【完結】白嶺に染まぬ黒 ~大人のためのウマ娘 プリティーダービー~   作:モルトキ

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カフェと夏野の冒険、いよいよラストスパート。

過酷なる登山の先に、カフェは何を見出すのか。


第11話 氷の栄光

 深夜だというのに空は夕焼け色だった。1月1日、午前0時5分。

 年越しは、雪上車のなかで迎えた。二両編成のうちの2号車にみんなで集まり、すき焼きパーティーを行った。大人組はビールで乾杯し、カフェは久々のコーヒーを満喫していた。南極大陸では毎日がビバークのような生活のため、ちょっとした楽しみを全員で増幅させる努力が必要だった。

 談笑しながらも、金色の瞳は、心ここに在らずといった様子で遠くを見つめている。解散後は、1号車に男性陣が、2号車にカフェと夏野が分かれて眠る。燃料節約のため、就寝時間前にエンジンを切る。移動中は防寒着を着ていると暑いくらいだが、エンジンが止まると急速に車内は冷えていく。暑さと寒さの塩梅がちょうどいいタイミングで寝袋にもぐりこまなければならない。朝が来れば、オレンジ色の鉄箱内は、マイナス12℃前後まで冷やされる。もはや冷凍庫と変わらない。

「当初の予定なら、もうベースキャンプで荷揚げを進めているはずですよね」

 二段ベッドの上段から、カフェが呟く。

「大丈夫。飛行機が飛ばないなら、少なくともハンニバル隊はわたしたちより先にベースキャンプに入ることはできないよ」

 そう言って、カフェを安心させようとする。今回の登山に限っては、登り切って終了ではない。先んずべきライバルがいる。かつて南極点初到達をかけて争った、アムンゼンとスコットのように。

「今は南極高原を越えることに集中しよう」

「分かりました。焦りは禁物ですね……」

 それっきり、カフェは大人しく寝息を立て始める。慣れない氷堀りと雪上車の環境に、だいぶ疲れているようだった。

 空路でのベースキャンプ入りを公言していた以上、ハンニバル隊も南米で足止めを喰らっているはずだ。しかし、あの葦毛の怪物は、これまで幾度となく人々の常識を覆してきた。出し抜かれる不安がないと言えば、嘘になる。それを口にしたところでカフェを不安にさせるだけなので、胸の内に押しとどめていた。

 どうか旅程通り進んでくれと夏野は祈る。雪はそれほどでもないが、風は強まっている。四六時中台風が吹き荒れているような状態だ。日本の雪上車は、見た目はともかく性能は世界トップクラスと聞く。燃料がある限り、そう簡単に機能不全には陥らない。死の大陸の真ん中では、それだけが心の拠り所だ。

 走り続けること五日。いよいよ南緯80°の内側に突入する。真っ白の地表をさらさらと流れる霧のような雪煙の向こうに、小高い山群が見えた。到達不能極の入口を知らせる、ベンサコラ山脈。一見すると小さな山の集まりだが、実は富士山と同じ、3000m級の山々の連なりだ。大部分が分厚い氷に埋もれ、頂上付近のごく一部だけが露出している。南極大陸の異常さを象徴する光景だった。

 先頭を行く1号車から無線通信が入る。ここから先は、観測隊にとっても初上陸のため、十分周囲に警戒せよとのことだった。

「警戒といっても、できるだけ平らな氷の上を進むくらいしかできないですね。あとは天運次第ってやつです」

 2号車を運転している樋口が笑う。2号車は、三人の隊員が交代で運転していた。カフェ隊専属運転手の座を巡って争いが起きたため、交代制になったらしい。

 天運という彼の言葉は、的確な表現だった。

 南極の空の気まぐれは、人類の叡智や努力など、いとも簡単にひっくり返してしまう。彼の言葉からわずか数分後、昭和基地の予報になかったブリザードが吹き荒れ始めた。

 1月7日午前11時、全車両が停止した。ブリザードには風の強さや持続時間によって、A級、B級、C級に区別される。最も強いA級では、平均風速は秒速25m以上で、日本ならば街路樹がへし折れ、標識が傾くレベルだ。ところが、今回の突発的なブリザードは、従来の区分を大きく上回る規模だった。風速はゆうに35mを越え、ほんの二、三メートル先の景色が見えない。鋼鉄の車両が、常に左右に揺れていた。

 次の燃料のデポ地点までは、あと40kmほどある。去年、内陸探査に向けて燃料をデポしていたらしいが、ここまでの悪天候は想定していなかった。例年なら問題なく燃料を補給できる間隔だが、何度も超A級のブリザードに阻まれると、デポ地点より手前で燃料が枯渇する惧れがある。

 エンジン付近の排熱により、冷凍された水や食料を溶かしているため、車両機能が停止すれば内部の人間は半日で死ぬ。

 しかし今現在、車内では進むか戻るか以前の問題が発生していた。わずか1時間も経たないうちに、雪上車のドアが雪に埋もれ始めていた。風と向かい合うように車体の方向を揃えていても、夏季とは思えない猛烈な吹雪が両脇に積もっていく。閉じ込められてしまったら給油作業ができない。一日に二回、ドラム缶二本の燃料が必要だった。

