【完結】白嶺に染まぬ黒 ~大人のためのウマ娘 プリティーダービー~   作:モルトキ

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ターフを去ったウマ娘と、トレーナーを辞めた人間の物語、ここに完結。


最終話  白嶺に染まぬ黒

 勝利の余韻に浸る間もなく、カフェはすぐ下山を始める。

 現在、1月17日午前11時。ベースキャンプまで戻るのに最低でも1日はかかる。そこから最終デポ地点までは2日ほどかかるため、接近してくる低気圧を考慮すると、あまり時間の余裕はない。

 快晴だった空が嘘のように曇りはじめ、雪交じりの風が強まる。吹き曝しの稜線では、なお辛い。全身を煽られながらハイキャンプに到着する。テントはない。夏野は自力で撤収することができたようで、ほっとする。

 夏野に会いたい。誰よりも先に勝利の報告をしたい。その一心でカフェは急いだ。7時間ほどで稜線を降りる。すでに立っていられないほど風は激しくなっていた。ブドウ糖タブレットを歯ですり潰しながら、カフェはローキャンプに足を踏み入れる。もうもうたる地吹雪のなか、芋虫のように横たわるオレンジ色のテントを見つけた。

 テントに入ってきた雪まみれのカフェを見るなり、夏野は泣きそうな笑顔で抱きしめた。結果を尋ねずとも、澄んだ金色の瞳が登頂成功を物語っていた。

「やりましたよ、夏野さん」

「おめでとう、カフェ。よかった、本当に」

 夏野の抱擁がさらに強くなる。マイナス20℃でも汗が噴き出しそうなほど、カフェの身体は火照ってしまった。

「体調はどうですか?」

「熱はだいぶ下がった。食欲はまだないけど、ベースキャンプに下るくらいなら大丈夫だよ」

 涙を浮かべながら、夏野は言った。

 バディの顔を見つめていると、カフェの胸がずきりと痛む。この三日だけで、ずいぶん痩せてしまった。感染症の重篤化は抑えられているが、この環境では完治することはない。軽微な不調は、ずっと続くはずだ。一日も早く、医療設備の整った昭和基地まで戻らなくてはならない。

 すぐにテントを撤収し、ベースキャンプまで移動したかったが、ヴィンソンマシフ周辺は夏の嵐に突入していた。風速37m、マイナス40℃のブリザードが吹きすさぶ。テントの土台は夏野が補強しておいてくれたが、風圧に耐えきれず何度も支柱がねじまがる。そのたびトンネル型のテントは形が崩れていき、座っていても頭がつかえるようになる。ついに支柱の一本が完全に圧し折れた。だが外に出ればブリザードに吹き飛ばされるため修理はできない。雪の重みでテントの半分が潰れていく。畳一枚ぶんほどもないスペースに、身体を寄せ合って横になる。荷物を端によせ、互いの脚を重ね合わせる。鬱血を防ぐため、定期的に上下を交代する。

 眠ることはできない。浅いまどろみを繰り返すだけだ。ときおり瞼を開くと、夏野の青白い顔が数センチ先にある。気まぐれに身じろぎでもすれば、唇同士が触れてしまいそうな距離。

「寒いですか?」

 カフェが尋ねる。

「寒くはないよ。痛いだけ。あとは何も感じない……」

 瞼を閉じたまま夏野は答える。その息遣いに異音はない。薬はちゃんと効いている。補給した栄養量を考えれば、低体温症で死ぬこともないはずだ。しかしカフェはさらに身を寄せる。少しでも夏野の不安を和らげることができればと願う。

 大型低気圧が過ぎ去るまで、三日三晩かかった。節約していた食料も、乾物類は底をついた。まだ風は強いが、今日中にベースキャンプにデポしてある橇まで戻らなければならない。予期せぬブリザードが襲来しないことを祈りながら、テントを撤収する。夏野はときおり咳をしていて、動きが鈍い。

