名前というやつは、どうやって決めれば良いのだろうか、ということを《昇降係》はもうずっと、ひたすら考え続けていた。
きっかけは、もう一年も前のことになってしまうだろうか。
よく晴れた日の、ちょうど午後の業務へと入ったばかりの時だった。
一人の少年──アルフォンスと、初めて出会った日のことだ。
最初に声を発したのは自分だった。
思う、ではなく、そのはず、でもなく。そうだった、一字一句違うことなく、《昇降係》はその時のことを覚えている。
もう百年近く、口ずさみ続け、もう馴染みきってしまった「お待たせいたしました」の一言が、最初の一言だった。
《昇降係》はそれまで、他愛のない話というものをしたことがなかった──いや、正確にはしたことはあったのかもしれないが、しかし彼女はもう、それを思い出すことはできなかった。
この長い、長い年月に晒されることで、昔の記憶はとうに枯れて、消えてしまっていた。
その時はまだ十歳になったばかりだったアルフォンスは、《昇降係》が人を運べる限界──つまり、八十階である《雲上庭園》まで運んでほしいと頼み、《昇降係》はそれを了承した。
無論、この時から既に、修道士・修道女が上に行ってはならないという規則はあったが、しかし《昇降係》たる彼女に与えられた仕事は『昇降盤を動かすだけ』である。
規則を守る、守らないという思考自体が、彼女にはない。
下にいるものを上へ、上にいるものを下に運ぶ、ただそれだけの仕事であり、それ以上も以下もなかった。
だから、この時も「修道士が利用するなんて珍しいな」と彼女は思っただけであった。
物珍しさはあったが、しかし想定外だった、とわざわざ口に出すほどではない。
ゆえに、《昇降係》にとって想定外だったのは、ちょうどこの後──アルフォンスを乗せ、五十階《霊光の大回廊》から、八十階《雲上庭園》へと送る、ごく短い時間のことだった。
初の利用であるにも拘わらず、アルフォンスはふらっと《昇降係》へと問いを投げかけた。
「オレの名はアルフォンス、そっちの名前は?」
「名前、ですか……それはもう、忘れてしまいました。ですが、呼称に困るというのであれば、《昇降係》とお呼びください。
昇降盤をご利用になる方はみな、私のことをそう呼びます」
「ふぅん……忘れた、か。まぁオレも似たようなものだから、あまり何も言えないが──思い出そうと思ったことは無いのか?」
ゆるゆると、風素が生み出す突風により上昇していく昇降盤の上で、アルフォンスは怪訝そうに言った。
アルフォンスは通称《ベクタの迷子》である。
己の出自から、この年齢まで育ってきたはずの全てを忘れてしまい、拾われた少年。
記憶喪失、と言えばわかりやすいだろうか。
「いいえ、名前の有無が重要であるかどうかと言えばそうではないと思いますので。
《昇降係》で通じるのであれば、それでよいと思っています。
なので、かつての自身の名前を、思い出そうとしたことはありません」
「だが、《昇降係》は悪いが氏名ではなく天職名だ。
例えば、整合騎士は天職名であっても、それを個人の名として扱うものはいないだろう」
「整合騎士の方々と、私自身を並べるのは恐れ多いかと」
「恐れ多い? どちらも無くなっては困るものだ、そういった意味で職に貴賤などはないと思うけどな」
困ったな、と《昇降係》は思う。
本当に、言葉の通りの意味で彼女は、そこまで深く己の名前について考えたことは無かったのだ。
忘れてしまったのならば、もうそれは仕方のないことなのだと、そう思えてしまえる人間だったがゆえに。
──否、もしかすれば、ずっと前はそうではなかったのかもしれない。
ただ、百年に近い年月が、そういう思いすらも風化させたのだ。
それを悲しいとは思わない。けれども、そう思えないということが、少しだけどうなのだろう、と《昇降係》は思った。
「であれば、私はこれからなんと名乗ればよろしいのでしょうか」
「そんなものを他人に易々と尋ねるな、名前は確かに記号にすぎないが、記号以上の意味を込められるものだろう。
だからこそ名付け親というのは尊重されるものなのだから。
少なくとも、会ったばかりのオレなんかに聞くな」
「そういう、ものなのでしょうか」
「そういうものなのだ──お前、今何歳だ?」
セントラル・カセドラルに住む人間は、見た目通りの年齢である者は非常に少ない。
それは、ここに住むものであるならば常識である。
