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無理だ……。
「──アド?」
ただごとではない、ということだけを瞬時に理解した。
最高司祭:アドミニストレータはこの人界において最強の人物である。
天命値は凍結され、自然に減少することは無く。
三百年蓄積してきた莫大な記憶、経験を伴っており。
神聖術に至っては
最早人の枠に当てはめて良いのかも分からないような、それくらい高みにある人物、それがアドミニストレータという女である。
それほどまでの女性が、あのような倒れ方をするだなんてことはまずありえない。
ましてやここはセントラル・カセドラル。
彼女に敵対するものが侵入することなど不可能である堅牢な、アドミニストレータにとっては
用意してきた神聖術を音もなく消し、アルフォンスは大きく吸った息を深々と吐いてから彼女の下へと歩み寄った。
「悪ふざけ──するようなやつでもないな。おい、アド、大丈夫か?」
返答はない、どころかピクリともしない。
だが、触れてみたところ、特段熱を持っているわけでもなければ、冷えているわけでもなかった。
脈拍、呼吸も共に異常なし。
ステータスだけを見れば、彼女は正常な状態にあるということだ。
それはつまり、それ以外のもっと他の部分に支障をきたしているということに他ならない
アドミニストレータを仰向きに寝かせ直したアルフォンスは「ふむ」と嘆息した。
「起きる様子は無し、か──ふぅん、どうやら
スラリ、とアルフォンスは腰に帯びた剣──《白金樫の剣》を引き抜いた。
かといって、特段構えを取るわけでもない。
幾度か遊ぶように握り直し、それからゆっくりとアドミニストレータの胸元へと切っ先を向ける。
「悪いな、アド」
一言。
端的に、悪びれもせずに謝罪を放ったのちに、アルフォンスは剣を振り下ろした。
天命が凍結されている、と言ってもそれは飽くまで自然減少への対抗手段──老化の停止にすぎない。
当然、外部から攻撃を受ければ大きく減少することなる。ましてや、《白金樫の剣》は《神器》ほどではないが、それでも高い優先度を保つ剣だ。
アドミニストレータの莫大な天命値も、無抵抗に切り刻まれれば直ぐにゼロになるだろう。
真っ白に磨き上げられたそれは、易々と彼女の寝間着を裂き──その白い肌へと食い込んだ。
純白のベッドを汚すように、彼女の胸元から鮮血が──しかし
代わりに迸ったのは
そう、まるでステイシアの窓を開いた時に発せられる光のような──いわば機械的な紫光が解き放たれたかのように室内を照らし出す。
それがアドミニストレータの肉体を絡めとるように包みこんだ。
もちろん、それはアドミニストレータに血が流れていないということを示しているわけでは無い。
光を発しているのは、《白金樫の剣》だった。
とはいえ、通常の《白金樫の剣》にそのような特殊な効果は存在しない。《白金樫の剣》は単純に優先度が高い木剣だ。
それはつまり、アルフォンスが使っていた剣は《白金樫の剣》
「──正しく予想外、じゃな」
不意に、声が響いた。
アドミニストレータが発したわけでは無いし、勿論アルフォンスの声でもない。
古めかしい言葉遣いにあまりに似合わない、幼い少女の声が、二人以外には誰もいないはずの最上階へと響き渡った。
それにアルフォンスは──しかし、驚かない。
「カーディナル……声をかけるならせめて姿を現してからにしろ」
「おっとそれはすまなんだ──とはいえ、おぬしがわしを呼んだんじゃがな?」
ほいっ、という軽い言葉と共に、カーディナルと呼ばれた少女はアルフォンスの足元から飛び出てきた。
──いや、正確に言うのであれば、アルフォンスの影からである。
《白金樫の剣》より発せられた紫の光に当てられ、濃く染まった一つの影から彼女──カーディナルは飛び出してきた。
アカデミックドレスに身を包んだ彼女は、少しだけ頭からズレたモルタルボードハットを被り直し、身の丈ほどもある杖を構えた。
「まさかあのアドミニストレータが、ここまで丸くなるとはのう。この目で見ていたが、やはりそれでも信じられんよ」
「人って歳食うと新しい物事を受け入れられなくなるらしいしな。ばあさんには難しい──」
「フンッ!」
気合に入った声と共に杖がアルフォンスの膝裏をぶち抜いた。
ドゴォッ! という凄絶な音と共に倒れ伏す。
これは言い逃れようもなくアルフォンスが悪い。
というか、こいつが悪くなかったことがないまであった。
「カーディナル……お前、今のは絶対に天命値減ったぞ!」
「レディに対する言葉遣いがなってないのが悪いのじゃ、次やったら雷じゃからな」
「やり過ぎだろう、それは……」
プルプルと震えながらなんとか立ち上がったアルフォンスは、そのまま弱々しい足取りでベッドへと座り込んだ。
ちょうどアドミニストレータとカーディナルの間に来るように、柔らかい音を立てる。
「ま、雑談は後でで良いだろう、カーディナル。最上階に蟲はいないとは言え、いつ誰が嗅ぎ付けてくるかは分からない。だから、手短に済ますとしよう」
