夜気にあてられた夏風が、するりと心地よく吹き通る。
祭囃子が彼方から響き渡り、雑踏がひしめき合う。
あちらこちらから飛び交う喧騒が空間を埋め尽くし、時には楽し気な笑い声が耳朶を叩く。
提灯がぶら下がり、屋台がずらりと展開されている──まあ、つまるところ央都はこの日、一年に一度の祭りを迎えていた。
過ぎていく夏を見送るように、やがて来る秋を歓迎するように。
未だ残る熱気と共に人々は、一度限りの楽しみに身を委ねていた。
──そんな中、一人の女が慣れない様子で辺りを見回していた。
腰ほどまで伸ばされた銀の髪は艶やかで、同色の瞳は覗き込めば戻ってこれなくなりそうなほど妖艶、かつどこか果てが無く深い。
白魚のように透き通った肌はきめ細かく、シミ一つなく美しい。
というかアドミニストレータだった。
いいや、この場合は可愛らしく、クィネラと呼んでやった方がいいのかもしれない。
花の模様をあしらわれた黒の浴衣へと身を包み、ご丁寧に下駄まで履いてる。
一応の変装のつもりなのか、つば広の帽子を目深に被っていた。
何も知らない人が見れば、深窓の令嬢っぽいとか思ったりするかもしれないだろう。
行き交う人々を視界に収めながら、クィネラは道の端で「はぁ」と小さくため息を吐いた。
私、何でこんなことをしているのかしら──。
どちらかと言うまでもなく、クィネラは騒がしいのが得意ではない。
なるべく静かで、情報量が少ない──そう言った場所や物事を基本的に好んでいた。
要するに彼女は《祭》というものを良く理解していなかった。
公理教会の塔へと移り住んでもう数百年。彼女がまだ村娘として生きていた頃は、このような大規模な祭りなどそもそも存在していなかった。
無論、存在そのものを知らなかったという訳ではない。当たり前だ。
この人界において、クィネラが把握していないことなど、それこそ探す方が難しいというものだ。
なので知識はある。どういったものかも知っている──だというのに、わざわざこうして足を運んだ理由は、たった一つしか無かった。
そう、つい一時間ほどの前の話だ──
「クィネラ、祭に行こう」
「祭り?」
「うむ。今、央都でやっているだろう。アレ、実は行ってみたかったんだよな」
「……いえ、あなた以前、普通に脱走して行っていなかったかしら……? 私の部屋でもさもさ綿菓子食べていたわよね……?」
普通に綿菓子の欠片が部屋中に舞ってキレた記憶がある、とクィネラは思った。
しかしアルフォンスは「わかってないなぁ」とばかりにため息を吐いた。
いつまで経ってもこういう、クソガキ仕草が抜けないのは何なのかしら……とクィネラは思う。
「というか、アレはお前も勝手に食べてご満悦だっただろう……」
「そ、そうだったかしら」
フイッとクィネラは視線を逸らす。完全に図星だった。
最高司祭という地位に就いてはいたが、彼女自身は高級食材志向という訳ではなく、それなりに何でも食べるタイプだ。
まあ、それでも専属の料理人くらいはつけてはいたし、今もいるのだが。
「まあ、そうではなくな。オレはクィネラと行きたい、と言っているんだ。来てくれるか?」
「ふふ……そう言われて断るほど、私も面倒な女じゃないわよ」
「面倒というか、クィネラはこっちが不安になるくらいチョロいがな……」
「うっさいわね……」
ていうか、そんなにチョロくないわよ! クィネラはアルフォンスへと襲い掛かる。
一頻りのじゃれ合い。ちょっとしたいつもの光景。
やたらとでかいベッドの上でもみくちゃになった後、「さて」とアルフォンスが言った。
「折角だし、待ち合わせでもするか」
「まーた変なこと言い出したわね」
「むっ、喧しいぞ。それに、別に変なことでもない……やったことのないことは、試そうと思うのが人の性というものだ。
それにクィネラも、相応の準備が必要だろう」
「準備……?」
いえ、今すぐ出られるけれど。と思ったクィネラであったが、直後に気付く。
クィネラは最高司祭──元、ではあるが──であり、その顔は良く知られていないものの、全く知られていないという訳ではない。
多少なりとも変装は必要であろう──それに、祭と言えば相応の服装がある、らしい……ということをクィネラは思い出していた。
いつもであれば心意でポンッ、と魔法少女さながら衣装チェンジするのだが、残念ながらこの手の心意をクィネラは苦手としていた。
というのも、クィネラは基本裸族だったからである。