 ベースキャンプまで、残り標高差650m。

 互いのハーネスをザイルでしっかり結び、ふたりは最後の下降を始める。傾斜は緩やかだが、すぐ左側に切り立つヴィンソンマシフの山肌から、強烈な風が吹き下り、頭上に直撃する。殴り倒されそうになりながら、ゆっくりと進む。あと200mほどで、ふもと周りのルートから離れ、なだらかな氷河下のベースキャンプに至る。ようやく、この魔の山に背を向けることができる。

 夏野の体力は、もう限界だった。道中、なんどもカフェの歩速に追いつけず、ザイルが張り詰めた。カフェは何も言わず、彼女のペースに合わせる。あと少しだ、持ちこたえてくれ、と心の中で必死に祈った。

 折り返し地点に差し掛かったときだった。

 カフェは眩暈を感じた。ウマ耳の奥の三半規管が突然、何かに反応する。氷の大地を伝う振動。この地震にも似た感触には覚えがあった。思い出しただけで全身が総毛立つ。エヴェレスト北壁での経験。ウマ娘の力をもってしても、到底抗えない自然の猛威。

 カフェは振り返る。

 夏野の向こう側。聳え立つヴィンソンマシフの山肌が、地滑りを起こしたかのように動いている。稜線から中腹にかけて、雷鳴のような轟音とともに崩れていく。それは、もうもうとした煙のように膨れ上がり、一直線に駆け降りてくる。

 雪崩が来る!

 度重なるブリザードにより降り積もった氷雪が、許容量を超えて一気に崩壊したのだ。

 夏野が後ろを見るより先に、カフェは彼女のもとに駆け寄る。考えたり喋ったりする猶予もなかった。夏野を抱きかかえ、氷河を横切るように疾走する。ここからベースキャンプまでは緩やかな下りになっている。同じ方向に逃げたら、雪崩に正面から飲まれる。希望があるすれば、氷河の端に避難すること。U字状の緩やかな傾斜を登れば、そのぶん雪崩の本流から離れることができる。

 これが、今できる唯一の抵抗だった。

 横目に見ただけで、逃げ切れないことが分かる。ウマ娘を遥かに超える速度で、莫大な質量を伴った白煙が押し寄せてくる。エヴェレストのときの雪崩とは違う。柔らかな新雪だけではない。強風に押し固められた、岩のような氷塊が無数に混じっている。雪崩というよりは、土石流に近い。

 こんなものに巻き込まれたらどうなるか、カフェはすでに理解していた。

 それでも走る。夏野を抱いて、疾走する。レースのときには存在しなかった力が両脚に滾る。勝利したどのG1よりも速く、マンハッタンカフェは雪原を駆け抜ける。バディを死の淵から遠ざけるために。ほんの1%でも、生き残る確率を上げるために。

 その足首を、雪崩の先端が捕らえた。

 夏野はカフェにしがみつき、ぎゅっと身体を丸くする。カフェもまた彼女を抱きしめた。絶対に離さない。そう言わんばかりに強く。

 衝撃、そして暗転する視界。

 痛みを感じる間もなく、意識は途絶えた。

 

 

 誰かに全身を引っ掻かれている。

 無数の爪が、皮膚を削り取るように、がりがりと。志半ばで死んでいった登山家たちの無念が、自分を呪っているのだろうか。

 ここでカフェは気づいた。死者に厭われるなら、自分はまだ生きている。

 走馬灯なら、もう少しマシなものを見るはずだ。

 瞼を開く。夢だと思っていた全身の痛みが、現実になる。視界は真っ暗。ほとんど身動きが取れない。雪崩に埋まってしまっている。カフェは痛みと寒さで意識を取り戻した。

「夏野さん……」

 ハーネスに結んだザイルを掴もうとするが、腰まで雪に埋もれている。無理に身じろぎすると、左腕と脇腹に激痛が走った。おそらく折れている。

 もう一度、夏野の名を呼ぶ。やはり返事はない。なんとか身体を動かせるようにしなければならない。息苦しいが窒息はしていないため、幸いにも地表に近いところまで身体が浮上したようだ。かすかに空気の流れを感じる。

 カフェは痛みに呻きながら、右腕を胸の前に寄せる。関節を動かせるだけの空間をつくるため、少しずつ雪を掘っていく。感触を確かめながら、固い氷を避けて、柔らかい雪だけをどけていく。激痛に耐え、右腕だけを何度も動かして、なんとか上体の周りに小さな空間をつくる。

