真・女神転生▷《プレイ》世界が終わるまでは… 作:五十貝ボタン
(地上には壁がないって、本当だろうか?)
マッシュは生まれた時からの地下街育ちだ。彼の世界にはいつも壁があった。
黄色がかった灰色の壁。新宿地下街はどこでも同じコンクリートの壁で覆われている。
世界の形に疑問を持ち始めたのは、12歳の時だった。ある少女が、マッシュに手渡したものがあった。銀色の塗装がはげかかった四角い箱だった。その機器の名が「MDプレイヤー」だということは、後から知った。
その音楽は、マッシュが知らない『外』の世界を高らかに歌っていた。
太陽が燃えている ギラギラと燃えている
二人が愛し合うために 他に何もいらないだろう
地上には太陽が昇るらしい。日差しだとか晴れだとか曇りだとか、雨だとか雪だとか、マッシュは見たことがない。
いつまでも続くのか 吐き捨てて寝転んだ
俺もまた輝くだろう 今宵の月のように
夜になると、太陽の代わりに月が昇る……らしい。地下街には昼も夜もない。
この長い長い下り坂を君を自転車の後ろに乗せて
ブレーキいっぱい握りしめて ゆっくりゆっくり下ってく
下り坂も。自転車も。
すべて、地下街にはないものだった。
マッシュの心は音楽に奪われた。たった3枚のミニディスクを入れ替え、その中に入っている36曲を何度も聴いた。やがて少年の中で、「外」への想いは抑えきれないほどに膨らんでいた。
いまも、マッシュはMDプレイヤーにイヤホンをつなぎ、音楽に没頭していた。プレイヤーはリピート再生で、一曲目の女性ボーカルへと切り替わっていた。
輝きだした 僕達を誰が止めることなど出来るだろう
はばたきだした彼女達を誰に止める権利があったのだろう
「もしもーし」
とつぜん、イヤホンが取り去られて、別の女の声が耳へと飛び込んできた。
「うわぁっ!」
座っていたステンレスの椅子ごと崩れ落ちそうになって、マッシュは慌てて壁に手をついた。
「音量上げすぎ。長官に呼び出されたらどうするの?」
マッシュから奪ったイヤホンを手にしたまま、声の主はケラケラと笑った。
『木琴みたいな声だ』と、誰かが言っていた。だったら、木琴というのはきっと耳に心地よく、甲高くて、ひっきりなしに休みなく鳴り続けるのだろう。彼女はそんな声をしていた。
「ミクミク、どうやって入ってきたんだ」
もう片方のイヤホンを外して、マッシュは少女に向きなおった。
さらりとした黒髪を左右にまとめて、『お団子』にしている。マッシュが知っている『お団子』は髪型だけだ。昔は、別の意味があったらしい。
紫がかったおおきな瞳。つぎはぎだらけのパーカーに、ショートパンツと黒いタイツ。すり減った靴底のパンプス。
「すごいでしょ。修行したんだ」
少女――ミクミクは手の中のヘアピンをくるくると回して見せた。解錠術をガイア教が教えているという噂はマッシュも聞いていたが、まさか有料の技術を学びに行く知り合いがいるとは思っていなかった。
「最初はマッシュに見せたくて」
マッシュがあきれている間に、ミクミクはすらりとした体をひねって、マッシュの部屋の壁に寄りかかった。
「俺に見せるために俺の部屋の鍵をこじ開けたのか?」
「かわいい妹分のかわいいイタズラだと思ってよ」
「同い年だろ」
「精神的には妹なの!」
「はいはい。甘えん坊なところは変わらないな」
「そういうふうに言われたら反発したくなってきた!」
ミクミクもマッシュと同じように、新宿地下街の外に出たことがない。狭い世界で、数少ない心を許せる相手だ。お互いに、こんなふうに軽口をたたける相手は他にはいない。
「ミクミクは……外に出たいって思ったこと、あるか?」
ふと、少女から視線を外すと、壁に貼ってあるカレンダーが見えた。1999年の7月――はるか過去の日付が記されている。何の役にも立たないが、そこには海の写真がプリントされている。すっかり色落ちしているが、この写真を見るたび、マッシュは本物の海に思いをはせているのだった。
