真・女神転生▷《プレイ》世界が終わるまでは… 作:五十貝ボタン
2-01_カブトムシ
「チュンチュン」
鳥のさえずりらしきものが聞こえる。
202X年の東京には、もう野生の鳥は生き残っていない……妖鳥や凶鳥と呼ばれる悪魔たちに取って代わられたのだ。
だから、これは鳥のさえずりではない。そんなことはわかり切っている。
「よ、よく寝たなあ。……もう朝か」
マッシュはベッドから体を起こした。こんなに上等な寝具を使ったことは今までにない。
「そうだ。お……音楽でも聞くか」
自分でもわかるぐらいにうわずった声。ベッドの脇に置いてあったアームターミナルを腕に着けた。セットされている
鼻先をくすぐる春
リンと立つのは空の青い夏
袖を風が過ぎるは秋中
そう 気がつけば真横を通る冬
「んっ……マッシュ?」
ベッドの上から声をかけられた。ゆっくりと体を起こすのは、黒と金、
「悪い、起こしちゃったか?」
「ううん。それより、朝ご飯、どうしよう?」
「ええ……と、そうだな。缶詰めでも開けて……」
言葉に詰まったマッシュが目を泳がせる。
なぜプリンと同じベッドに寝ていたのか。
そういう設定で演じてくれと言われても、セリフが出てくるわけがない。
「ぜんぜんダメ」
囁くようなウィスパーボイス。だが、その静かな声音の中には、明らかな怒りが含まれていた。
「こういうとき、大人は一緒にコーヒーを飲むんでしょ」
「そんなこと言われても、俺たちはコーヒーなんて滅多に飲めないんだ」
「私、苦いコーヒーは苦手です」
どこからか聞こえてきた声に、マッシュとプリンが続けて反論する……と。
「今はそういう
光のない、暗い瞳が二人を覗き込んでいた。その瞳でさえ、
血が通っていないのかと思うほどの白い肌。金糸のような輝く髪。人形のように整った顔立ち……愛らしいと思うべきなのかもしれないが、
「でもさ、アリス……」
「友達の言うことが聞けないの?」
自分の十倍以上も大きい相手から睨まれると、さすがに身がすくむ。
「もう一回。やり直して。あと音楽ももっと明るい曲にしてね」
パンパン、と手を叩く音さえ、花火が打ち鳴らされているかのように感じる。
「だいじょうぶ、満足すれば解放されるはずだから……」
傍らのプリンに目を向ける。彼女は諦めたように頷き、そっと肩を撫でて慰めてくれた。
(六本木なんかに来なければよかった)
◁◁
マッシュ、プリン、ミクミクの三人は、新宿を出たあと、まずは渋谷に向かった。
途中、遭遇する悪魔を仲魔に加えて旅は順調に進んでいた。
渋谷センター街で聞き込みを行ったところ、目的地である東京タワーへの道のりは六本木からの地下道が通るのがいいだろうという結論に達した。
「六本木から帰って来たやつはいないんだ。よほど楽しいところなんだろう」
……という、不穏な情報もないではなかったが、とにかく行ってみるしかない。
「この街は赤伯爵の結界に守られていて安全だぜ。悪魔も入って来られないんだ」
「だから私たち、ずっと遊んでいていいのよ!」
バーにたむろする男女はそんな風に語っていた。
「悪魔のいない街……か」
「前の新宿と同じだ。なんだか、イヤな感じがする」
パーカーのポケットに両手を突っ込んで、ミクミクは落ち着かない様子で当たりを見回した。
「ここにいる人たち、生気がないっていうか、盛り上がってるフリしてるだけっていうか……」
ミクミクは元・新宿のディスコのウェイトレスだ。夜ごと盛り上がる場所の経験は豊富である。
「たしかに、不自然な印象です」
プリンも同調する。メシア教の聖女として教育を受けた彼女にも、感じるものがあるらしい。
「俺たちはここを通って地下道を通りたいだけだ。そうすれば、銀座まで行くことができる」
アームターミナルにダウンロードされている
「問題は、赤伯爵とやらが張った結界がある限り、地下道が使えないってことだ」
「じゃあ、どうするの?」
「頼んでみるしかないでしょうね」
プリンがおっくうそうに肩を落とした。
「プリンは品川から渋谷に来たんだろ? その時はどうしたんだ?」