 選択の余地はない。猛吹雪の中の雪かきが始まった。夏野は極地用防寒着に加え、目出し帽で完全に皮膚の露出をなくす。外気温はマイナス37℃。エヴェレストでも経験したことのない寒さだ。身体にハーネスを取り付け、カラビナでしっかりロープを車体に固定する。たった数メートルでも、視界のきかないブリザードの中に吹き飛ばされたら遭難だ。自分の吐息で、たちまち目出し帽が凍りつく。息がしづらい。7000mでのキャンプを思い出す。

 当初は交代で雪かきしつつ、男性隊員3人で燃料の補給を行うつもりだった。しかし、カフェはその計画に反対した。

「わたしが燃料を担当します。ドラム缶一本くらいなら片腕で十分です」

 自信に満ちた声だった。最も危険な任務であるため井出隊長は少し迷ったが、カフェの案が隊にとって最善であることは分かり切っていた。

『雪上車の後部まで運搬を頼みます。あとは、僕たちが給油する。どうかご安全に』

 井出から無線が入る。さっそくカフェは装備を身にまとう。2号車の後方には、物資輸送用の橇が牽引されている。カフェは橇まで続く鋼線にカラビナをかけ、雪上車を降りた。とたんに、息ができなくなるほどの暴風に揉まれる。南極のブリザードを肌で感じながら、少しずつ鋼線を辿って橇に近づく。途中、何度も足が浮きかけた。降り積もったばかりの雪にはアイゼンも刺さらない。風防ゴーグルの向こうは、底なしの暗い灰色だ。たった5メートル先にあるはずの橇が影も形も見えない。なんとか飛ばされないように橇の縁につかまり、ドラム缶を両腕で抱きかかえる。その重みを利用して、一歩一歩、雪上車まで戻った。これを四往復して、半日分の燃料を運び出す。

 過酷な運搬作業から戻ったカフェを、夏野はすぐにエンジン近くに呼び寄せた。冷え切った手足に、排熱が染みていく。

「雪かきは大丈夫ですか?」

 カフェが尋ねる。彼女の耳にも凍傷の兆しがないことを確認し、夏野は一息ついた。

「なんとかね。カフェは身体を温めていて」

 そう言って、夏野は再び防寒具をまとった。ブリザードが収まるまで、3時間おきに雪かきをしなければならない。昼も夜もなく、ひたすらマイナス30℃の風に打たれながらドアの前の雪をどける。

『まるで冬季の吹雪だ……』

 無線から、井出隊長の呟きが聞こえた。二百年前にスコット隊を襲ったのも、夏季としては異例のブリザードだった。地球温暖化だのオゾンホールだの最近騒ぎ出した人類を尻目に、南極は太古から気ままに吹き荒れている。

 結局、ブリザードは丸一日以上も続いた。ようやく風雪が落ち着いたとき、隊員たちはもう腕が上がらなくなっていた。隊長の判断で、食事後にすぐ就寝となった。燃料節約のためエンジンを切る狙いもある。

 1月9日早朝、雪上車は息を吹き返した。なんとか今日中に燃料のデポ地点まで辿りつかなければならない。雪が砂塵のように舞う白亜の不毛地帯を進んでいく。分厚い雲に覆われ、宵の口のように周囲は薄暗い。ブリザードの等級は下がったものの、日本ならば立派な吹雪が続いている。

 あと二日ほどでエルスワース山脈が見えるはずだ。ようやくベースキャンプへの道が開ける。デポ地点に至る前の、最後の給油準備していたときのことだった。

「……なんでしょう、これ?」

 おもむろに呟くカフェ。夏野の前で、突然しゃがみこみ、顔を伏せるようにして耳を床に向けた。

「どうかした?」

 夏野が尋ねる。人間よりも遥かに優れたウマ娘の五感が、何かを感じ取ったのかもしれない。

「履帯から伝わる振動音が、微かに変わりました。積雪地帯から氷床に変わったんでしょうか……」

 そう言って窓の外を覗こうとしたとき、いきなりカフェの尾が逆立った。

「今すぐ車両から出てください!」

 カフェが叫ぶ。同時に、地響きのような轟音とともに床が傾き始める。説明している暇はなかった。運転席にいた柏原の腕を掴み、反対側のドアから外に放り出す。

「カフェ!」

 傾きつつある床から間一髪で外に脱した夏野が、カフェに腕を伸ばす。なんとか互いの手を繋ぎ、雪上車の左方向に脱出する。非常事態を察知し、1号車はすでに停止していた。

 すぐさまカフェは車両の反対側に回り込んだ。バキバキと骨身に響く不気味な音とともに、2号車がさらに傾いていく。右側の履帯が、まるでアリ地獄のように雪面に沈んでいた。

 クレバスだ。

 全貌の見えない、ヒドゥン・クレバス。分厚い氷雪が橋状に積もり、その姿を隠していた。人が歩いた程度ではびくともしないブリッジだが、雪上車の重みには耐えきれなかったらしい。

 なおも傾いていく2号車。引きずられる後部の橇。カフェはとっさに、携帯していたアイスピッケルで氷を砕き、そこに踵をかける。そして、橇を牽引していた鋼線を全力で引いた。

