(1)
私は逃げたのだ。生まれもって決まった運命から、役割から。
私は怖かった。勝てるわけがなかった。勇者の力を振りかざしても、決して届くことはない。あれはこの世の理。そしてこの世界そのもの。
世界を勝利できる者なんてどこにいるだろうか。世界を壊せる者など存在するだろうか。そんなの、答えは分かりきっている。
――だから私はこの世界から逃げることにした。私を必要とし、私を頼る世界から。
もし私の跡を継ぐ者が現れたその時は、私の代わりに世界を救ってほしい。私は真の勇者ではなかった。私は……。
○
目を覚ましたとき、私は森の中にいました。
朝日が木々の間から私へと差し込み、目を開いた私はその眩しさに小さく呻きます。柔らかくあたたかな太陽の光。それに目覚めを促されるようにして、私は身体を起こしました。目を擦り、辺りを見回します。ベッドかと間違うほど心地よい芝生のように短く生え揃った草。あちこちに生えている大きな木。辺りはそればかりで、私以外の人間の姿はおろか、動物一匹すら見当たりません。雄大な自然がただただ無音で存在するのみです。
「……え?」
寝惚けてそれらを確認した私は、自分が青ざめるのを感じました。当然です。その景色は、都会である私の生まれ故郷では到底お目にかかることのないあまりにナチュナルなもの。私は今自分がどこにいるのかすらも分からないのです。それは途方もない焦りとなって、起きて間もない私を襲いました。
「と、とりあえず落ち着きましょう」
深呼吸。胸に手を当てて深く息を繰り返します。マイナスイオンの効果か、そうすることで幾分か気持ちは落ち着きました。
私は思い返します。眠りにつく前、自分がなにをしていたのかを。確か私は――
「あ……」
息を呑みます。激しい動悸がし、長距離を走ったかのような息苦しさを感じます。そうだ。私はあの時、確かに……。
「あっ! お姉さま!」
頭を抱えたその時、近くで声がしました。慌ててそちらを見てみると、一人の女の子がそこに立っています。可愛らしい子でした。上半身には鎧のようなものを身に付けており、頭には銀色のカチューシャ。身に付けている防具は全体的に銀色で、デザイン自体はシンプルでしたが、無骨な感じは一切しません。下半身に赤いミニスカート、茶色のブーツを身に付けているのもあるのでしょうが、彼女自身の容姿が可憐なのが大きな要因でしょう。
小さめの身体は鎧を身に付けていても尚華奢に見え、長い金髪は艶があり、幼さを残した顔立ちはまるで人形のような可愛らしさを感じさせます。背中に身長ほどの剣を背負ってなければ、見とれてしまったと思います。
それにしても……お姉さま? 私を見て言ったみたいですが。
「あなた……誰ですか?」
乱れていた息を整えて私が尋ねると、可愛らしい少女は口を丸く開いてぽかんとしました。鳩が豆鉄砲を――とはこのような顔のことを言うのでしょう。彼女は驚きで目を見開き、何かを思い出したかのようにハッとし踵を返します。
「ちょっと待ってて! すぐ戻ってくるからね!」
そしてそれだけ言い残してどこかへと走り去っていきました。
「……なんだったのでしょうか」
首を傾げます。私はあんなコスプレのような服を着た可愛い妹、持った記憶はありません。わけが分からなすぎて逆に落ち着いてしまいました。私は溜息を吐いて、とりあえず立ち上がることに。のんびりとした動作で地面に手をついて――気付きました。私の服装がとても現実味のないものだということに。
フリルのついた、白く清潔感のあるブラウス。黒のロングスカート。さながらファンタジーな創作物に登場するお嬢様、といったところでしょうか。見るからに高級品といった感じのものなのですが、ブラウスの約右半分が上から下まで真っ赤で……なんだか生臭い仕上がりになっていました。触ってみると、綺麗だった手が赤く濡れます。血、でしょうか。それも大量の。私は思わず首や脇腹を確認しますが、傷らしきものはありません。
「なんでこんな――ん?」
自分の身体を見下ろし、私は血で濡れた草の上に何かを発見しました。太陽の光に反射し光ったそれは、一振りのナイフでした。刃渡りは小さく、俗に言う果物ナイフのようなものでしょうか。柄は木製で、刀身は細く、用途は限りなく狭そうです。
近くに落ちていたそのナイフは、なんの変哲もない素朴な品です。しかし私はそれをしっかり認識したとき、妙な胸騒ぎを感じました。何か大切な物のような……。