「霊鳥の力を借りて川を渡りました。ですから、この街には来ていません」
「俺たちもメシア教会の力を借りられればいいけど……」
「新宿の事件と、渋谷のメシアのことで手一杯みたい」
新宿メシア教会は指導者だったアクター神父を失って、急速に縮小している。渋谷から援護の人員が送られる……はずだが、渋谷は渋谷で教会にとっての大事件が起きているらしい。
とにかく、いかにプリンが教会にとってのVIPだからといって、教会の支援は期待できないということだ。
「町ごと結界で覆えるような力の持ち主だ。交渉できるかどうかはわからないけど、会えるものなら会ってみよう」
はたして六本木ビルの上層、この街の支配者である赤伯爵のいるフロアまでやってきた、のだが……
「赤伯爵様は、ただいま私の主人と面会をしています」
すらりとした美女が頭を下げる。超然とした雰囲気で、気品を感じさせる。ハッとするほどの美貌を持ちながら、これといった特徴が感じられない顔だ。視界から離れたら、次の瞬間にはどんな顔だったか忘れてしまいそうだ。
彼女の傍らには、なぜかラクダが立っていた。
「どれぐらいかかるんですか?」
「さて……お二人とも、ふつうの感性とはかなり違った方ですからなんとも」
遠い目をして、美女はため息をついた。
「赤伯爵には会えないらしい」
ラクダの様子をうかがっている少女達に言いながら、少し身をひいた。
「どうしよう?」
「待つしかないような……」
「困ってるの?」
不意に、聞き覚えのない声が混じった。
「うわっ!?」
いつの間にか、三人の輪の中に別の姿が混じっていた。
「びっくりした?」
少女だ。ミクミクやプリンよりもさらに幼い。未発達な、心配になるほど細い肩をくすくすとふるわせて笑っている。
白粉を塗り付けたかのように真っ白な肌。金色の髪。ドレスのような青い服を着ている。東京ではおよそ見かけることがないような姿だ。
「こ、こんにちは。あなたは……」
「私、アリス。ねえねえ、お兄ちゃんたち、どこから来たの?」
「新宿から……」
あまりにも幼い姿に驚かされて、正直に返事をする。
「新宿って、最近人がたくさん死んだんでしょ? お兄ちゃんたちはまだ死んでないの?」
「死んだって……」
無邪気な表情と声色から、当然のように言われてあっけにとられてしまう。
「亡くなった人のためにたくさん祈りました。私たちは、銀座に行きたいの」
「ふーん……じゃあ、通してもらえるように赤おじさんにお願いしにきたんでしょ?」
言い含めるようなプリンの言葉をさらりとかわして、アリスは通路の先をちらりと見た。赤伯爵の部屋の扉の前にいる美女は、微動だにせず直立し続けている。
「私が手伝ってあげようか?」
「手伝うって言っても……」
「私が言うことなら、赤おじさんはなーんでも聞いてくれるんだよ」
「ほんとう?」
「もちろん。この街だって、アリスのために赤おじさんと黒おじさんが作ってくれたのよ」
突拍子もない言いぶりだが、アリスは自信満々だ。少なくとも彼女にとっては、それが本当のことだと思っているのだろう。
「アリスと友達になりたいでしょ?」
三人は顔を見合わせた。子どもの遊びに付き合うのもシャクだが、今は他に手がかりがない。
(どうせ面会とやらが終わるまで何もできないんだ。もしかしたら本当に赤伯爵がこの子の言うことを聞いてくれるかもしれない)
プリンとミクミクも、おおむね同じような結論に達したようだ。
「プレゼントが欲しいな」
アリスはにっこり笑っている。自信満々……どころか、傲岸不遜と言ってもいいほどの笑顔だ。世界が自分を中心に回っていると信じて疑わない姿だ。
「プレゼントって、マッカのことか?」
「マッカなんて、ぜんぜんつまんない! 女の子へのプレゼントにお金を渡すなんて、何にもわかってないんだから」
「たしかに、そうですね」
「マッシュ、もっと気づかいを学んだ方がいいよ」
「なんで俺が批難されてるんだ……」
すっかり女性陣から共通の敵にされてしまっている。
