蒼穹の果て。
雲一つなく晴れ渡る蒼空の向こう側で、一匹の飛竜が空を泳いでいる。
一定のリズムで翼をはためかせ、しかし乗り手にほとんど振動を与えないその様は実に洗練されている。
名を、
整合騎士:アリス・ツーベルクの相棒である彼女の背には今、二人の人間が騎乗していた。
一人は彼の相棒であるアリス。そしてもう一人は、彼女の兄貴分であり──現在、この人界におけるトップのアルフォンスだ。
特に力むことなく手綱を握るアリスの背中を眺めながら、アルフォンスは「ほぅ」と小さく嘆息した。
「飛竜の操り方も上手くなったものだな。初めの頃はアレだけ怯えていたというのに」
「兄さんはいつの話をしているんですか……私だってもう、整合騎士になってから三年は経ちます。この程度は出来て当然でしょう」
「む、それもそうか」
素っ気なく返してきたアリスを視界に収めつつ、アルフォンスはそっと雨縁の背を撫でた。
──こうして飛竜に乗って出かけるというのも久し振りだ、と思う。
だから、飛竜に乗るのが久し振り、というよりは自らの力以外による移動手段を用いる、ということ自体が久し振りであった。
心意を使うのも楽ではない──という訳ではないが、偶にはこういうのも良いだろう。
「それより、イスタバリエスに何の用事があるんですか? 騎士団のことであれば、今朝の会議で小父さまが報告していたと思いますが」
「うん? ……ああ、そういえば説明していなかったか。用向きがあるのは確かにイスタバリエスではあるが、別に帝都に用がある訳ではない──そうだな、アリスは《守護聖獣》のことは聞いているか?」
「名前だけ先日、小耳に挟んだ程度ですね」
「そうか、では一から説明してやろう」
そう言って、アルフォンスが緩やかに宙へと円を描けばそれだけで人界のマップが浮かび上がってきた。
それに"×"するように線を描き、均等に四分割をする。
「この人界は大まかに、ノーランガルス北帝国、イスタバリエス東帝国、サザークロイス南帝国、ウェスダラス西帝国の四つに分けられており、それぞれ暗黒界に繋がる道を監視、封鎖しているのは知っているな?」
「はい。我々整合騎士が、今までもずっとそこを中心に警備してきたのですから、当然です」
「うむ、であれば良い──《守護聖獣》というのはな、元々はその通り道を守護してくれていた獣……オレたち人間のような明確な意思等が存在する強大な生命体のことを指す」
「え……」
アリスは思わず絶句した。
そんな生き物がいるのであれば、これまで整合騎士達があれほど激しいシフトで警備していた必要はなかったのでは? と。
しかしそこは教会始まって以来の天才と呼ばれている……アルフォンスの、その妹分である。
仮にもあのアドミニストレータが、そのような無駄なことをさせる意味が無い──であれば、警備はする必要は絶対にあったのだろう。
であれば、何故? とまで考えたところで、アルフォンスの言葉が少しだけ引っかかった。
「守護してくれて
「そうだ、過去形だ──《守護聖獣》は東西南北に一匹ずつ存在していたが、そのどれもが過去の整合騎士、あるいはアドの手によって、もう数百年も前に殺されている」
その理由というのは実にシンプルなもので、「思い通りに動かないから」というものであったというのは秘密だ。
今でこそ随分と鳴りを潜めたが、アドミニストレータは普通に暴君である。
具体的に言えば秒で沸騰するくらいには短気だった──いや、今もそうではないのかと言われれば、返答には困るところなのではあるが。
ここ数年で多少はマシになった、とはアルフォンスの談である。
「それこそアリス、お前ならばその死体を見たことあるのではないか? ノーランガルスのは確か白竜であったはずだが、あれはちょうどお前の故郷……ルーリッドの真北にある洞窟にいたはずだ」
「え? あ──」
言われると同時に、アリスの脳内に蘇った鮮やかな光景は、それこそ自身が公理教会に連れられるきっかけになった日のことだ。
かつてアリスがまだ十一歳の少女であり、その隣には幼馴染である二人の少年がいた頃。
経緯は省くが彼女らはその洞窟へと入り──そして見たのだ。
まるで水晶のような輝きと硬質さを誇る、氷のように透き通る青の色をした巨大な骨の山を。
幾年月経とうとも劣化することの無い、しかし生前に付けられたのであろう無数の傷が刻み込まれた、竜の頭骨を。
フラッシュバックのように思い出したアリスは、少しだけ眉を顰め、同時にアルフォンスの言葉は本当なのだと実感した。
