「おい、起きろ。ユージオ」
不意に聞こえた声が、降り積もる雪を振り払った。
急速に覚醒していく意識に促されるまま、瞼を押し開けたユージオの視界に広がったのは《霊光の大回廊》。
巨大な窓から差し込む陽光はすっかり赤く染まっている。随分と寝ていたらしい。
ぼんやりとしたままのユージオに、キリトはため息交じりに声をかけた。
「何だユージオ、寝惚けてるのか?」
「……いや、そういう訳じゃないんだけど」
どうにも人の身体に慣れなくて──なんて言おうとして、流石におかしいか、とユージオは独り言ちた。
とは言え、それは無理のないことだろう。
ユージオは目を覚ますその直前まで、一輪の青薔薇として雪山に佇み続けていたのだ。
それが、己が剣の追体験だったとしても──否、だからこそリアリティは果てしなく、ユージオの魂に刻み込まれている。
「キリトは、何も見なかったのかい?」
「……ってことは、ユージオもか。俺、ギガスシダーになってたぜ。俺が寝てる間に何があったんだ?」
その問いかけで、ユージオはようやくハッとなった。
そう。そうである。
兎に角情報を共有しなければ、とユージオは思い出しながらも端的に、たどたどしく説明を始めた。
整合騎士:イーディス・シンセシス・テンに助けられたこと。
先程までの夢は、そのイーディスに見せられたものであること。
そして何より──上の階ではアリスが待ち受けていることを。
それらを「ふむふむ」と時折頷きながら、最後まで聞いたキリトは言う。
「悪かったな、色々負担かけた」
「いや……謝ることじゃないよ。戦った結果な訳だしさ」
それに、実際のところユージオ一人が何かをした訳ではない。
いきなり現れたあの整合騎士に、一方的に話を聞かされ、最終的にはこうして寝かされただけである。
──善意や裏切りで、助けた訳ではない。
それは裏を返せば、整合騎士に命令できるだけの立場の人間が、ユージオたちに味方しているということだ。
一体誰が、どういう意図をもって、僕たちを……?
少しだけ考え込んでから、ユージオは頭を振るった。
今は考えても仕方のないことだ。
どちらにせよ僕たちは、上るしかないのだから。
「それじゃ、また塔攻略始めるかあ」
「何だよ、その気の抜けた声は」
「いやあ、随分ぐっすりと寝ちゃったからさ。ちょっと気抜けちゃって」
「ったく、確りしてくれよ」
言いつつ、ユージオもまた自身のコンディションを計り直す。
精神はともかく、身体はかなり快調だ。
疲労で重くなっていた全身も随分と軽くなった。
パシパシと、キリトが自身の頬を叩いてから、再度ユージオを見た。
「ま、改めて後半戦行ってみようか!」
「──うん、行こう」
《霊光の大回廊》を抜けて、どこの階も変わり映えしない廊下をスタスタと進む。
当然ながら、ユージオ達がセントラル・カセドラルに踏み入るのは初めてであるが、迷うことは無かった。
各階は相応に巨大だが、それほど入り組んだ構造ではないというのが大きいだろう。
これまでもそうだった。道なりに進んでいれば、階段が見えてきたものである──のだが。
「あー……ユージオ君や。これはどういうことだと思うかね?」
「何だよその口調……僕が分かるわけないだろ」
「だよなぁ」
二人同時に絶句して、上を見上げる。
端的に言って、階段は存在しなかった。
代わりに、各階で必ず階段があった場所には、縦穴とでも呼ぶべき空間が広がっていた。
天井が、見えない。
どれだけ目を凝らしてみても、上の方は濃紺の闇に包まれていた。
良く見てみれば、各階の扉であろう部分にテラスが設置されているのだが、無論届くわけが無かった。
神聖術を用いても無理だろう──それこそ、空を飛ぶくらいはしないと。
「さて、どうしたものかな……」
隣でキリトがそう呟いて、周りを見渡した──その時。
「待ってキリト、何か来る!」
「は?」
吹き抜けを仰ぐと同時に、
愛剣の柄に手をかけながら凝視したそれは、約二メルほどの円盤だ。
すわ攻撃か、とも思ったがそうではないらしい。
ゆるゆると風を排出しながら、ユージオ達の前に降りてきた円盤には、一人の少女が静かに立っていて。
しかし、これまでの騎士と同じように帯剣もしていなければ、神聖術をこちらに向かって放つ様子もない。