「外って、新宿の外? 地上ってこと?」
ミクミクは細い指を立てて、まっすぐに上を指さした。灰色の天井のさらに上には、彼らが見たことのない「地面」があるらしい。
「ああ。空とか、海とか、東京タワーとか……見たいと思ったこと、あるか?」
「地上には悪魔がいるんでしょ? あたしなんかがのこのこ出ていったら、すぐに食べられちゃうよ」
細い肩をすくめる。厚手のパーカーの裾が重たげに揺れた。
「でも、ここで暮らすのは不自由だ。何をするにもオザワや長官の顔色をうかがわなきゃいけない」
「それ、ほかの人にも言ってないよね?」
「言うわけない。ミクミクだけだよ」
「ふーん」
なぜかうれしそうに笑ってから、壁に貼られたポスターを眺めた。
「外の世界でも、同じでしょ。強い悪魔がいて、そいつらの気にくわなかったら殺されちゃう。それか、単に気まぐれで。それって、オザワが威張ってるのと同じでしょ。自由を味わえるのは、力があって強い方だけ」
彼女にしては珍しい、冷めた口調だった。取り繕いようもない。ミクミクだけでなく、新宿地下街に暮らすものは、みんながわかっている……いま彼らが生かされているのは、この街の支配者たちの気まぐれに過ぎないのだ。
「俺に力があれば……」
「あたしを連れ去ってくれる? 『眠れる森の美女』みたいに」
「それ、本当にそんな話なのか?」
「どうかな。聞いたのは、ずいぶん前だから……」
思い出そうとしているのか、ミクミクは額を指でぐりぐりやりながら、部屋の端にある作業台に目を向けた。そこには、配線が絡みつく機器がくみ上げられている。
「なに、これ? またジャンクを集めて何か作ったの?」
マッシュは、新宿地下街では貴重な技師だ。新宿には、かつての文明が残したゴミの山から掘り出してきたがらくた(ジャンク)が集まってくる。それらを組みあわせて機械を作るのはお手の物だ。
「アームターミナルだ」
「じゃあ、持ち運べるコンピュータ? OSを見つけたの?」
「見た目はボロボロだったけど、まだ生きてた。クリーニングしたら、動いてくれたよ」
「ね、マッシュ、着けてみて」
話を聞いているのかいないのか、少女はすっかり興奮した様子だ。こうなると、止めても仕方ない。やってみせる方が早い。
マッシュはターミナルを腕に着けて、ベルトで固定した。同じように、頭部にもインタフェース機器を着ける。コンピュータが処理している情報が、そこに表示されるのだ。
「すごいね。ぴったりじゃない?」
「当たり前だろ、俺が作ったんだから」
強引なミクミクにいくらかあきれながら、マッシュは首を振った。でも、一人でコツコツとくみ上げていた機械を最初に見せるのが、幼なじみと言ってもいい彼女だったことはいくらから気分がよかった。
「ここにプレイヤーも着けられるんだ。こうすれば、イヤホンで音楽も聴ける」
アームターミナルの側面に作った固定部に、愛用のMDプレイヤーをはめ込む。カチリと音がして、形状がかみ合った。
「それじゃあ、本当に自分で使うために作ったんだ。これで悪魔を呼び出せるの? 時々やってくる、悪魔召喚師みたいに?」
「無理だよ。パーツは整ってるけど、中身がない」
「『中身』って?」
「悪魔召喚プログラム。新しく手に入れるのは難しいんだ。悪魔召喚師からコピーさせてもらいたいけど、いくらマッカがかかるかわかったもんじゃない」
「ふーん」
装着させたところで、ミクミクはすっかり満足したらしい。ほかに面白いものがないか、キョロキョロしはじめている。
「とにかく、いまは形だけ。そのうち、もしもプログラムが手に入ったら……」
(俺も、悪魔を使うことができる)
それを口にするのは、さすがにためらわれた。悪魔のいない新宿で悪魔の力を求めているなんてことが周りに知れたら、どんな目に遭うかわかったものじゃない。