疑っていたわけでは無いが、話のスケールからして信じがたいものなのだから、当然だ。
……そういえば、あの時は整合騎士が殺したのかもしれない、なんて予想を立てたっけ。
まさか本当だったなんて、とアリスは自嘲気味に笑みを浮かべた。
「確かに、見た記憶があります……でも、それらがどうしたと言うのです? まさか、蘇らせるという訳でもないでしょうし」
生命は、一度死ねば蘇ることは無い。
それはこのアンダーワールドにおいても当然のルールだ。
人も獣も、花も虫も、死ねばそれで終わりだ。
そのルールを覆すのは神聖術──ひいては心意であっても不可能だろう。
「おや、珍しく察しが良いな。その通りだ、今回のオレ達の目的はこの《守護聖獣》の蘇生だ」
しかし呆気らかんと、アルフォンスはそう言った。
まるで当たり前にそれができるとでも言うようなトーンで。
何の憂いも声色に帯びさせず。
アリスはあまりの驚きに少しの眩暈を覚えた。
「に、兄さん? もう一度言ってくれますか?」
「だから、蘇生だと言っているだろう。何だ、言葉の意味が分からなかったか?」
「いえ、そうではなくですね……」
基本属性が"荒唐無稽"な兄ではあるが、ここまでだったとは……とアリスは深々と溜息を吐いた。
公務なら別であるが、少なくとも私事であれば「出来るか出来ないか」ではなく「やれそう」で動く人間である。
その上で大体の場合、やれてしまうのだから恐ろしいというものであるが。
兎にも角にもアリスとしてはかなり微妙な心境であった。
死を覆すなど、不可能だ。
しかしアルフォンスがやれるというのならば、可能な気もしてくる……。
とはいえ、何度でも言うが、死は覆らないものなのだ。
正直に言って、失敗する兄の姿はあまり見たくない。
「……そんなことができると、本当にそう思っているのですか?」
「思っている、というよりは事実として出来る、だな。
まあ今回で確実に上手くいく保証はないが……どれだけ長くなっても一年以内には方法は確立できるだろう──とは言え、それは《守護聖獣》に限った話だがな」
「へ? それは、どういう?」
「いわゆる特別措置というやつだ。そもそも生物にホイホイと生き返られるのはこちらも困るというものだしな……命とはそう軽々しく扱って良いものでは無い」
そう言い、ゴロンとアルフォンスは雨縁の背中に寝転がった。
普通であればそんなことをすれば、たちまち振り落とされるというものだが、生憎こいつは普通ではない。
実に安らかな顔で目を瞑っていた。
そんな姿を横目に見ながら、アリスは安堵にも似た息をホッと吐く。
良かった、何も考えていない訳じゃなかったんだ……。
「──と、兄さん、そろそろイスタバリエスの領地に入ります。この後はどこに向かえば?」
「ん、出来ればサロール山地の一番奥で降ろして欲しいんだが、出来そうか?」
「そうですね、出来ないことは無いと思いますが……あまり不用意に近づくことはできませんね」
「分かった、であれば高度は無視して良い。できるだけ奥まで行ってくれれば、あとはこちらでどうにかする」
分かりました、と短く答え、アリスは雨縁の首を優しく撫でた。
「お願いね、雨縁」
「キュルル!」
ここまで来るのに相当時間をかけたが、そんなことは些事であるかのように雨縁は小さく嘶き翼をはためかせる。
飛竜の最高速度は──大体であるが──時速百二十キロルほどだ。
それほどの早さを以て飛行すれば、いくらこの広い人界と言えど数時間で果てまで来れてしまう。
雨縁は疲れなど一切見せず、二人をサロール山地の果てまで乗せて飛び、その場で停止した。
「さて、では行くか……ああ、そうだ、雨縁もここで待機させるのはアレだろう。その辺で休ませていると良い」
「ちょっと兄さん!?」
「大丈夫だ、飛竜は人界どころか、アンダーワールド全体で見ても敵うものは早々いないのだから」
「いえ、そういうことではなく──」
今もしかして私に対して「では行くか」って言いましたか!? と放とうとした問いは、しかし中断せざるを得なかった。
否、せざるを得なかったというか、させられたというか……。
アルフォンスはアリスの襟を引っ掴んで雨縁から飛び降りた。
それこそ今朝方、最上階から飛び降りた時のように軽々と。
「ひっ、きゃっ~~~~~~~~ッ!」
声にならない悲鳴を上げながら、問答無用でアリスはアルフォンスに抱き着いた。
なにせ体勢が不安定なのである。襟首だけ掴むとかこの兄、嘗めてるのか!?
