真・女神転生▷《プレイ》世界が終わるまでは… 作:五十貝ボタン
新宿西口直下、ガイア教団寺院――
「マッシュ殿、よくぞ来られた」
ジンカイ和尚が差し出した緑黄色の茶は、ケミカルなにおいを放っている。なかなか口をつける気になれず、マッシュは急いでいるフリをすることにした。
「ご存じと思いますが、オザワが死にました。私設警察は壊滅状態。新宿には悪魔が入り放題です」
「うむ……なんとかバリケードを構築し、対処しておる」
東口と同様に、西口にも悪魔が押しかけてきたようだ。だが、ケルベロスによってアクター神父を倒されてしまったメシア教会とは違い、西口を守るガイア教団は指揮系統が生きている。今のところ、戦線を保っているようだ。
こうして、来客に応じる余裕も保つことができる。
「オザワを殺したのは別のものですが、新宿に悪魔を呼び込んでいるのは、俺の兄弟子であるDJです。地下サーバーを使って魔界への門を開き、強力な悪魔を呼びだしている」
「おおかた、オザワに成り代わって新宿を支配しようとしているのであろう」
和尚の予想は正しい。というより、この状況では当然の連想と言うべきか。
「我々は新宿が誰のものになろうと構わぬ。だが、混乱状態を一刻も早く治めたい。おぬしなら、DJ殿を止めることができると思ってよいのだな?」
闇法師の視線がマッシュに向けられる。その気になれば、呪言で人の命を絶つことさえできる高僧だ。さすがに緊張が走る。
「外から来る悪魔は数が多いけど、それほど脅威じゃない。問題はDJが召喚する悪魔です。俺なら、DJが動かしているプログラムを解析し、止めることができます」
「それほど強い悪魔を呼びだしているのか?」
「アクター神父が殉教しました」
「なんと……」
闇法師は数珠を鳴らして合唱をした。ガイア教団の祈り方だ。
「あいわかった。して、作戦は?」
「俺が地下のサーバールームへ向かい、このアームターミナルで接続します。そのために、俺にも強い悪魔が必要です」
「邪教の館か」
さすがに新宿の事情に詳しいジンカイ和尚は、すぐにマッシュの考えを察した。
「新宿北東にある邪教の館へ向かい、悪魔合体で強い悪魔を仲魔にします。それまでに時間が欲しい」
「よかろう。だが、もう一つ聞きたい」
闇法師の視線がマッシュを見据える。おそらく、嘘は通じないだろう。
「おぬしがDJにつけば我らを新宿から追い出すこともできよう。そうしないという確証が欲しい」
「確証なんて……」
立てようがない。だが、ジンカイ和尚は首を横に振って続けた。
「拙僧はこの街には新参だ。テクラという男のことも知らない。何と戦おうとしているのか、知っておきたい」
マッシュは大きく息をついた。あまり思い出したくない記憶がたくさんある。だが、ガイア教徒にとって大事なものが何かはよく知っている。納得できないことには決して加担しない。だから、自分の腹を割ってみせる必要がある。
「……俺たちはテクラを殺した」
◁◁
五年前。マッシュは十二歳、DJは十四歳だった。
その日、マッシュはテクラに連れられて、新宿地下街の高セキュリティエリアにいた。オザワがいるビルの地下へ繋がるエリアであり、彼の手下のヤクザたちがたむろしている場所だ。
「おう、テクラじゃねえか」
サイケデリックな柄のシャツを着た男が、門を見張っていた。人間というものは、このモノが不足する時代でも見栄えを気にするものらしい。パンチパーマも、袖からこれ見よがしに覗いている刺青も、昔からの伝統を守り続けているスタイルだ。
「オザワに会わせてくれないか?」
テクラはひょろりとした印象の、背が高い男だった。映画だかゲームだかのシャツがプリントされたTシャツを好んで着ていた。この日はドットを追いかけるパックマンの柄だった。よく覚えている。
「オザワ様に何の用だ?」
「ネットワークの監視結果だよ。何か大きなことが起きようとしている。特に、上野と品川で……」
「俺に言われてもわかんねえよ」
ヤクザの下っ端は、すごみをきかせて声を荒げた。マッシュは内心では大人の恐ろしさに逃げ出したい気持ちだったが、表面上は平気なフリをした。そうしないと、悪魔よりもしつこい連中が足下を見てくる。