自由を手にするには……安全を感じるには……どちらにしろ、強さが必用だ。この街の支配者、オザワのように。
「ねえ、マッシュ、これは……」
思考に沈んでいた意識が、唐突に引き戻された。ミクミクはおおきな南京錠がかけられた木箱に手を伸ばそうとしていた。
「触るな!」
「ひゃっ!?」
大声をあげたマッシュに驚き、ミクミクが手を引っ込める。大きな目に、おびえの色が浮かんでいた。
「し、心配しなくても、こんな大きいカギ、開けられないってば」
「いや、その……ごめん。つい、大声が出ただけだ。ミクミク、その箱は……気にしないでくれ」
「う、うん……マッシュがあんな剣幕で怒鳴るところ、初めて見た」
(嘘だ)
驚いて身をすくめるミクミクの姿に安堵を覚えながら、マッシュは思った。
(二度目のはずだ。あのときも、俺は怒っていた)
記憶が蘇りそうになって、マッシュは手を押さえた。こんなとき、一人だったらMDプレイヤーの音楽に聴き入ることで忘れるのだが……
きまずい空気が部屋に流れた時、入り口のそばにある赤いランプがチカチカと光った。
「呼び出しだ」
「長官から?」
「ああ。DJのことだろうな」
物憂げに、マッシュはつぶやいた。その名を聞いて、ミクミクも下を向いた。長い睫が瞳を隠す。
「刑期はあと何年?」
「5年。まだ半分だ」
「そっか。長いね……」
「ミクミクのせいじゃない。気に病まないでくれ」
「マッシュが頼んでも、出してくれないの?」
「俺は単なる警官だ。長官に頼みごとなんかできないよ。特別な功績でもあれば別だけど……」
「……うん」
ミクミクは繰り返し頷いた。彼女も、オザワの施設警察を取り仕切る長官の権力はよくわかっている。
だがやがて、無理に笑顔を作ってみせた。
「行ってらっしゃい。DJによろしくね」
「じゃなくて、先に出てくれないとカギを閉められないだろ」
「ばれたか。部屋の中を探ってやろーと思ったのに」
「ばれるに決まってるだろ」
こうしてマッシュはミクミクを部屋から出して、カギを閉めて『指令』に向かったのだった。
留守の間に彼女がまたカギをこじ開けることを心配する必要はなかった。
マッシュがいない部屋に用事などないということは、よくわかっている。
▷▷
『大破壊』によって東京の地上は焼き払われたが、地下はかろうじて被害を免れていた。
新宿地下に広がる巨大空間は、現在の東京ではとりわけおおきな役目を果たしている。オザワという男がいち早く街の機能を回復させ、多数の人間を生活させている。
地下街の電気配線や水道はまだ稼働していた。どうやってオザワがそれらの機能を維持しているのかを17歳のマッシュには知る由もないが、悪魔の力を使っているのだともっぱらの噂だ。
オザワは強大な悪魔と契約し、その力でほかの悪魔を従えている。そのおかげで、新宿地下街には悪魔はおらず、安全な暮らしが守られている……ただし、その安全にはオザワに目をつけられさえしなければ、という条件がつく。
地下街には、オザワが組織した私設警察が目を光らせている。警察といっても、かつての日本に存在したといわれる警察のように、正義感と奉仕の精神を併せ持つ警官などひとりもいない。警官は誰もがオザワと、オザワの手下である警察長官に取り入ることだけを考えている。
それは、マッシュも同じだ。
(力は必要だ)
地下街の鬱蒼とした廊下を歩きながら、マッシュは心の中でつぶやいた。地下の道は、あらゆる場所が薄暗い。明るい道を見たことなどなかった。
(長官に気に入られれば、俺も権力を振るう側になれる。そうすれば、外に出ることもできる。悪魔召喚プログラムも手に入るかもしれない。そうすれば……)
そこまで考えて、はたと足が止まった。
(悪魔の力を手に入れれば強くなれるかもしれない。でも、その力でオザワに勝てるのか? オザワよりも強くなったとして、もっと強いやつが現れたら? どこまで強くなれば、自由と安全を手に入れられるんだ?)