皆が皆、という訳ではないが、大多数の人間が最高司祭:アドミニストレータの手によって天命の自然減少を凍結させられている──要するに、不老にされているのだ。
《昇降係》自身も、肉体自体は二十代前半で止まってはいるが、その倍以上の年数をここで過ごしていた。
「この天職を頂いてから、九十八年が経ちましたので、現在は百十八歳となります」
「へぇ、随分と長働きなんだな。その間、ずっとここにいたのか?」
「《昇降係》として、という意味でならそうなります」
「こっから出たことは無い、と」
「そうなります、私に外に出る権限はありませんので」
職務中はずっとこの昇降洞におり、終われば自室に戻る。
食事の時間帯になれば食堂に行き、暇は特に持てあますことなく眠りに充てる。
それが、《昇降係》の一日であり九十八年間、彼女が続けてきた日常だ。
そんな生活に、満足しているかと言われれば答えに瀕するが──かといって、特段不満を抱えているということもない。
「──あぁ、なるほど、
不意に、アルフォンスは「合点がいった」と頷いた。
《昇降係》が首を傾げれば、彼は笑みを浮かべながら言う。
「お前、名前と一緒に、色んなものを忘れたんだな」
「色んなもの?」
「ああ、まぁ、そもそもこんなことを長い年月続けてたら身体は保っても心は保たないものだしな。
一度壊れた時に、壊れた部分を纏めて捨てた──あるいは、捨てられたのだろう。
そしてお前は、それを本能的な部分で、恐れている。
心も、感情も、記憶も。
目には見えなくとも、そこに必ずあるものは、しかしどれもが揃って繊細に出来ている。
壊れてしまえば、二度と元には戻らないものだ。
忘れてしまったら、もう取り戻すことは叶わないものだ。
けれども、無くなってしまえば、それ以上人は傷つかなくなるようにできている。
「ま、過ぎたことを言っても仕方あるまい──だから、名前をつけよう」
「……先ほど、断られたと記憶しておりますが」
「無論、付けるのはオレではない。であれば誰かと言えば、当然それはお前の他にいないだろう。
《昇降係》、お前が、お前自身で自らに名前を付けるんだ」
「自分に、ですか?」
「そうだ──と言っても、直ぐには決まらないだろうがな。だけど、それで良いんだ」
「?」
《昇降係》は、アルフォンスの言いたいことがつかめない。
それもそうだろう。
彼女からしてみれば、初めて会った少年が、如何にも分かったような口振りで名前が云々と語り始めているのだ。
正直「うっせぇわ」と一蹴しても良いくらいだ。
──だが、彼女はそうしない。
それは彼の言葉が、大なり小なり当たってはいるという証左でもあった。
名を忘れてしまった少女は、やはり忘れることを恐れていた。
《昇降係》という名にこだわっていたのも、そこが要因だ。
天職名を忘れるような人間は、少なくとも此処がある内はいないのだから。
「それで伝わるのだから、通じるのだから、それで良い、ではなく。
誰かにこう呼んで欲しい、こういう自分でありたい、こういう人間になりたい、こういう言葉に似合うようになりたい、こういう言葉が好き。
何でも良い、けれど確かに何かの意味を込めて、名前は付けるもので、付けられるものだ」
「名前に、意味を……」
「それに、もう二度と忘れることも、忘れられることもないからな、安心すると良い」
「……それは、どうして、そのようなことが言えるのですか」
「? それは勿論、オレが覚えているからに決まっているだろう」
アルフォンスが笑ってそう言うのと、昇降盤が最上階──《雲上庭園》に辿り着くのは同時だった。
ガコン、という音と共に昇降盤が止まり、アルフォンスはそこから降りる。
「ま、そう難しく考えなくても良い──と言っても無理そうだから、ゆっくり考えると良い。
それじゃ、これから世話になるよ。名前が決まったら、ぜひ教えてくれ。えーと……《昇降係》の
パチン、とウィンクをしたアルフォンスはそう言って、アドミニストレータの元へと向かった。
──ここまでが、彼女の記憶にある、一番最初の邂逅だ。
それから一年、《昇降係》は未だに、自分の名前を決めあぐねていた。
おかげで最近はため息が増えたし、ぼぉっとすることが増えて若干寝不足だ。
それもこれもあの少年のせいである。
今日も今日とて、騎士を上へ下へと送りながらも考え込む日々だ。
ある意味新鮮ではあるが、いつまでもこうだと何だかずっと決まらないような気さえする。
それはそれで、どうなのだろうか、と思った時だ。