服をまともに着るようになったのは、ここ数年の話だ。
お陰で服のイメージを固める、という技術が全く育っていなかった。
別に、自分の身体に恥ずかしいところなど欠片一つ分もないが──裸で出ればそれはもう公序良俗ぶっちぎりでアウトである。
なるほどね、とクィネラは頷いた。
それを察し、アルフォンスもまた頷く。
アルフォンスとしては「お洒落とかするんだろうな」程度での発言であったが、全てを察した今は、言って良かったなと心の底から思っていた。
クィネラはところどころ常識のない女であるということをたまに忘れてしまう。
こんなことを言えば、クィネラは顔を真っ赤にしてしまうだろうから言わないが。
「という訳で、一時間後に集合だ。遅れるなよ?」
「はいはい……」
──等というやり取りの末であった。
ちなみにクィネラの浴衣はカーディナルチョイス。
普通に服装に困ったクィネラは渋々カーディナルに頼ったという訳だ。
お陰で奥歯をギリギリ食いしばる幼女賢者が練成されることになった。
それでも一応、頼られてやったカーディナルは懐が広いと言えるだろう。
これが逆の立場だったら普通に凹んで泣きそうになるクィネラが出来上がる。
そういった訳で、クィネラはひときわ目立つ噴水の手前で佇んでいた。
美人というだけで目を惹くというのに、祭の光にあてられた水はやけに幻想的で、道行く人の視線がクィネラへと集まる。
仕方がないことだと割り切ってはいるが、それはそれとして面倒ね、とクィネラは考える。
──これが、昔の彼女であれば「面倒」とすら思わなかったであろうことを考えれば成長したと言えるだろう。
それが良いことなのか、悪いことなのかはまだ分からないが。
それはそれとしてクィネラはトントン、と地面を蹴る。
あーあ、早く来ないかしら。
少し、早く着きすぎたのよね──
「ん、もう来ていたのか。悪いな、遅くなった」
「──まったく、本当よ。私を待たせるなんて偉くなったものね?」
薄く笑みを浮かべ、クィネラが顔を上げる。
そこにいたのは期待通りの人物だ。
こちらも場に合わせたのか、浴衣を纏った一人の青年──アルフォンス。
いつも通り不遜な顔で、けれども瞳はいつもよりギラついていた。
身体はデカくなってもこういうところは変わらないわね──とも思ったが、そういえばまだ十八歳だったか、と思い出す。
本当に、色々とちぐはぐな子だ──そこもまた良い、なんて思ったりもするのだが。
「だから、悪かったと言っているだろ……代わりに案内をしてやる。それでどうだ?」
「あら、アルにできるのかしら?」
「オレはこれでもこの祭り、五回目だぞ。そこそこ顔見知りもいる」
「ちょっと待って???」
五回目? 五回目と言ったのか今!?
一回しか知らないんだけど……とクィネラは思った。
もしかしてこいつ、一度目以降、毎年参加していたのだろうか……。
いや、参加していたのだろう。そういうやつである。
今となっては、特に責めるほどのことでもないが、当たり前のようにセントラル・カセドラルを抜け出していたという事実にクィネラは頬をひくつかせた。
「はぁ……ま、それならエスコート、お願いするわね」
「ああ、任せておけ──」
と、そこでアルフォンスが言葉を区切る。
それからまじまじとクィネラを眺めてから言った。
「言い忘れていたな。良く似合っているぞ、クィネラ」
「──ふふっ、ありがとう」
華やかに、クィネラが微笑む。実に緩み切った頬だった。
こと二人きりで、気をゆるんでも良い場面になるとポンコツになるのがクィネラだった。
そっと差し出されたクィネラの手をアルフォンスが丁寧にとる。
祭はまだ始まったばかり。
この人界の、王と王妃とも呼べる二人のお忍びデートは、こうして始まった。
ズラッと果てしなく並んだ屋台の中で、一番最初にクィネラの目を惹いたのは射的屋だった──無論、銃などではなく、風素を用いた射的だ。店主が風素の壁を作り、妨害しているのを撃ち抜く遊びである。
とはいえ、特段何か特別な賞品があったわけではない。
安そうな玩具から、ぬいぐるみといった陳腐なラインナップだ。
だが、陳腐だからこそクィネラの目を惹いたと言えるだろう。
ど真ん中に配置されたうさちゃんぬいぐるみと目が合った瞬間「あ、昔ああいうの持ってたわね」とクィネラは思った。
目聡いアルフォンスはそれに当然気付く。
「いえ、別に欲しいという訳ではないのだけれど……」