気づけば、私設警察の詰め所に着いていた。とりとめなく広がっていきそうな思考を押しとどめて、マッシュは首を振った。
(いや、考えても仕方ない。まず力が必要なんだ。その後のことは、その後考えればいい)
ドアをノックする。「入れ」と、短い返事が聞こえた。
「マッシュ三等警官です」
ドアをくぐると、独特のにおいが部屋の中から立ちこめてきた。合成皮革のにおい。マッシュはこのにおいが苦手だった。胸がむかむかするが、顔には出さずにかかとをそろえて敬礼した。
「遅いぞ。何をしとったんだ」
合皮のソファに座った男が、いらだった声で言う。
「ランプが着いてすぐに来ました。5分も経っていないはず……」
「言い訳は聞きたくない!」
自分で聞いたんだろう、という文句を飲み込んで、マッシュは口をつぐんだ。
この男こそ、オザワの片腕にして、新宿の『治安』を守る私設警察の長官である。
「私は忙しいんだ。わかってるんだろうな?」
「もちろんです」
そんなに待つのが嫌なら部屋まで訪ねてくればいいだろうに……というのも、飲み込んでおく。
「お前の仕事はわかってるだろう。さっさと行くぞ」
重そうな尻を上げて、長官が立ち上がる。胸に光るいくつものバッジが、じゃらじゃらと音を立てた。誰が何をたたえてこの男を表彰したのか、誰も知らない。
「まったく。テクラがあんなプロテクトをほどこしていなければ、こんな手間はかけないですんだのに」
「DJならプログラミングし直せます。彼にコードを解析させれば……」
「やつにそんな自由はない」
マッシュが口を開くだけでも不愉快だと言わんばかりに、長官が睨めつけてくる。
「お前は私が言うとおりにやっていればいい」
長官の腰には、黒いピストルが光っている。ヒマさえあれば磨いているおかげで、いつでもピカピカだ。その労力の一部でも、市民への思いやりに回せないものか。
数人の警官が、長官の脇に着く。彼らは銃を持つことを許された『一等警官』だ。つまり、長官にうまく取り入って気に入られた連中である。
「……はい」
マッシュは黙って彼らのあとに続いた。逆らえるわけがない。
▷▷
新宿地下街の、さらに地下……マッシュが知る限り、そこはもっとも深い場所だった。
階段を降りてすぐに、分厚い防火扉が閉まっている。その脇にある端末に、マッシュは向きあっている。
「おい、早くしろ」
長官がいらだちをあらわに告げる。
「パスワードを間違えると操作できなくなります」
「わかっている! 早く、間違えないように入力しろ」
長官の横暴な振る舞いに嘆息しながら、マッシュは端末に表示される文字列をのぞき込んだ。
新宿最深部のこの場所には、厳重なプロテクトがかけられている。正しいパスワードを入力しなければ、防火扉は開かない。その上、パスワードは一定時間ごとに変化する。表示される文字列にはいくつかのパターンがあり、その内容を解析してパスワードを割り出さなければならないのだ。
そして、その解析パターンを知っているのは、マッシュともう一人だけ。
じゃらっ、と鎖の音がした。階段の上から、鎖で両腕を繋がれた男が降りてくる。その脇には、一等警官が銃を手にして鎖を引いている。
「お前のせいで、私が毎週手間をかけることになってしまった」
長官は普段よりもさらに不機嫌らしい。背中を向けているマッシュにも、嫌みったらしい視線を感じられるほどだった。
「お前がテクラを殺したからだ」
鎖に繋がれた男は、何も答えない。
「聞いているのか、DJ!」
長官が叫ぶ。繋がれた男、DJはなおも答えずに黙っている。
「テクラはいいやつだった。このターミナルの地下サーバーのすべてを把握していた。お前が5年前、自分の師匠を撃ち殺したせいで私たちはいい迷惑だ。だいたい……」
「解除しました」
ますますヒートアップしていく長官のぼやきをさえぎって、マッシュは振り返った。端末には「UNLOCK」の文字が表示され、防火扉が左右にスライドして開いていく。