 ゆっくりと息を吐いて、意識を集中する。呼気が吸気に変わる瞬間、一気に両脚を引き抜く。圧迫された腹部に強烈な痛みが炸裂する。歯を食いしばり、涙を滲ませながら悲鳴をこらえる。やっと四肢の自由が利くようになった。もう一度、ザイルを引っぱる。手ごたえがある。切れていはいない。つまり、この先に夏野がいる。

 横向きになり息を整え、上半身からザックを外す。暗闇のなか、手探りでピッケルを取り出し、ザイルに向かって這うように掘り進む。少ない酸素が消費され、さらに息苦しさが増す。肺が膨らむごとに、槍で突かれるような鋭い痛みが脇腹に走る。だが、全身の苦痛を無視してカフェは進んだ。

 暗闇に慣れてきた目が、微かな光を捉える。青白い煌めきが、うっすらと頭上の氷から透けている。地上が近い。

「夏野さん……。夏野さん……」

 カフェは呼びかけ続ける。余計なことを考えず、ひたすら雪を掻き分ける。ザイルのたわみが消えたとき、視界に白以外の色彩が現れる。オレンジの極地用アウター。そして『TEAM SCHEAT』の文字。

「夏野さん!」

 露出した肩をゆする。しかし反応はなかった。こちら側に引っ張り出そうとするがびくともしない。雪に混じった巨大な氷塊が、彼女の身体を押さえ込んでしまっている。

 すぐにでも地上に運び出さなければならない。

 しかし、下手に掘り出せば、氷塊と雪のバランスが崩れて、夏野の身体が完全に押し潰されてしまう。

 迷っている時間はない。カフェはしゃがみこみ、氷塊に背中をぴったりと張りつける。息を吸い込み、全身全霊で押し上げる。ほんのわずかだが、氷が揺らぐ。

「う、う、ううう……!」

 食いしばった歯の隙間から漏れる唸り声。十数トンはあろうかという氷雪が、みしみしと音をたてて浮き上がっていく。酸素を消費しない、わずか40秒間の戦い。圧倒的な質量に負けて、肺から空気が圧し出される。

 筋肉が裂けても、骨が砕けても、構いはしない。脳のリミッターを外し、起重機のようにカフェは全力を込め続ける。

 愛するバディを取り戻すために。

 せり上がる氷塊に引っ張られ、地表の雪が割れていく。隙間から差し込む青白い光。

 まだだ、まだ足りない。

 体中の血が沸騰する。鼻孔の毛細血管が破れ、眼下に赤黒い雫がしたたり落ちる。

 地球を背負っているかのような重みに、何度も潰されそうになる。だがカフェは一瞬たりとも力を緩めない。さらに氷塊を押しのけていく。

 音がしない。皮膚の感覚もない。ただ己のうちに業火を感じる。

 地上に突き出た氷塊が、軋みながらスローモーションのように傾いていく。

 

 

「ううううううううううううああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」

 

 

 肺に残った空気を振り絞り、咆哮する。

 自分からバディを奪おうとする雪崩に、ヴィンソンマシフに、南極に、魂で喰らいつく。

 ひとりのウマ娘の膂力が、覆いかぶさる雪崩を地表まで押し退けた。低い地響きとともに横たわる氷雪の塊。

 息つく暇もなく、カフェは動かせる右腕で夏野を雪の中から引きずり出す。その顔を見て、カフェは泣きそうになった。生気の絶えた蒼白。紫色の唇。

 血液が循環していない。

 縋りつくように夏野のアウターを剥ぎ取る。力を籠めすぎないよう右手だけで胸部を繰り返し圧迫する。唇を重ね、夏野の肺に息を吹き込む。

 まだ温かい。ほんの一縷の望みがカフェを突き動かす。無我夢中で、蘇生動作を続ける。

「嫌だ、嫌だ、夏野さん……!」

 声に嗚咽が混じる。涙を凍りつかせながら、息を気道に送り込む。ふくらんだ胸が、力なく萎んでいく。

 夏野は息をしてくれない。

「わたしたちは、バディなんです。あなたが死んだら、わたしは一生苦しみますよ。後悔しますよ。だから、死なないでください。あなたは生きなくちゃいけないんです。わたしのために」