「ふむ、そうじゃな──そうと決まれば、退け、アルフォンス。今からそやつを殺す」
コンッ、という軽い音が響いた。
それは、カーディナルが己の杖で床を叩いた音だ。
たったそれだけの動作で彼女は、同時に数十の神聖術を発動させた。
暗闇に落ちる室内が、一瞬にして煌びやかに彩られる。
そんなものをまともに喰らえばアルフォンスは一撃で消し飛ぶだろうし、アドミニストレータとてその天命値を著しく消費するだろう。
二度、三度と喰らえば間違いなく死ぬ、そういう領域の神聖術。
それを前にして──しかし、アルフォンスは笑った。
「珍しく、随分と好戦的だな。だが、その台詞でオレが退くと思っているなら、それは大間違いだと言ってやろう」
「ああ、そうじゃろうな。おぬしとの付き合いは然程長くもないが、それくらいはわしにも分かっておるよ。
だが、敢えてそう言っているのだ、ということを察することもできない男だとは思っておらんかったがのう」
「そこで気を遣うようなやつだと思われていたのならば、心外だ、としか言えないな」
カーディナルが眉を潜め、もう一度アルフォンスを睨んだが、しかしその表情が変わることは無かった。
これだけの圧倒的に戦力差を前に、笑みの欠片すらも崩れない。
どころか、余裕すら感じさせるほどで、カーディナルは内心舌打ちをした。
「次は言わん、退け。でなければおぬしごと撃つ」
「脅し文句としては三流以下だな、カーディナル。
アドの……いいや、クィネラのコピーでもあり、未だ視点が人間でしかないお前が、オレを傷つけることはできても、殺すことはできないことを、まさかオレが忘れたとでも?」
「──面倒なやつじゃのう、であれば、何用でわしを呼んだ? こうなることは目に見えていたろうに」
「まぁ一つ確認したくてな──いつかした、賭けのことは憶えているか?」
「──賭け?」
何のことだ?
カーディナルは目を細め、トントン、と己の頭を指先で叩く。
彼女の記憶領域はここ二百年で貯めに貯め、研鑽に研鑽を重ねた神聖術と、この人界に放った協力者たちのことでほとんどが埋め尽くされている。
アドミニストレータほど切迫しているという訳でもないが、しかし相当な量の情報が詰め込まれている脳だ。
思い出すのも一苦労で、諦めた彼女は苦々し気な顔を作り──そしてふと、目を見開いた。
「おぬし、あのような戯言を今更持ち出すか……」
「賭けは賭け、約束は約束だ。破るのか? カーディナル」
「………………ふんっ」
長い沈黙ののち、カーディナルは鼻息を鳴らしてから杖で床を叩いた。
同時に、展開されていた神聖術が音もなく消える。
「これで満足か?」
「いいや、お前にはもう少しだけ協力してもらう──というか、実際こっちが本題なんだけれどもな」
「ほう? 言ってみよ」
カーディナルは片方の眉を上げて、興味深そうに声を漏らした。
無論、アドミニストレータを殺すつもりが無くなったという訳ではない、むしろ阻止された今でさえ、隙を伺っているほどだ。
その手はいつでも杖を振るえるように、その頭脳はいつでも神聖術を発動できるように回されている。
だが、それで尚カーディナルはアルフォンスの言葉を促した。
「率直に言うぞ、アドミニストレータのフラクトライト、その編集を手伝ってほしい」
「──何を言うかと思えば、馬鹿げたことを。フラクトライトの領域増加を頼みたいとでも言うつもりか?
そんなもの、出来るのであればそこの女が真っ先にやっていただろうよ。やっていない時点で察するべきじゃ。
ライトキューブの容量を超えた時点で、こちらから出来ることは何もない、諦めろ、アルフォンス」
「アドのことになると、すぐ短絡的になるな、お前は……そうじゃない、よく聞けカーディナル。
オレは、アドを神から
「──無理じゃ、考えるまでもなく、な。おぬしは些か、アドミニストレータのこととなると希望に目を晦ましすぎる」
天命を凍結し、三百年以上もの年月を生きる最高司祭:アドミニストレータが現人神とすら呼ばれているのは事実だ。
だがしかし、こと彼女を"神"と呼称するにあたっては、二種類の意味が存在している。
もちろん、一つはこの人界で暮らす多くの人々が口にする神──つまるところ、信仰対象という意味合いでの"神"。
そしてもう一つは、文字通り
アドミニストレータの在り方は、既に人のそれではない。
フラクトライトという、この世界に住む者にとっての脳であり、魂であるそれが、アドミニストレータは壊れているのである。
否、壊れているという表現は、あるいは不適切かもしれない。
もっと、丁寧に、正確に言うのであれば、大量のイレギュラーに見舞われた、だろうか。
──かつて、アドミニストレータは神の領域へと手を伸ばしたことがある。
神の領域──それ即ち、アンダーワールドと呼ばれるこの世界の
アンダーワールドを創り上げた現実世界の人間たちの知識を、彼女はモノにしようとした。
その結果、アドミニストレータは己のフラクトライトにアンダーワールドを管理する《カーディナル・システム》の基本命令──《秩序の維持》という命令を書き込まれる、という結果を招いた。
