まあ今話のように、普通に教会攻略後の話とかも書くから半分本編みたいなものなのですが……許してくれると嬉しいな。
記憶喪失を経験したことがある人間というのは、現在約八十億存在する現代人ですら、そうはいないだろう。
だいたいの人間がそんな経験とは無縁であるはずだ。
それは、総人口約八万しか存在しない人界であればなおさらというもので、記憶喪失である人間には、その珍しさから《ベクタの迷子》という名称すらつけられているほどだ。
身近なところで言えば、アルフォンスや、キリトがそれにあたる──尤も、この二人はそれともまた違う、実に特殊な例外ではあるのだが。
片やバグ的存在であり、片や現代人である──が、それは一先ずおいておくとして、実のところアリス・ツーベルクは「ある」と答えられる稀有な人間であった。
であれば、彼女こそが《ベクタの迷子》であるのかと言われれば、それもまた違う。
一般的に《ベクタの迷子》とされるのは、自らの生い立ちといった、いわゆる過去の記憶をすべて忘却してしまった人間のことを指し、アリスはそれに該当しない。
彼女が記憶を喪失していた期間というのは、たったの一週間だけであり、その間彼女は身じろぎひとつすることなくベッドに寝かされていたのだ。
だから、アリス視点からすれば、記憶喪失というよりは意識喪失状態だったわけだ。
目を覚ましてから、ベッドの横にいたアルフォンスから
──曰く、「必要であったからしたまで」とのことらしいが。
眠る前と比べて、特に身体にも、精神にも異変が無かったことから、正直なところアリスはこのことを忘れていた──思い出したのは、キリトたちを公理教会に連行してきた日のことである。
集められた四人の整合騎士が各階の警備を任命され、退室していく中、アルフォンスに引き留められたアリスは、衝撃の事実を伝えられた。
即ち、ユージオとキリトには、三人で過ごした時の記憶が存在していない──ある意味では、封じられているということを。
あの一週間の意識喪失は、アリスがそうならない為にされたものであったことを、アリスは聞かされたのだ。
「まあ、何故そうなったのか、問い詰める前に追い出されちゃったんだけどね」
と、曖昧に笑ったアリスのことを、キリトはベッドに寝ころびながら思い出していた。
時刻は22:00。そろそろ深夜と呼んでも良いくらいの時間帯だ。
修剣士時代、寮で使っていたベッドもかなり上等なものであったが、公理教会のベッドは比較にならないほど上等だ。
目を瞑ろうものなら、すぐにでも眠りに誘われるだろう。
もちろん、キリトとて今日も一日身体を酷使したのだから、すぐに眠りたいところではあったが、当然ながら眠れる訳もない。
ゴロンゴロンと寝返りを打ちながら思考を回してため息を吐く。
──私たちは、三人で幼馴染なのよ。
その言葉を何度も頭でリフレインする。その度に、やはりこの言葉は嘘ではないのだろうな、という思いを深めていた。
というのも、恐らくキリトはこのアンダーワールドという世界にダイブするのが、これが初めてではないからである。
今からほんの少し前──今のキリトからすれば、もう二年以上も前のことになるが──キリトは、とあるバイトとして
そしてその際の記憶を、一切持ち出すことができていないのだ。
推測にはなってしまうのだが。この《持ち出すことができなかった記憶》こそが、アリスの言う《幼馴染として育った記憶》なのではないだろうか。
当時、STLの持つ
つまり、あの《三日間の連続ダイブ》の時も、一千倍……あるいは、それ以上にまで加速されていたのではなかろうか。
聞けば、アリスが公理教会に連行されたのは九歳の時であるという。
FLAが、およそ一千倍ほどにまで加速されていたと考えれば、現実世界で三日経つうちに、内部では九年近い年月が流れていた筈だ……要するに、辻褄が合う。
無論、機密情報であるがゆえに、内部で過ごした記憶は忘れてしまうという説明はされており、キリト自身それに納得はしていたが──ここまで来ると、流石にちょっと話が違った。
それに、記憶を持ち出せないと言うが、しかし決して、消されたわけではないのだという。
飽くまで思い出せないように、プロテクトをかけられているだけだ、と──。
こうなってくると意地でも思い出してやりたくなるのが人の性というものだ。
しかもユージオは覚えていないのに、アリスは覚えているという不可思議な現象まで起こっている。
──いやぁ、でもなあ……。
むむむ、とキリトは瞑目した。
アリスが記憶を保持しているのは、どう考えてもアルフォンスの仕業であると考えて間違いないだろう。
出会ってからまだ数か月しか過ごしていないが、あの少年のアリスの溺愛っぷりは見ていれば即わかるレベルだ。
まあ、妹が可愛くて仕方ないという気持ちは、同じく妹を持つ兄として、分からないでもないが……。
兎にも角にも、アルフォンスに聞けば何かしら分かるのは確かだろう──
「でもアルフォンス、ああ見えて超忙しいやつなんだよな……」
朝から晩まで激務に身を費やしているのを、キリトはある程度把握していた。
彼は奔放な人間であるが、同時に無責任な人間ではない。
トップでいる以上、あまねく責任は彼の肩に乗っており、この人界の行く末すら、彼の手によって大きく変わるのだ。
そんなアルフォンスを、極めて個人的な事情で邪魔をしていいのだろうか?