離された時にはもう死まで一直線なのである。
アリスとてかなりの練度を誇る神聖術の使い手ではあるが、空を飛ぶなんてことは不可能だ。
多少浮かせることは出来るかもしれないが、この状況下で出来るかと言われればかなり頷きづらい。
必然、最も生き残る可能性の高いアルフォンスに引っ付くのが正解であった。
「────はぁ、二度目だぞ、アリス。いい加減慣れろ」
そんなアリスに、アルフォンスは無慈悲にもそんな言葉を投げかけたがアリスには大分余裕が無かった。
言葉無き文句とでも言わんばかりに繰り出されたアリスの拳をアルフォンスは悠々と受け止め、そしてなんの衝撃も無く緩やかに着地した。
一拍置いて、アリスを下ろす。
「に、兄さんは私を虐めるのが趣味なのですか……!?」
「ハッ、馬鹿者め。だがまあ、少々愉快であったというのも事実だがな」
「~~~!」
アリスのポカポカと繰り出してくる拳を、アルフォンスはぬるぬると躱す。
暫くそうした後に、息を乱して手を止めたアリスを見ながらやれやれ、と息を吐く。
「ま、はしゃぐのもそのくらいにしておけ、仮にも墓場なのだしな。騒々しくする場所でもない」
「へ? 墓場って──」
息を整え、周りを見渡すと同時、アリスはウッと目を瞑る。
それから少しずつ、目を慣らすようにして瞼を開けば、飛び込んできたのは銀に輝く骨の山であった。
──ああ、これは確かにルーリッドの洞窟にあった、白竜の死骸と同じものだ、と直感で理解する。
こちらは水晶ではなく、正しく銀塊そのもののようにも見えるが、間違いない。
痛々しく刻まれた刀傷の数々、叩き折られたであろう数多の骨片がそれを物語っていた。
「──本当に、本当にこれを蘇らせると、そう言うのですか、兄さんは」
「何だ、オレを疑っているのか?」
「そういう訳ではありませんが……」
言葉だけ聞いていたのと、こうして実物を前にするのとでは、抱く感想はまた別物になってくる。
確かに、目の前の死骸は他の獣や、人間とは違い幾らか異質ではあるが──だからと言って、これが蘇るところまではまるで想像がつかなかった。
「ふむ……まあ良い」
不安げに視線を揺らすアリスを鼻で笑い、アルフォンスは白銀の大蛇の頭骨へ触れた。
相当の年月が経っていたのだろう、脆くなっていた頭骨はそれだけで、パキリとか細い悲鳴をあげた。
もう少し押し込めば穴が空いてしまいそうだ。
「問題はなさそうだな──そう手間はかからない。すぐに終わるから、見逃すなよ」
言うや否や、アルフォンスが取り出したのは手のひらサイズの結晶だった。
明るいライトブルーに染め上げられ、小さいながらも相当の優先度を誇るオブジェクトであるそれの正体を、一言で言うのならば《記憶》だ。
誰のか、と問われればそれは勿論、《守護聖獣》──つまり、白銀の大蛇のものである。
かつて、アドミニストレータが対話した際に問答無用で抜き出したそれを、アルフォンスは持ってきていた。
「《これ》を基に、まずは死骸に残留した思念を叩き起こす──という言い方では少々分かりづらいだろうが、何、見ていれば分かる」
言いつつ、アルフォンスがコツンと《記憶》を頭骨へと当てた──刹那。
「え……」
ゆらりと、大蛇の骨がほのかに光を灯す。
熱を象徴するような、赤の光が骨の内側からドンドンと膨れ上がっていく。
幻想的──とは中々言い難いが、しかしある種、神秘的な光景であったのは間違いないだろう。
