人界歴三七三年。
夏の猛暑も翳りを見せ始め、秋の足音が聞こえるようになってきた頃。
少しの肌寒さに目を覚ましたアルフォンスは、その日初めて脅迫状、というやつを手に入れていた。
否、手に入れたというか、見つけてしまったというか……。
いつまでも迎えに来ないアリスを不審に思い、部屋まで来てやればそれは彼女の机の上に置いてあった。
ご丁寧に封蠟までされたそれをぺりぺリと剥がせば、中から出てきたそれにはたったの一文しか記載されていなかった。
『貴様の妹は預かった。返してほしくば、一人で東方庭園まで来い』
手ずから書いた訳ではないのだろう。神聖術か何かを用いたのか形はバラバラ、サイズも大小さまざまで──少なくとも、筆跡から誰かを特定するのは難しい一文だった。
まあ、ここがセントラル・カセドラルである以上、犯人は同じ住人なのは間違いないのだが。
さっと思考を巡らせ、犯人のあたりをつけながら、「ふむ」とアルフォンスは唸った。
アルフォンスは生まれてこのかた一人っ子である……多分。
《ベクタの迷子》である以上、十歳以前の記憶がないが──まあ、常識的に考えて実の親兄弟ということはないだろう。
であれば、ここで示す《妹》とは、アリスのことであるのは明白だった。
「……面倒なことになってきたな」
ぼやくと同時、トン、とアルフォンスはつま先で床を蹴った。
室内に音が響き、それをイメージに重ね合わせ、知覚を急速に拡張する。
アドミニストレータと話をつけて約一年。アルフォンスは既に心意を完璧に習得していた。
元来持つ、彼の性格も起因しているのだろうが、ほんの数日で百年近く修練してきた整合騎士たちの習熟度をぶち超えてしまい、ベルクーリが大爆笑したのは良い思い出である。
そして恐ろしいことに、そこから更に一年間磨きをかけたのである。
現時点で既に、アルフォンス並みの心意の使い手はそれこそ、アドミニストレータとカーディナルくらいのものだった。
その二人でさえ、こと心意という一点に限れば、このクソガキに多少の遅れを取るというのだから、おかしさが際立つというものだ。
まあ、本人は「出来て当たり前」みたいな顔をしているのだが……。
お陰で、最近になってようやく心意の訓練を始めたアリスが悔しそうにしている姿が公理教会内で散見されている。
心意を指導しているファナティオも困っていると専らの噂だった。
「む……」
アルフォンスが、一音零し落とす。手ごたえがない。
心意を用いたサーチに引っかからなかった──それはつまり、あの脅迫文が本当であるということを如実に知らせていた。
尤も、検索したのは公理教会内部だけであり、庭園に出ている可能性もあるが……その可能性は薄いだろう。
何せ今は早朝である。
よっぽどの理由がなければ、修道士──それも傍付き!──がこんな時間に庭園に出ることは無い。
信憑性が高まってきた。というかほぼ確定だ。
これは面倒とか言っている事態では無くなってきたぞ。
アルフォンスは僅かに冷や汗を流す。
無論彼とて、誰も彼もが自分を認めてくれている等と甘い考えをしていたわけではない。
公理教会は多くの人間が暮らしており、また、一部の人間はアドミニストレータの本性さえ知っていたのだ。
その上で従っていた者も、当然ながらいる訳で──そりゃ認めるどころかクソ気に入らないと思っている人間だっているのは普通のことだった。
だから、何かしらの形で妨害はあるだろう、と思ってはいたのだが──
「まさか、アリスが狙われるとはな……」
誤算も良いところだ、とアルフォンスは思う。
否、それは誤算というよりは、やはり己が甘かった、と言うべきだろうが。
「まあオレ自身が狙われたところでな……撃退する自信しかない」なんてことを考え、碌に対策を講じていなかったのが滅茶苦茶裏目に出ていた。
考えてもみれば、ここまで実力をつけたアルフォンスを闇討ちしようだなんてやつはそういない。
上位の整合騎士か──絶対にありえないが──アドミニストレータとカーディナルであれば、可能性も見出せたかもしれないが、ほとんどの人間にとっては不可能だ。