ただでさえ、公理教会に突入し切った張ったの大暴れをした過去がある。
もう少し大人しくいるべきではないだろうか……? いやしかし、気になるものは気になるというものだ。
「おい、さっきから何モゾモゾしてるんだよ? 明日も朝、早いんだぞ」
困ったなあ、とゴロゴロしていたキリトに、隣のベッドで寝ていたユージオが声をかける。
この部屋はキリトとユージオの二人部屋だ。
流石に見習い程度に個室を与えられるか、とのお達しである。
修剣士時代もそうだったから、特に抵抗はなかった。
「て言ってもなあ、ユージオだって気になるだろ?」
「そりゃ、そうだけどさ……」
ユージオとて、アリスの言葉が気になって今もまだ眠れていなかったのだ。
恐らく、キリトと同じようなことを考えていたのだろう。
無言のまま、二人は目を合わせ……しばらくした後に頷いた。
「やっぱり、聞きに行った方が早いよなあ」
「でも、今から行っても良いのかな……もし、他の整合騎士とかに見られたら、睨まれちゃうよ」
「その時はその時だろ。テキトーに躱すさ」
「お前ってやつは……」
呆れたように言うものの、ユージオはにやっと笑う。
初めて会った時と比べれば、こいつも大分変わったよなあ、とキリトは思いながらベッドから抜け出した。
二人揃って制服へと袖を通し、愛剣は少し迷った後に置いていくことにした。
別に戦う訳ではない。
むしろ、帯剣していた方が問題視されるかもしれないと思ったからだ。
そそくさと部屋を抜け出し、最上階へと向かう。
二人の部屋は三十階だから、およそ七十階分も上らなければならない計算だ。
「五十階からは一気に八十階まで上がれるとはいえ、遠すぎなんだよな……」
「良いじゃないか。少なくとも、あの時よりはずっとマシだよ」
「……まあ、邪魔をされたりする訳じゃないからな」
ついでに言えば、骨折り損のくたびれ儲けになる可能性も無い。
ちょっとした散歩だと思えば、幾分かモチベーションも上がるというものだった。
カツカツと、足音を響かせていれば、二人は数十分ほどで最上階へと辿り着いた。
初めて上った時と比べれば、楽過ぎるというものだ。
「けど、ここまで来ると流石に緊張するな……」
「百階とか滅多に来ないからね」
ゴクリとキリトは息を飲む。
が、それも仕方のないことだろう。ただでさえ主に百階で活動しているのはアルフォンスとアドミニストレータ、それからカーディナルなのである。
三人が三人とも、強烈な心意の使い手であり、意識せずともこの階だけは別種の雰囲気が漂っていた。
本能的に身体が固まるのを感じながら、それを振り払う──と同時に、ガチャリと鍵の開いた音が響く。
キリトとユージオは一瞬だけを目を見合わせてから、扉へと力をかけた。
特に抵抗もなく、扉が左右に開く。
「──あっ」
「えっ……」
二人が思わず声を上げる。
広がったのはアルフォンスの書斎──だが、その奥で彼らは見知った後ろ姿を見た。
黄金の髪を一つに束ねた、寝間着姿の幼馴染──アリスが、そこにいた。
何だか妙に距離近くないか……? 反射的に浮かんできた感想をユージオは全力で蹴り飛ばした。
危ない危ない。
「お前たちもか……。オレもそろそろ休みたいのだが──ま、仕方ないか。良い、入ってこい」
もう気分的には仕事モードではなくなっているのだろう。
いささか砕けた口調のアルフォンスが、目を細めながら声を投げかけた。
「あー……いや、その、取り込み中だったなら後でで良いんだけど」
「良いと言っているだろう。それに、用件は大体わかっている、どうせ記憶のことだろう」
「おぉ……相変わらず、察しが良いな」
「良すぎてちょっと怖いくらいだけどね」
小言で二人が言葉を交わし、少しだけ笑ってから歩み寄る。
アリスは「貴方たちもですか……」と言いたげな顔をしていたが、僅かに頬が緩んでいる。
「まず先に言っておくが、オレが今ここで、お前らの頭をちょいと弄って記憶を戻してやる──といったことはできん。記憶を読み取るか抜き取る、あるいは滅茶苦茶にするくらいなら可能だがな」
「……ということは、アルフォンス以外なら、可能ってことなの?」
言った直後、ユージオはピシッと背筋を正した。