「とっとと終わらせろ」
長官があごをしゃくる。DJの鎖が解かれて、腕をぶらぶらさせながら中へとはいっていった。
扉の中は、重低音をひっきりなしに立てる機械の群れが設置されている。複雑にコードが絡み合い、基盤を備えたコンピュータがいくつも繋がれている。そのひとつひとつが、マッシュのくみ上げたアームターミナルの数十倍の処理能力を備えているはずだ。
照明が切れ、交換されていないせいで暗闇と言ってもいい状態だ。チカチカと点滅するLEDと、薄緑のモニターが発する明かりを頼りにDJが歩いて行く。
痩せ細った身体だ。骨が浮き上がりそうな腕をほぐそうと、何度も手を握ったり開いたりしている。髪は剃り上げられている……私設警察は囚人に対して丸刈りを強要しているのだ。
「マッシュ」
ぼそりと、DJが言った。低くかすれた、力のない声だ。それでも、どこかギラギラとした鋭さがあった。
「手伝ってくれ。最近、眼がかすれてきた。栄養失調のせいかもしれない」
それが方便だということはマッシュにもわかった。二人はテクラの弟子だった。新宿で唯一、ターミナルを管理できる技師だったテクラは、DJが14歳、マッシュが12歳の時に撃ち殺された。
DJの手によって。
ふらつくDJの傍らに寄り添って、マッシュはその肩を支える。
「手間をかけるよ、マッシュ。いつもだ」
「謝らないでくれ、DJ。あんたがやらなきゃ、俺がやってた」
冷え冷えとした冷気が、部屋の中には広がっている。ここは東京に張りめぐらされたターミナル・ネットワークのサーバー室だ。いまでも生き残っているターミナルの間でおこなわれている通信の仲介地点。
ターミナル・ネットワークは大破壊を生き延びた都市をつなぎ、情報のみならず物質の転送さえ可能にしている。さらには、ネットワークは空間を超えて魔界に接続することすらできるらしい。
このサーバー室には、それらの通信の記録が保存される。ターミナルの設計者がなぜ新宿の地下深くにサーバーを設置したのかはわからない。気温の変化の影響を受けにくいからか。それとも、核ミサイルで爆撃されてもネットワークが機能するようにか……まさか、そんなはずはないだろうが。
「早くしろ!」
背後から、長官のヒステリックな叫びが聞こえる。
「部屋から出られないから、足の力が弱ってる」
DJが憎々しげにつぶやく。マッシュに身体を預けながら、枯れ木のように細い足を引きずるように歩いている。囚人服というよりは、重病人に着せる患者着のようなガウンを着せられている。
「頭と手があれば技術者は動けると思ってるのさ」
五年ものあいだ、DJは監禁され続けている。そして、このサーバーの保守作業に従事しているのだ。師であるテクラを殺害した罪による刑期は、まだ五年分残っている。
DJは機械の怪物のようなサーバー群の中にあるモニターをのぞき込んだ。頬骨が浮き上がるほどに痩せこけた顔が、青白く浮き上がる。頭蓋骨にかろうじて肌が張り付いているかのようだった。頬には「罪」の刺青。
「DJ、俺が警官として出世したら……」
「いいんだ、マッシュ。永遠に続くわけじゃない」
19歳の青年は、17歳の少年の肩をたたき、制御盤に骨の浮き上がった指を滑らせた。
いかに優れたプログラムでも、継続して稼働するためにはメンテナンスは欠かせない。東京に広がっているターミナル・ネットワークの保守が、ここでおこなわれているのだ。
通信ログの解析と圧縮。DJの手つきは慣れたもので、つまり、彼にとっては退屈きわまりない作業なのだろう。表示される文字列の意味は、マッシュにもすべて理解できるわけではない。師に教わった時間のぶん、技術者としての腕にも青年は一日の長があった。
「この5年、ターミナルが停止したことはない。軽微なエラーが起きることはあっても、自動的に修正される。破綻が起きないように完璧なプログラムが組まれているのか、それとも、俺以外にも誰かがネットワークを監視しているのか……」