──そういえば、次の騎士はアリスで最後とも、言っていたか。
何も言わず、少女は小さく頭を下げた。
「お待たせいたしました。何階をご利用でしょうか」
抑揚の抑えられた──しかし、感情が無いという訳でもない、落ち着いた声音。
「何階を……ってことは、俺達を上まで乗せてくれるってことか?」
「左様でございます。お望みの階をお申し付けくださいませ」
少女の言葉に、二人は思わず顔を見合わせた。
「えーと、僕たち一応、ここに侵入したお尋ね者なんだけど、良いの?」
「お尋ね者……」
少女は僅かに首を傾げ、思案したようであったがすぐに定位置に戻る。
「問題ないかと思われます──もし本当にそうであったのならば、今頃このようなことにはなっていないでしょうから」
「それは一体、どういう……?」
「最高司祭様……今、セントラル・カセドラルの頂点に御座す方は、聡明な方ですので。本当に悪しきものを野放しにするようなことは致しません」
「…………」
キリトが考え込むのを横目に、ユージオもまた目を伏せる。
これは、その最高司祭とやらには、脅威とすら思われていないということで良いのだろうか?
それはそれで、こちらとしては有難いのだが……。
何かが引っかかる、と思った。
無論、ユージオを個人としてはあまり関係の無いことだ──なにせ、ユージオの目的はアリスだけであり、最高司祭云々は正直言って無視しても良い……無視したい存在なのだから。
最高司祭と話したいと言っていたのは、キリトの方である。
相棒の目的である以上、当然ながらユージオの目的でもあるのだが。それはそれとして。
「ま、それならそれで良いさ。ありがたく乗せてもらうよ」
「なっ、おい、大丈夫なのか?」
「多分……? どちらにせよ、これ以外に上に行く方法もなさそうだしな」
「そりゃ……」
そうだけどさ、という言葉を口の中で転がして、ユージオは渋い顔をした。
小言の一つ、二つを言いたいところであったが、生憎ユージオもイーディスに助けられ、親身にされたばかりである。
強く言える立場では無かった上に、これ以外に方法が無さそうというのは間違いなくそうだった。
のんきな足取りで円盤へと踏み入った相棒へと続き、ユージオも乗り込む。
「じゃあ、行ける一番上の階までお願いできますか?」
「かしこまりました。それでは八十階《雲上庭園》へと参ります──システム・コール」
「──ッ!」
反射で二人が柄へと手を当てる……が、予想に反して彼女はただ風素を生み出しただけだった。
両手の指の数だけ生成させたそれを
「バースト・エレメント」
術句を以て、少女が暴発させた。
ゴォッ! という音と共に、円盤は鋭く急上昇していく。
感心したように吐息を漏らしたキリトを横目に、ユージオは上を見た。
円盤の上昇は遅いわけでもないが、早いわけでもない。
三十階もの距離を上がるにはそれなりの時間を要するだろう──。
「アリスって子のことを、知っていますか?」
気付けば、ユージオはそんなことを聞いていた。
完全に無意識のうちの発言だった。
慌てて取り消そうとすれば、少女は僅かに微笑んだ。
「アリス・ツーベルク様のことであれば、存じております」
「! そう、その子です!」
ビクッと少女が肩を跳ねさせる。
や、やってしまった……。
キリトのジト目を甘んじて受け入れながら、コホンとユージオは咳払いした。
「その子について、知っていることがあれば、教えてほしくって……。
僕は、アリスを連れ戻しに来たんです」
「連れ戻しに、ですか?」
「うん、時間はかかってしまったけれど、それでも僕は──アリスの、幼馴染だから」
そう言ったユージオに、少女は少しだけ目を逸らした。
正直なところ、連れ戻すという言葉が非常に引っかかってはいたが、しかしそれが悪意によるものでは無いということがはっきりと分かる。
だからこそ、少女は小さく口を開いた。
「……アリス様は、整合騎士らしくない騎士だと、私は思います。感情豊かで、表情が目まぐるしいほどにコロコロと変わるお方。
騎士でありながら、ふとした瞬間は年相応の、ただの少女にしか見えない時がある……。こんなことを言えば、あの人はすぐに拗ねてしまうんですけどね」