「いいのがあるよ」
そう言って、ミクミクがウエストバッグをごそごそとやってから、何かを取りだした。
丸い、卵形のおもちゃだ。ボタンが三つついている。てっぺんについているボールチェーンをミクミクが握って、ぶら下げたそれをアリスの胸元にさしだした。
「なに、これ?」
「大破壊前のおもちゃだって。もう電源は入らないみたいなんだけど。丸くてかわいいでしょ」
「うん! 安っぽいけど、それが逆にかわいいかも」
アリスはそれなりに気に入ってくれたようだ。人からものをもらうのが好きなのだろう。
「そんなもの、どこで手に入れたんだ?」
「渋谷のジャンク屋で、ちょっとね」
「買ったのか?」
「いやー……あはは」
「盗んだんですか?」
信じられない、という顔でプリンが口元を押さえる。
「ちがう、ちがうって! ジャンク屋の床に落ちてたの。落ちてるものは売り物じゃないでしょ」
「何かの拍子に落っこちたんじゃないか?」
「だとしても、大事な商品ならすぐに戻すはずでしょ。だったら、なくなっても気づかないくらいどうでもいいものだったんだよ」
「そういう時は、店主に声をかけて売り物かどうか確かめるのが決まりでは?」
「どこにもそんなこと書いてなかったよ。あたしだって、書いてあったらそうしたけど」
「だからって……!」
「あはっ、おもしろい!」
プリンとミクミクが言い争う姿を見て、アリスが大きな声で笑い出した。
廊下に寝そべるラクダがぼんやりと眠たげな目でそれを見ている。
「お姉ちゃんは、ガイア教徒ね?」
ミクミクのおもちゃを受け取りながら、アリスが微笑む。
「こっちの白いお姉ちゃんは、メシア教徒」
「ええ……」
「ガイアとメシアが一緒に旅をしてるなんてふしぎ! すぐ敵同士になっちゃうのに」
「滅多なことを言わないでくれ」
「プレゼントは大したことないけど、おもしろいから気に入ったわ。ねえ、私の部屋に来て」
白い
「お茶会に招待するわ」
▷▷
「これは……すごいな」
六本木ビルの一角。アリスが案内してくれた部屋は、感じたことのない空気に包まれていた。
細やかな模様の描かれた壁紙。金糸のふちどりがされたカーテン。輝きそうなほどに白いテーブルと椅子。ベッドシーツにはレースの刺繍が入っている。少女の全身を映すことができる姿見なんて、この東京にどれほど現存しているのだろうか。
そのうえ、そのどれもがまるで生者との関わりを絶っているかのように清潔だ。
「これって、ドールハウスですか? 初めて見ました」
プリンが興味をひかれたのは、一角の壁に飾られた豪華なミニチュアだ。二階建ての屋敷の一面の壁を取り除いたような姿をしている。その中には細かな家具が整然と置かれ、文明が破壊されるはるか以前の暮らしを再現しているのが見て取れる。
「そう。私のお気に入りなのよ」
「でも、家だけ? こういうのって人形を使って遊ぶんじゃないの?」
「いいの。私には私の遊び方があるから」
アリスはツンと背を向けてから、ワゴンに乗せたティーセットを運んできた。
「それより、お茶を飲みましょう」
アリスがティーカップを並べ始めた。ミクミクが「手伝おうか」と言ったが、「お客さんにさせるわけにはいかない」と断られた。
(一種のごっこ遊びだろうか)
マッシュは居心地悪く、ただ座っていた。こんなことをしていて赤伯爵に会えるのかどうか、さっぱりわからない。
「ケーキもありましてよ」
大人ぶった仕草で、一口サイズに切り分けたパウンドケーキを皿に乗せる。
「ずいぶん用意がいいんだな」
「いつお客さんが来てもいいように、いつも準備しているの」
楽しそうに少女が笑う。どうやら彼女はこの状況を心の底から楽しんでいるらしい。
「ケーキ!」
プリンが両手を組み合わせ、「主への感謝」を伝える祈りの仕草をとった。
「何か書いてあるけど……なんだろ」
「『
「本人に言われたら、食べるしかないな」
おのおのがケーキを取った。マッシュは手づかみで。ミクミクはフォークに刺し、プリンはふたつに切り分けてから口元へ運んだ。