見慣れた少年が、いつからか携え始めた木剣を腰に吊るしてやってくる。
「よっ、《昇降係》のお姉さん。調子はどうだ?」
「──どちらかと言えば悪いでしょうか。どこかの誰かのせいで、ずっと頭を悩ませています」
「お姉さん、オレにだけやたら当たり強くなったな……まぁ許すけど」
アルフォンスはこのセントラル・カセドラルで最もこの昇降盤を利用する人間だ。
なにせ一日一回は必ず使う──もちろん、言うまでもなくアドミニストレータ襲撃のためである。
大体の場合において、この少年は昇降盤を律義に利用して駆けていくのである。
その度にアルフォンスは《昇降係》に話しかけるし、その度に《昇降係》は少しずつこいつに毒されていた。
結果がこれである。
一年前では考えられないような軽い皮肉が飛び交うのが日常と化すことになったのは、アルフォンスとしても想定外だっただろうが。
「今日もまた、《雲上庭園》まででしょうか」
「ああ、よろしく頼む──それで、まだ名前は決まらないのか?」
「はい、勧めてくださった小説も読ませていただきましたが、ピンとくることもなく」
「まぁその辺は何かのきっかけになればと思っただけだしな……とはいえ、まさかここまで難航するとは思わなかったな。いや、ゆっくり悩めと言ったのはオレなんだが」
いや一年て。
長すぎんだろ、とは言わない彼を乗せて、それなりのスピードで、昇降盤は上へと向かう。
見慣れた空を、ぐんぐんと突き抜けていくような感覚にももう、慣れてしまった。
そんな中で不意に、《昇降係》は「ああ、けれど」と声を上げた。
「夢──ではありませんが。やってみたいと思うようなことはできました」
「へぇ、聞かせてもらっても?」
「はい──」
一度、言葉を区切り《昇降係》は空を見上げた。
見つめ返してくるのは、どこまで澄み渡り、広がる青い空。
流れゆく雲も、雷雲も、雨も、嵐も、何もかもを受け入れる大空。
それは、彼女にとっては自由の象徴だった。
「この天職が、終わったらという前提なのですが──私は、空を翔けたいです。
五十階から八十階までの短い空ではなく、もっと、もっと高く、広いあの空を、この昇降盤で飛び抜けたい。
そうすれば、私は、私が本当になりたいものが、見つかるような気がするのです。
私が、どう呼ばれたいのか、どのような道を歩みたいのかが、分かるような気がするのです」
「……そりゃまた、随分と難しいことを言い出したな」
「はい、私もそう思います。空を飛べるのは、飛竜だけということももう知っています。
この昇降盤では空を翔けることはできないということは、承知の上です。
その上で、私は空を翔けたい。この子と──もう何十年も共にいた昇降盤と、私はあの空を自由に翔けたいのです。
その為であれば、何だってしたいとも思うのです」
《昇降係》は空を見上げたまま言った。
その表情は、アルフォンスが彼女と初めて会った時と比べて、特に変わることは無い。
笑みを浮かべている訳でもなく、かといって悲しんでいるという訳でもなく。
無表情、という言葉がぴったりだろうか。されどその、夏空の蒼穹を宿したような瞳はどこか輝いていて、アルフォンスは「ハッ」と笑った。
「良いんじゃないか? 道は険しければ険しいほど、手に入れた時の快感は大きくなるものだ。
オレがアドを倒すか、それとも《昇降係》のお姉さんが我慢ならずに上をぶち破るか、競争だな」
「そのような競争はいたしません。私は飽くまで、この天職が終わったらの話をしているのですから」
眉を潜めた《昇降係》に、しかしアルフォンスは笑う。
確かに、名前は決まらなかった。これからも、もうしばらくは決まることは無いだろう。
それこそ、本当に彼女が天職から解き放たれるその日まで、彼女に名前が授けられることは無いと言っても良い。
本来、彼女の天職は一生涯を捧げるような内容だ。
任命したアドミニストレータでさえ、そう考えているだろう。
もちろん、それは《昇降係》である彼女自身もそうだ。
もう約百年間、こうして《昇降係》を務めているのである。
あと何年かしたところで、「はいお疲れ様でした」とならないことは、充分に理解しているだろう。
しかし、そんな中でもいつかは『自由』になれる日が来るのだと、彼女が漠然と確信していることが、アルフォンスは嬉しかったのだ。
何故ならそれは、アルフォンスがアドミニストレータを打ち負かす日が絶対に来ることを、信じてくれているからに他ならない。
その信頼が、アルフォンスは何よりも嬉しい。