自然と私は拾おうと手を伸ばします。しかし、手がナイフに届くよりも早く、大きな衝撃に襲われ私は草の上を転がりました。
「ぐ――っあ」
さっきから何なのでしょうか。私の準備もできない内から不意打ちのように色々なことが……。
心の中で悪態をつき、呻きながら私はうつ伏せの状態から身体を起こします。横から身体を叩かれ、草の上を何回転かしましたがそれほどダメージはありませんでした。
「なんですかあれは……」
なんとか立ち上がり、私を叩いてきたであろうものを見つけました。それは茶色で四足歩行の、イノシシのような生物でした。ただしイノシシよりも二倍くらいはサイズが大きく、目つきも二倍ほど凶悪です。躊躇いなく人を殺しそうな恐ろしい目でした。おそらく私はあれに体当たりをかまされ――たら、死んでますよね。多分顔で突き上げられたとかそんなところでしょう。
なんて、冷静に飛ばされた原因を考えている場合ではありませんね。無力な私と凶悪なモンスター。この状況ですべきことは――
「誰か助けてくださーい!」
助けを求めることです。命乞いが成立しそうな相手ではないので、これが一番でしょう。状況がまったく分かりませんが、私はとにかく叫びました。が、無論世の中はそれほど甘くはなく。
誰も来ることはなく、突然叫び出した私に触発されたのか、イノシシが後ろ脚で地面を蹴りはじめました。ゲームでもよく見る突進の前兆です。まずい。そう思った時にはイノシシは物凄いスピードで走り出します。あの巨体でこのスピード。当たれば間違いなくおだぶつです。
私は咄嗟に後ろへあった木の影に隠れます。ここらにある木は太く、いくら巨体とはいえこれを貫くことは容易ではない筈。と思ったのですが、イノシシを受け止めた木にヒビが入るのを見て、私は横に跳びます。その直後呆気なく崩れる木。イノシシは木を貫いた後も勢いを止めずに少し進み、ようやく止まりました。
「……化け物ですね」
立ち上がりながらそれを見た私は肝を冷やします。イノシシは既に身体の向きを私に向けており、次なる突進を放とうと姿勢を低くし地面を蹴っています。死が着々と迫っていました。辺りにはなにもなく、私はあれと戦う術を持っていない。できるのは覚醒イベントなどが起きるのを待つことのみです。
とりあえず、かわしましょう。あの少女はすぐ戻ってくると言っていました。ここはそれに賭けるしかありません。私は回避のタイミングを計るべく、イノシシの動きをしっかり見つめます。確か足で地面を蹴ってから、走り出すときはグッと身体を後ろにやっていた筈。それを見てから横に飛べば回避できます。
私はその時をジッと待ちました。静かな森の中に、イノシシの鼻息が響き渡ります。イノシシが足を地面につけ――そして身体を後ろにグッと引きました。私はそれを確認すると同時に横へ頭から飛び込みます。タイミングはバッチリ。しかしその時、予想外なことが起きました。一直線に突進をしていたイノシシが横に移動した私へと向きを変えたのです。
うっかりしていました。最初に突進を避けられたのは、木でイノシシの視界が埋まっていたから。決して私だけの力で回避できたわけではなかったのです。
無防備な私へと迫るイノシシ。視界を覆うような大きな茶色に、私は反射的に目を閉じようします。が、その寸前。私とイノシシの間に金色が割って入りました。光のようにどこからともなく現れたのは先程の少女。私を姉と呼んでいた少女です。
彼女は左手を前に出し、驚くことに手の平で受け止めました。手甲とイノシシが衝突し音を立てますが、それだけです。少女は痛がりも下がりもせず、空いている右手で背中の剣の柄を掴みました。そして抜刀と同時に振り下ろします。
まるで棒を振るような軽い動作。それでも、私に聞こえるほど大きな風切り音が鳴り――イノシシは縦に両断されました。断末魔の悲鳴を上げ、イノシシが煙のように姿を消します。倒した、ということなのでしょうか。
「お姉さま、大丈夫?」
剣を納め、少女が私へと振り向きます。
確かに少女がここへ来て戦ってくれることを期待しました。が、ここまで現実離れした戦いを見せられるとは思ってもみませんでした。
私を姉と呼ぶ彼女の眩しい笑顔を、私は茫然と見つめました。この瞬間、私の頭に一つの仮説が思い浮かんだのです。
もしかして私、他の世界――異世界に来た、とか?
