朝靄の中を、双つの影が駆け抜ける。
吐息は最低限に、歩幅は一定に、音を立てることは一切無く。
意識は落としてしまいそうなほどの無に近づくように研ぎ澄まし、一切の殺意を漏らすことはなく、ただ迅速に平原をすり抜ける。
己の持つ感情を何もかも排斥し、ただそうする為だけの人形であるかのように。
双つの影──リネルとフィゼルは、まるで同じ人間かのようにピッタリの動きで一人の獲物を狙いまわしていた。
未だ、視認できる距離にはない──されども、獲物の知覚範囲にはもう既に入っていることを明確に理解していた。
経験としても、知識としても。
だからこそ油断はしない……否、彼女らは既に、油断することさえ出来ない状態で地を蹴ってはいるのだが。
暗殺を仕込まれるにあたって、彼女らが最初に教えられたことは一時的な自我の封印であった。
明確な『意思』というものは、持つだけで目には見えない何かとなって溢れ出る。
世の中にはそれを鋭敏に知覚することのできる人間がいるからだ、と。
今の彼女らは獲物を追ってはいるが、しかしそれはほとんど無意識下で行われていることだ。
さながら自然と同化しているように、まったくの異物感を与えることなく近づいていく。
慎重に、的確に。遅いとも早いともつかぬ速さを保ち、スルスルと。
獲物の呼気を、研ぎ澄ませた五感で辛うじて拾いながら、リズムを計る。
一瞬未満しか無い隙を見逃さないように、必要であれば隙を作り上げることも思考の隅に置きながら。
──フィゼルが、少しだけ大きく息を吐いた。
瞬間、リネルが鋭く一歩踏み込んだ。
呼吸を飲み込みながら、コンマ数秒で引き抜いた短剣を逆手に振り抜いた。
一般的な人界人共通の、白みのかかった肌色の首へと吸い込まれるように、リネルの一撃は宙を舞い──しかし、捉えることは無かった。
恐ろしい速度で振るわれた短剣は、宙を斬る。
リネルの、琥珀の瞳が思わず大きく見開かれ、次の瞬間彼女の視界は大きくブレた。
「──ッ」
拙い、と思った時にはもう遅い。
彼女が握っていた筈の短剣は刹那の間に取り上げられ、逆にそれによって手首を浅く切られた。
ガクン、と急激に全身から力が抜けていく感覚がリネルを襲う。
リネルとフィゼルの扱っている短剣は《ルベリルの短剣》。
ルベリルの毒鋼という、非常に強力な毒を保有する、希少な鉱石で作られた短剣だ。
一撃でも当てれば、誰であろうとも問答無用で打ち倒すことができるだろう、ジャイアントキリングの立役者。
しかしそれも、奪われてしまっては意味を為さない。
舌打ちすることすらも出来ず、ただ身を委ねることしかできなくなったリネルは勢いよく投げられた。
「きゃぁ!?」
「……!」
リネルとフィゼルがぶつかり合って、そのままドターンと揃って地面に転がった。
ついで、フィゼルの手からも短剣がスルリと取り上げられる。
「あ、ちょっ」
弱々しい抵抗はやはり届かず、伸ばされた小さな手は空を切った。
フィゼルは憎たらし気に奥歯を噛みしめた後に、ゆっくりと息を吐いた。
リネルを腹に乗せたまま、大の字になる。
「あ~あ、また負けちゃった。ちょっとくらい手加減してくれても良くなぁい?」
「ハッ、これでも加減した方だというのが分からなかったか?」
「うへぇ、まーたそういう言い方するんだから。そういうところだと思うよ、アルフォンス様?」
「負け犬の遠吠えほど見苦しいものは無いぞ、フィゼル」
言いながら、獲物──アルフォンスは笑いながらリネルに解毒薬を飲ませる。
もちろん、アルフォンスはそんなもの常備していない。リネルをぶん投げた時に彼女の懐から抜き取ったものだ。
毒使いが解毒薬を常備しているのは当然である。
「まぁ、とは言え以前と比べればまずまずの出来ではあったがな──フッ、貴様が息を乱さなければ、もう少し上手くいったとも思うが」
「んぬぬぬぬ……」
思わずフィゼルが押し黙る。これに関しては正しくその通りであったからだ。
あの時、リネルが動いたのは集中を乱したフィゼルのカバーに入るためであった。
