蹴り、アルフォンスは《霊光の大回廊》へと着地する。
そこにあるのは巨大な円卓と、それを囲むように座る公理教会──いいや、新・公理教会とでも呼ぶべき組織の、メインメンバーたちだ。
一様に呆気にとられる彼らに見られながら、アリスを席に捨てるように置き、何事も無かったかのようにアドミニストレータの横へと座った。
ちなみにセントラル・カセドラルの壁は自動修復機能が備わっているため、既に元の形に戻りつつある。
アドミニストレータが組んだ天才的な神聖術の一つだ。
「うむ、全員揃っているようだな。ではこれより《対最終負荷実験会議》を始め──ぐぁ!?」
ポカリ、というかドン! という衝撃音が響くような拳が落とされ言葉が中断される。
それでもたんこぶの一つも出来ないのは流石と言うべきだろうか。
「何をする、アド……」
「何を何事も無かったかのように会議を始めようとしてるのよ、貴方は……ああなった経緯を説明なさい、経緯を」
「アリスが急かすから最上階からここまで落ちてきただけだ。それ以上も以下も無い」
「??????」
全く意味が分からなくてアドミニストレータは疑問符を出しまくった。
恐らく言葉通りの意味なのだろうが、普通に意味不明でアドミニストレータはアリスへと目を向けた──が、涙目になっている彼女を問い詰めるのは可哀想だ、という結論にでも達したようで深々と溜息を吐いた。
「ま、良いんじゃないですか? アルフォンスが突拍子ないのはいつものことなわけだし」
「あら、あんまりこの子を甘やかさないでくれるかしら? ベルクーリ」
「何でこの流れで俺が睨まれなきゃならねぇんだよ……」
どうにかしろ! と言わんばかりの目を向けられて、コホンと、アルフォンスが咳ばらいをした。
「分かった分かった、アドにも後で同じことを経験させてやるから……」
「あれ? 今そんな話していたかしら!?」
「何だ、アリスに嫉妬したのではなかったのか?」
「ぐむ……」
アドミニストレータは思わず黙り込んだ。つまりアルフォンスの勝ちという訳である。
生来の気質であったのだろう──愛が深く、愛が重い。
アドミニストレータはそういう人間であった。
とはいえ嫉妬と言っても本当に、ちょっとくらいしかしていない。
昔ならいざ知らず、今のアドミニストレータとアリスの関係はそれなりに近しいものとなっていた。
「それでは改めて始めるが──まあ、それほど堅苦しくなくて良い、いつも通り気は緩めろ、どうせ長くなるしな。
ああ、とはいっても書記は怠けないようにな。ではベルクーリ、各国騎士団の報告から頼む」
「承知した……つっても先月と大して変わりはしねぇがな。アルフォンスが言った通り、これ以上の騎士の増員はあまり見込めなさそうだが──」
報告が始まると同時に、アリスは「ハッ」と意識を確りと取り戻した。
決して気絶していたわけでは無いが、魂が半分抜けていたも同然である。
アリスはあとであいつ絶対に一発殴る、と思いながら自席に用意されていた資料を手に取った。
と言っても、ベルクーリの報告は半ば自身の報告内容そのものではあるのだが。
アリスは現在ベルクーリの部下である──まあ整合騎士である以上、それも当然なのだが。
──そう、整合騎士。
かつて最高司祭:アドミニストレータが作ったそのシステムは、未だに運用されていた──アルフォンス曰く、『劣悪なシステムではあるが、今はまだ頼らざるを得ないからな』とのことだ。
そうしてそのことを──この場にいる人間は全て、把握し納得している。
あるいは、アルフォンスに納得させられたと言うべきか。
今からちょうど、七年前。我が兄──正確には兄貴分──であるアルフォンスがアドミニストレータを打ち破り、実質この公理教会の全権限を握った日から、少し経った頃のことである。
この《対最終負荷実験》の一回目。
集められたセントラル・カセドラルの住人──とは言えその中でもある程度の権利を持つ者のみだが──の前で、アルフォンスは多くのことを語った。
何の間違いか、あるいはアルフォンスの贔屓かは未だに分からないが、一先ずは参加することを許されたアリスは、その時の記憶を今でさえ鮮明に覚えている。
いつも浮かべている飄々とした面は引き締められ、傲岸不遜な態度も鳴りを潜めた彼は、十一歳でありながら既に指導者の風格を誇っていた。
それに伴うように言葉のひとつひとつには重みがあり、だからこそ語られた荒唐無稽とも呼べる話──例を挙げるならば、それこそ着実に迫ってきている戦争がそうだ──を疑うものは現れなかった。
無論、誰もが信じたわけでは無いが、嘘であると断じるものもいなかったというわけだ。
そうして、そこまで持ってこられれば後は時間をかけ、事実を積み重ねるだけで人は信じる方に傾いていく。
その過程でアルフォンスは多くのことを成し遂げた──かのように見えるが、実のところそこまでのことはしていない。
その証拠とでも言うように、公理教会の在り方というのはこれまでとほとんど変化していなかった──無論、あまりに理不尽に過ぎる規則等は撤廃されたし、セントラル・カセドラルからは一部の人間が永久退場することにはなったが。
しかし言ってしまえば
内部の体制は幾らか変わったが、人界に住む多くの人からすれば公理教会は全く変化しているようには見えないだろう。
──そのことを、指摘したこともある。何せアリスからすれば、色々な闇を孕むこの公理教会をそっくり変えてしまうのだと、確信すらしていたのだから当然だ。
幼いながらにも分かるこの組織の