「ダメです、傾きが止まりません!」

 カフェがあえいだ。これ以上沈めば、カフェの力をもってしても、11トンの車体を支えることは不可能だ。足元の氷が、みしみしと音を立てて砕けていく。防寒用の手袋が摩擦で引き裂かれ、露出した皮膚に鋼線が食い込む。

 そのとき、クレバスを覆っていた氷雪が崩れ落ちた。真っ白だった大地に、突如として闇が口を開ける。幅4メートルはあろうかという氷床の裂け目。

 雪原に擬態していた巨大生物が、雪上車を飲み込もうとしているかのような光景だった。

「カフェさん! 2号車は放棄します! 橇のロープを外したら手を放してください!」

 設営班の樋口が言った。しかし、カフェは唸り声をあげながら首を横に振る。ここで雪上車を失えば、南極高原を往復できなくなる。つまりヴィンソンマシフ敗退を意味する。

「こんなところで……負けたくない!」

 カフェは吠えた。鋼線を掴む両手から血が滲みだす。滴る前に凍りつき、赤黒いつららを作っていく。そうしている間にも、カフェの身体は、じりじりと奈落に引き寄せられていく。

「分かった! 橇の牽引ロープを1号車に繋ぎかえる! それまで耐えてくれ!」

 井出の判断は早かった。カフェは無言でうなずく。すでに夏野は橇からロープを外す作業に取り掛かっている。1号車がその場で旋回し、2号車とは反対の向きに車体をつける。樋口と柏原のふたりがかりで、重たい鋼線を1号車の後方に取り付けていく。しかしその間にも、カフェは2号車に引きずられる。ピッケルで切った氷の足場が潰れて、ふんばりがきかなくなっていきている。

 いつの間にか血は止まっていた。えぐれた皮膚が鋼線に癒着しているのかもしれない。たとえ肉が抉れようと手放す気はなかった。

「まだ左の履帯は生きています! 合図をくれたら、わたしが乗り込んで後退させます!」

 夏野が叫んだ。それは駄目だとカフェは言いたかったが、もう声を出す余力もない。とうに40秒経過し、筋肉内のブドウ糖が枯渇している。いつ力尽きるか分からない。そうなれば、夏野はカフェと2号車とともに奈落の底だ。

「頼む! 合図はこちらから出す、車両の隣で待機してくれ!」

 運転席の扉から身を乗り出し、井出は言った。

 2号車に向かい、走り出す夏野。途中でカフェと目が合った。冷静な、力ある瞳をしていた。わたしは大丈夫だからカフェも頑張れと、目で訴えていた。

「ロープ固定完了!」

「牽引確認よし!」

 樋口と柏原が井出に報告する。

「全速後退! 夏野さん、お願いします!」

 ありったけの声で井出は叫んだ。それと同時に、夏野が傾いた2号車内に飛び込む。非常時に備えて、一通りの運転は学んでいる。ギアをバックに入れて、左履帯のアクセルを吹かす。車体が左後方にゆっくりと回り始める。その角度が1号車の向きと重なったとき、ふたつの車体の進行方向がひとつになり、合力が生まれる。

 沈んでいた右側の履帯が、ふたたび氷の上に戻る。

 カフェの両腕から、ふっと重量感が抜けた。全隊員の連携により、2号車は氷の奈落から生還した。

 隊員たちの歓声は、カフェの耳には届いていなかった。全身の筋肉から魂が抜けて、その場に膝をつく。しかし、完全に脱力しているのに両手はロープから離れなかった。血が凍結し、ロープと一体化している。動けないことを伝えたかったが、思うように肺が膨らまない。長距離レースのラストスパート後みたいに、身体の自由が利かなくなっていた。

 2号車から飛び降りた夏野が駆け寄ってくる。登山家である彼女だけが、今カフェに起きている現象を理解していた。右手には、車内で沸かしてあったポッドを掴んでいる。雪を掻き集めてポッドの中に入れ、ぬるくなった湯をゆっくりとカフェの両手にかける。夏野は手袋を脱ぎ、素手で湯を揉みこむように、凍った血液を溶かしていく。それを何度も繰り返し、カフェの手は冷たい鋼鉄から解放された。

「ありがとうカフェ。すぐに手当てするから車に戻ろう」

 カフェを支えながら立ち上がる夏野。その手は早くも寒さにやられ、赤と紫の斑に変色している。手袋をつけてくださいというカフェの囁きが聞こえないふりをして、夏野は1号車内に彼女を運び入れた。エンジンルームの傍に座らせ、傷口を消毒して包帯を巻く。処置が早かったため、幸いにも剥がれたのは表皮だけで、皮下部位の凍傷は進んでいなかった。

 隊員たちはカフェの献身を讃えたが、本人はそれをやんわりと拒んだ。誰かひとりでも欠けていたら、2号車は失われていた。全員の力で南極からもぎ取った一勝だった。

 カフェを車両後部で休ませつつ、隊は出発する。休んでいる暇はなかった。また超A級のブリザードに足止めされたらデポ地点まで燃料がもたない。

 南極に絶対はない、と井出は言う。季節外れのブリザードも、巨大なクレバスも、ごく低い確率だが発生するときは発生する。出くわしたら腹を括るしかない。エヴェレストのデスゾーンと同じだ。そこかしこに、死の入口が待ち構えている。