「俺に言うことを聞いて欲しければ……わかってるだろ?」
オザワが組織するヤクザ連中には、組織とは名ばかりの腐敗がはびこっている。オザワが悪魔から新宿を守っているから、誰もオザワには逆らえない。だから、手下どもがいくら横暴に振る舞っても誰も文句は言わない。
テクラはその中で、彼らに意見できる数少ない例外だった。新宿のターミナルと地下サーバーを保守できるのは、彼とその弟子しかいなかったのだから。
「ああ。ほら……約束のものだよ」
テクラが差し出した麻袋の中を、ヤクザが確かめる。
「おい、俺が言ったこと、覚えてるか?」
「もちろん。『粉末コーヒーを頼む。もしタバコがあったら、半ダース欲しい』と」
「で、これは?」
「粉末コーヒーが六パックあるはずだけど」
「なんでコーヒーばっかり六つも持ってきたんだ?」
「タバコがあったから」
テクラはにこやかに答えた。インスタントコーヒーと紙タバコはどちらも人気の嗜好品だ。大崩壊前に作られたものが人気だが、粗悪なコピー品も出回っている。新宿ではもっぱらヤクザへの賄賂として使われていた。
「はぁ……まあいい。おい、ガキはおいていけ」
「マッシュ。今からオザワと大事な話をしてくる。いつもみたいに、少し待っていてくれ」
「うん……」
マッシュは物静かな子供だった。テクラやDJの後をついて周り、めったに自分の意見を口にすることはない。この日も、言われるがままにテクラに連れられてきた。そして、言われた通りに、そばにある部屋の中で待つことにした。
「ったく……うちは託児所じゃねえんだぞ」
ヤクザの男がつぶやきながら、マッシュを入れた部屋のカギを閉めた。どういうわけか、外からのみカギがかけられるらしい。
黄ばんだ壁に覆われた部屋。見慣れた光景だった――というより、地下街の部屋はみんな同じようなものだ。だが、その日は違った。先に人がいた。
少女だ。年はマッシュと同じくらいだろう。長く艶やかな髪は、この世のものとは思えなかった。髪を清潔に、美しく保つのは至難の業だ。瑪瑙のような艶のある黒髪など、このときはじめて目にした。
そして、白い服を着ていた。レースの刺繍がついた、白いローブ。メシア教会の聖歌隊服だということは、後に知った。
その子は、壁際にもたれかかって目を閉じていた。あまりにも静かできれいだったので、人形かと思ったほどだ。だが、その首がゆっくりと左右に揺れているのは、彼女が生きていることを間違いなく表していた。
「えっと……」
同じ部屋の中に閉じ込められて、ただ立っているのも間抜けに思えた。マッシュはなんとか声をかけようとしたが、その少女は反応しなかった。
「こ、こんにちは?」
「……」
近くで声をかけたが、反応は変わらない。目を閉じて、決まったペースで首を揺らしている。
(変わった子だ)
そう結論づけて、マッシュは肩をすくめた。
と、その瞬間に、不意に目が合った。少女が閉じていた目を開いて、まっすぐにこちらを見ていた。
「わ……」
射すくめられたように、マッシュは動けなくなった。目の前にいるのが同じ人間だとは信じられなかった。
一方、少女のほうも驚いたようだった。大きな目をますます大きく見開いて、マッシュの顔を見ていた。
マッシュが何か言おうとしているうちに、少女は白い手のひらを掲げてそれを制止した。
「まって」
そして、彼女が手を長い髪の中に差し入れて、耳からケーブルを引き抜いた……少なくとも、そう見えた。
「音楽を聴いてたから」
「音楽?」
きょとんとしていると、少女は耳から外したばかりのそれを示した。よく見ると、マッシュが見知ったケーブルとは違っていた……イヤホンだ。
「耳につけるの。ほら」
そう言って、少女は髪をかき上げてみせた。もう一方の耳には、確かにそのイヤホンが着けられていた。
「う、うん」
隠されていた耳を見ただけで、なぜかドギマギしていた。それを隠すように、マッシュは『もちろん知っている』という仕草で、彼女がしているのと同じように、イヤホンを耳につけた。
明日の今頃には
あなたはどこにいるんだろう
誰を想っているんだろう
女の声だった。突然、目の前が開けた気がした。