この世界の人間は、どこからどう見ても現実世界の人間と大きく変わることは無い、それはまごうことなき事実だ。
しかし、それでも彼らは──アンダーワールド人とでも呼ぶべき彼らは、フラクトライトありきの存在なのである。
いわばその人物を構成する核たる部分に、直接命令を書き込まれたアドミニストレータはこの瞬間に
《カーディナル・システム》と融合し、不明なエラーを吐き出し続け、バグにバグを重ねた結果──アドミニストレータは、人の枠を外れたのである。
壊れてはいけないところが破損して、必要だった部分が無くなり、人であった部分を上書きされた。
それが、アドミニストレータという、一人の女──であった"神"である。
それを、人に戻すというのであれば、それこそフラクトライトに書きこまれた命令を削除する、あるいは上書くしかないだろう。
アルフォンスはそういったことを言っているのだと、カーディナルは瞬時に呑み込んで、その上で無理だと断じた。
《秩序の維持》という命令はフラクトライトの中でも最も重要な部分、言わばその人間の行動原理とでも呼ぶべき部分に書き込まれたものだ。
それはつまり、彼女にとっての本能であり、欲求であり、願望であり、最も価値ある部分に定義されてしまったということである。
書き換えは不可能、そういうことだ。
──だが、そんなことはアルフォンスも分かっているはずなのだ。
何せこのような説明を、カーディナルは一度、自らの口でこの少年に語って聞かせたことがあるのだから。
一度聞いたことを忘れるような男ではない、曲がりなりにも、彼は天才だ。
だからこそ、笑みを崩さないアルフォンスが、カーディナルは少し不気味だった。
「難しく考えるな、カーディナル。もっと簡単な話だ」
「簡単……?」
どこがじゃ! と叫びたくなるのを抑え、カーディナルは続きを促した。
アルフォンスが「やれやれ」と言ったポーズを作るのを見て、ギュッと杖を握りしめる。
こういう余計な行動を取る割りに、地味に様になっているのが苛立ちを若干加速させていた。
カーディナルは杖を振りかぶらなかった自分を内心褒めた。
「神から人に引きずりおろすのに、そう難しいことは必要ない。ただ力を取り上げる、それだけで良いだろう」
──力を、取り上げる?
まさか、アドミニストレータの神聖術や、剣術の記憶を消し去る、だなんてことを言っている訳ではあるまい。
しかし、であれば一体どういう意味だ、と疑問を持った瞬間、カーディナルは「あっ」と声をはじきだした。
「……そうか、かつてアドミニストレータがやったように、今度はそやつから、今度こそ、そやつのようにミスをせず、《カーディナル・システム》の権限のみを抜き取るか!」
人界中央都市、央都セントリアを四分割する不朽の壁しかり。
人界最北端に佇む、最高硬度を誇る倒れない杉の大樹しかり。
その全てがアドミニストレータが手にした《カーディナル・システム》の権限により生成されたものだ。
あらゆる意味で逸脱者であるアドミニストレータと言えども、この権限が無ければ『ただ恐ろしく強く賢い人間』でしかなくなる。
「ご名答。で、本題はここなんだが、カーディナルには、その権限を
「──ほう、大きく出たな、アルフォンス。今なら聞かなかったことにしてやるが?」
「ダメだ、それがオレには必要──いいや、その権限を持ったオレが、人界には必要なのだ」
「理由だけは聞いてやる、話せ」
一瞬、発動させかけた神聖術をキャンセルし、カーディナルは構えた杖を下げた。
そこにあるのは、アルフォンスへの信頼だ。
カーディナルは──このセントラル・カセドラル内という括りであれば、ほとんどの人間がそうなのだが──アルフォンスのことを気に入っている。
長年付き合いがあるわけでは無い、しかし、アルフォンスがどういう人間であるのか、ということくらいは理解していた。
笑えるほど頭が回り、恐ろしいくらい人の心に踏み込んでくるのが上手く、また現実世界についての知識どころか、この世界の未来すら見渡す知識を保有する、異端的存在。
無論、カーディナルからすれば十年少ししか生きていない小僧でもある。
だが、その上でカーディナルは『聞く価値のある言葉を持つ男』という認識をしていた。
「無論、この世界を統治するためだ──そして、これが
世界は見捨てない、オレが統治し、オレが導こう──とはいえ、独裁という訳ではない。
その為にも、カーディナルには協力してほしいのだがな……そう、敢えて言うのであれば相談役、と言ったところか」
「────」
そんなことを、当たり前のように言ったアルフォンスにカーディナルは思わず声を失った。
不安なことなど一つもない、と言わんばかりに己を見据えてくるアルフォンスに、彼女はいつの日かの光景をフラッシュバックするように思い出す。
そう、それはアルフォンスが言う『あの日』であり『賭け』をした日──つまり、彼らが、初めて出会った日のことだ。
何か想定より文字数増えたから分割しました。
カーディナル:次話で掘り下げられる女。
アルフォンス:普通に狙って記憶領域パンパンにさせてた。