 強まる風に不安を煽られつつも、なんとか最終デポ地点に辿り着いた。しかし、ここからエルスワース山脈までは、雪上車でも、あと二日はかかる。燃料はもちろん、食料の残量も心配だった。

 その夜、カフェは夏野と今後の進路について相談した。翌日、朝食の席で観測隊員にひとつの提案をする。

「最終デポ地点からは、徒歩で進みたいと思います」

 カフェが、その意図を説明する。エルスワース山脈まで雪上車で進めば、また不測のブリザードに襲われた際、復路の燃料が足りなくなる。さらに、データが不十分な南極氷床では、いつどこでクレバスに嵌まるか分からない。登山と観測任務を両方達成するためには、ここで二手に分かれるのが最も合理的だった。

「クレバスの回避は、徒歩のほうが断然正確です。食料を分けていただけたら、わたしたちはヴィンソン山に登った後、最終デポ地点まで戻ってきます」

 夏野が補足する。正規の隊員でなかろうと、生死に対する責任は平等だ。万が一のことがあれば、登山隊を切り捨ててでも隊員には帰還してもらわなければならない。

「手の怪我は大丈夫か?」

 井出隊長が尋ねる。カフェは登山に支障ありませんと答えた。見た目は痛々しいが、筋組織が壊死しているわけではない。凍傷よりは、よほどマシだった。

「よし、そのプランで行こう。僕たちはデポ地点周囲で観測任務を行う。下山してベースキャンプに戻った段階で、一度連絡をくれ」

 少し逡巡したのち、井出隊長は決断した。

 登山スケジュールは、デポ地点出発から最短で10日間を見込んでいた。おそらく順調に進むことはないだろうと、誰もが予見していた。井出ら観測隊は、当初からぎりぎりまでデポ地点に留まる腹積もりだった。自分たちが引き返せば、その時点で登山隊の死は決する。夏野も、明言は避けたが彼らの気持ちを察していた。軽油の残量を考えると、どれだけ粘っても14日間が限界だ。

 1月11日。薄曇りの早朝だった。

 雪上車に積載していた、ボート型の引き橇を下ろす。フィンランド語で『アキオ』と呼ばれ、雪山のレジャー施設では怪我人の救助にも使用される小型の橇だ。そこに必要な分の食料を積み込む。カフェは、自らこの橇を引くことを申し出た。ウマ娘に荷を牽引させることに、夏野は倫理的な抵抗感を覚えた。その光景が、戦争中の強制労働を思い起こさせるからだ。しかし、これが最も合理的な移動手段だとカフェは譲らなかった。その代わり、夏野はテントなどの登山装備ばかりを背負う。食料は道中に消費され、少しずつ軽くなる。せめてこれくらいは貢献しなければ、バディとして気が済まなかった。

「みなさん、ここまでお世話になりました。行ってきます」

 準備を終えた夏野とカフェが頭を下げる。

「こちらこそ、ふたりがいなければ観測任務を全うできなかった。ここで凱旋を待っています。ご安全に!」

 井出が答える。南極氷床での観測に挑む3名の仲間が、登山隊を見送る。

 

 歩き始めて2時間ほどで、雲が晴れてきた。久々に白い太陽がふたりを照らす。しかし、これは祝福の光ではない。気温が急激に上がり始め、アウターを着ていると汗をかくほどだった。衣類は全て化繊だが、大量の汗を吸うと、気化がうまくいかず、知らないうちに凍結する危険がある。温かくなったとはいえ、気温はマイナス10℃。難しい体温調節が、歩くだけで必要以上の体力を奪う。さらに光も厄介だった。不純物のない雪に覆われた大地は、太陽光の90%を反射する。つまり上下から太陽が照りつけているような状態だ。日焼け止めを塗れない眼球には、サングラスが必須だった。裸眼のままだと角膜が傷つき、一時的に視力を失うこともある。

 晴れていようが曇っていようが、南極は脅威しかもたらさない。

 カフェは、足裏の感覚に最大限集中していた。クレバスを覆う氷雪は厚いぶん、感知が難しい。今回は橇を引いているため、万が一にも落ちるわけにはいかない。日が傾くころには、すでに午後10時を回っている。時間間隔が狂う違和感のなか、極地用テントを設営する。強風にも耐えられる円筒型のトンネルテントだが、念のため周囲を氷のブロックで囲んだ。

 風のない、静かな白夜だった。

 真の静寂というものを、ふたりは初めて知った。

 生命の作り出す雑音が完全に絶えた世界。テントの中で寝袋にくるまっていると、耳の奥に心臓の鼓動が聞こえる。砂塵による大気汚染がないため、どれだけ寒くても吐く息は白くならない。カフェも夏野も、ここでは剥き出しの命に過ぎない。膨大なる白に今にも掻き消されそうな、ちっぽけな命がふたつ、この大陸の中枢に挑戦している。

 浅い眠りにつくまで、互いに言葉はなかった。見据える頂点は、ひとつしかない。

 1月13日。雪煙のむこうに、その山が姿を現す。

 数万年かけて氷河に削られた、険しくも優美な山肌の曲線。てっぺんから麓にいたるまで、隙間なく真っ白だった。到達不能極のなかに聳える山脈。南極大陸最高峰、4892mのヴィンソンマシフだ。