──アドを負かす理由がまた増えたな。
どれだけ遅くなったとしても、タイムリミットは後九年。
それまでに絶対に倒さなくてはならない、とアルフォンスは思いを秘め直し、アドミニストレータの元へと向かった。
「そろそろ、限界かも、しれないわね……」
セントラル・カセドラル最上階。
夜の帳が落ち、誰もが眠りについているような深夜、アドミニストレータは一人頭を抱え、憔悴していた。
常に余裕を保っている表情は見る影もなく、ポツリポツリと汗が流れ落ちている。
────タイムリミットだ。
人として生きる以上、制限時間と言うものは必ずついて回る。
最も大きく、誰にでも当てはまる物は、やはり寿命だろうか。
肉体の衰えは、総じて命の終わりとイコールで繋がるものなのだから。
どれだけ長く生きる者でも、普通であれば百を超えるか超えないかで、時間が来る。
しかし、セントラル・カセドラルにはその例外が山ほど存在する。
老化の凍結──それは確かに、傍目から見れば不老不死になったものに見えるだろう。
だが、それは
天命の自然減少の凍結、それは不老ではあっても、不死ではない。
制限時間を取り払うのではなくそれは、飽くまで先延ばしでしか無い。
ここ、アンダーワールドは人工の世界だ。人の手によって作られた、いわば仮初の世界であり、ここに住む人間も、言ってしまえば仮初の命。
彼らはフラクトライトと呼ばれるものを基に存在する生命だ。
フラクトライトとは、言わば人間の魂・記憶のメモリである。
それが収めておける情報は、ざっくり言って百五十年分──つまり、この世界の人間は百五十年以上の記憶は保持できない。
肉体の老化は止められても、魂の老化は止められない。
限界まで達したフラクトライトは、情報の供給に耐え切れずに自壊する。
その始まりは、記憶の破損だ。
忘却ではない、かといって削除でもなく、破損である。
フラクトライトがひしゃげ、中身が潰れて壊れていき──そしてその果てに、フラクトライトごと人は死ぬ。
本来であれば、気にすることではない。
整合騎士と言えども、まだ最長のベルクーリでさえ二百年ほどだ。問題にするにはまだ早いだろう。
しかし、一人だけ、当てはまる人物がセントラル・カセドラルには存在していた。
──アドミニストレータ。
公理教会を創設し、この三百年人界を支え続けた彼女は、
本来──もっとわかりやすく言うのならば、原作であれば、そんなことにはならなかったはずなのだ。
過去の記憶を少し削除し、後は寝て過ごすだけで蓄積される表層の記憶さえ毎日消去すれば、それで問題ない筈であった。
だが、これはもう正史とは別の物語になっている。
一人の少年が、それを変えてしまった。
今、アドミニストレータには毎日膨大すぎるくらい膨大な情報が、幾度も注ぎ込まれており──そして。
彼女はそうして蓄積した記憶を、しかし削除することができない。
自分がかつて経験したこととして、書類にしてしまうこともできない──否、したくない。
「──どうするべき、なのかしらね」
彼女の脳内にある情報は大まかに分けて四つある。
一つは、かつて少女だった頃からここまで成長してきた、『今のアドミニストレータ』を形成する上で必須である記憶。
一つは、この人界を治めるうえで必要なあらゆる地域の情報。
一つは、ここまで培ってきた膨大な量と質を誇る神聖術や、リアルワールドに関する情報。
──そして、最後の一つが、『アルフォンスとの記憶』だ。
アドミニストレータはもう、これ以上削る余地が無い程情報を削っている。
その上で、彼女のフラクトライトは既に限界が近い。
何を消すか、何を残すか。
アドミニストレータは、まだ何も選べない──しかし、直ぐに選ばなければならない日が来るだろう。
そうなった時、自分は何を消してしまうのか。
はたまた、このまま死を選ぶのか。
「そんなの……分からないに、決まっているじゃないの……」
真っ白な布団を、彼女は一人抱きしめる。
その手が、身体が震えているのはどの感情から来ているのか、彼女には分からない。
銀の瞳からは、透明な雫が零れ落ちる理由もどれなのかもはっきりと分からない。
ただ、誰かに抱きしめて欲しい、とアドミニストレータは一人、そう思った。
《昇降係》:めっちゃ空飛びてぇ~!
アドミニストレータ:あと二百年は早くアルフォンスと出会ってたら超幸せ絶頂のまま人生全うできた。でも大体自業自得。
アルフォンス:無自覚に好きな女殺しかけてる。