「それが、整合騎士らしくないということになるんですか?」
「私の主観では、そうなります。整合騎士の方々はアリス様以外、何十年、何百年と人界の治安を守っておられますから。一部を除けば、口数の少ないお方ばかりです。
とは言え、アリス様が弱いということは決してないとお聞きしております。アルフォンス様も、大層褒めておられました」
「アルフォンス様……?」
聞き慣れない名前を聞いて、ユージオは首を傾げた。
一瞬、キリトに視線も送ってみたが、彼も知らないようで首を振るばかりだ。
「アルフォンス様は公理教会のトップに在られる方です──少々語弊が発生してしまいますが、最高司祭と言えば、伝わりますでしょうか」
「!」
最高司祭。
その言葉にユージオより早く反応したのはキリトだった。
少しだけ目を見開いて言う。
「悪い、そのアルフォンスって人について知りたいんだけど──」
良いか? というアイコンタクトに、ユージオは「仕方ないなあ」という面持ちで頷いた。
何にせよ、アリスはもうすぐそこなのだ。
これ以上深掘りしたところで、あまり意味は無いように思える。
「アルフォンス様は、不思議なお方です。公理教会……いいえ、この人界で最も強くありながら、無暗にそれを振るわない人。
誰よりも未来を見据え、誰もが知らぬことを知り、私たちを導いてくださるお方です」
「何か、随分と聖人君子みたいなんだな……?」
「──?」
キリトの言葉に少女は疑問符を浮かべ──それから小さく破顔した。
プッと、少しだけ吹き出してから、ぷるぷると肩を震わせて、声を出さないように一頻り笑う。
訳も分からずキリトとユージオが呆然とすれば、未だに震えている声で、少女は言った。
「確かにそう見えなくもないですが──いいえ、あの方はそのような存在からはかけ離れております。
天衣無縫かつ、どこまでも自由奔放……そういうお方です。
歳の頃も、貴方方と変わりないのではないでしょうか」
「え? 俺達と変わらない?」
「はい、確か、十九くらいであったはずです」
少女の言葉に、思わずキリトは絶句した。
十九──同い年!? 信じられない──というか有り得ない!
公理教会はもう二百年以上存続している組織だという──いや、もちろん代替わりはあったのかもしれないが、しかし、だとしても若すぎないか!?
まだ未成年──現実世界準拠ではあるが──だぞ!?
「確か、アルフォンス様が今の地位にお就きになられたのは、十二の頃でしたが」
「十二!!?」
ますます信じられない情報が出てきた! とキリトは天を仰いだ。
十二歳で人界のトップとか、色々とあり得ないだろ……。
前任者は何をしていたんだという話だ、とキリトは思った。
まあ、前任者はそのクソガキにコロッと落とされていたのだが。
──落とされたという言うのならば、それこそセントラル・カセドラル全体が落とされていたも同然ではあるが。
「──ですが、あの方ほどあの地位に相応しいお方はいないと、私は思うのです」
「信頼、してるんだな」
「あの方を信頼されていない方は、此処には恐らくいないでしょう──もちろん、私も、アリス様も含めて。あの方は、そういうお方です。
あるがままに振舞うだけで人の心を集めてしまうお方。そしてそのことに、決して無自覚ではないお方」
少女が言葉を零すと同時に、ふわりと円盤は上昇するのをやめた。
天井は未だ遠くまで続いていて見ることすら叶わないが、どうやら終点らしい。
少女はエプロンの前で両手を揃え、深く一礼した。
「お待たせいたしました。八十階《雲上庭園》でございます」
「ありがとう……えっと」
「──エアリーです。私は、《昇降係》のエアリーと申します。どうか、そのようにお呼びください」
少女──エアリーはそう言って、ほころぶように笑った。
そうすることが何よりも嬉しいといったように、自然な笑みを浮かべる。
「そっか、ありがとう、エアリー」
キリトとユージオも、言葉と共に軽く会釈をしてから円盤からテラスへと乗り移った。
エアリーはもう一度だけ礼をした後、緩やかに円盤を降下させる。
たちまち、風素による噴出音は二人の耳には届かなくなった。
「──何だか、短い間だったのにドッと情報量が増えたね」
