【完結】白嶺に染まぬ黒 ~大人のためのウマ娘 プリティーダービー~   作:モルトキ

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第1話  崩れゆく摩天楼

 絶望は、血の味がした。

 全力疾走のなか、疲労にまみれた吐息にそれを感じる。

 丈の長い洋芝が足に絡む。レースコースも、日本のようにお行儀よく整地されていない。自然の地形がそのまま残されており、風になびく絨毯のような連続する凹凸と凄まじい高低差の坂が、みるみるスタミナを奪い取っていく。心臓破りの坂で有名な中山競バ場がハイキングコースのように思えてくる。

 『偽りの直線』を抜け、最後の直線に入る。内にはヨーロッパ各国の最強ウマ娘たちが塊となって競り合う。バ群に飲み込まれたら抜け出すのは不可能だ。脚質が追込であるため、トレーナーとの作戦会議でこの事態は想定していた。先頭集団との差は、それほど開いていない。通常のレースなら、ここから十分差し返せる距離。

 そのわずかな開きが埋まらない。

 脚が重い。喉の奥から鉄臭さがこみ上げる。肺胞がつぶれ、毛細血管から滲みだした自らの血で溺れているかのような錯覚。いつもラストスパートの追込みで勝ってきたはずなのに。国内最高のG1レースでも、並み居る強豪を押しのけて最後はトップに立っていた。それなのに今は、もう先頭集団の背中も見えないほど後方に沈んでいる。

 ゴールに至る前に、敗北を知ったのは、これが初めてだった。この苦痛を終わらせるため、流されるように脚を動かす。自分でも気づかないうちにレースは終わっていた。芝の上に倒れこむ気もおきない。棒立ちになり、肩で息をしながら青い空を仰ぐ。

 パリ・ロンシャン競バ場の確定ランプが灯る。見たくはない。それでも見なければならない。ここで目を背ければ、自らの存在自体が否定されてしまう。何に否定されるのか分からないが、ウマ娘の本能がそう警告していた。

 

 マンハッタンカフェ Prix de l'Arc de Triomphe(凱旋門賞) 13着

 

 URAが日本を代表するウマ娘として、世界最高峰のレースに送り出した逸材。それがマンハッタンカフェだった。去年、体重の大幅減により皐月賞、東京優駿の出走を見送ったのちの菊花賞で劇的勝利、さらに続く有馬記念でも1着をとり、今年の天皇賞春とG1連勝を重ねた。彼女のほかに、クラシックからの長距離G1三連勝をあげたのは、かの『皇帝』シンボリルドルフだけである。

 美しく長い黒髪から、『漆黒の摩天楼』の異名を授かったマンハッタンカフェは、今年度のスターウマ娘だった。長距離レースで勝利するには、純粋なスピードだけでは足りず、豊富なスタミナ、レース運びを見極める冷静さと知能、さらに最後の直線で加速できるだけの精神力など、多くの素養が必要となる。つまり総合的に「強い」ウマ娘でなければ勝利するのは難しい。

 三冠を嘱望される「速い」ウマ娘にとって、菊花賞は鬼門だ。皐月賞2000m、東京優駿2400mを危なげなく勝っても、最後の菊花賞3000mで涙を飲むウマ娘は多い。

 URAが目をつけたのは、マンハッタンカフェの強さだった。欧州のバ場は、日本のものとは全く異なる。芝の種類、地形、急勾配、どれをとっても日本のウマ娘にとっては未知の脅威となる。事実、日本はおろかアジアのウマ娘が、凱旋門賞を勝てたことは一度もない。エルコンドルパサー、ゴールドシップ、ナカヤマフェスタなど、名だたる精鋭たちが挑戦してきたが、ことごとく高すぎる世界の壁に阻まれた。

 スピード最優先のトレーニングを受けてきた日本のウマ娘のなかで、最も欧州バ場に適性があるのは長距離走者となる。シンボリルドルフ以来の快挙を成し遂げたマンハッタンカフェに白羽の矢が立つのは当然だった。

 実は、スターウマ娘の海外遠征は、URAにとって好ましいことではない。スター不在となれば、国内レースは盛り上がりに欠け、収益ダウンに繋がるからだ。そのリスクを冒してでも、1着を取りにいく価値が凱旋門賞にはあった。それはむろん世界一の証明であるが、ウマ娘個人の栄光以上に、レース先進国としてのプライドが、アジア初の偉業を他国に譲るなど絶対に許せなかった。