 えづきながら、心臓マッサージをする。折れている左腕の痛みを感じる間もなく、祈るように胸を押す。

「お願いです、夏野さん……」

 もう何度目か分からない人工呼吸。かすかな体温さえ失われていく夏野の唇。

「わたしを、独りにしないでよ!」

 感情が決壊するに任せ、カフェは泣き叫んだ。

「今さら、独りにしないでよ……」

 夏野にしがみつき、幼子のように慟哭する。ゆえにカフェは気づいていなかった。防寒手袋に覆われた夏野の指が、ぴくりと動いたことに。

「どうしたの、カフェ……?」

 かすれた声。がばりとカフェは伏せていた顔を上げる。涙と鼻水と、血がぐちゃぐちゃに絡み合い、頬のうえで凍っている。

「ふふ、ひどい顔だよ」

 うっすらと瞼を開き、夏野は微笑む。しかし、すぐにまた昏睡してしまった。カフェは正気を取り戻し、脈と呼吸を確かめる。どちらも、ゆっくりではあるが正常。顔にも血の気が戻り始めている。すぐに外傷のチェックをする。頭部からの出血は、すでに止まっている。ウマ耳を聴診器がわりにして夏野の腹部を探る。内臓、血管ともに致命的な損傷はなさそうだ。しかし、全身打撲と、脳に対する何らかのダメージは間違いない。自力での歩行は不可能だった。

 カフェは、すぐ荷の選別にうつる。夏野のザックは無残に潰されていた。偶然にも氷塊との間に入り込んだことで、夏野を圧死から救ってくれた。歪んだジッパーを開き、非常食のカロリースティックとタブレットだけを回収する。ベースキャンプにデポしてあった荷と橇は雪崩に埋まってしまった。無線で観測隊に連絡を取ることはできない。

 自力で最終デポ地点まで帰還するしかなかった。

 食料をアウターのポケットに詰め込み、カフェはザックの中身を全て捨てた。上下逆にして、肩紐にあたる部分に夏野の両脚を通す。そして、夏野ごとザックを背負いあげた。

 折れた肋骨が、脇腹を突き破るかのような激痛。むりやり悲鳴を噛み殺す。左腕の自由が利かないため、ザイルを胸の前に通して結び、夏野が落下しないように固定する。

「行きますよ、夏野さん……!」

 自分に言い聞かせるようにして、カフェは歩き始めた。脚が折れていないことだけは幸いだった。全力で走れずとも、人間ひとりを背負い、約二日間ぶっ通しで歩くだけの機能さえあればいい。

 風と寒さに比べれば、痛みなど取るに足らない。それが原因で死ぬことはないのだから。

 1月21日、午前11時5分。

 マンハッタンカフェはヴィンソンマシフからの撤退を開始する。橇も燃料もテントも失い、バディは行動不能に陥った絶望的な旅路。デス・ゾーンよりも遅い歩み。足を一歩前に出すだけで、凄まじい苦痛が伴う。一呼吸ごとに肺が悲鳴をあげる。次、ブリザードに襲われたら終わりだ。仮に好天に恵まれたとしても、途中でいずれかの体力が尽きる可能性は高い。とくに夏野は、いつ低体温症で危篤になるか分からない。

 もはやカフェは、気力だけで歩き続けていた。氷原の小さな凹凸にさえ足をとられる。そのたび必死で踏ん張り、夏野を支えた。ときおり思い出したようにカロリースティックをかじる。味がしない。舌の感覚がない。ふと気づけば、足裏の触感もなくなり、雲の上を歩いているかのようだ。

 自我が漂白されていく。意識が身体から溶けだし、この白い大地と同化し始める。

 だが、カフェは歩みを止めない。

 彼女の耳は、かすかな息遣いを拾う。どれだけ極地の風が激しくても、夏野の呼吸音だけは絶対に聞き逃さなかった。その音とも呼べない空気の震えだけが、カフェの命を現実世界に繋ぎ止めている。