今までに考えたことがない何かがそこにあった。渇望と飛躍。調和と連続性。暗い地下街で暮らしていたマッシュには、明日のことを考えたことさえなかった。
マッシュの脳裏に音楽が刻み込まれた時、少女はただその表情を眺めていた。
「これ……は……なに?」
「ウタダ」
「うた……」
歌を聞いたことがないわけではない。だが、ディスコから出てきた連中が騒いでいる時の調子が外れた声とは、何かが違う気がした。誰かが自分を表現するための歌。そんなことが許されるのかと思った。
衝撃に身を震わせて、マッシュはただイヤホンから流れる音を聞いていた。2~3曲の間だったろう。その間、少年と少女はイヤホンを片方ずつ共有して、ただ静かに向きあっていた。
それから、ドアがノックされた。ドアを開けたのはアクター神父だった。
「おや。君はキノコの……」
マッシュがたちの悪い寄生キノコに感染したのは八歳の時だ。その頃はまだ信任だったアクター神父のいるメシア教会にテクラが運び込み、治療して貰って以来、知らない仲ではない。
「ソプラノ七番、シブヤへ出発する時間です」
「はい」
むすっとしているマッシュには構わず、神父が少女を呼んだ。その番号が彼女の名前らしい。
ふと、少女がイヤホンを外した。そして、懐にしまってあった機械を差し出した。
「それ、あなたにあげる」
銀色の四角い機械。MDプレイヤーという名前なのは、後で知った。
「いいのですか?」
「私よりも彼に必要みたいだから。それに、施しはよいことだと教えられました」
驚いているマッシュを尻目に、少女は胸の前で印を切り、さらりと長い髪を揺らした。
「神のご加護のあらんことを」
マッシュは返事を返すこともできなかったまま、手元に残った機械を見つめていた。イヤホンから聞こえてくる音楽に夢中になった。MDのなかに入っていたのは十二曲だけだったが、地下の世界しか知らないマッシュにとって、それは時間も空間も超えて知る、はじめての『外』だった。
「マッシュ」
声をかけられたのは、どれぐらい経ってからだろうか。音楽にのめり込んで、座ることも忘れていた。
入り口からテクラに呼びかけられて、はじめて我に返った。見慣れた部屋の中は、今まで以上に狭く感じた。
「それ、もらったのか」
うまく答えられなかった。自分でも、美しい少女と音楽のことはまるで夢の仲のことのように感じられた。
「懐かしいな。ウォークマンなんて。俺も昔は自分の好きな曲を集めて専用のディスクを作ったりしたよ」
新宿地下街の長い通路を歩きながら、テクラの昔話を聞いていた。それから、テクラの居室に戻った。今ではマッシュが独りで使っている部屋だが、当時は四人で住んでいた。テクラとマッシュ、DJ、そしてミクミク。
「おかえり」
「ただいま」
出迎えたのはミクミクだった。十二歳のミクミクは小柄で痩せぎすな子供だった。紫の瞳だけは、いつもらんらんと輝いていた。
「マッシュ、おかえり」
テクラだけが返事をしたことが不満だったのだろう。ミクミクはわざわざ近づいてまで声をかけてきた。
「うん……」
音楽の衝撃さめやらぬマッシュは、あまり返事をする気になれなかった。部屋の隅に座り込み、イヤホンをつけて音楽に没頭した。すっかり心を奪われていた。
「DJ、マッシュがムシする」
「新しいオモチャに夢中なんだろ」
DJは黙々と本に向きあっていた。少なくともこの頃、DJは好んで本を読んでいた。テクラが持っていた、すり切れた技術書ではない。架空の世界のことを描いた本だった。マッシュは漢字になれていなかったから、そこになにが書いてあるのかはよく分かたなかった。
「DJ、お使い頼んでいいか?」
テクラが錠剤をいくつかより分けながら聞く。彼のどこが悪いのか、マッシュは知らない。だが、一日にあまり多く運動はできないらしかった。今日はオザワのいるところまで往復したから、もう部屋からは出られないだろう。
「ん。なんだ?」
「サーバーの解析をしてきてくれ。特に、品川のターミナル……天使どもの活動がどうも怪しい」
「何かしようとしてる?」
「大聖堂の再建よりも活発だ。何か作っているらしいが……」
「東京を建て直そうとしてるんじゃないか?」