そのせいで元から練っていたプランではなく、アドリブで動くしか無くなってしまった。
──と、言ってしまうとまるでフィゼルの能力が劣っているように思えるが、それは違う。
フィゼルもリネルも、どちらの能力値で見るのならばほぼ同じであると言って良いだろう。
そもそも、先ほどのような、自我を抑えて動くというのはそれそのものが非常に高度な技術である。
更に加えて言うのであれば、狙っている相手──つまりアルフォンスが悪かった。
かなりの努力を積み重ね、その全てを発揮しながら二人は近づいてきていたわけだが、生憎アルフォンスは最初からすべてを把握していた。
その上で、耐えられるかどうか、というギリギリのラインの圧力を放出していたわけだ。
もし、少しでも気を緩めれば即座にそれに囚われるような、そういう類のプレッシャー。
あの場面でもし、フィゼルが持ちこたえていたとしても、代わりにリネルがリズムを乱していただろう。
そして乱せばその時点で、アルフォンスの圧力に呑み込まれる。
「いやでも、乙女の片腕を掴んでぶん投げるのはどうかと思います。肩外れたかと思ったんですけど……」
と、そこでようやく身体の自由を取り戻したリネルが目を細めて言った。
ジト目というやつだが──アルフォンスは普通に気にかけることはない。
「これ見よがしに跳ぶからだろう……首に固執するのはお前の悪い癖だ、リネル。《ルベリルの短剣》は肌にさえ当たれば良いのだから、もっと狙う場所を考えろ」
「そう言われましても……首の方が確実じゃないですか?」
「一撃で決めるのならば、な。だがお前らは──今回に限ってではあるが、一人ではなく二人だった。
片方が動きを鈍らせ、もう片方が殺す、それでも良かったはずだ……お前が片腕を掴まれた時には、既にフィゼルは動き出せていたのだし」
「む、確かに……ですが、流石にあの一瞬でそこまで把握できません。フィゼルだって、もう少しくらいは呆けているかと思っていました」
「そこが甘い、と言っているのだ……ああ、いやしかし、心意はまだ習得出来ていないんだったか?」
《心意》とは、即ち世界の法則を書き換える力である。
己の強力なイメージ力を基に、不可能を可能に為しうる力。
これを以てさえすれば、ほぼあらゆる意味で万能になれると言っても大きな間違いはない──無論、それだけの力であるのだから、使い手は整合騎士の中でさえも限られている。
もっと言えば、アルフォンスほどの使い手は現在どこにもいない。
アドミニストレータやカーディナルでさえも、彼ほどの《心意》は持ち得ない。
──が、それもある意味では、当たり前であるのかもしれないが。
何せこいつは自身を疑うなんてことは全くしない上に、過剰なまでの自信で満ち溢れているようなガキである。
自分が少しでも『出来る』と思えば大抵のことは出来てしまってきた、という事実もそれを助長させていた。
とは言え、そうであっても生命の蘇生といった事柄に関しては、心意だけでどうにか出来るものでは無かったらしいが。
『出来る』と思っていることが十全に出来てしまう以上、『出来ない』と明確に思っていることは全く出来ない。
それがアルフォンスという少年の弱点でもあるのかもしれなかった。
「そう、ですね……一応、デュソルバート先生の勧めで心意の訓練はさせてもらっているんですが、未だにコツすらつかめていない感じです」
「あたしもネルとおんなじ。というか心意って、鉄柱の上に片足立ちとかして本当に習得出来るものなの?」
「……ふむ、その点は人によるとしか言いようが無いな──ああ、勘違いはするなよ。今《心意》を習得している整合騎士は皆、その過程を経て習得している。
決して無意味ではない……とは言え、必ず効果があるとも断言できないのが、痛いところではあるのだがな」
そう言葉を区切り、アルフォンスは小さく嘆息をする。
実のところ、アルフォンスは心意を習得するのに大した──どころか、全く苦労していない。
「整合騎士に出来るならオレでも出来るな、出来たわ」の流れ作業のような習得の仕方をしていた。
心意習得RTA、ぶっちぎりで一位である。