 かくして日本中の期待を一身に背負い、世界に挑んだマンハッタンカフェだが、G13勝の実力をもってしても、欧州の猛者には歯牙にもかけられぬ結果となった。

 優勝どころか、ウイニングライブの舞台にも立てない。あらゆる言語が飛び交い、互いの健闘を讃え合うなかで、マンハッタンカフェは独り静かにバ場を去っていく。ロンシャンに地下バ道はない。敗北した自分を覆い隠してくれるものは何もなかった。表情を出さず、堂々と耳を立てることだけが、彼女にできるせめてもの抵抗だった。

 悠々と手を振りながらターフを歩く勝者に、観客は釘づけだ。誰も自分のことなど見てはいない。カフェが虚勢を張りたい相手は、このロンシャンに一人しかいない。

「お疲れ様」

 落ち着いた声で、その人物はカフェを労う。勝っても負けても、第一声はこれだった。いつもと変わらない彼女を見て、カフェはようやく耳を垂らすことができた。

「負けました」

 自らのトレーナーに、ぽつりと結末を報告する。

 夏野蘭。それがマンハッタンカフェのパートナーの名前だった。

 国内最高の競走ウマ娘養成機関である、日本ウマ娘トレーニングセンター学園、通称『中央トレセン』。そこで自らのチームを持ち、トレーナーとして勤務している。通常、海外遠征には学園やURAの職員が同行し、マネジメントを行う。日本代表ウマ娘を輩出するようなチームは、所属人数が7名以上の大所帯であることが多い。よってトレーナーは、出走予定の大多数を占める国内レースに向けた調整のため、学園に残らなければならない。しかし、夏野の率いるチーム・シェアトは異例だった。設立して以来ずっと、所属するウマ娘はマンハッタンカフェひとりというワンマンチームだ。そして、トレーナーの同伴をカフェ自身が強く希望していた。凱旋門賞出走の打診があった段階で、学園側に対し、トレーナーが現地入りすることを出走条件として提示した。G1ウマ娘の意向を学園も無視できず、現地でのバックアップは全面的に夏野が行うこととなった。

「着替えてホテル戻ろっか?」

 夏野は言った。5着以内でなければ、鬱陶しいマスコミの相手をする必要もない。そもそも勝利したときでさえ、カフェはインタビューを嫌がる性格だ。どうせこちらが何を言おうと、むこうの都合よく書き換えられるのだから、喋るだけ損だ。

「トレーナーさんも着替えるんですか?」

 予想外の言葉が返ってきた。感情の窺い知れない黄金色の瞳が、まっすぐ夏野を見つめていた。

「あれ、似合ってなかった?」

 苦笑する夏野。今の恰好は、人生初めてとなる正装だった。カフェの勝負服に合わせた、黒を基調とするシンプルなドレス。普段のトレーニングではジャージだし、レース本番でも就活生みたいなスーツしか着たことがなかったため、開き気味の胸元が若干恥ずかしい。本場欧州G1はドレスコードが厳しいため、出国前に急遽あつらえたものだった。

「いいえ。そのままでいてください。ホテルの部屋に着くまでは」

 相変わらず耳は下がっていたが、レース後初めて笑顔を見せた。

 タクシーでパリ市内のホテルに帰る途中、変装用のサングラス越しに、カフェはずっと夏野を見ていた。その隣で、これから起こるだろうことを予感し、夏野は静かに覚悟を固めていた。ホテルの部屋は同室だった。さすがにベッドは別々だが、これもカフェが希望したことだ。

 部屋に通されたとたん、夏野はベッドに押し倒された。手首をつかむ、鋼のような両手。ウマ娘の筋力は、生まれながらにして人間の十倍。抗っても自分の身体を痛めるだけなので、好きにさせておく。

 見上げれば、マンハッタンカフェの顔がある。艶やかな黒髪が滝のように流れ落ち、その中央には、狼のような金色の双眸が冷たく光る。そこらのウマ娘など足元にも及ばない、小さく整った貌。蝋人形じみた真っ白な肌。

 怖気がするほど美しい生き物だ。

「トレーナーさん。わたし、負けちゃいましたよ」

 年頃の少女にしては低く大人びた声色で、カフェが囁く。夏野は彼女の声が好きだった。こんな状況でなければ、もっと穏やかな気持ちで楽しめるのに、とぼんやり考える。

「手、どけてくれる?」

 視線を逸らさず、夏野は言った。それだけで、万力のようだった両手があっさり解かれる。自由になった上半身を起こし、カフェと向かい合う。夏野より頭ひとつぶん背の低いカフェは、膝立ちになっていた。