 その全貌を見ただけで、震えるような達成感が胸の底から湧いてくる。日本を発ってから41日、やっと足元まで辿り着いた。ここからが本当の勝負だというのに、夏野はひどく疲労感を覚えていた。

 ベースキャンプに荷物を下ろす。テントのなかで、ずっと橇を引いていたカフェの背中をマッサージする。ハーネスが食い込んだ部分は、うっすらと青あざになっていた。

「ハンニバル隊の痕跡はありませんね」

 昼食にインスタントラーメンを食べた後、ココアを淹れながらカフェは言った。今年のベースキャンプには、テントひとつ見当たらない。

「それだけが救いだよ。ずっとチリで足止め喰らっていてほしい」

 夏野は呟くように言った。長い旅路によるバディの疲弊を、カフェは感じ取っていた。ベースキャンプの標高は2140m。3000m以上の順応には、やや高度が足りない。ウマ娘のカフェにとっては酸素と栄養があれば何とかなるが、人間の夏野がアルパインスタイルでの登攀についてこられるのか心配だった。

「ごめん、白夜のせいで生活リズム狂ってるのか、あまり眠れてなくて。でも大丈夫、エヴェレストのキャンプに比べたら全然マシ」

 問われる前に、自分の状況を伝えておく。それでもカフェの金色の瞳は、じっと夏野を観察していた。

「今日は休養日にして、明日からアタックにしませんか? まずはローキャンプ地まで600mを登り、そこで一日順応しましょう」

 カフェが提案する。ヴィンソンマシフのルートには、ふたつのキャンプ地候補がある。2750m地点のローキャンプと、3770m地点のハイキャンプである。通常は、高所順応のためにローキャンプで荷揚げ作業も含めて二日滞在し、ハイキャンプまで移動、その翌日に山頂アタックをかける。これは、全てがスケジュール通りに進んだ場合であり、天候の急変に備えて3、4日は予備日を設けることが前提となる。しかし、日程に自由がきくのは、ツアー会社によるガイド登山家や荷揚げスタッフの支援があるからだ。

 チーム・シェアトには余力が微塵もない。一日の遅れが、確実に死を近づける。自分たちだけではなく、同行した観測隊員も巻き込むことになる。

「今日中に、ローキャンプまで行こう」

 夏野は言った。ベースキャンプからローキャンプまでは、山塊のふもとを迂回する、なだらかな登りとなる。

「予報では、5日後に大きな低気圧が南極半島にかかるらしいけど、今までの経験上、あまり当てにならない。急ぐにこしたことはないと思う。ローキャンプまでなら、体力の消費は少ないから、今日の一晩で順応を進められる。600mあがるだけだから、睡眠中の影響も少ないよ」

 夏野の提案を、カフェは受け入れた。互いの体調が万全なら、ハイキャンプ地まで一気に登りつめたいところだが、無理をすれば後に響く。ここは到達不能極だ。救助ヘリは来ないし、医師のひとりもいない。

 簡易テントで食料の選別を行う。下山後に最終デポ地点まで戻る時間を二日と見積もり、その分は橇とともに残しておく。あたりに野生動物などいないため、氷のブロックで簡単に覆えばデポ完了である。乾物や、行動食となるチョコレートとタブレットをバックパックに詰める。タキオン印のカロリースティックが、こんなに頼もしく見えたことはなかった。

 ローキャンプ地までは、トラブルなく辿り着けた。だが、他の登山者がいないため道は踏み固められておらず、ブリザードの残雪がそのままになっている。緩やかな坂を登るだけでも苦労した。

 かなり体力を消耗したが、結果的に夏野の判断は正しかった。

 突然、エルスワース山脈を雲の傘が覆い始める。殴りつけるような横風が、ローキャンプに吹き荒れた。風はみるみる雪をはらむ。ふたりは急いでテントを組み立て、周囲を氷のブロックで覆う。

 予報にはなかったブリザード。ものの数分も経たないうちに、周囲がホワイトアウトするほどの猛吹雪となった。風に強いはずのトンネルテントが、おもちゃの風船みたいに激しく煽られる。夜になり日が傾くと、テント内の気温はマイナス20℃まで下がった。4時間ほどで雪は小康状態になるも、人が立って歩けないほどの強風が続く。いつまでも終わらない台風のようだった。

 だが、天候よりもカフェが心配していたのはバディの体調だった。ビバーク1日目で、固形物をほとんど受けつけなくなった。この程度の標高ならば、しばらく安静にしていれば高山病の症状は治まってくるはずだが、2日目になっても夏野の食欲は戻らない。むしろ悪化していた。乾物は諦め、わかめスープなどの汁物で栄養補給を試みるも、飲み込んだとたん、テントから身を乗り出して吐いてしまう。行動食のアミノ酸とブドウ糖のタブレットを口に含ませ、ゆっくり唾液と一緒に飲み込ませる。念のため服用させたダイアモックスも効果はなかった。