いいや、それは恐らく、アリスだけの期待では無かったのだが──アルフォンスはただ
「今はその時では無い」
と一蹴したのであった。
時を経て、成長した今ならばその言葉の意味が分かる。
端的に言うならば、それは「今は人界内で争っている場合ではない」なのだろう。
人界はもう何百年もの間、整合騎士の尽力によって平穏を維持されてきた。
お陰でかつては剣術を学ぶ場所であった修剣学院も実力よりも見栄ばかりが優先されるようになり、騎士と言っても名ばかりなものだけになってしまった。
要するに、まともに戦える人間が暗黒領域と比べれば圧倒的に少なくなってしまっていたのだ。
最終負荷実験と呼ばれる、あと数年で来ると予見されている戦争は過去を鑑みても類のない規模の戦いになる。
整合騎士では抑えられないほどの数が押し寄せてくるだろう──そうなった時、戦わなければならないのは、その住民たちなのである。
何も用意することができずにその時が来てしまえば、出来上がるのは地獄だろう。それだけは避けなければならない。
なるべく早く各国の協力を取り付け騎士団を再編、磨き上げなければならないというのに、今そのトップが揉めて人界を揺らす訳にはいかない、という判断だった。
アドミニストレータという一人の女の類まれな手腕ひとつで纏め上げられてきた人界だ、トップが揺れるということはイコールで人界が揺れる。
……ただし、その判断が正しいのかどうかは、正直なところアリスには分からない。
だがアルフォンスがそうだと言うのならば、間違ってはいないのだろう──とまで思ったところでアリスは「良くないな」と己を律した。
今では誰もが盲目的にアルフォンスを見てしまうのだ、少なくとも私くらいは公正な目を持たなければ──何せ、私は妹分なのですから!
ふふん、と心なし胸を張る。
直後にバチンと額を弾かれた。
「いっ……!?」
「会議中にうたたねとは、良いご身分ね? アリス」
「あっ、副騎士長殿……」
「まあ、それもあの坊やに付き合わされたのだから、仕方ないとは思うけれど。それでも少しくらいはシャンとしましょう、ね?」
そう言って、薄く微笑んだ女性の名はファナティオ・シンセシス・ツー。
豊かな黒の長髪を揺らしながらポンポン、とアリスの頭を撫でるように叩き去って行く。
その背中を目で追いながら、視野を広げればどうやら会議は終わったらしく、既に解散ムードであった。
私としたことが、小一時間呆けてしまった……!?
ガーン、と肩を落としそうになるのを取り繕いながら、しかし小さくため息を吐いた。
まあ、会議の内容自体は資料に目を通せば大まかには分かるので、そこまで問題ではないのだが……。
それはそれとして流石に気が抜けすぎているというものである。
あ~あ、それもこれも兄さんのせいです……とアリスは投げやり的にアルフォンスへと責任を擦り付けた。
「取り敢えずオレに責任を押し付けようとするのはやめろ、アリス」
「なぁっ……! 兄さんこそ、人の頭の中を覗き見るのはやめてください」
「お前が表情に出やすいと言うだけだ、阿呆め」
やれやれ、と嘆息したアルフォンスは「んーっ」と伸びをして身体を解す。
その隣には当たり前のように──と言うには少々くっつきすぎているような気もするが──アドミニストレータが佇んでいた。
ただそこにいる、というだけで思わず目が奪われてしまうのは、単純に彼女が美しすぎるがゆえだ。
「午前分のタスクは消化したし、久し振りに東にでも行くか」
「あら、貴方まだ諦めてなかったのね」
「オレが諦める訳がないだろう──それともなんだ、アドはオレには不可能だと思っているとでも言うのか?」
「……その言い方は卑怯だと、いつも言っているでしょう」
ぷくぅ、とアドミニストレータは小さく頬を膨らませてみせた。
この人、どんどん可愛らしくなっていくなぁ……とアリスは思った。
初めて見た時に感じた神々しさや、神聖さというものは一切薄れていないのにこれである。
卑怯なのはどっちなんだか。
「アドも来るか?」
「それは魅力的な提案だけれども──残念ね。この後は
「……ああ、アレか、悪いな。頼む」
「良いのよ、これも私の役目なんだもの……帰りはいつ頃になるのかしら?」
「そうだな……二日後の会議までには戻る」
分かったわ、と言い残したアドミニストレータは手を振ってから、その場を後にした。
彼女の存在感が強かったのか、少しだけ空気が軽くなったような気さえする。
「ふむ、ところでアリス、今日のお前の予定は何だ?」
「え? えーっと、今日は午後から鍛錬する予定です」
「そうか、つまり暇ってことだな。では行くぞ」
「…………」
もう何も言うまい。
アリスは返答をした直後にこうなることを察してそっと全てを諦めた。
引かれる腕をそのままにすれば、ヒョイッと身体ごと持ち上げられる。
米俵のように片腕に抱かれたアリスは、最後の抵抗と言わんばかりに声を発した。
「あのですね、兄さん。一応言っておきますが私、明日は普通に会議の予定が入っていて……」
「なに、安心しろ。ベルクーリなら一人でもどうにかできる」
「そういう問題じゃないと思うんですけど!?」
響く声はしかし意味を為さない。
このようにして、アリスの
アルフォンス:おっきくなった。十七歳です。あれ? 十八歳か? 十八歳です。
アドミニストレータ:七年かけてかなり人間っぽくなった。最近のマイブームは編み物。
アリス:もうずっと振り回されてる。
※一章~二章間の歳のお話は幕間で出していこうかな、という気持ちでいたよ※