○
異世界に来た。もしくは死後の世界に来た。そう考えれば全て納得することができます。私の最後の記憶、現在の状況……あらゆる情報を纏めても、貧相な想像力ではそれが限界です。普段ならば馬鹿らしいと鼻で笑う考えでしょう。しかしイノシシ風なモンスターが消滅した辺りで、その下らない仮説もいよいよをもって現実味をおびてまいりました。
「リーアさんを今連れてきたから、安心して」
ぼんやりと考える私の前に手を差し出し、少女が笑いかけます。私がその手を握ると、彼女は強い力で引っ張ってくれました。予想外に力強く、私はよろけます。腕の関節が痛んだ気がしました。
「平気? お姉さま……混乱してるんだね。あんなモンスターに苦戦するなんて」
よろける私をしっかり手で支え、彼女は同情するように悲しげな目をします。あの百戦錬磨と言ってもよろしいイノシシを、あんなモンスター呼ばわりとは……末恐ろしいものです。
「あの、何の話かさっぱり分からない――」
「ルーフル!? だ、大丈夫!?」
会話を試みると、私の近くへと誰かがやって来ました。もの凄く小柄な女の子です。素朴なシャツとスカートの上に白衣を着ており、肩には大きめのポーチを提げていて、医者、科学者にカテゴリされる人間だと一目で分かります。
髪の色は銀色で、ポニーテール。瞳は赤。顔立ちはやはり整っており、勝気そうなつり目が特徴的な少女です。彼女がリーアという人物でしょうか。見ても安心できる人物ではないのですが。
「真っ赤じゃない! なにしたのよ!」
近づいてきた彼女は私の腰を掴み、彼女と向き合うように私の身体の向きを変えさせます。怒るような激しい口調で言っていますが、表情は今にも泣き出しそうで、私の心配をしていることが痛いほど理解できました。
「えっと……目を覚ましたらこの有様でして」
「で、『でして』? なに気味悪い喋り方してんのよ」
私の口調にリーアさんが露骨なほど拒絶反応を示します。心配はどこにいったのやら、顔をしかめて一歩後ろへバック。はて。何故そんな嫌そうな顔を?