「大丈夫、エヴェレストのキャンプ3に比べたら全然マシ。大丈夫、大丈夫」

 夏野はうわ言のように大丈夫と繰り返す。

 3日目にして、ようやく風が歩行可能なレベルまで収まってきた。ハイキャンプに移動するチャンスだ。これを逃せば、予報にあった低気圧の本体が迫ってくる。

「行こう」

 荒れた唇で、夏野は言った。その目には、揺るぎない決意が宿っている。カフェはしっかりと夏野と自分のハーネスをロープで結んだ。

 ローキャンプからハイキャンプまでは、約1000mの登りとなる。平均傾斜45°の急斜面だ。ブリザードの雪が、ところどころ腰の高さまで積もっている。カフェは先頭に立ち、その膂力をもって雪を押しのけ、道なき道を切り拓く。

 ここから頂上まで、遮るものの無い稜線を辿る。容赦ない横風が、ふたりに切りつける。体感温度はマイナス40°近くになる。ときおり夏野が遅れて、ロープが張り詰めた。切り立つ稜線では、隣で支えることもできない。しかし、夏野の体勢は崩れなかった。冬季モンブランのナイフリッジや、エヴェレストでのヒラリーステップ。カフェと共にした経験値が彼女を支えていた。

 エヴェレスト北壁に比べたら、技術的に難しい山ではない。人類文明どころか、あらゆる生命を寄せつけない寒さと風こそ、ヴィンソンマシフ最大の脅威だった。

ハイキャンプまであと十数メートルというところで、カフェのハーネスが後ろに引かれた。後ろを拭かえり、カフェは瞳を見開く。夏野が、ナイフリッジの上で膝をついていた。肩を上下させ、苦しそうに喘いでいる。何か身体に異常をきたしているのは明らかだった。慌てて引き返そうとするカフェを、夏野が右手をあげて制止する。ふらつきながらも自力で立ち上がり、せき込みながらカフェの元まで這うように登る。

 ハイキャンプ地に足を踏み入れた瞬間、夏野は崩れ落ちた。四つん這いになり、激しくせき込む。真っ白な雪の上に、赤黒い飛沫が散る。

 血痰だった。

 身体に異常が起きているのは明らかだった。カフェはすぐにテントを立てて、彼女を避難させる。寝袋の上で横になった夏野は身体を丸めて激しく震えており、苦痛に耐えるようにぎゅっと目を閉じていた。その額に手を当ててみると、尋常ならざる熱さ。

「ちょっと失礼しますね」

 アウターをはだけさせ、夏野の胸に耳を伏せるカフェ。収縮する肺から、かすかに雑音が聞こえる。急激な悪寒と高熱、肺雑音。何らかの細菌感染により肺炎を起こしている。

 南極では細菌やウイルスが生存できないため、風邪を引かないという説があるが、正確には間違いである。人間と、人間が持ち込んだ物資には雑菌が付着している。南極入りしてから発病するリスクは常にある。気温が高いときは、観測拠点でも食料を雪の下に埋めなければ腐敗が進む。

 慣れない極地での過酷な旅だ。疲弊した夏野の身体は、日常ならば無害な細菌にさえ抵抗力を失っていた。

 カフェは、ただちに温めたスポーツドリンクで抗生剤を服用させる。本当なら栄養補給も兼ねた点滴がふさわしいのだが、輸液類は凍結してしまうため持ち込めない。嚥下した錠剤とドリンクを吐き戻さないよう、彼女の背中をゆっくりさする。

「しばらく休みましょう。安心してください、わたしが傍にいますから」

 カフェは言った。この薬は、一錠ずつ三日間飲み続ければ7日間は効力が続く。しかし、服用期間中に劇症化が進めば、彼女は死ぬ。携行しているのは最低限の薬剤のみ。目を離すことはできない。

 しかし、夏野は横たわったまま首を横に振った。震える声で、何かを囁いている。

「……北西稜線、見て……」

 その言葉どおり、カフェはテントから出て北西の方角を見つめる。ただ白いばかりの、切り立つ稜線。それを辿っていくと、ふと色彩に違和感を覚える。

 さらに凝視すると、そこにはゴマ粒のような赤い点があった。

 それが何かを理解した瞬間、カフェの全身が総毛立つ。

 テントだ。荒れ狂う異常気象の南極に、自分たち以外の登山者がいる。

「来たんですね、あなたも……!」

 歯を剥きだすように笑いながら、カフェは呟く。もしかしたら、とは思っていた。限りなく低い確率であろうとも、あの葦毛の怪物は成し遂げるかもしれないと。

 そして今、ブランハンニバルは、カフェとほぼ同じ標高にいる。

 ヴィンソンマシフ北西稜。ふつうの登山隊ならば絶対に足を踏み入れない危険ルートだ。そこしか選択肢が無かったのだろう。おそらくハンニバルは、カフェとは真逆の方向からやってきた。空路ではなく、海路で。南アメリカ大陸に向かって、細長く伸びた南極半島に上陸し、陸地と一体化したロンネ棚氷を渡って、エルスワース山脈のふもとに到達したのだ。それしか考えられない。

 雪上車もない、想像を絶する旅路だ。ハンニバルがヴィンソンマシフ登頂にかける想いは、カフェに負けていなかった。

「ハンニバル隊を視認しました」

 テントに戻り、夏野に報告する。

「勝負は五分五分です。頂上までの距離は、こちらのほうが長いですが、敵のルートは難しい。季節外れの強風で相当手こずっているはずです。ひとまず回復を待ちましょう。この状態では、まともに登れません」