「いただきまーす!」
アリスはにこにこ笑いながらその姿を見ていた。
「今日はとっても素敵な日だわ。ねえ、もっと遊びましょう」
「ああ……赤伯爵の用事はまだ終わらないのかな?」
「マッシュ、いま言うことじゃないよ」
ミクミクが咎めるが、マッシュにとってはいつまでこの少女の遊びとやらに付き合わなければならないのかと気が気でない。
「マッシュは少し気が短いのよ。アリス、お姉ちゃん達と遊びましょう」
プリンが笑みを返す。が、ふとアリスの表情から笑みが消えた。
「うーん、ちょっと違うかな」
そして、ゆっくりと言い含めるように続けた。
「アリス
「何を言って……っ?」
くらっと目の前が揺れた。急に視界が縮まっていく。テーブルの上を見ていたはずなのに、いつの間にかその裏側を見ている……見上げている。
「お茶会はもうおしまい」
はるか頭上から、アリスの声が聞こえてくる。
「お人形遊びをしましょう」
▷▷
「お兄ちゃんはこのお屋敷の旦那様。白いお姉ちゃんは奥様ね」
白い少女の右手がマッシュを、左手がプリンを掴んでいる。少女の胸の高さまで持ち上げられただけで、床がはるか遠くに見える。ぞっとするほどの高さだ。
「俺たちに何をした……」
頭がくらくらする。なんとか首を上にあげると、人形のように整ったアリスの顔が見えた。ただし、その顔だけでマッシュよりも大きい。
「体が小さくなるケーキを食べさせたの」
悪戯が成功したときのように、アリスは楽しそうに笑っている。
「12分の1よ。このお屋敷と同じ大きさ」
マッシュとプリンは、並べてドールハウスの2階に置かれた。
「こっちのお姉ちゃんはお屋敷のメイドさん。うふ、よく見ると目が紫で綺麗ね」
「あ、アリス。これって元に戻るんだよね」
間近で見つめられて、ミクミクの身が恐怖にすくむ。
「遊び終わったら戻してあげる。でも、つまんなかったら……」
アリスの指がミクミクの首を摘まんだ。そのまま捻れば、ちぎり取ることもできそうだ。
「じょ……冗談だよね」
「うふふふ……」
アリスの瞳が、妖しく光った。
「悪魔だ……」
その時、ようやくマッシュは思い至った。少女の正体に。
「悪魔なら、そのコンピューターでわかるハズなんじゃ?」
「高位の悪魔が正体を隠してたら、そう簡単に解析できない。まずい、これだけ人間に化けられるってことは、相当強い悪魔のはずだ。油断した……近づくべきじゃなかった」
後悔している場合ではない。こうなったら、生き残ることを考えなければ。
(俺が契約してる悪魔じゃ、勝てないだろう。召喚したら、怒りを買うかもしれない)
この状態で出てくる悪魔もミニチュアサイズなのか興味はあるが、試す気にはなれなかった。
「わかった、アリス! 俺たちはどうすればいい?」
「今のお兄ちゃんたちはアリスのお人形よ。うーん、じゃあまずは、朝のお目覚めからにしましょう」
アリスはドールハウスの1階にミクミクを立たせると、2階にある寝室にマッシュとミクミクを運んだ。
「ほら、ベッドに入って」
(これのどこが「お人形遊び」なんだ)
心の中でぼやきながらも、逆らうわけには行かない。今や、マッシュの体は12分の1まで縮んでいるのだ。アリスの細腕にも敵うわけがない。散弾銃も、このサイズではとうてい通用しないだろう。
「どうしましょうか……」
無理やり押し込まれたベッドの上で、プリンが不安げにつぶやく。
「悪魔が言ったとおりに、満足させて元の大きさに戻してもらうしかない」
ベッドに潜り込みながら、密かに囁きあう。プリンの体温を感じた。失うわけにはいかないと思った。
「朝になって鳥が鳴いたらはじめてね」
この場を支配する暴君となった少女が、楽しそうに笑っていた。
▷▷
「それじゃあ、朝ご飯のためにメイドさんを呼びましょ」
ドールハウスのなかを覗き込む瞳を輝かせながら、アリスは1階にいたミクミクを掴んだ。
「ぎゃっ……」
夫婦の寝室の扉の前に、そのままミクミクを立たせる。力の差は歴然だ。
「お邪魔しまーす」
「失礼します、でしょ」