「あんた、本当にルーフルなの?」
ルーフル。どうやら二人はその名前の人物を私だと勘違いしているようです。
「いいえ、私は
『……』
私が正直に名前を答えると、二人とも硬直しました。暫しの沈黙の後、リーアさんが隣の少女へと焦った様子で問いかけます。
「ルーフルじゃないって言ってるわよ?」
「で、でもっ、服は同じで――見た目も同じだよ!? これで別人って有り得ないよ」
もめています。リーアさんは私のことを本物と認めておらず、呼び出した少女のことを責めていましたが、少女の言い分も尤もだと思ったのか強い否定はできていませんでした。私がルーフルであるという可能性は高いらしいです。他人事ではないのですが、物凄い蚊帳の外感のお陰か頭の中は冷静でした。
「――面倒ね! こういうときはあいつに聞くわよ」
やがてリーアさんは結論を出したのか大きな声で言い、私の手を握りました。
「そうだね。ここにいてもなにもならないし……行こう」
少女もそれに異存はないようです。私はまたまたわけの分からないままリーアさんに手を引かれ、歩き出しました。状況が分からない以上、意見することは無駄だと思ったため二人に大人しく従ってますが……何か大切なものを忘れている気がしました。
まぁ、忘れているのです。きっとどうでもいいことなのでしょう。
暢気に考え、どこに行くかも分からぬまま私は森をあとにしました。
○
歩くこと約三十分。少しくたびれてきた辺りで、それは見えてきました。
森を抜けて草原に出た瞬間、目に見えてきたのは大きな建物……らしき石の壁。そしてその壁の奥にあるお城のような建造物。それと門のような巨大な扉です。よくゲームなどで見る街のような見た目をしておりました。
「あそこは?」
「
隣を歩く少女が不安そうな顔をして答えます。その表情から察するにルーフルという人物の住んでいた街なのでしょう。一番大きい……ふむ。遠くから見ているせいでしょうか。どこまでも限りのない都会を目にしてきた私にはそれほど大きく思えません。
「いい? 街に入ったら、とりあえずあんたはルーフル。とにかく話を合わせなさい」
「了解しました」
前方を行くリーアさんに指示され、頷きます。逆らってもいいことはありません。ここに置いてかれたりすれば先程みたいなモンスターにやられるのがオチですし。故に私には従うしか選択肢がありませんでした。
「本当気持ち悪い……なんでルーフルが素直に従うのよ」
物凄く気味悪がられていましたが、まぁ大丈夫でしょう。
○
更に歩くことしばらく。小さく見えていた街は歩みを進める度に徐々にその大きさを増していき、門に近づく頃には石で造られた壁を見上げても、てっぺんが見えないほど高くなっていました。これほど大きな街だとは……。遠近法の偉大さを甚く感じます。
街を覆う壁もそうですが、巨大だと遠くからでも思えた門は近くから見ると更に大きく、たった二人の門番で守るのは不可能なのではと思える幅でした。何メートルあるんでしょうね。とにかくスケールが違います。
物見遊山の気分で私は更に観察を続けます。門からは城へと続く一直線の道があり、その両端には沢山の店が並んでいて活気が窺えました。大陸一大きな街、というのは伊達ではないようです。楽しげで、門の前であるこの場所からでもいい香りが鼻に入ってきます。
もう少し状況が分かれば、観光したいと思うんですけどね……どうやらそうもいかないみたいです。
「ルーフル様! 良かった。ご無事でしたか。ミュラーさん、リーアさん。ご苦労様でした」
門をくぐろうと歩いていると、門番らしき二人の男が私達一行に近づいてきました。少女と違い全身を銀色の鎧で覆った門番らは、私へ声をかけます。表情は見えませんでしたが、その声からは安堵の色が多分に感じとれました。様付け……ルーフルは割と偉いんですね。彼らの様子から察するに、信頼もあるようです。
「……」
なんて返事するか迷い、私はとりあえず笑顔で手を振っておきました。
『はっ?』
兵士さんらが疑惑の声を上げます。まずい。間違えたみたいです。お嬢様風な対応をしたんですけど、流石にキャラ作りすぎでしたか。
「あなたたちもご苦労様」