ただでさえ、妹分であると公表しているのだ。
アリスとて、実力はつけてきているがまだまだだ──狙われる危険性は十分にあった。
というか、現状唯一のウィークポイントであったと言っても過言ではないだろう。
少々、慣れない忙しさにかまけすぎていたな、とアルフォンス一人思う。
これからは、これまでのような気楽さではいられない──分かっていた筈なのに、分かっていなかった。
「さて、と」
脅迫状を放り投げ、剣を手に取った。
反省はここまでだ──いつまでもここで考え事をしていても埒が明かない。
それに、アリスはああ見えて臆病な気質がある。
いつから囚われているのかは分からないが、目を覚ましているのならば今頃怯えているのだろう。
それは看過できない。
「東方庭園……であれば墓地か。悪趣味な場所を選ぶものだな」
小さく吐き捨てて、アルフォンス窓から飛び降りた。
東方庭園──またの名を《硝子の霊園》。
人界人はその命を落とす時、時折硝子の欠片のような光を胸から零し落とすことがある。
そこから名をつけられた《硝子の霊園》には、ズラリと墓が並んでいた。
どれも公理教会内に住む者で、天命を全うした者だけがここに埋められる。
いずれ、自らが死んだ時もここに眠ることになるのだろう──等と考えながらも、アルフォンスは警戒を緩めなかった。
常に周囲数百メルの範囲を観測し続けながら整えられた草原を踏みしめる。
──少しばかり、緊張するな。
あるいはそれは、恐怖と言っても差し支えないのかもしれない、とアルフォンスは思った。
仮にもうアリスの命が絶たれていたとしたら、と考えるだけで軽く頭痛がしてくるほどだ。
人質として扱う以上、そんなことは無いと思うのだが──
「ホッホウ、ちゃ~んと一人で来たんですねェ」
「!」
この美しい霊園に似合わない、へばりつくような声が響く。
やけに小さく、丸い身体に玩具のような短い手足。
極彩色の道化服に身を包んだ、病的な白さの肌の男がニタリと笑っていた。
「やはりお前か、チュデルキン」
「ホッ、ホホォー! 気付いていましたとはねェ! ええ、そうですよゥ! あの小娘は──ほぅれ、この通りィ!」
面白いくらい短い指を、チュデルキンが振る。
同時に風素に包まれたアリスがふわりと姿を現した。
気を失っているのか、ぐったりとしたまま動かない。
アルフォンスは小さく息を吸い込み、長々と吐き出した。
「アリスを離せ、チュデルキン」
「ホヒッ、ホヒヒッ! どうやら自分の立場が分かっていないようですねェ! アタシは今、この小娘を一瞬で八つ裂きにだってできるんですよォ!」
ヒュルリと一陣の風が吹く。それだけで、アリスの頬が少しだけ切れた。
血が、少しだけ零れ落ちる。
「……用件は何だ」
「それで良いんですよゥ……アタシの用件はたったひとぉつ! 最高司祭猊下の身柄をアタシに寄越すこと……ただそれだけですよォ!」
「────それだけか?」
「はいィ?」
「だから、
やけに静かな声だった。
風の音も、草葉のさざめく音もなくなり、ほとんど無音の中、それは突き刺さるような鋭さを以て、チュデルキンを貫いた。
動揺が顔に出る。
ともすれば、震えてしまいそうな声を大きくすることで、チュデルキンは誤魔化した。
「おほっ、オホホホホ! 強がりでもしているのですかァ!?」
「一度だけ、聞かなかったことにしてやる──
「警告! よりにもよって、警告ときましたか! ホヒヒヒヒッ! 従うとでも思っているのですかァ?」
「従ってもらわなければ困る──なぁ、チュデルキン。
言葉を重ねられるたびに、チュデルキンの背中を汗が伝う。
しかし、同時に腹の底から込み上げてくるような怒りもあった。
余裕ぶりやがって。このクソガキが。
そもそも、チュデルキンはこのアルフォンスという少年が、初めて会った時から気に入らなかったのだ。
公理教会の定めたルール──暗黙の了解も含め──を悉く無視し、どれだけ言い含めても聞く耳持たず。