アリスの目が「せめて様はつけなさい!」と如実に伝えてくる。
自分は「兄さん」と呼んでいるのに……。ユージオはちょっとだけ内心で愚痴をこぼした。
「恐らくはな……不可能ではないだろう。同時に、簡単なことでもないだろうが」
記憶とは、密接に魂と絡みついているものだ、とアルフォンスは言った。
それをまず分離することだけでも超高等技術である上に、それを改竄するとなると、相当な手間になる。
アンダーワールド内でそれが可能なのは、それこそアドミニストレータとカーディナルだけだ。
「今はあまり余計なタスクは増やしたくないのだが……仕方あるまい。カーディナルには直接オレの方から言っておいてやろう」
「い、良いのか?」
「今やらずに、これから悶々と過ごされてはこちらも困るからな。お前たちには期待している──と言う訳でだ。来い、カーディナル!」
「へ?」
唐突な呼びかけに、アリスが音を漏らした。
まさか、そんな呼びかけで彼女が来るわけ──と三人が思った直後、ヌルリとカーディナルは現れた。
ちょうど、アルフォンスの影から抜け出てくるように。
ふわぁ、と彼女は小さくあくびをする。
「何じゃ、わしはそろそろ寝るところじゃぞ」
「知っている、だから寝る前に呼んだんだ」
「この小僧……!」
マジでパンチしてやろうか、と思ったところでカーディナルの視界にアリスたちが入って来る。
ふむ、と三人を丸ごと視界に収め、少々疲れたようなアルフォンスを次に見て、「なるほどのう」と頷いた。
彼女は完璧に状況を理解していた──尤も、こうなる可能性があるとは、前々から話していたからであるが。
ちょいちょい、とカーディナルが手招きをする。
「では手早く済ませることにするかの。ほれ、来いユージオ」
「わ、私もですか?」
「ま、ついでじゃしな。ほれ、はようせんか──うむ、そこでしゃがめ」
カーディナルの前に並んだアリスとユージオが、揃って膝をついた。
下がった二人の頭に、カーディナルの小さな手が触れる。
──瞬間。
二人は意識を失い、入れ替わるようにして脳内からウィンドウが飛び出した。
それをカーディナルが、難しい顔で触り始める。
「さて、ではもう少しだけ話をするとしようか、キリト」
ポカンと、その様子を見ていたキリトに声がかけられる。
視線を向ければ、ぐったりとアルフォンスは背もたれに寄り掛かっていた。
「お前の記憶に関してなのだがな……正直なところ、オレにはどうするのが良いのか、判断がつかん」
「珍しいな、アルフォンスがそんなことを言うなんて」
「当然だろう、下手をすればお前、廃人になるかもしれんし、あるいは人格だって変わるのかもしれんのだぞ?」
「いっ!?」
「何を驚いている……当たり前だろう。お前はこの世界の人間ではないのだぞ? それはつまり、記憶を戻せばお前には、二つの人生の記憶が刻まれるということになる。
現実世界で過ごした幼少期の記憶と、この世界で過ごした幼少期の記憶がな。
アンダーワールド人である、ユージオやアリスはお前のことを思い出した、という形になるが、お前の場合はそうはいかない──ゆえに、お前に記憶が戻った時、どういうことが起こるのかオレには見当がつかない」
深々と息を吐きながら、アルフォンスが言う。
しかし、その言葉には若干の嘘が混ざっていた。
どうなるのかが見当もつかない──ということはない。
何せアルフォンスは、まったく見知らぬ人間の記憶を、自身の脳みそに刻み込まれているのだから。
少々状況は違うが、大雑把に見れば似たようなものだ。
ましてやキリトの場合、どちらも「キリト自身」の記憶なのである。危険性はそこまで無いのだろう、という確信もほとんどありはした。
ただでさえ、キリトは現状「まったく思い出せないだけ」という状態で固定されているに過ぎないのだ。
自覚するか、しないかの違いでしかない。と言ってしまえばそこまでだ。
だが、無事終わる確証があるわけではない。思いもよらない事故が起こる可能性は十分にある。
「仮に、お前が自我を失うようなことになれば、オレには責任が取れん──この世界の人間であるならば、一生面倒を見てやるくらいはするのだがな。
お前は例外過ぎる──ゆえに、オレからはなかなか言い出せなかったという訳だ。悪かったな」