「ル、ルーフルは疲れてるみたいだから、もう行くわね」
少女――ミュラーさんに手を引かれ、リーアが兵士らをかきわけてそそくさと進みます。話したらボロがでるとでも思ったのでしょう。
賢い選択でした。私、ルーフルを演じる自信ないですし。
「これからが本番だから、ルーフルは何を言われても無視しなさい。できるだけキリッとして」
後ろを振り向き、戸惑う門番さん達を肩越しに見ていると、リーアさんから新たな指示が飛びました。よく意味が分かりませんけども覚えておきます。
私達は足早に門を通り過ぎ、城まで伸びる大きな道へと入っていきます。すると――リーアさんの言っていた『本番』の意味を理解しました。
「ルーフル様だ! ああ、今日も綺麗だ」
「ルーフル様ー! 頑張ってくれー!」
「応援してるわー!」
『勇者様! ルーフル様!』
物凄い合唱です。いい匂いだとか、どんな店があるだとか気にしている場合ではありません。大勢の目が私に向き、耳を塞ぎたくなるほどの声がルーフルに向かって降り注ぎます。いつの間にか人は道の端に集まっており、中心を歩いているのは私達三人だけになりました。
さながらマラソンの走者と、その観客みたいです。マラソンとはスケールが段違いなんですけど。
リーアさんに手を引かれていなかったら、歩くこともままならなかったでしょう。人の声援が、視線がこれほど重いものだとは初めて知りました。
○
いつの間にか辺りは静寂に包まれていました。うたた寝をしていた時のようにハッと我に帰れば、そこは見知らぬ場所でした。
石で造られた建物の中みたいです。前方には赤い絨毯が奥の扉まで敷かれており、その左右の壁には燭台がかけられています。窓などもありますが街よりは幾分か薄暗く、けれどもどことなく尊厳な雰囲気のある場所でした。
「お姉さま、大丈夫?」
視線を巡らせていると、ミュラーさんの声がかかりました。彼女は私の隣にいて、通りを歩いていたときのように私の手を握っています。
「ここは?」
歩いていないし、おそらく目的地に着いたのでしょう。それは分かるのですが、記憶が曖昧でどうやってここに来たのかを覚えていませんでした。リーアさんの姿も見えませんし。私がとりあえず現在地を尋ねると、彼女は手を離して答えます。
「街のお城だよ」
短い答えですが、なんとなく状況を把握しました。あれから私達は通りを真っ直ぐすすんだのでしょう。その間に私は極度のストレスで気を失ったと。それで歩いていたのだから器用なものです。
「話をつけてきたわよ」
リーアさんが私達のすぐ近くにあるドアから出てきました。彼女はドアを閉め、簡潔に伝えます。私がぼーっとしている間に誰かと話していたようです。深く溜息を吐き、リーアさんは私達の近くへ来ます。
「ありがとう、リーアさん。さ、お姉さま、行こう?」
「ミュラー、あんたは留守番よ」
リーアさんが不安そうな顔をして告げます。私の手をとろうとしていたミュラーさんは、意味が分からないといった表情で彼女を見ました。
「なんで?」
「知らないわよ。ルーフル一人で来いって。賢者様の言うことなんだから素直に聞きましょう?」
「……わかった」
渋々、といった様子で諦めるミュラーさん。
……ふむ。流れて的に私が賢者様とやらに一人で会うことになるんですよね? 心細いからミュラーさんには諦めてほしくなかったんですけど……無理な話でしょう。賢者様は偉いみたいですし。
「というわけだから行ってきなさい」
リーアさんが私を見ました。やはりそういう話みたいです。ドアを指差され私は仕方なく歩き出します。
「――ルーフル」
リーアさんの隣を通り抜けようとすると、不意に手を掴まれました。横を見れば――リーアさんが私をすがるような目で見ていました。
ドキッとしてしまいます。今にも泣きそうな彼女の表情に何故だか強い罪悪感を抱きました。言葉に詰まり、何だと尋ねることもできず私はただ彼女の目を見つめます。少しして、リーアさんは私の手を離しました。
「ごめんなさい。なんでもないわ」
なにかあるのは明らかでした。しかし私は追及することなくドアへ向けて歩き出します。