「なに、祭というのはそういう、余計なものを得て楽しむ場でもあるだろう?」
なんてやり取りの後にチャリンチャリン、と射的のおっちゃんに十シアが手渡された。
瞬く間に風素が五つ浮かび上がる。ヒュルリと風が逆巻いた。
「……壊さないようにね?」
「お前はオレを、加減の出来ない怪物か何かと勘違いしていないか……?」
「実際、自由さは怪物並みでしょう」
「誉め言葉として受け取っておこう」
そんな会話している間に撃ち放たれた風素はあっさりとうさちゃんを叩き落とした。
そのまま風素で巻き上げられたそれは、すっぽりとクィネラの手の中に収まる。
ふむ……。
クィネラは僅かに浮かんだ笑みを隠し切れない。
「クィネラ、意外と少女趣味だよな」
「──な、何か悪いかしら?」
「そう動揺するな、そういうところも愛いと思っただけだ」
「~~っ!」
真っ白な顔が朱色に染まる。
恥ずかしさを隠すようにクィネラはギュッと力強くアルフォンスの手を握った。
店主のおっちゃんはさっさと帰ってくんねぇかな……と切実に思った。
アンダーワールドの──ひいては人界の祭と言っても、現実世界のそれと大きくかけ離れているかと言われれば、実際のところそうでもない。
大して美味くはないし、やたらと高い焼きそばやたこ焼き──現実と比べれば、擬きのようなものではあるのだが──なんかも売り出されていた。
とはいえ、それが売り出されるようになったのは、アルフォンスの入れ知恵なところがあるのだが……。
アルフォンスはもうゴリゴリに現実の記憶を用いて屋台の開拓を行っていた。
先程の射的といい、キリトが見れば懐かしさを感じられる──どころか、一瞬くらいは現実に戻ってきたのかと勘違いするかもしれない。
再現度で言えばそれくらいの出来だ。
──要するに、一通り回ったクィネラは地味に混乱していた。
知識はあると油断していた──いや、これ油断なのか? 全然知らないとかいうレベルじゃねぇぞ。といった具合だ。
経験するということの大切さを理不尽気味に叩きつけられ超息切れしていた。
少しだけ外れた場所で、二人並んで道行く人たちを眺めながら一息をつく。
「私の知っている祭と、少々──いいえ、相当違うのだけれど……」
「うむ、まあ、多少口出ししたからな」
「多少……?」
神輿が盛大に運ばれていくのを眺めながらクィネラがぽつりと呟いた。
これで、多少……? あまり深く考えると坩堝にはまりそうね、とクィネラは思った。大正解だ。
ただ、それはそれとして、やっぱり異常よね──。
身分を隠し、ただの子供として振舞っていただろうに、結局はこうして大きな影響を与えている。
場所も人も問うことは無く。
誰かに影響を与えるために生まれてきたような人。
ちらとアルフォンスを視界に入れれば、不思議そうに眼を合わせてくる。
それだけで胸の奥が暖まるような気がして、クィネラは込み上げてきた笑みをそのままにした。
「悪いな、やはり疲れたか」
「いいえ、それは別に良いのよ。それよりほら、あーん」
「んっ」
クィネラによって持ち上げられたたこ焼きが、アルフォンスの口へと放り込まれる。
買ってから少しばかり時間が経ってしまい、少々冷えているがそれもまた乙なものだ。
少しばかり残っている熱さにハフハフと息を吐きながら、咀嚼し飲み込む。
「それで、今日は一体どういう風の吹き回しだったのかしら」
「──というと?」
「言葉の通りの意味よ。そもそも貴方が、何の理由もなく外に出る訳がないでしょう……平時ならまだしも、今はもう《最終負荷実験》目前なのだから」
「流石に買い被り過ぎだ。オレはワーカーホリックではない」
「それ、伝わるの私くらいよ」
「お前に伝わるならそれで良いだろう」
神聖語──現実で言う《英語》を日常会話でも多く使うのは、現実世界の人間であるキリトを除けば、アルフォンスとクィネラ、カーディナルくらいである。
そもそも、『神々が使う言語』であるから《神聖語》なのだ。当たり前と言えるだろう。
逆を言えば、多用すれば怪しまれるということでもあるのだが、それはそれ。
今更この二人をおかしいと思う人間はいないだろう。何せおかしなこと塗れであるのだ。
「話したいことがあるのならば、聞いてあげるけれど?」
「随分と、察しが良くなったものだな」
「ええ、お陰様で、もう神様じゃいられなくなったんだもの。人間はこうやって、空気を読んであげて生きるものなのでしょう?」