「そう単純なことならいいんだけどな。パワーバランスを崩しかねないものを感じる。情報を集めておきたい」
「わかった」
本を懐に入れて、DJが部屋を出ていった。
マッシュは部屋の隅でただ音楽を聴いていた。
その日は一見、今までの日となにも変わらない日だったように思えた。だが、同じような日が二度と来ることはなかった。
少年がはじめて出会った音楽に夢中になっている間に、それは起きていた。
「パパ、何かあったの?」
ベッドに座ったテクラの膝にもたれて、ミクミクが聞いた。テクラが引き取った子供は、みんな身寄りがなかった。特にミクミクは、悪魔の子として恐れられていた。孤立する彼女を引き取り、育てた彼に少女はよくなついていた。
「オザワが心配してるよ。仕事を任せられるやつがいないってね」
「任せるって?」
「彼はもう年だ。それに、長く独りで居すぎた。今から他人を信用するのは難しいだろうな……」
伸ばしっぱなしの髪を掻いて、テクラは嘆息した。
「でも、いつか何かが変わる時が来る。準備が整っていなくても、いつかは何かが起きてしまう」
遠い目をするテクラが、ミクミクには妙に不安そうに思えたようだ。紫の瞳が、父代わりの男の顔を見つめていた。
「パパも?」
「俺は少しは準備してるつもりだよ。DJやマッシュも、やり方を覚えてくれてる。あと五年もすれば、二人とも立派な技術者だ」
「あたしは?」
テクラはミクミクには技術を教えていなかった。プログラムもハードウェアも、彼女は知らない。テクラが伝えなかった理由は、今となってはわからない……単に、悪魔の子として忌み嫌われていた彼女を不憫に思ってのことかもしれない。
「ミクミクは……」
テクラは返答に窮した。それを聞いたミクミクは、急に不安になった。自分に役割がないことに思い至ったのだ。
「あたしは……」
その時、少女の内側で魔力が湧き上がった。テクラが感じた不安が伝染して、何倍にも膨れ上がった。不意の寂しさが身を焦がし、抑えきれない衝動となってあふれ出した。
ミクミクが夢魔の血を継いでたから、夢魔の魔力がテクラの精神を揺さぶったのかもしれない。――だが、夢魔の血を継いでいなかったら、この場に彼女はいなかった。
テクラが未来に不安を感じたから、未熟な魔法にかけられたのかもしれない。――だが、不安を感じないようなら、彼が子供を育てることもなかった。
「イヤっ!」
マッシュが音楽の魔法から冷めたのは、ミクミクの悲痛な叫びを聞いたときだった。
何が起きているのか、すぐにはわからなかった。ミクミクの細い――だが、もう小さいとはいえない体を、テクラがベッドに押し倒していた。
テクラは甲高い声で何かを叫んでいた。それはきっと、ミクミクの問いに対する答えだったのだろう……だが、聞き取れなくてよかった。それはテクラが理性で押しとどめていた、恐ろしい言葉に違いなかったから。
「助けて、マッシュ!」
反射的に飛び上がって、テクラの体をひっつかんだ。ミクミクが足で押し、マッシュが引っ張る。二人がかりの力で、ようやく引き剥がした。
「邪魔するなよ」
テクラは下半身から服を脱ぎ去っていた。幼いマッシュには、膨張したシルエットが異様に恐ろしく感じれた。
「俺のおかげで生きてるんだ」
テクラは拳を振り上げてマッシュを打ち据えた。理性のタガが外れ、正気を失っているのは明らかだった。
「俺がいなけりゃ、お前らなんか悪魔に食われてたんだぞ!」
マッシュを殴りつけながらテクラは叫んだ。
(本気じゃないはずだ)とマッシュは思った。(何かヘンだ。まともな状態じゃない)
パニックを起こしたテクラの言葉がどれほど彼にとって本気だったのかはわからない。弱いものに手を差し伸べたに違いない。だが、弱い子供が大人になっていくことを受け入れがたいのも、また本音だったのかも知れない。
「やめて……」
信頼する師に幾度も叩かれて、まぶたを腫らしながらマッシュは訴えた。だが、テクラは殴ることを止めなかった。
「マッシュ!」
ベッドの上で震えているミクミクの姿が見えた。その時、耳に流れていたフレーズが聞こえてきた。
自分で動き出さなきゃ名にも怒らない夜に何かを叫んで自分を壊せ!