分かっているのです。彼女は私を呼び止めたのではありません。私を心配しているのではありません。
彼女はルーフルを見ています。無関係な人間が何か口を挟めるものではありませんでした。
「……馬鹿ですね」
自嘲し、私はドアノブに手をかけました。
○
ドアを開いて中へと入っていきます。途端に私の鼻へ、古い紙のにおいが入ってきました。懐かしい香りです。いつぶりかは分かりませんが、それが古びた紙のものなのだとはっきり認識できる独特なにおいでした。
「……」
ドアを閉じ、部屋を見回します。いかにも賢者という人物がいそうな雰囲気の部屋でした。円形の部屋にはその形に本棚が壁にそって並んでおり、様々な背表紙の本がところ狭しと収まっています。部屋の中心には水晶の置かれたテーブルが配置されており、神秘的な空気を醸し出していました。胡散臭いと思わせない何かがあるのは、きっと賢者と呼ばれる所以なのでしょう。
「あの?」
そこはいいのですが、肝心の賢者様の姿が見えませんでした。声を出して呼びかけるも姿を現す気配はありません。……リーアさんが話していたらしいですし、ここにいるはずなのですが。
「あ」
視線をあちこちに向けて、私はその部屋にあるものが置かれていることに気が付きました。それは身体全体が映せるほど大きな鏡。自然はそちらへと歩いていきました。鏡の前に映し出された私の姿は、いつもと何ら変わりありません。
肩程まである、ちょっと色の薄い金髪。髪は左右の両端で軽く跳ねており、どことなく犬っぽく感じます。瞳の色は蒼で、クールそうな鋭い目が冷たい印象を強めていました。スタイルは我ながら相変わらず完璧です。太っているわけでもなく、だけど女性らしくて……これが自分の身体でなければよかったと何度思ったことか。
……ふむ。至って普通の私ですね。ルーフルという女性はこれと瓜二つな見た目をしていたようです。ぜひとも実際に会って身体に触れてみたいものです。
「来たな、勇者よ」
ポーズでもとろうかと考えていると、どこからともなく声がしました。年を召した男性の声です。私は周囲を見回します。が、それらしき人物の姿はありませんでした。
「こっちだ」
「わっ!?」
視線を前に戻し、そこにいた人物に私は腰を抜かしそうになるくらい驚愕します。水晶のあるテーブルの椅子に、一人のご老人がいつの間にか座っていました。
「あなたが……賢者ですか?」
「いかにも。私が賢者だ」
頷く彼は一見、普通の老人のような見た目をしていました。シワだらけの顔、サンタさんのような白いひげ、フードのついたローブを身につけており、手にはそれらしい木の杖を持っております。似合ってるのか似合ってないのか……賢者と言われれば、ギリギリ納得できるレベルであります。
じっくり観察する私。彼も同じく私の姿を下から上まで見て、ぽつりと小さく呟きました。
「……そうか。お前さんはルーフルではないな」
この方、どうやら本物らしいです。一目で私の正体を見破った彼は、私がなにも答えないのを見ると悲しそうな顔をしました。
「座るといい。話がしたい」
「――はい。分かりました」
彼ならば何か教えてくれそうな気がします。私は促されるままテーブルを挟んで彼の向かい側に座りました。
「名前は?」
私が席に座ると、彼はまず名前を問いかけてきました。
「
「なるほど。お前さん――死んだな?」
息を呑みます。――そう。私は確かに死にました。それがここで目覚めるまでに私が持っていた、最後の記憶。やはりそれは夢ではないようです。自分がしたことが脳裏によぎり、自分の息が乱れるのを感じました。誰かがいる前で突然息切れは不審すぎます。必至に耐えようと賢者さんを見ていると、彼は苦しげな表情をしていました。彼もまた、なにかに耐えているように見えます。
やがて、私の動悸が治まる頃に賢者さんはポツリと小さく言いました。
「……私の知ることを教えよう」
「知ること、ですか?」
「勇者――ルーフルのことだ」
勇者。ルーフル。目覚めてから何度も耳にしてきた言葉です。
「聞かせてください。私に関係あるならば」
とりあえず聞かなくてはこれからの判断にも困ります。私は膝の上で手を握り締め、先を促しました。