「嫌味な言い方をするな……」
「それに、あなたの弱音なんて聞いてあげられるのは私くらいじゃない」
ドヤ顔で言ったクィネラの頬を指でつつく。ふにふにだ。
甘んじて受け入れるクィネラを見つつ、アルフォンスは小さくため息を吐いた。
「既に、八の月を過ぎた。《最終負荷実験》が行われるまで、あとひと月を切った」
「ええ、そうね。でも、それがどうかしたのかしら。そんなこと、もう随分と前から分かっていると思っていたのだけれど?」
「どう、とはまた直截的な聞き方をするな──まあ、なんだ。つまるところオレは恐れている、のだろうな……」
その一言に、クィネラは僅かに目を見開いた。
確かに弱音を聞いてあげる、と言ったのは自分だが、ここまで素直なのは少しばかり珍しい。
いつもであれば、ちょっとした笑みと共に吹き飛ばすだろうに。
「単純かつ、浅ましい話なのだがな……大戦が始まれば、多くの血が流れる──その中で、クィネラ。
オレは、お前を喪うことが何より怖い。無論、実力を疑っている訳ではないが──誰もが経験のしたことのない規模での戦争になるのは明白だ。
ありえないと思っていた『もしも』は幾らでもありえるだろう。不安は多々あるが、それでもオレは、それだけがどうしようもなく恐ろしい」
目を閉じて、アルフォンスは再び嘆息した。
ずっと腹の底に埋めていた感情を、重々しく吐き出すような吐息だった。
問われなければ、口に出すことは無かったのだろう。
いいや、あるいはただ問われただけで、こうして口に出したのがもう異常に近いのかもしれない。
ここまで弱気なアルフォンスは数年に一度見れるか見れないかである──十八歳の少年である、という要素さえ抜き出せば、そうおかしな話でもないのだが。
もう少し付け足すのならば、アルフォンスの人格は十歳からスタートしているのだ。
まあ、この場にいるのがアリスであれば「どどどどうしましょう……!」とあたふたするだろう……が、クィネラは笑った。
やれやれ、手のかかる人ね。とでも言わんばかりの余裕たっぷりかつ、満面の笑みだ。
久しぶりに振り回されるのではなく、振り回す側に回れそうでウキウキしている顔とも言う。
既に肩を寄せ合っていた二人であるが、力任せにクィネラはアルフォンスを引き寄せ抱きしめた。
「むっ、何を──」
「本当に、仕方のない人ね、あなたは」
もごもごと暴れるアルフォンスを力づくで黙らせながら、クィネラはアルフォンスの頭を撫でた。
「私は死なないわ……そしてもちろん、あなたも死なせない。約束よ」
「約束と言っても──」
「
「いや、だから──」
「ああ、もううるさいわねぇ」
桜色の唇が、やや強引にアルフォンスの唇を奪う。
やたらと反論を飛ばしてきそうだった声はいともたやすく消し去られた。
数秒の間ののちに、クィネラが優しい声音で言う。
「そんなに恐ろしいのなら、あなたが私を守りなさい? そうしたら、私があなたを守ってあげる。これで良いでしょう」
「──まったく、肝心なところでクィネラには敵わないな……」
「それはこっちの台詞よ──まあ、戻ったらそんな暇もないでしょうし、あっても誰にも見せる訳にはいかないでしょうから、今だけは甘えさせてあげる。好きになさい」
「……ありがとう」
その先は、言葉が交わされることは無かった。ただ抱き合ったまま、時折少年の嗚咽に近い声がする。
それを聞いて、クィネラはほっと息を吐いた。
アルフォンスという少年は、この歳で多くの物事を背負いすぎており、同時にそれにもう慣れ切ってしまっている。
苦を苦と思わない。
頂点にいるのが当たり前であり、重荷があるのは当然となっている。
それは当人が望んだことでもあるが──同時に、周りが望んだことでもある。
そんな中でもまだ、弱音を漏らすことができるのは人である証拠だ。
──かつて、クィネラがそうであったように。
人というのは、誰にも頼れなくなった瞬間が、人として壊れ始める瞬間だ。
せめてこの少年が《王》であっても、《神》にはなりませんように。
そんな願いと誓いを胸に抱きながら、クィネラはアルフォンスを離すまいと抱きしめた。
この後あちこちフラフラしてから帰ったら二人してベルクーリ&ファナティオに「こんな時間まで何やってるんですか!」とキレられた。
アルフォンス:泣いちゃった!
クィネラ:この後勢いでキスしてしまったことに気付いて顔真っ赤になる。