 不思議だった。

 人間を背負うという行為が、なぜかしっくり心に馴染む。むしろ、この背の重みが、とうに力尽きているはずの肉体に、一歩を踏み出す気力を与えてくれる。

 そのとき、カフェは唐突に理解した。

 なぜ、ウマ娘のトレーナーは全て人間なのか。疑問に思いつつも当たり前のように受け入れてきた。その答えを、今の自分に見出した。人智を超えた、宿命とも呼べる両者の絆。それがあるから、ウマ娘は人間のもとで走るのだ。人間でしか引き出せない力があるから。

 どれほど歩いただろうか。時間経過を考えることもできなくなったカフェは、その背中に小さな身じろぎを感じる。

「……カフェ?」

 うっすらと瞼を開き、夏野が尋ねる。カフェは無言で、小さな歩みを重ねる。もう喋る余力もなかった。

「助けてくれたんだね、ありがとう」

 耳元で夏野が囁く。意識を取り戻してくれた嬉しさで、濁っていた黄金の瞳にうっすらと涙が滲んだ。

 身体の自由が利かないため、眼球だけを動かして周囲を確認する夏野。太陽の見えない曇天。山影は遠ざかり、進行方向には、灰色がかった雪原がどこまでも広がっている。すぐに夏野は理解する。カフェが最終デポ地点まで歩き通そうとしていること。その肉体はとうに限界を迎えていること。そして、到達不可能と分かっていても、彼女は歩みを止めないことも。

 一歩、また一歩。命を削るようにして、カフェは夏野を運ぶ。

「そのまま、聞いて」

 朦朧とする脳を奮い立たせ、夏野は言った。

「わたしに不安はないよ。後悔もない。カフェと出会ってから、わたしの人生は本当に楽しかった。レースも、登山も、いろんなこと全部、楽しかった。カフェと出会えたことが、わたしの生涯の誇り。だから今、カフェと一緒にいられて、わたしは幸せだよ」

 そう言い終えて、夏野は再び意識を失った。

 カフェは静かに泣いていた。結晶化する涙を、右手で払い落とす。黄金の瞳は爛々と輝いていた。最後の命の灯を燃やし尽くすかのように。

 エヴェレスト北壁のときとは違う。死を前にしても、悲しみも恐怖もない。孤独すらやってこなかった。心を満たすのは、悦びだけだ。人生でいちばん、生きている実感がした。愛する人のために生き、愛する人と共に死ぬ。これほどの悦びはない。

 ゆえにカフェは歩き続ける。

 南極に見せつけるために。マンハッタンカフェの生き様を。

 どれほど時間が経っただろうか。気がつくと、自分の脚は、もうただの一歩も動かなくなっていた。精神だけが、先へ先へと進んでいた。

 それでもカフェは膝をつかない。この白い大陸の一部になるつもりはなかった。力尽きてなお、漆黒の摩天楼は屹立する。悠久の白亜にさえ、彼女を染めることはできない。

 最後の力を振り絞り、カフェは笑う。

 誇り高く、不敵に。人生の勝利者たる悦びをたたえて。

 

 

 

 死の淵に落ちると、いつも幻聴を聞いているような気がする。

 最期に自分を呼ぶのは夏野蘭こそがふさわしい。しかし、カフェの耳をくすぐるのは、まったく別の人物だった。

 ―――なんで、よりによってあなたなんですか。

 幻聴に向かって、鬱陶しそうに文句を言うカフェ。人生の終幕なのだから、もう少し都合のいい感傷に浸らせてほしかった。

 ところが、カフェの抗議を無視して、その声はどんどん強まる。まるであの世に旅立とうとするカフェを妨害するかのように。

「……うるさいですよ」

 睡眠を邪魔された子供のように呻く。

 自らが発した声で、カフェは自我を取り戻した。

 ここは現実だ。瞼を開く。ぼやける視界。一面の白が跡形もなく消え、赤い空が広がっている。焦点があってくると、それがテントの幕であることに気づいた。

 そして、横たわる自分を覗き込むようにしている、銀髪の人物。とても美人だが、彼女をお迎えの天使だとは思いたくない。幸いにも頭上に輪っかはなく、ふたつのウマ耳が揺れていた。