 担当するウマ娘の前で、夏野はゆっくりとドレスの肩紐をはだける。

 露になる左肩。そこには楕円形の白い傷痕が刻まれている。一年以上前の傷が、いまだ癒えずに残っていた。

 一生忘れないだろう、メイクデビューの悪夢。1番人気に推されながら3着に沈んだ夜、チーム部室にて夏野はマンハッタンカフェに襲撃された。正確には、敗北の衝撃からパニックに陥ったカフェを静止させようとした際、反撃を受けたと言うべきか。夏野の服を破り、その肩に噛みついた。凄まじい激痛。肉体の一部が引き剥がされる恐怖を生まれて初めて知った。それでも夏野はただ、カフェが落ち着くまで抱きしめていた。責任感からくる諦めの気持ちだった。勝てるはずのレースで、勝たせてあげることができなかった。敗戦の責任は、すべて自分にある。その信念から、痛みと暴力を無条件に受け止めた。

ようやく破壊衝動から抜け出せたカフェは、一転して滂沱のごとく涙を流し、謝罪を口にした。放っておけば校舎から飛び降り自殺しかねない精神状態だった。もし今腕を解いて走り出されたら、もう追いつけない。傷から血を滴らせたまま、夏野はカフェを抱擁し続けた。そして彼女の耳元で、何度も繰り返した。

 あなたがそうしたかったんなら構わない。あなたがしたいことを、わたしはこれからも受け入れる。

 それ以来、カフェの衝動が表に出ることはなくなった。レースで負けるたび、左肩を差し出せば落ち着いてくれる。最初のときのように痕が消えないほど強く噛まれることもない。少し痛い程度で、7か月前の日経賞のときの噛み痕は、もう残っていなかった。

「どうぞ」

 短く促す夏野。内心、少し怯えていた。今回の敗北は、これまでとは重みが違う。もしかしたら血を流すことになるかもしれない。

 カフェの顔が近づく。吐息の湿り気を、肌で感じる。こういうとき、自分が女性であることを幸運に思う。もし男性であれば、どちらかがレースの世界から永久追放されるのは時間の問題だったはず。

 しかし、痛みは来なかった。金の瞳は、肩ではなく夏野の眼球を覗き込んでいた。レース直後の激しい情動はどこにもなく、朝のコーヒーを共にするときのような、穏やかに澄んだ色をしていた。

「ごめんなさい。今日はいいです」

 そう言って、カフェは優しい手つきで着崩れたドレスを直す。意表を突かれた夏野だが、すぐに思考を立て直す。

「じゃあ気分転換にさ、ちょっと出かけてみる? シャンゼリゼ通りに、行ってみたいコーヒーショップあったよね」

 夏野が提案してみるも、カフェは首を横に振った。しばらく独りになりたい、夕飯もいらない、とのことだった。こういうときは何も強要してはいけないことを夏野は学習している。健康を害しない程度には、彼女の気持ちを優先させるしかなかった。

 ラフな格好に着替え、部屋をあとにする。

 夕食までの時間をつぶそうと、セーヌ川沿いを歩く。凱旋門賞出走は、トレーナーとしては反対だった。天皇賞春を制したからといってマンハッタンカフェの状態は万全ではなかった。敗北する確率の高いレースに、わざわざ放り込む意味はない。しかし、トレーナー歴わずか2年の自分が、学園やURAに何を言おうが焼石に水だった。

 トレーナーとしての実力不足で敗北するならまだしも、政治力の無さにより押し付けられる屈辱は耐えがたい。つのる鬱憤の勢いにまかせ、近場のビストロで時間を忘れて痛飲した。ホテルに戻ったとき、すでに部屋は暗くなっていた。片方のベッドから規則正しい寝息が聞こえる。夏野も手早くシャワーを浴び、自分のベッドに潜りこむ。

 アルコールが抜けきらず、とろとろと浅い眠りが続いた。

 夢でも見ているかのように、昔の記憶が蘇ってくる。

 中央のライセンス試験に合格し、トレセン学園に赴任してきたのは、ちょうど2年前。夏野は当時26歳であり、トップトレーナーを目指すには少し遅咲きのスタートだった。トレセンのトレーナーと言えば、自分のチームを率いて所属ウマ娘を勝利に導くイメージだが、それができるのは4、5年の下積みを経たあとだ。まずは教官として、チーム未所属のウマ娘に教育を行い、経験を積むなかで少しずつ生徒からの信頼を勝ち取っていく。生徒もまた、自らのキャリアが懸かっているのだから、何の実績もないトレーナーの下につこうとは思わない。