「ああ……。ただでさえ謎の多い最高司祭とやらの謎、さらに増えたぞ……」
「イーディスの話を信じるなら、最上階にいるって話だけどね」
「それは、忘れちゃいないけどさ」
結局、どんな相手だろうと直接会って話す以外方法は無い。
そのくらいのことはわかっているが、それでも思考に使える材料は多いに越したことは無い。
最高司祭に会うということは、キリトに残された、今のところ唯一の現実世界へ戻る手がかりだ。
ここがダメで、見当すらつかないというのなら、それこそ暗黒界を旅するくらいしかないのではなかろうか。
……それは、嫌だな。
キリトはふと、そう思う。
ここまで苦労したのだから何かしらの情報は欲しいものだし──それに何より、キリトはもう二年の年月をこの世界で暮らしている。
無論、アンダーワールド内の時間は現実と比べれば何十倍にも加速されているはずであるが……確証があるわけではない。
もしかしたら、現実世界でももう二年が過ぎ去っているかもしれない。
そう考えただけで、身の毛がよだつ。
怖い──そう、怖いのだ。
家族や友人、それに何よりアスナと別たれているという事実が、少しだけ自分を弱気にさせている。
ふるふると、キリトは頭を振るってそれを追い出した。
今はまだ、考える時ではない。
「ま、ユージオの言う通り、今は目先のことだけ考えるか──あの扉の先だろ?」
「多分、だけどね」
言って、二人が見つめたのは自身らの身の丈より大きい石造りの扉。
この先が、《雲上庭園》というやつなのだろう。
そしてそこには──ユージオの幼馴染であるという、アリスがいるはずなのだ。
相棒の目的は、自身の目的でもある。
一度だけ深く深呼吸して、二ッと笑った。
「良し、準備は良いか?」
「そりゃこっちの台詞だよ。キリト、さっきから考え込んでばっかりだったよ」
「うぇぇ? そんなに顔に出てたか?」
「バッチリね」
そんなこと無いだろう。
いいや、あるあるだね。
あるあるってなんだよ!
そんな、この場には似つかわしくない──けれど二人には似つかわしい談笑を重ねながら、揃って扉へと手を押し当てた。
感触からして、鍵がかかっている感じはしない。
押せば開くだろう。
「……行くぞ」
「ああ、行こう」
同時に扉を押し開ける。
石造りの扉は、キリトの想像より遥かに楽に、けれども重々しい音を立てて左右に開いた。
──瞬間、広がったのは豊かな色彩と、水のせせらぎだった。
地面はこれまでのような大理石ではなく、柔らかそうな芝が広がっており、各所では様々な聖花が咲き誇っている。
空間は甘い香りが充満していて、空からはソルスの光がふんだんに注ぎ込んできていた。
──まるで、理想郷だな。
キリトはそんなことを思いながら踏み進め──そして、ユージオが息を呑んだ。
その視線を追えば、あったのは小高い丘と、一本の樹。
ギガスシダーとは比較にもならない程の小さくはあるが、その美しさは別次元だ。
瑞々しい緑色の葉と、十字型をした橙色の花。
降り注ぐソルスの光がそれを弾き、滑らかな金の光を作り上げていた。
──そして、その傍に佇んでいる人影が、目に入る。
さながら、木漏れ日の作り出した幻であるかのようなそれは、一人の女性。
美しく長い金の髪に、サファイア色の瞳。
華麗なら黄金造りの鎧を纏い、純白の長いスカートを風に揺られている。
──アリスだ。
ユージオが言うより先に、キリトはそう思った。
何故そう思ったのかは分からない──けれど、確信があった。
ユージオに、次に待っているのはアリスだと聞いていたから分かったのかと言われれば、それは違う。
胸の裡から溢れてくるような懐かしさが、そう教えてくれていた。
キリトとユージオは、並ぶようにして彼女の元へと歩み寄り──そして。
アリスが、流麗な仕草で立ち上がり
「来たのですね──ユージオ、キリト。ええ、待っておりました」
柔らかく微笑みながら、彼女はそう言った。
アリス:やっっっと来たぁ~! って思ってるかもしれない。
キリト:うわっ、美人……。
ユージオ:あ、アリス……!
アルフォンス:なんかめっちゃ褒められた気がするな、と理由もなく思ってニヤついてたらカーディナルに怪訝な顔をされた。