「し、しつれいします」
細かい演技指導にも、笑顔で応じるしかない。
「ええと……ごはんができてます」
ミクミクなりに、メイドらしく振る舞おうとしているのだろう。もちろん、メイドなんて見たこともない。
「ありがとう」
「す、すぐに行くわ」
マッシュにしてもプリンにしても、よくわからないままそれらしく演じるしかない。
「うーん、ぎこちないなあ……」
暴君の気に召さないらしい。アリスはしばらく考えてから、不意にぽんと手を打った。
「そうだ。実は夫婦の仲は冷え切っていて、もう二人の間に愛はないんだわ」
そうして、今度はプリンの体を掴む。
「あ、アリス。もっと幸せな家庭のほうが……」
「こっちのほうが面白いわ」
子どもらしい不機嫌さでプリンを睨み、アリスがぐい、と胸の辺りに力を込める。
「うっ……」
呼吸が塞がれる。体が小さくなっている今、息をするのさえ少女の気分次第だ。
「『先にダイニングに行っているわね、あなた』」
アリスが声色を変えてプリンを1階に動かす。今度は、部屋のなかにマッシュとミクミクが残された。
「そして、実は旦那様とメイドは禁断の恋をしているの」
「えぇ!? そんなこと言われても……」
もはや文句を聞くつもりさえないらしい。アリスは寝室にいるマッシュとミクミクの背を指で押した。
「奥様の目を盗んでは、熱い抱擁やキスをするのよ」
「お、おい……」
年端もいかない少女の指で無理やりに押され、二人の体が密着する。人形遊びそのままの扱いだ。
「い、痛いよ」
「早く抱き合って」
「わかったから、押さないでくれ!」
背中を無理やり押されると、今やマッチ棒よりも細い肋骨が折れてしまいそうだ。先に折れるのは、ミクミクの方だろう。
「ミクミク……」
(少しだけガマンしてくれ)
アイコンタクトを送り、体に手を回す。ミクミクはふだん、体型がわかりにくい服を着ているから、改めて体を触れあわせるとその細さに驚かされる。
「マッシュ……」
見つめられたミクミクのほうは、さっと顔を伏せて視線を逸らした。意図が伝わっているのかどうかはわからない。
二人はしばし抱き合ったまま動きを止めていた。精巧に作られたミニチュアの部屋の中は、今まで見てきた世界とはまるで別物だった。
暗くよどんだ新宿地下街とも、粉々の瓦礫が積み上がる東京ともまったく違う。清潔で美しく、調和の取れた世界。
(こんな場所で暮らせたら、どんなによかったか……)
よく知った少女の体温を感じると、いまの危機も忘れてしまいそうになる。
「それじゃあ、次はキスよ」
アリスは楽しそうにドールハウスの中をのぞき込みながら、口元を指で隠している。まるで純情可憐な少女のようだ。少なくとも、見た目は完全にそう見える。
「アリス、そういうことは無理強いしては……」
「いい子ぶらないで」
一転、プリンへ向ける目は氷でできているかのように冷え切っていた。
「やっぱり、メシア教徒ってキライ。捨てちゃおうかな……」
「ま、待て。わかった。こっちを見てくれ」
悪魔の気を逸らさなければならない。マッシュは声をあげて、腕の中のミクミクを抱き寄せる。
「マッシュ……あたしは、いいから」
ぎゅっと体をあずけながら、ミクミクが小さく囁いた。
「いいって……でも」
「いまさら、やらないわけにはいかないでしょ。ほら……」
ミクミクがつま先立ちになる。二人の身長差は18センチ。今は1.5センチだ。
「うふふ。身分違いの恋ね……」
アリスは夢中になってその姿を見つめている。
(子どものくせに、マセすぎだ……)
だが、機嫌を損ねれば三人とも殺されてしまう。
(でも、ミクミクは……)
幼い頃から共に過ごした相手だ。妹のようなものだ。そんな相手と、ましてや少女のご機嫌取りをするためにキスなんて、妹分の貞操を軽く扱いすぎだ……そんな葛藤で、マッシュが動きを止める。
「どうしたの? 早くして」
コクハクな声が頭上から降ってくる。このままでは、アリスが機嫌を損ねてしまう……
(こんなこと、いいのか……ええい、仕方ない!)