流石のファナティオ──当時、心意の存在を教えたのは彼女だった──も、この時ばかりは顎が外れる勢いで愕然としたものである。
まあ、それがゆえに、上手いアドバイスが思いつかないという面もあるのだが。
なので正直に言って、リネルとフィゼルの悩みが全くもって分からない──が、その気持ちが一切汲み取れない、という訳でもない。
自分にとっては簡単であっても、他の人からすればそうではない、という事態はアルフォンスにとって常である。
「お前たちが、心意をどのようなものであると教えられたかは知らないが、オレから言わせれば心意とは『現実の拡張』だ。
あるいは、世界のルールを押しのけ、自身のルールを世界に押し付ける……と言った方が分かりやすいかもしれないが」
「その理論で出来るの、アルフォンス様だけだと思うんですけど……」
「普通の人はその"押し付ける"が出来ないんですってばぁ、アルフォンス様の頭がおかしいだけですよぅ。
だってそれ、例えば『物は下に落ちていくものでは無く、上に向かって落ちていくものなのだ』と本気で思いこむようなものでしょう?」
「何だ、分かっているではないか」
「分かっているから、なおさら無理だと言っているのですが……」
リネルが呆れたように言う。
この様子では理論自体はみっちり教えられていたようだった。
「……ふむ、だがその段階程度で音を上げているようでは、オレを殺すなど夢のまた夢だな?」
「む」
「むむ」
一言で、双子は同時に黙り込む。
流れ作業のように叩き伏せられたのでお忘れかもしれないが、今回の二人の任務はアルフォンスの暗殺であった。
と言っても、誰かの手先という訳ではない。
アルフォンスが寛容に受け止めているだけで、これは普通に下克上であった。
滅茶苦茶簡単に言えばアルフォンスが十一歳のクソガキだった時の、アドミニストレータとの関係性みたいなもんである。
違う点があるとすれば、アルフォンスが積極的に二人を煽っているということくらいだろうか。
これくらいでレベルアップが早くなるのなら歓迎、とまでアルフォンスは思っていた。
ついでに当時のアドの気持ちが理解できて面白いな、とも。
まあ、当時のアルフォンスと、リネル・フィゼルではそもそもの実力が大幅に違いはするのだが。
アルフォンスから見て、二人は弱いわけでは決してないが、強いかと言われれば首を傾げざるを得ない程度の実力だ。
それでも、修道士・修道女の中ではトップクラスではあるのだが。
「心意すらまともに使えぬ内は、傷つけることすら不可能だ、とは言ってやる。暫くは心意習得に専念することだな」
「それ何年かかるんですかね……」
「ファナティオで十年、と聞いた覚えはあるな」
「絶対無理じゃん!?」
十年後って言ったらナイスバディなお姉さんになってますよ私達! という悲鳴が響き渡る。
どうでも良いけど二人の未来予想図、そんな感じなんだ……とアルフォンスは密かに思った。
まあ、夢があって良いのではなかろうか。
「ま、確かに才能に起因するところではあるのだがな……因みに、アリスは一年かからなかったぞ」
「──ッ」
鋭く、二人が息を呑む。
アルフォンスの異質さに慣れてしまい、公理教会の面子は普通に受け入れているが、アリス・ツーベルクもまた異常な天才である。
でなければ、たった数年の修練で整合騎士内でも一、二を争うほどの実力など手に入れられるものか。
──そして、リネルとフィゼルはその背中を、今より幼いころから見てきている。
幼い頃からその天賦の才能を示し続け、まるで当然であるかのように整合騎士へと入った女の背中を。
そんな、勇ましくも麗しい姿に、
リネルは『ああなりたい』と思った。
フィゼルは『ああなろう』と思った。
そして二人は『絶対に超えてみせる』と思った。
であれば、こんなところで躓いていて良いのだろうか?
アリスからしても、アルフォンスからしても、初歩の初歩である
答えはノーだ。
一年で習得? であれば自分達は半年……いや九か月……ギリ一年いかないくらいで習得してやる!