 カフェは言った。考えうる限り、最も合理的な選択だった。発熱が治まらなければ、動くこともままならない。もし稜線を移動中に敗血症にでもなれば、彼女を救う術はない。

 しかし、夏野は首を横に振った。

「わたしを置いて行って」

 掠れた声。瞳だけはしっかりと見開き、夏野は言った。

「何をバカなことを。できるわけないじゃないですか!」

 耳を後ろに倒し、カフェは吠えた。南極に来てから、はじめて感情を剥き出しにする。

「……今が勝機だよ。強風と坂は体力を奪う。カフェのほうが断然有利だ。あなたは全力で走れないだけで、体力、筋力は現役の競走ウマ娘に劣らない」

 ときおり咳込みながら、夏野は言った。

「分かってますよ、それくらい。でも、わたしには夏野さんがいないと。あなたがいないとダメなんです。エヴェレスト北壁で思い知ったことです。だから、一緒に頂上を目指しましょう」

 諭すようにカフェは言う。だが、夏野の瞳は頑として揺るがない。

「わたしは足手まといにしかならないよ。熱が下がっても、風の吹きすさぶ稜線を登り切るのは難しい」

 高熱に冒されてなお冷静な判断だった。アタックに参加することが、登頂率どころかバディの生存率まで下げることを夏野は理解していた。

「カフェは、勝たなくちゃいけない」

 自力で上体を起こし、夏野は言った。

「わたしだけじゃない、応援してくれたみんなの夢を背負ってる。ずっと支えてくれた緑川さんも、命がけで応援してくれた観測隊員の仲間も。背負った夢に、応える責任がある」

「それは、あなたの命と天秤にかけるものじゃないんです!」

 カフェは叫んだ。金色の瞳が苦しそうに歪み、唇が震えている。

 『あなたを失うくらいなら負けてもいい』。喉元まで出かかった言葉を、すんでのところで飲み込んだ。

「わたしは死なないよ」

 にこりと夏野は微笑む。ゆっくり右手を伸ばし、カフェの頬をさする。

 荒れ狂っていた感情が凪いだ。窄まっていた瞳孔が緩み、耳は横に垂れる。

「カフェのために、絶対に死なない。生きるために残るんだ。だから、安心して挑んでほしい。山の初登は、一度しかないんだ。一生に一度なんてちっぽけなものじゃない、人類の歴史で、一度しかない。その栄光を掴んでほしい。他の誰でもない、マンハッタンカフェが、ヴィンソンマシフを制した初めてのウマ娘になるんだよ」

 夏野の激励で、カフェの迷いは霧散していく。頬の上で震える右手に、そっと両手を重ねた。

「ありがとう、夏野さん。勝ちます。絶対に」

 黄金の瞳に、決意の火が灯る。

 これでいいと夏野は思う。トレーナーとして出会い、バディとして生死を共にしてきた。ここまで一緒に来られたことが幸せだった。あとは目前の勝利に向かって、背を押してやるのみ。

 夏野の気持ちを受け止め、カフェは決断する。低気圧が接近する前に勝負を決める。そのためには、今すぐ出発しなければならない。白夜の季節であるため視界には困らない。あとはカフェの体力が、ヴィンソンマシフ最後の傾斜に打ち勝てるかどうかだ。 

 夏野は、熱が下がったらローキャンプまで戻る旨をカフェに伝える。手負いの自分は、ひとつでもキャンプを下げることができれば、その後の帰還効率が飛躍的に高まる。

「くれぐれも無理はしないでください。体調が回復しなければ、ここで待機ですよ。あなたが生きていてくれるから、わたしは頑張れるんです」

 カフェが釘を刺す。夏野は嬉しそうに笑った。

 手早く荷物の選別を始める。軽量のタブレットやカロリースティックのほとんどをカフェに持たせた。荷は極限まで軽くしなければならない。一人用の小型ツェルトは、歩行不能なほどのブリザードに捕まったときの保険だ。念のため、予防用の抗生物質を服用しておく。手のひらの怪我は順調に回復しているが、南極では、わずかな隙が命取りになる。

 持っていくべきか一瞬迷ったが、小型カメラもバックパックに押し込んだ。撮影ができなくなった緑川らメディア関係者への、せめてもの土産にするために。

 

「行ってきます」

 振り返らずに、カフェはテントを出ていく。夏野は、横になったままバディの背を見送った。

「勝って、カフェ。あなたの夢を叶えてきて」

 そう呟き、夏野は瞼を閉じる。亡霊の呻き声のような風の音がテント内にこだまする。弱った肉体に、じわじわと忍びよる寒さ。しかし夏野の心は死の気配を寄せつけない。生き残る。バディのために。胸の奥で何度も意志の炎を燃やす。

 

 標高4012m、気温マイナス35℃。

 剥き出しの稜線上を、小さな影が這いあがる。風を考慮すれば、体感温度はマイナス50℃近くになる。新雪に足を取られる。ときには腰の高さまで積もった雪を掻き分けて進む。