「──いいや、アルフォンスは悪くないよ。こっちの考えが、足りてなかった」
言われて初めて気付いた──いや、無意識のうちにその可能性を外していたことを、キリトは自覚する。
言われてもみれば当たり前のことだ。
記憶は経験だ。そして人間の精神というものは、経験で象られている。
大なり小なり影響はあるだろう──しかし、ここで「じゃあやっぱりやめる」という選択肢を選ぶことが、キリトにはできなかった。
瞑目して、思い出す。
この世界に来たばかりの時。そして、昼間に見た光景──。
アレはきっと、忘れてはいけない、輝かしいものだったはずだ。
キリトは大きく息を吸い、その分吐き出した。
心を整理して、意思を固める。
「まあ、もし酷い影響があるようならすぐさま記憶を封じてやるから、廃人になることなどないだろうがな」
「あれ!? そういうことは先に言っておくことじゃないのか!?」
「先に言ったらお前、碌に考えもせずに頼むだろうが……。お前は無理、無茶、無謀が旗印のようなやつだからな」
瞬間、カーディナルが恐ろしい勢いでアルフォンスを見た。
同時にキリトが耐え切れずに吹き出す。
彼女の瞳は明らかに「それはお前だろうが!!!」と叫んでいた。
コホン、とアルフォンスが息をつく。
「くくっ……」
「いつまで笑っている……。そら、来い。覚悟はもう決まったのだろう」
「ふっ……わ、悪い。いや、ちょっと待ってくれ。アルフォンスに出来るのか?」
「お前の場合は思い出せないよう、遮断されているだけにすぎんからな。その程度であればオレでも可能だ」
言って、アルフォンスはキリトの額へと触れ──同時、キリトの意識は光の中に転げ落ちて行った。
そうして見たのは、やはりあの時の光景だった。
豊かに注がれるソルスの光。
かけぬけていく涼風。
さざめく川面に、揺れる草原。
その中をかけるアリスと、ユージオと──
──ああ、そうだ。そうだよ。これは間違いなく、俺の記憶だ。
確信を得れば、湧き上がるように記憶は蘇ってくる。
ガリッタ爺さんの小言や、ギガスシダーの天職に命じられたこと。
休息日には三人で遊びまわって、たまにシスターに怒られていたこと。
何でもない小さな日常の欠片たちを、キリトは自身のものとして受け入れ──パッと、目を覚ます。
「具合はどうだ? 何か変わったか?」
「いや……多分、だけど特に変わった感じはしないかな……。
ああ、いや、思い出しはしたんだけどさ。ただ、過去のことを思い出したってだけな感じで、特に影響は──」
「キリト!」
途端、ユージオの声が響いた。
ゆらとキリトが振り向けば、アリスとユージオと目が合う。
──言ってしまえば、それだけだ。
それだけが、彼らには充分すぎたというだけの話に過ぎない。
「何だよユージオ。兄ちゃんに泣かされた時みたいな顔になってんぞ」
「そっちこそ、目が潤んでるよ。また村長さんに叱られでもしたのかい?」
「もう、二人とも、こんな時まで軽口ばっかり言わないの」
少しだけ、無言の空間が訪れる。
三人とも、何だか妙に気恥しくて、言葉が出ない。
そんな中、「面倒だな」と思ったアルフォンスがキリトのケツを蹴り飛ばした。
ぐわっ! 浮いてドスン! と落ちる。
受け止めようとしたユージオだったが、二人して倒れ込む形になってしまった。
並んで仰向けに、天井を見る。
「あ、あー……俺、こういう時、なんて言えば良いか分からないんだけど……」
「お前が分からないんだから、僕だって分からないに決まってるだろ」
「あのねぇ……こういうのは、単純で良いでしょう?」
と、呆れたようにアリスが口を開く。
揃って視線を送ってきた二人に、アリスは微笑んだ。
そっと、二人に手を差し出す。
「おかえりなさい。ユージオ、キリト」
「──ただいま。ごめん、遅くなった」
「ただいま。いや本当にな、悪かったよ」
アリスの手を取って、二人は立ち上がる。
──あの遠く、懐かしい記憶は今ここに。
これからはもう、忘れられることは無く、彼らの中で生きていくでしょう。
キリト&ユージオ&アリス:この後「邪魔」の一言で蹴りだされた。
アルフォンス:この後アドミニストレータと過ごした。
カーディナル:おねむタイム。