低い駆動音を立て続けるサーバーの間に、DJのかすれた声がしみこんでいくようだった。
「データ化した悪魔を通信しているなんて、いまでも信じられないよ」
新宿には、悪魔がいない。オザワの契約した悪魔が守っているから、他の悪魔は入ってくることができないのだ。だというのに、ターミナルは毎日のように悪魔や、時には人間をデータ化して転送している。それらのデータはこのサーバーも経由しているのだ。
次々に表示されては消えていく情報。そのどれが、破壊的な力を持つ悪魔のものなのか、マッシュには分からない……だが、デジタル情報として悪魔が処理され、転送されているのだから……このサーバーの中から悪魔の情報をコピーし、召喚することもできるはずだ。
悪魔召喚プログラムさえあれば。
「それ、自分で作ったのか?」
DJがちらりと視線を向けていた。青い光を反射する目は、マッシュの左腕に注がれていた。着けっぱなしにしてきたアームターミナルに。
「ああ。でも……見た目だけだ。それと、OSが動くだけ。ソフトウェアは何も入っていないんだ」
「そうか。使えるようになるといいな」
DJが視線を戻そうとした時……
ビーーッ!
警告を示すブザーが鳴り響き、サーバー室の中の赤いランプが点灯した。
「なんだ!? なにがあった!?」
長官がいち早く他の警官の後ろに隠れるのが見えた。警官達はそれぞれに銃を抜いている。だが、的になるものといえばサーバー室の中にいるふたりだけだ。囚人と同僚に銃口を向けてどうしようというのか。
「エラーだ。おそらく、悪魔からのハッキング」
「冷静に言っている場合か! なんとかせんか!」
DJの落ち着き払った言葉とは対照的に、長官は怒りと混乱を露わにしている。
「いま、やってる」
DJが制御盤に指を滑らせる。エラーを起こしたことのないネットワークがはじめて起こしたエラー。だが、19歳の技術者は、それに対応しているように思えた。
バチッ、と白い光が瞬いた。見れば、サーバー室の中央部……通行用のわずかな空間に、球状の穴、とでも表現すべきものが現れていた。それが、発光を放っているのである。
「DJ、あれは……」
「魔界への門だ。悪魔がここに現れようとしている」
「嘘だろ!」
新宿には、この30年悪魔が現れたことはない。警察官たちは武装しているといっても、ほとんどが悪魔との戦闘経験などない……マッシュも含めてだ。いずれ騒ぎを聞きつけたオザワと親衛隊がやってきて、悪魔に対処するだろうが、それまでにここにいる全員が皆殺しになっているだろう。
(仮に生きのびたとして……この事態を止められなかったら、出世の目はない)
強くなる、という目標のためには、オザワに取り入る必要があるのだ。
マッシュは決意を固めて、アームターミナルを起動した。
「二人がかりなら……!」
アームターミナルからコードを延ばして、サーバー群に接続する。OSが起動し、サーバーから流れこんでくる文字列をマッシュの視覚に投影していく。膨大な情報の中から、いま起きているエラーの箇所を特定していく……
「マッシュ、待て。様子を……」
「悪魔が一匹でも新宿に現れたら終わりだ!」
(ゲートウェイ……問題なし。外部からのリアルタイムハッキングじゃない。誰かがサーバーの中に悪魔を潜ませて、何かの拍子に起動するように仕込んだんだ)
トロイの木馬、というやつだ。プログラムがコンピュータ内に入り込んだ時には無害に見える。だが、何かをきっかけに本来のプログラムが実行される……この場合は、悪魔の召喚が。
(誰が潜ませたんだ? いや、とにかくこの場を収めてからだ)
アームターミナルに表示される情報を次々に解析していく。悪意あるプログラム(マルウェア)なら、自己複製はしていない。つまり、サーバーの中のどれかでプログラムが稼働しているはずだ。
(トロイの木馬が侵入したサーバーを見つけて、電源を落とせば……!)