意気込みもほどほどに、二人は立ち上がる。
「ただそれはそれとしてコツとか何かあったりしませんか?」
「……お前たちは呼吸をすることを意識したことはあるか?」
「聞いた私が馬鹿でした……」
ガクーンと膝をつくリネル。
この男、心意を使うこと自体を、呼吸と何ら変わらないレベルの行為だと認識している……!
改めて規格外さを見せつけられ、一瞬心が折れかけたが何とか立ち直る。
この程度で折れていては、それこそ整合騎士になることすら夢のまた夢だ。
何とか息を整える。
「だが、まあ、そうだな。オレとしても、
「ほ、本当!?」
「嘘を吐く理由が無いだろう……大戦まで、少なくともあと一年はあるわけだしな。予定外ではあるが、スケジュールは組んでやる」
リネルとフィゼルは思わず顔を見合わせた。
そこにあるのはあからさまな歓喜である。
誰しもが、何度も言っているように、アルフォンスは人界きっての天才だ。
どのような手段を取るのかは分からないが、それによって間違いなく自分達はステップアップするだろう、ということだけは分かる。
都合の良い──良すぎるくらいのパワーアップアイテムみたいなものだ。
──そこに、少しだけ懸念がありはしたが。
「ねぇ、アルフォンス様。その、暗黒界との戦争って本当に起こるの? 回避はできないことなの?」
「不可能だ。対話でどうにかなるのであれば、既にどうにかしている。どうにもならんから、
「で、でも、今まで戦争なんて無かったと聞いています。それが何で、急に起こるだなんて分かるんですか」
「……今までも、火種自体はあった。それを整合騎士が丹念に潰していただけにすぎん。侵攻はもうとうの昔に始まっていて、それに多くの人間が気付いていなかっただけなのだ」
それに、何をしても結局戦争は始まってしまう。それが《最終負荷実験》なのだから──とまでは、流石のアルフォンスも言葉にはしない。
このことを知っているのは、会議に参加している一部のものだけだ。
自分達の生きる世界が、誰かの作り物であるという事実に耐えられるものは、そう多くない。
「お前たちには無理を強いることになる、それは分かっている──だが、敢えて言うぞ、リネル、フィゼル。
勝つためではなく、生きる為だけに力を付けろ。お前たちは、それで良い」
「生きる、ために……」
「そうだ、勝ったところで、残るものがいなくては話にならんからな。まあ、オレが死ぬことは万が一にも有り得ぬから、無用の心配というものではあるが」
それでも生きろ、とアルフォンスは当たり前のように言う。
他の何を犠牲にしても、ただ生きるだけで価値はあるのだと。
それが意味するところを、正直なところ二人は理解しきれていない。
ただ、それでも構わなかった。
言葉にしたところで、その真意がすべて伝わることは無い──それが人間だ。
言葉にされた思いの一片でも伝わっていれば、それで充分なのだ。
「ま、そうは言われても、チャンスがあればパーっと戦果を挙げてみせるわよ!」
「そうです、私たちはまだまだ発展途上中なのですから。グングン強くなって、戦争時には整合騎士になってみせますので」
「そう、か……まあ精進することだな。少なくとも今のままでは戦力にすらならん」
アルフォンスの言葉に、フィゼルがいーっとして、リネルがベーッと舌を出してからそそくさと去って行く。
恐らくは、心意の修行にでも行くのだろう──その二人を眺めながら、アルフォンスは薄く笑みを浮かべた。
「さて、と。時期的にはもう少しか? わざわざ道は整えてやったのだから、さっさと来て欲しいものなのだがな」
一人、小さく言葉を零しながら浮かべるのは、未だ顔、声も知らぬ二人の少年のこと。
いいや、正確には知っているが、知らないと言うべきだろう。
知識としてはあるが、実際に会ったことも、話したことも無い。もっと言えば、噂すら耳にしたことは無い。
まあ、細かいニュアンスはどうでも良いが──とにかく。
《最終負荷実験》への対抗策としても、これからの人界の未来としても、すべてにおいて、彼らは必要だ。
精々、折れてくれるなよ、とアルフォンスは一人、空を見上げた。
リネル&フィゼル:アリスが好き。
アリス:可愛い双子ちゃんですね。