だというのに成長は憎たらしいほど目覚ましい。
とはいえ、チュデルキンは元老長である──即ち、公理教会でも№2の地位を誇るという訳だ。
要するに、最高司祭たるアドミニストレータに最も近い存在であった……のだが、それすらこのクソガキはお構いなしだった。
ここにやってきたその日のうちに、アルフォンスはアドミニストレータへと襲撃をかけた。
それだけならまだしも──いいや、チュデルキンとしては全く見逃したくは無かったことではあるのだが──このクソガキは、それを日常へと転じたのである。
正直なところ、毎日ボロカスになって追い出される姿は酒の肴にちょうど良かったのであるが、アドミニストレータに直接教えを請うているとなれば話は別だった。
アタシでもそんなことしてもらったことないんですよォ!? とチュデルキンはブチギレた。
その日以来、アルフォンスの行動を徹底的に監視するよう人員を派遣し、深夜になれば神聖術まで用いて道を阻もうとしたのだが……まあ、結果はご覧の有様だった。
ほんの一、二回ほどで学習したアルフォンスはスイスイと潜り抜ける術ばかりを極めるのであった。
アルフォンスの隠密はチュデルキンに鍛えられたと言っても過言ではない程で、一度感謝を述べられた時は怒りのあまり目の前が真っ白になったほどである。
いつか絶対ぶっ殺す、とチュデルキンは思っていた。
ちなみにアルフォンスは「チュデルキン、キモいけどめっちゃ出来るやつだな」と思っていた。
そして、それを知ったからこそ、チュデルキンの怒りは深まるのだ。
それでも彼はギリギリで踏みとどまっていた──のだが。
最高司祭が敗北し、アルフォンスが公理教会のトップに立った瞬間、彼の理性はぶっ飛んだ。
で、その結果がこれという訳だった。
荒々しくチュデルキンは呼吸する。
「ず、随分とォ……上から目線じゃないですかァ! あのクソガキが、偉くなったもんですねェ!」
「事実、今はオレの方が上だ。戦うとなれば、お前が相手では加減ができない。素直に従え、チュデルキン」
「──どうやら本ッ当ォにアタシのことを嘗めているようですねェェェエ!? たかだか数年しか修練を積んでいないクソガキがァ! アタシを誰と心得えますかァ!」
ピョンッ、その小さな体躯を以てチュデルキンは地を蹴った。
クルリと身体を反転させて、頭だけで着地する。
「アタシこそはァァ公理教会元老院元老長ォ! アタシがこの地位に就いて約百年が経過しましたァ! それはつまりィ、この百年間、人界ではアタシより腕の立つ神聖術師が生まれてきていないってことなんだよォォオ!」
獣のような絶叫が響くと同時、チュデルキンの周りには
──通常、人界では達人と呼ばれるような神聖術師が出せる素因の限界数は十個と言われている。
その二倍を、チュデルキンは息をするように作り上げた。
なるほど、あの最高司祭が、それでも元老長を天職としてこいつに与えた理由が分かるというものである。
実力だけは、人界内でもトップクラスという訳だ。
神聖術だけを見るならば、チュデルキンは間違いなく人界内でも五本指に入る腕前だった。
──それを、しかしアルフォンスは誰よりも承知していた。
何せ一年以上も前から直接邪魔されていたのである。
チュデルキンが人界内最高峰の術師であることを、ともすればアルフォンスは誰よりも理解していた。
「……はぁ」
小さくため息を、ひとつ零す。
迫りくるは熱素で編み上げられた、四つ首の龍だ。
少し触れただけでも炭化してしまうだろう。それほどの威力を前に、アルフォンスは片手を前に出した。
──アルフォンスは、チュデルキンの実力を完璧に理解している。
だからこそ、
パチンッ、と指を鳴らす。それだけで、熱素の龍はたちまち凍りついた。
「は──ァ?」
ガラガラと崩れ落ちていく自らの神聖術を前に、チュデルキンは思わず呆けたような声を出した。
目の前の現象を、受け止め切れない。
何故、なぜあのクソガキは悠然とこちらに歩み寄ってきている──!?