 しかし、どこの世界にも例外は存在する。

 赴任したての夏野は、放課後の学内選抜レースを見学していた。これは、いわばウマ娘にとってのオーディションだ。良い結果を出せれば、強いチームのトレーナーから勧誘の声がかかるかもしれない。チームに所属しなければトゥインクルシリーズに出走すらできないため、模擬レースといえど皆必死に走る。このとき、居並ぶトレーナーの注目を一身に集めていたのがマンハッタンカフェだった。中央トレセンに入学できる時点で、人間でいえば東大合格と同等なのだが、そのなかでもカフェは同年代最強レベルと噂されていた。実際、カフェの走りは圧倒的だった。トレセンの芝2400m。最後の直線で疲れた顔ひとつ見せず、大迫力の追込で1着をつかみ取った。当然、一流から中堅まで、多くのトレーナーたちが彼女に声をかけていた。新米の夏野が見ても、彼女は青田買いする価値のあるウマ娘だった。だが、あれだけ圧倒的な勝利を見せつけ、引く手数多にも関わらず、カフェは少し困った顔をしていた。場当たり的に「考えてみます」と返事をはぐらかし、勧誘ラッシュをのらりくらりと回避している。

 やがて声をかけていないのは夏野だけとなった。別に、勧誘してみようとも思わない。未来のスターウマ娘が、どこの骨とも分からぬ新人トレーナーと契約するはずがないからだ。ところか、意外にもカフェのほうから夏野に接近してきた。

「あなたは、どうでしたか? わたしの走りは、どんなふうに見えましたか?」

 心の奥底まで見透かされそうな鋭い瞳。しかし、正反対に声は小さく、ぼそぼそしていて聞き取り辛い。

 このとき何と答えたのか、夏野はよく覚えていない。緊張もあったし、なにより投げやりな気持ちだった。絶対に担当しないと分かっているから、無礼に思われても構わないと開き直り、感じたことをストレートに語った気がする。

 数秒の沈黙ののち、マンハッタンカフェは何も言わずにターフを去った。やはり相手にされなかったようだ。分かってはいたが、少し物悲しい気分になった。ところが、その一週間後、カフェは再び夏野の前に姿を見せた。周囲の目もはばからず、よく通るアルトで宣言した。

 あなたと契約を結びたい、と。

 それがマンハッタンカフェとの出会いであり、チーム・シェアトの始まりだった。学園の規約上、トレーナーライセンス保持者は、ひとりでもウマ娘と契約を交わせば、チーム設立が認められる。トレセン赴任直後にチームトレーナーになるのは異例中の異例だった。それから、夏野はカフェと二人三脚で走ってきた。その道のりは、挫折と困難ばかりの悪路で、幾度となく衝突もした。それでも、瓦解することなくここまで来られた。

 これからもそうでありたい。

 だけど、マンハッタンカフェの真意はどうだろう。

 肩を噛むことをやめたのは、自分に対する執着が薄れているからではないか。もう自分のもとで走ることに情熱を得られなくなってしまったのでは。ネガティブな思考ばかりが黒い泡のように増殖してきたとき、ふと隣から衣擦れが聞こえた。

 絨毯を渡る、かすかな足音。

 身体を覆うシーツが浮き上がる。人間ほどの質量を伴う何かが、もぞもぞと入り込んでくる。夏野はあえて反応しなかった。これは初めてのパターンだな、と寝たふりをしながら頭を冷静に保つ。

「トレーナーさん。起きていますか?」

 声にもならない囁きが、耳元に聞こえる。瞼を閉じているから、彼女の表情は窺い知れない。ただ規則正しい寝息を演じるしかない。

 ひやりと右腕に冷たいものが触れる。続いて右足にも。カフェの四肢が、絡みついてくる。この行為が、いったい何を意味するのか見当もつかない。親愛の一表現なのか、あるいは絞め殺したいという暗示か。

 いずれにせよ狸寝入りをやめる勇気はなかった。

「あなたは、どうするんでしょうね」

 そう呟くなり、カフェの全身がくたりと横たわる。互いの吐息が混じり合う距離で、カフェは眠りに落ちていった。こういうときは深く考えてはいけない。ドツボに嵌まって睡眠時間を損するだけだと、夏野は知っている。