 行けども行けども終わらない、白亜の坂。頂上付近は、雪煙に阻まれ白く掻き消されている。しだいに太陽が地平線に近づき、夕焼けのような色彩が山脈を覆っていく。

 息が乱れる。全身に疲労を感じる。そのたびカフェはタブレットを口に放りこみ、嚙み砕く。

 歯を食いしばり、ただ歩く。

 いまだ姿さえ見えない憧れの果てを、まっすぐ黄金の瞳で睨みつけて。

 この道のりは、人生に似ているとカフェは思う。苦しみを抱えた長い旅路。いつ訪れるとも知れない死の瞬間まで、歩き続けることを強要される。競走ウマ娘として、レースで勝つことで飢えを満たしてきた。引退後は、山に登ることで渇きをしのいだ。それを繰り返すことでしか、生きられない。

 レースも登山も変わらない。掴んだとたんに溶けて消える氷の栄光。また飢える。また渇く。次の栄光を欲してやまない。

 その先に待つ結末は同じだというのに。

 苦行のなか、カフェは微笑む。

 もし自分が孤独であったなら、きっと今、笑えていない。牙を剥きだし、目を血走らせ、獣のように猛り、登っていただろう。いずれ命運尽きて死するときまで、苦しみしかない栄光を掻き集め続けただろう。

 しかし今、マンハッタンカフェは独りではない。隣にいなくても、バディは魂に寄り添ってくれる。

「だから、わたしは生きることが楽しい!」

 生命を許さぬ南極大陸に、カフェは叫ぶ。

 氷の栄光で構わない。この偉大なる自然のなかでは、ヒトの一生など刹那の火花にすぎない。だからこそ、一瞬の悦びを積み重ねて生きるのだ。死という結末は同じでも、そこに至るまでの苦しみを幸福に変えるために。

 カフェの想いなど気にもとめず、ヴィンソンマシフは再び風を強める。数分経たないうちに視界が真っ白に染まっていく。カフェは、わずかに岩の切り立つナイフリッジの溝を背に立つ。ツェルトをかぶり、バックパックを脚の間に抱えてしゃがみこむ。

 寒いという感情さえ湧いてこない。タキオンのカロリースティックをかじり、強風に打たれながらじっと息を潜める。過酷なビバークをしているはずなのに、心は微塵も揺るがない。摂取した栄養を、魂が燃焼させる。身体の芯に熱が灯る。

 10時間後、ブリザードはカフェの信念に屈した。雲が晴れ、真っ白な太陽が輝く。まばらな雪が、きらきらと光の結晶のように舞い落ちる。カフェはツェルトを片付け、立ち上がる。純白に輝く稜線。その先に、頂点が見える。

 カフェは、ヘッドランプを外して、かわりにカメラを取り付ける。ラストスパートの光景だけは日本に持ち帰りたかった。

 あと100m。

 稜線を覆う雪に足をとられる。なかば這いつくばるように腰を落とし、ブリザードの置き土産を掻き分け進む。

 あと50m。

 頂上直下のナイフリッジ。最後の難関に差し掛かる。雪に覆われた、切り立つ急斜面。一歩でも踏み外せば命はない。ザイルで安全を確保してくれるバディはここにはいない。しかし、カフェの両脚には、かつてないほど力が漲る。

 あと30m。

 見上げれば、ぎらつく太陽が目に刺さる。下には底の見えない白い奈落。マイナス29℃の大気が肺を焼く。四肢の感覚が薄れていき、雲の中に浮いているような錯覚。たとえ人生がここで終わるとしても、カフェの脚は止まらない。

 あと10m。

 頂上の、わずかな傾斜。未踏の新雪が、鏡のように光っている。燃え尽きていく肉体を精神で突き動かす。

 バディを想う。胸の奥、骨の髄に刻むように、強く、強く、夏野蘭を想う。

 どうか、あと少しの力を。

 一歩。また一歩。小さな歩幅が積み重なり、ついに彼女を最果てに押し上げる。

 視界から白が途絶えた。

 黄金の瞳は、突き抜ける空の青だけで満たされる。

 その場所を左足で踏みしめ、カフェはゆっくりと視線をおろす。膨大なる白。永遠の氷と雪に閉ざされた、波打つような山塊。大地に流れる地吹雪。その全てが今、カフェの眼下に敷かれている。

 標高4892m。南極大陸最高峰。極地の中の極地。マンハッタンカフェは、ウマ娘として世界で初めて、ヴィンソンマシフを制した。

 涙は流れなかった。

 ただ、その光景を瞳に焼きつける。地球上のありとあらゆる命を拒絶する極限の地。その頂点に、ちっぽけな命が、まるで王のように君臨する。

 栄光を掴んだ。世界初の栄光を。人生をかけた夢を。憧れの初登を。歴史に刻まれる偉業を、成し遂げた。

 掴んだ瞬間、その栄光は手のひらから溶け落ちていく。

 それでいいと、カフェは思う。満たされては渇いていく。常にうつろい、繰り返すことが命だと知っている。

 頂上に立っていたのは、わずか五分だった。

 ヴィンソンマシフに背を向ける。カフェの顔は、登山家の表情に戻っていた。すでに新たな戦いは始まっている。

 この極限の地から、バディと共に生きて日本に帰る戦いが。

 

 




次回、最終話。

この作品が完結するまでに、マンハッタンカフェを実装して欲しかった。
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