心の中で決断を下したとき……
「ごめん、マッシュ」
閉じていたミクミクの目が開き、紫の瞳が妖しく輝いた。かと思った瞬間、マッシュの全身が硬直した。
「……っ!?」
「まあ、大変! 旦那様はきっとご病気なんだわ!」
「まあ!」
アリスは口を押さえて驚いている。意外な展開と、ミクミクが見せた妖しい術を気に入ったらしい。
「それで、どうなるの?」
「あたしなんかじゃなくて、奥様の愛がこもったキスじゃないと治らないわ、きっと」
(なんだ、その気の使い方は……!)
ミクミクは、マッシュがキスするのをイヤがったのだと思ったらしい。プリンに惚れていると勝手に思い込んだのか。それで、兄貴分の思いを叶えてあげることにしたようだ。
「ちょ、ちょっと!」
「ほら奥様、早くいらして」
1階で抗議の声をあげるプリン。ミクミクは2階の床の端から下を覗き込んで手招きした。
「わ、私は、そういうことは……」
口元を隠して、プリンは首を振る。もちろん、メシア教の聖女にとって、異性との触れ合いは望ましい行いではない。
「そんなの、面白くないわ」
不意に、アリスが冷めた目でつぶやいた。
「真実の愛なんかで誰かが助かったりしないの。そうだ、こうしましょう」
アリスは再び、プリンの胴を掴んでドールハウスからひっぱり出した。
「きゃ……っ!」
今まで以上に乱暴な掴みかただ。そのまま、アリスは部屋の隅からカーテンで隠されたカゴを持ってくる。
「旦那様の病気は奥様がかけた呪いのせいだったの」
カーテンがかかったカゴと、プリンを並べてテーブルの上に置く。
「ど、どういうつもり?」
恐ろしげに声を震わせながら、プリンがアリスを見上げる。聖女の恐怖の表情を、悪魔はサディスティックに見下ろした。
「呪いをかけた奥様は、その代償として悪魔に体を差し出すことにしたの……」
陶酔したように、アリスが語る。そして、カゴにかけたカーテンを開いた。
《クルルルルル……》
カゴの中から、不気味な鳴き声とともにぬっと影が姿を現した。
「魔界の妖虫よ。黒おじさんが私のために捕まえてきてくれたの」
黒々とした甲羅に包まれた甲虫だ。だが、腹から下はナメクジのようにねばねばした軟体になっている。
「あら。お姉ちゃんのことを気に入ったみたいよ」
妖虫はプリンの姿を認めると、頭部のツノを突き出した。カブトムシのツノに似ているが、そのなかから赤黒い肉の突起が現れて、白く濁った粘液をぼたぼたと垂らした。
「やめて、こんなこと……」
胸元のロザリオを握りながら、プリンが懇願する。
「愛の力でなんとかしてみたら?」
プリンが逃げられるのはテーブルの端までが限界だ。小さくなった体では、床に飛び降りるだけでも致命傷に違いない。
「アリス、こっちで遊ぼう。あたし、なんでもするから……」
ミクミクも妖虫を止めようとするが、ドールハウスからでは魔力が届かない。できることは、支配者に助けを求めることだけだ。
(くそ……)
マッシュは金縛りのまま、身動きが取れない。ただ心中で毒づくだけだ。
(俺にもっと力があれば……)
無力感に苛まれていたとき……
コン、コン。
不意に扉がノックされた。
「アリス。閣下に挨拶をしなさい」
▷
「赤おじさん?」
「そうだ。入るぞ、アリス」
繊細な飾りが彫られた扉が開かれる。その向こうから、誰かが入ってきたらしい。
その存在感を感じてか、妖虫がぴたりと動きを止めた。
(赤伯爵か……?)