マッシュが音楽にのめり込んでいなければ、それが起きる前に止められたかもしれない。――だが、音楽を聴いていなかったら、彼が反抗することもなかった。
「うわあああああああっ」
夢中で声を上げて、テクラに全身でぶつかった。テクラが病で体力を失っていたこともあり、数歩押しのける程度のことはできた。
だが、それで大人を止められるはずがない。体格の差はどうしようもなかった。
「こいつ……」
テクラの目が怒りで赤く光ったように思えた。正気を失った彼が、さらに激しい怒りをむき出しにして壁に向かった。そして、そこにかけられていた
黒光りする銃。ソードオフされたイサカM37……散弾銃だ。
新宿地下街において、武器の携行が許されているのは警官だけだ。なかでも、銃の装備は一等警官の特権だ。そうして、オザワと私設警察は自分たちの権力を保持しているわけだ。
だが、テクラは新宿の主任技術者として、特別待遇を受けていた。
人を殺すための道具を向けられたマッシュは、恐怖で身がすくみ、その場に崩れ落ちた。
「そうだ、それでいい。誰が強いのか、わかるだろ」
マッシュが抵抗の意思を失ったのを見て、テクラは銃を下ろした。だが、正気に戻った訳ではなかった。
銃をベッドサイドに置き、再びミクミクの手首をつかんだ。
「お前たちは俺の言うことを聞いてればいい」
まるで優しく諭すような口ぶりだった。子供たちを自分の支配下に置く気持ちが、正気ではないにせよ彼の奥底にあったことの証明なのかもしれない。
「イヤっ、あたし、そんなつもりじゃ……」
「どうせいつかは誰かがするんだ」
自分を説得しようとしているようでもあった。魔力に翻弄された心が、保たれていた理性を食い破ろうとしている。
ミクミクがいくら抵抗しても、力でかなうはずがない。マッシュは奮い立てようとした勇気をくじかれ、うずくまっていた。
DJが部屋に戻ってきたのはその時だった。少年がその光景を見て何を思ったのか……泣き叫ぶミクミクと顔を腫らして鼻血を垂らすマッシュを見たDJは、すぐに動いた。
ベッドサイドに置かれた散弾銃を素早くつかみ、少女に覆い被さろうとしているテクラの背中に砲身を向けた。
ガン、と鳴った銃声は一度きりだった。それがすべてを決定的に変えてしまった。
▷▷
「来てくれたか」
新宿の震央。無数の光点が明滅するサーバー室。痩せた男が頷いた。
「DJ……」
階段を降りきって、地下の薄明かりのなかに姿を表すミクミクは、わずかな時間で血の気を失っているように見えた。
「ずっと聞きたかった。あのとき、どうして……撃ったの?」
「お前を守るためだ」
DJはいくつも並べたモニターに向きあっていた。地下街に点在している監視カメラの映像が映し出されている。西口と東口は、どちらも戦線が維持されているようだ。外部からの悪魔はまだ突破できていないらしい。
「DJなら、テクラを押さえつけて止めることもできたかも……」
十二歳だったマッシュならともかく、DJは十四歳だった。体格は大人になりきっていなかったとはいえ、テクラにも疾患があった。体力で敵わないわけではなかったはずだ。
「確実な方法をとったんだ」
DJの視線はモニターを見据えている。魔獣ケルベロスの姿はない。カメラに映っていない場所にいるのだあろう。
「テクラが邪魔になったんじゃないの?」
DJはモニターに目を向けたまま返事をしなかった。
「テクラさえいなくなれば、新宿でいちばんの技術者は自分だから……」
「あんなことをしなくても、いずれはこうなってた」
モニターから目を離し、男は自分の腕に着けたデバイスをなでるように操作した。