「もう一度だけ、言ってやる。アリスを解放しろ、チュデルキン。そしてオレの下につけ、お前は役に立つ」
「こ……のクソガキがァァアアア!」
ギュルリと風が逆巻く。数瞬だけの動作でチュデルキンはアリスを覆う風を刃に変え──しかし、何事も起こらなかった。
いいや、正確に言えばそれは、チュデルキンが思い描いたようにはならなかったというだけだ。
風素はブワリと霧散して、アリスはアルフォンスの腕の中に収まった。
いつの間に──。
一瞬回しかけた思考を中断し、チュデルキンは素因を生み出し──ドンッと衝撃が走った。
乱回転する視界。走る激痛。受け身も取れず、チュデルキンは地に落ちる。
「色々と、言いたいことはあるが……まあ良いだろう。とにかく残念だ、チュデルキン。オレはお前のことが、嫌いではなかったのだがな」
「ぐ、この……アタシは、お前が大ッ嫌いでしたよォ……!」
「そいつもまた残念だな──ま、であるならば仕方あるまい。公理教会への反逆並びに誘拐、殺人未遂……。充分すぎるくらいの罪だな。よって、今ここで、貴様を殺す」
「ハッ! 一撃入れたくらいで調子にィ──」
──と、そこまで言ったところでチュデルキンは言葉を途切れさせた。
否、途切れさせざるを得なかった。
足の先から、首元までが凍りついている──!
身動きもできず、一瞬にして襲い掛かってきたそれに、チュデルキンは反応することすらできなかった。
「調子に乗っているのは貴様だった、という訳だ。そもそも、アドを寄越せなんぞ、良くもオレに言えたものだな」
「クソ……がァァァア……! 猊下は、猊下は、アタシだけのォ!」
「アドはオレの女だ、手放す気は無い。あまり、図に乗るなよ。下郎が」
直後に生み出されたのは、百を超える
ソルスが真上にいる時間帯でいてなお、光素による輝きで霊園が白く染め上げられる。
「来世でやり直すことだな」
「────!」
音もなく、光は撃ち放たれた。
一つの指向性だけを持たされた光の奔流は、いともたやすく一人の道化を呑み込み、撃ち滅ぼした。
途中で軌道を変え、跳ね上がった光は空へと打ち上がり、煌びやかに霧散する。
溶かし、破壊された氷も相まって、一時的に作り上げられた幻想的な光景が作り上げられる。
チュデルキンは最後になんと言ったのだろうか──。
上手く聞き取れなかったな、と眉を潜めながらアルフォンスは空を仰いだ。
深く、深く息を吸い、ゆるりと吐き出す。
「何事も、上手くいくとは限らないものだな──まったく、己の無能さに反吐が出る」
だが、これも慣れなければならないことなのだろう──と、アルフォンスは独り言ちた。
どうにも今日は反省ばかり続く日だ、と思ったところで、腕の中の少女がパチリと目を覚ます。
「あ、れ……? 兄さん──ってどういう状況これ!? 何で私が兄さんに抱かれ──!?」
「ああ、もう寝起きから喧しいな、お前は……説明は歩きながらしてやる。ほら、帰るぞ」
雑に地面に降ろされたアリスに手を差し出せば、「訳が分からないんだけど……?」という顔でアリスが手を握る。
それを見ながら、「そういえばいつこいつはオレを《兄さん》と呼ぶようになったんだったかな」等とアルフォンスは考えた──が、直ぐに振り払う。
今は考えるべきことが多いし、やるべきことも山積みだ。
取り敢えずは、不穏分子共の洗い出しを早急に進めよう──と、思うのであった。
チュデルキン:サクッと始末されてしまった。猊下が好き。
アルフォンス:現実、マジで理想通りにいかねぇな~……と理解してきた頃合い。
アリス:寝起きが最悪だった。この後事情を説明されて半泣きになる。