十歩ほど離れた場所で、険しい顔で見ていたアリスが、ふいに息を呑んだ。
──蛇が、いる。
白銀の鱗に包まれ、どこまでも深く紅い瞳を携えた、大蛇の姿が。
まるで霊体の如く、死骸に宿るように浮かび上がった。
「次に、リソースを分け与える」
瞬間、アルフォンスを中心に、青い光の柱が
しかしそれは大蛇のそれとは違い、不可思議な現象という訳ではない。
ある程度熟練した神聖術師なら誰でも使える神聖術──天命移動の術だ。
名称通り、自身の天命を他に譲渡する神聖術。
それを以てアルフォンスは、自身の莫大な天命を白銀の大蛇へと流し込んでいるのだ。
とは言えそれは、死した者には全く意味を為さない神聖術ではあるのだが──どういった仕組みなのか、朧げであった大蛇はみるみるうちに輪郭をはっきりとさせていくではないか!
は? 意味が分からない、とアリスは素直に思った。
アリスは整合騎士であるが、その神聖術の腕前はそれこそ、人界でも五本指に入るほどのものだ。
その彼女ですら分からない、というのははっきり言って異常であったが、仕方ないか、とアリスは嘆息と共に困惑を切り捨てた。
それに少しだけ遅れて、光の柱が霧散する。
白銀の大蛇は──恐らくであるが──完全に復活していた。
『────────』
鎌首をもたげ、大蛇はアルフォンスを睨め付けた。
そこに声は無い、音は無い。
しかし何かを確認するような圧力があって、それをアルフォンスは真っ向から受け止めていた。
そこには少しの怯えも、恐れも存在しない。
ひたすらに自然体で、視線を交差させる青年の姿があった。
その状態が続いたのは、時間にして約三分──恐ろしい速度で振るわれた白銀の尾が、静寂を打ち破り。
アルフォンスが、轟音と共にそれを片手で受け止めたことにより終わりを告げた。
大蛇が、そろりと首を垂れる。
「言葉は要らぬか」
『────』
「であれば良い、こちらには多大な非礼があった訳だしな……求めるのはひとつだけだ。
人界の──いいや、この世界の為に、力を貸してほしい。我々には、貴様らが必要だ」
返答は緩やかに、一瞬の間もなく行われた。
美しく光を弾く銀の蛇は頭をそろりとアルフォンスへと寄せた。
それが何よりも明確な返答で、アルフォンスは静かにその額へと触れた。
「悪いな、時が来れば遣いを出す」
『────』
「ああ、よろしく頼む」
神妙にそう告げた後に、アルフォンスは実に普通に振り返った。
そのままツカツカとアリスに歩み寄る
「良し、帰るぞ」
「え? あ、はい……はい? もう良いのですか?」
「そうだ、用事はもう済んだからな。それに、少しばかり疲れた」
驚くほど滑らかな手際でアルフォンスはアリスを抱き上げる。
「ちょ、兄さん!?」
「喧しいな、今は片手だと少々不安定なのだ。察しろ……それより、先ほどのはよく見ていたか?」
「はい、それはもちろん。少々不思議なところはありましたが、多少は理解も出来ました」
「それは重畳、次からこの役はお前に任せることになるからな」
「!!?」
「期待しているぞ、アリス」
「!!!????!?!?」
言葉と同時にアルフォンスは地を蹴り空を舞い。
アリスの困惑と抗議の声は悲しいかな、深山幽谷へと響き渡ったのであった。
アルフォンス&アリス:このあとイスタバリエス東帝国の旅館に一泊してから帰った。
アドミニストレータ:早く帰ってこないかなぁ、と一人ベッドの上でお山座りしてた。