金縛りにあったマッシュに見えるのは、ドールハウスの天井だけだ。だが、部屋の中の空気が大きく変わるのを感じていた。
「こちらです」
赤伯爵に続いて、誰かが入ってくる……その姿はマッシュからは見えなかったが、アリスの表情が引き攣っていくのがわかる。
「ふむ……」
入ってきた『誰か』が、部屋の中を見回すのがわかった。低く、落ち着いた男の声だった。
「ここは東京の東西をつなぐ要所だ。だから、最も信頼できる部下に任せたわけだが……」
蕩々と男の声が語る。赤伯爵もアリスも、その誰かの表情を伺っていた。プリンも、ミクミクも身動きできなくなっている。
「ご……ごきげんよう、サイファー様……」
アリスはすでにこの場所の支配者ではなかった。かしこまりながら、深々と礼をする。万が一にでも機嫌を損ねてはならないと感じているのが目に見えるようだった。
「やあ、アリス。君のことは赤伯爵から聞いているよ。遊んでいるところを邪魔してしまったかな?」
「い、いえ……」
「さて、伯爵」
声の主の足音が、テーブルに近づいていく。
「結界を張って街を守るのはいい。人間もかなりの数が集まっているようだ。さすがの手腕だ」
「あ、ありがとうございます」
「だから、多少の『お楽しみ』には目をつぶるつもりだ。だが……」
テーブルの上には、プリンと妖虫がいるはずだ。声の主が注目を向けると……
《ピギッ!》
妖虫が断末魔の声をあげた。
(睨んだだけで殺したのか……?)
状況がわからない。だが、いかに低位の悪魔とはいえ、どれだけの力があればそんなことができるのか。
「伯爵、
男の声音が変わったわけではない。だが、異様なプレッシャーが部屋に満ちていくのがわかった。
「い、いや、その……」
「私は自由を何よりも重んじている。だから、君が人間どもから搾り取ったエネルギーを使ってしたいことが本当にこんなことなら、大いにやればいい」
「赤おじさん……」
アリスの声は震えていた。
「もう一度聞くぞ。伯爵、
「そ、それは……」
沈黙の時間はごくわずかだった。
「アリス、子供じみた遊びはほどほどにしなさい……」
明らかに、赤伯爵の言葉は本意ではなかった。それほど、もう一人の男を恐れているのだ。
「ご、ごめんなさい。がっかりしないで……」
「がっかりなどしていないよ、アリス。ただ、伯爵には知っていてほしかったんだ。私はいつでも君たちのことを気にかけているとね」
そして、男は部屋を出て行った。赤伯爵もそれに続く。
あとには、泣きじゃくるアリスが残されている。
「なにがどうなって……」
ようやく、金縛りが解けた。いや、すでに解けていたがプレッシャーで体を動かせなかったのかもしれない。
「あなたたちのせいだわ」
アリスはかんしゃくを起こした子どもそのままの姿で叫んだ。
「街から出て行って! もう顔も見たくない!」
▷▷
それからはすぐだった。三人が床に並べられ、アリスがコーラ瓶の中身を振りかけると、体の大きさはすっかり元に戻った。その液体はひどくすっぱいにおいがして、少なくともコーラではないことはたしかだった。
「生きてる人間なんて嫌い。次からは、友達にはまず死んでもらわなきゃ」
というのが、彼女にとっての反省の言らしい。
そのまま、六本木の住人に結界の外まで連れ出された。
「……六本木の地下道から銀座方面に行くのは……もう諦めたほうがいいだろうな」
「アリスに見つかったら今度こそ殺されるよ、絶対」
いま無事であることを信じられない、というように、ミクミクは自分の手を見つめていた。
「別の手段を探しましょう。きっと、他の道があるはず」
「そうだな。渋谷に戻ろう」
「今日のこと、一生忘れられなさそう」
「俺もだ」
空は夜だった。
どこへ辿り着くともしれない流れ星が一筋きらめいた。
第二部はオムニバス的に各地を巡る話になります。