「なにから話そう……まずはこの世界について語ろうか」
なんだか長話になりそうな語りはじめで、賢者さんは説明をはじめました。
「この世界の名はアインス。一番目の世界と呼ばれている。この世界では代々、神に選ばれし人間が勇者となり、世界を滅ぼさんとする魔王と戦ってきた。ルーフルもそうだった。かつては名もない田舎の村で暮らしていた少女だったが、ある日勇者としての力に目覚め、魔王との戦いに身を投じた」
ふむ。ここが私のいた世界ではないことがほぼ確定しましたか。世界に名前をつけるなんてメルヘンチックなことしてませんでしたし、地球では。ショックといえばショックですが……私は死んだのだから、地球からいなくなるのは道理とも言えます。
まぁ、世界以外のことについてはよく聞く話です。勇者と魔王の物語……典型的です。創作物の中の話ならばですが。
「彼女の力は歴代の勇者の中でもトップクラスだった。戦いは何の問題もなく勇者の勝利――かとも思えたが、問題があった。ある日勇者は共に戦っていた仲間全員と別れ、単独行動をはじめたのだ」
勇者一人で冒険とは、かなりアナログですね。名前何文字入るんでしょうか。
「皆が止めたが彼女はそれを聞かなかった。そして……」
賢者さんがそこで言葉を区切り、私を見ます。首から下へ、服が真っ赤になっている個所をなぞるように。瞬間、私の頭の中に浮かんだものがありました。真っ赤な服、ナイフ、傷のない私の身体、賢者の表情――そして、ルーフル、私。もしかしたら、と漠然とした答えが出ます。
「ルーフルは今日、自殺したようだな」
無理矢理元気になろうとしていた心が、それを聞いた直後ひどく落ち込みました。他人であっても自殺がどうとか聞くのは気分が落ち込みます。他人……かどうかはまだ分からないんですが、複雑な感じです。
「ええと……それで、なんで私がルーフルさんに?」
「それはおそらく、別世界のルーフルがお前さんだったからだろう。世界は別でも、姿形、魂が同じ人間が必ずいる。勇者は自ら命を絶つことで、別世界の人間と変わることができる。そこで……不謹慎だが、タイミングよく死んだお前さんが代わりに選ばれたのだろう」
代わり……物凄く嫌な響きです。うんざりすると共に、ふと疑問がわきました。
「……ちょっと待ってください。死んだ私が選ばれたんですよね。ならこの世界に来ても死んだままなのでは?」
「『転生』だ。聞いたことはあるだろう。神がお前さんを死ぬ前のルーフルへと生まれ変えさせた。だから傷はないし、ルーフル自身に関係のない服は真っ赤なまま。何事もないように目覚めるわけだ」
「でも私性格も記憶も前の世界そのままなんですけど……」
「神もそこまで万能ではない。本来なら長い時間をかけて行うのが転生だ。それを短時間で行ったのだから……」
こんな状態になる、と。まぁ別人になるよりは……マシ、なのですかね。
「しかし経験、能力や力の類いは引き継がれている筈だ」
「えっ? そうなんですか?」
意外な言葉にきょとんとします。言われてみればイノシシと戦ったとき、やたら身体が軽かったような……。もしかして最初吹っ飛ばされたとき、本当は突進されてたとか? だとしたら化け物じみた耐久力ですね。
「お前さんにはこれから魔王と戦ってもらいたい。記憶喪失とでも言えば通るだろう」
説明が終わったらしく、賢者さんは単刀直入に言いました。すがるような目をしており、その言葉は弱気なようにも聞こえます。ルーフルが結果として自分で命を絶ってしまった役割を私に任せるのだから……心苦しいのは容易に推し量れました。
そんなことをしたいと言う人間はどれほどいるでしょうか。自分でもそう思うのですが、私は頷きました。
「いいですよ。どうせ死んだんです。やってみましょう」
失敗した世界とは違う世界で、別人として生きることができる。これほど嬉しいことはありません。死んだ時のことを思い返すと気分が落ち込みますが……問題ないでしょう。
「勇者として、魔王を倒してみせましょう」
私は特になにも考えずに、賢者さんの頼みを受け入れました。首を縦に振り微笑んでみせます。
賢者さんはそんな私のことを、驚いた様子で見ていました。