「だから、いままでできなかったことをこうやってやり直してる。見ろ、俺は新宿一の悪魔使いだ」
複雑なプログラムが実行され、立体投影されたビジョンが幾何学的な模様を描き出していく。マグネタイトがざわざわと形をとっていく……
「ケルベロスはあとでなんとかするとして、まずはこの場所の安全を確保する……ミクミク、こっちに来い」
有無を言わさぬ口調。遠い日の恐怖に身をすくませていたミクミクは思わずその声に従った。
すぐに、サーバー室につながる階段が騒がしくなった。
「ここか!」
「機械いじりしか能がないくせに、調子に乗りやがって!」
幾人かの男たちが駆け込んできた。私設警察の制服を着ている……壊滅同然の私設警察の生き残りだろう。悪魔が暴れている原因を探して、たまたまここにたどり着いたのかもしれない。
「こういう連中が入ってくるからな。ここを守れ、邪龍コカトライス」
集積したマグネタイトが悪魔の姿をとる。鳥のような頭と大きな翼、蛇の尾を持つ化け物が、甲高い叫びとともに姿を表した。見上げるほどの大きさだ。
「なんだ、見たことない悪魔だ……!」
「ひるむな、やれっ!」
警官たちはアタックナイフやスパイクロッドを手に、果敢にも突撃する。ここさえ押さえれば制圧できると考えているのだろう。
だが、悪魔の体表を覆う羽毛は、生半可な刃を通さない。攻撃の意思をみせた人間たちを翼で打ち付け、かぎ爪が人体をあっさりと引き裂いた。
「ひぃい……!」
最後の警官が背中を向けて駆けだしていく。その背中を、コカトライスのくちばしがついばみ、背中の肉をえぐり取った。
「誰かに伝えないと……」
傷の痛みに耐えながら、警官が走る。だが、そのうごきが徐々に緩慢になっていく……出口にたどり着く前に、そのうごきは完全に止まった。男の体が石に変わっていた。
「そんな……」
あっという間に警官隊を全滅させた悪魔を見て、ミクミクは口を塞いだ。声を上げれば、今度は自分が襲われるかもしれないと思ったのだ。
「石化の毒だ。よし、ちゃんと俺の言うことを聞くみたいだな」
コカトライスはサーバー室の入り口を見張るようにどっしりと立っている。
「俺に従ってる限りは、安全だ。一緒にいてくれ、ミクミク」
命令と懇願がないまぜになった言葉。
(それって脅迫だ)
ミクミクは目を伏せた。
(でも、悪魔のいる世界で生きてくってことは、脅迫するか脅迫に従うしかない……)
「どうするの、これから?」
「メシア教会とガイア教団が弱るのを待つ。壊滅する直前に救いの手を差し伸べて、俺に従うことを約束させるんだ」
「人がたくさん死ぬんだね」
「今までもそうだった」
DJの決意は固い……この五年、このときのことを考えて生きてきたのだろう。その選択をいまさら曲げさせることは不可能に思えた。
(説得はできない。でも、もし私が力を使ってDJを眠らせたら、きっとコカトライスに襲われる……)
止めようがない。
(マッシュ、どうしよう)
▷▷
「では、参ろうか」
「なにも、ジンカイ和尚が出なくても……」
「いや、強力な悪魔が徘徊していると聞く。弟子たちでは歯が立たないだろう」
数珠を手にした闇法師と並んで、マッシュは悪魔が広がらんとしている通路を見据えた。
(DJを止める……そのためには、邪教の館に行かないと)
邪教の館は地下街の北西部だ。ガイア神殿からは遠くない。さっそく、歩き出そうとしたとき……
《アオーーーン》
ビリビリと壁を震わせる咆哮が響く。進む先の廊下から、のそりと巨体が進み出てくる。
「魔獣ケルベロス……」
行く手を阻むように、赤い瞳がマッシュをにらみつけていた。