足に接する違和感について尋ねるのは、明日でも遅くはない。

 

 翌日、夏野が目を覚ますと、隣にカフェはいなかった。すでに着替えをすませ、リビングチェアで大人しく夏野の起床を待っていた。

 今日、ふたりは日本に帰国する。

「昨日どこにも行けなかったし、せめてエッフェル塔だけでも見ていかない?」

 ルームサービスの朝食を終えたのち、夏野が提案する。カフェは気のない声で、いいですよ、とだけ答えた。

早朝のパリは、焼きたてのバゲットの香りがした。欧州の空気に馴染んだ我々の鼻は、日本に帰ったら醤油のにおいを感じるだろうか。他愛もないことを考えながら、エッフェル塔前の公園を歩く。

「次は有馬記念ですか? 頑張らないといけませんね、リベンジのためにも」

 隣のカフェが尋ねる。しばし休養を取ったのち、トレーニングを再開して年末の有馬記念に合わせるのが王道だった。凱旋門賞で負けても、それほど国内の人気には影響しない。グランプリレースはファン投票で出走者が選ばれるため、カフェはほぼ確実に走ることとなるだろう。

 しかし夏野は、肯定も否定もしなかった。

「ねえ。脚、痛くない?」

 率直に尋ねる。カフェは、きょとんとした目で夏野を見上げていた。

「いえ、特には。筋肉疲労の鈍痛はありますが、休めば治ると思います」

 そう答えるカフェの前で、夏野はしゃがみこむ。黒いタイツで覆われた彼女の脚を、両の掌で包み込むように、ゆっくりと触診する。カフェは一瞬、びくりと肩を震わせたが、その後はじっと身を委ねていた。

「ちょっと熱もってる。痺れがあるんじゃない?」

 さらに夏野が問い詰めた。しかしカフェは一歩下って、トレーナーの手から逃れる。

「大丈夫です。それ以上触ったら、蹴り飛ばしてしまうかもしれませんよ?」

 珍しく強い口調だった。ウマ娘の脚力で蹴られたら、当たり所によっては内臓破裂もあり得る。それでも夏野は、躊躇いなくふくらはぎの筋肉を圧迫する。

 一瞬の表情の変化を見逃さなかった。いつもは能面のように美しい貌に、苦痛の皺が寄った。

「帰国したら、すぐ受診するから」

 夏野は言った。返す言葉もなく、カフェは恭順の意を示すかのように耳を垂れた。

 シャルル・ドゴール空港までタクシーを使い、無理を言って早い便に切り替える。幸い席に空きがあった。日本まで約12時間のフライト。それほど症状が重篤ではないのが救いだが、空中の牢獄で気が休まるときはない。離陸前に、マンハッタンカフェ故障の連絡を学園には入れておいた。羽田空港に到着したとき、すでにURAから専用の搬送車が用意されており、そのまま提携病院に向かう。

 その間、マンハッタンカフェは無言だった。楽観も悲観も口にせず、この先の運命を見据えるかのように、金の瞳は微動だにしない。

 自力歩行できるし、骨折の兆候も見られない。それでも夏野の不安が消えないのは、ある病の存在だった。気づかないうちに症状が進行し、痛みや発熱により自覚する頃には走者生命を脅かすほどに深刻化する、ウマ娘特有の脅威。

 病院に到着後、すぐにマンハッタンカフェはウマ娘専用の検査室に通される。夜の待合室でひとり気を揉むこと一時間。ようやく看護師から呼び出される。

 診察室にて、カフェの隣に立つ。

「屈腱炎です」

 初老の主治医は、余計な前置きをせず結論だけを述べる。

 トレーナーならば、ウマ娘のいかなる疾患に対しても毅然としなければならない。それはひとえに、担当する娘たちの心を守るためだ。しかし、理屈では分かっていても、感情はついてきてくれない。

 想像の産物でしかなかった最悪の事態が今、現実となって殴りこんできた。

「中度の炎症を起こしています。すぐ入院となりますので、夏野トレーナーは手続きをお願いします」

 淡々とした声で主治医は言った。

 退出する前、マンハッタンカフェの顔を見た。そこに不安も悲しみもなく、ただ穏やかな瞳で虚空を見つめていた。

 




3月5日は、マンハッタンカフェの誕生日。
愛するウマ娘に祝福の気持ちを込めて、この物語を綴ります。
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