サーバー室内に開いた『門』の中で、燃えさかるような赤い瞳が輝いていた。獣のうなり声が、今やサーバーの駆動音以上に大きく響いている。
「構えろ!」
「よせ、撃つな!」
長官の指示で銃の引き金に手をかける警官たちを手を上げて制する。その時、アームターミナルが解析したサーバー名の一覧が表示された。
///
Alice...OK
Ariel...OK
Aurora...OK
Belle...Error
Cinderella...OK
Jasmine...OK
・
・
///
「Belle……くそ、どれだ!?」
マッシュは立ち上がった。サーバーラックの左上に小さく掲げられているネームプレートを確かめる。サーバー設計者は几帳面にもABC順にラックを並べてくれているらしかった。
『Belle』というプレートは、開こうとしている『門』のすぐ横にあった。
「アオオオーーーーン!」
この世のものとは思えない獣の叫びが、耳をつんざくほどの音量で響いた。赤い瞳を持った獣が、『門』から姿を現そうとしている。
長官や警官たちが状況を理解できているわけがない。
DJの足では間に合わない。
(俺がやるしかない)
マッシュは息を大きく吸い込んだ。そして、一気に駆け出した。
「アオーーン!」
獣の声と同時、するどい爪を備えた脚が門の中から現れた。すんでのところでかがみ込み、体ごと床に転がりながらサーバーラックに取り付く。
「殺す気かよ!」
全身に逆立つような寒気を感じながら、それを吹き飛ばそうとマッシュは叫んだ。
腕を伸ばして、ラックの裏にある電源ケーブルをひっつかむ。
門の中の悪魔と目があった。破壊的な暴力衝動に満ちた赤い瞳が、マッシュを見据えていた。
「魔界とやらに……帰れ!」
魔獣が口を開く。牙がびっしりと生えそろった口の奥から、逆巻く炎が溢れ……その瞬間、マッシュの手がBelleサーバーのケーブルを抜き取った。
魔界へと通じる『門』は唐突に縮み、怪物もまたその中に飲み込まれていった。一瞬、生まれた熱気だけがマッシュの顔を撫でた。
「せ……セーフ……」
極度の緊張で、腰が立たない。さらに大騒ぎする長官や警官達の声を聞きながら、マッシュはDJに向けて親指を立てた。
「マッシュ……お前も危なかったんだぞ」
だが、DJはハンドサインで答えてはくれなかった。
「ああするしかなかった。マルウェアを排除しよう。俺も手伝うよ」
「……ああ」
DJはぼそりと応えた。赤いランプが消え、『罪』の字が刻まれた頬を照らすのはモニターからのわずかな照明だけに戻った。
だから、彼がどんな顔をしているのか、マッシュにはわからなかった。