「命の恩人に向かって、ずいぶんな口の利き方ですね、カフィ」

 そのウマ娘は、呆れたように言った。

「ハンニバル? どうして、あなたがここに……?」

「山頂アタックのとき、カメラの電源を入れたでしょう? カメラ映像が、こちらでも確認できるようになったんですよ。その後も、GPSが位置情報だけは発信していましたから、あなたたちの動向は把握していました」

 ブランハンニバルが答える。登頂成功後、カフェはカメラを切ったが、電源自体を落とすのを忘れていた。それが幸運にも救出に繋がったのだ。

「大規模な雪崩の轟音は、反対側にいた我々のところまで聞こえていました。その直後に、あなたの歩みが止まった。3時間ほど動きがなかったので、死んだものだと思っていました。しかし、座標は再び動き出した。しかも、異常なほどゆっくりと。何か致命的なトラブルがあったことは明らかでした。そこで、わたしたちは下山して、追いかけてきたというわけです」

「……夏野さん! 夏野さんは生きてますか?」

 慌てて立ち上がろうとするカフェをハンニバルは寝袋に押し戻す。

「左上腕骨と、肋骨が4本折れています。骨折箇所を固定しているので動かないでください。あなたのパートナーは無事です。骨折や打撲よりも低体温症が危険な状態でしたが、峠は越えました。あなたの隣で眠っています」

 その言葉は聞くなり、カフェは首だけを動かす。すぐ目の前に、夏野の横顔があった。血色がよくなり、穏やかな呼吸をしている。

 カフェは全身の力が抜けていった。涙が、止めでもなく溢れてくる。

「よかった。本当に、よかった。ありがとうございます、ハンニバル。わたしのバディを救ってくれて、ありがとうございます」

 泣きながらカフェは言った。しかしハンニバルは憮然とした顔をしている。

「こちらは日程に余裕がありますから、別に構いません。登山家は助け合うものです。しかし、残念でなりません。せっかく苦労して海を渡って、棚氷を這いずり回り、人員も資源も倍増させて挑んだというのに、最後の最後で風に阻まれるとは。我々が頂点に立ったのは、ブリザードが収まってからでした」

 心底悔しそうにハンニバルは言った。

「あなたは、たったひとりでブリザードを越えて頂点に立った。わたしでは成し得ないことです。もし、わたしがあなたのバディなら、あのとき登れてはいなかった。完敗です。あなたは、わたしのライバルとして相応しい存在であり、わたしが超えるべき壁となりました」

 ふっと表情から力が抜けるハンニバル。寝そべるカフェに、右手を差し出す。

「ヴィンソンマシフ初登、おめでとうございます」

 敬意を込めてハンニバルが告げる。その手を、カフェはしっかりと握り返す。

「ありがとうございます、我が師よ。そして、セブンサミット制覇、おめでとうございます」

 互いの健闘を讃え合う。ハンニバルもまた、ウマ娘として史上初となる七大陸最高峰登頂の偉業を達成した。

「これからも現役を続けるのですね?」

 カフェが尋ねる。

「はい。セブンサミッターになったら、引退して後進の育成に力を注ぐつもりでしたが、まだまだ内なる炎は消えていないようです。あなたを見ていて、そう気づきました」

 そう言い残し、ハンニバルはカフェのもとを去る。

 

 翌日の午前6時、夏野は目を覚ました。ここは死後の世界かなどと勘違いする間もなく、隣で嗚咽をあげるカフェを見て、これが現実であると知る。

 ハンニバル隊の山岳医が、夏野に今の状態を説明する。彼女もまた、人間ではなくウマ娘だった。世界初の、ウマ娘の認定山岳医であるらしい。

 左脛骨、右尺骨、右中指と人差し指を骨折、さらに胸骨にもヒビが入っているとのことだった。全身打撲と低体温のショックで意識不明になっていたが、カフェの応急処置が早かったため奇跡的に一命を取り留めた。

「今のところ、内臓や脳機能に致命的な損傷は見られません。でも、基地に帰ったら、そちらの軍の医療設備で必ず精密検査を受けてください」

 青鹿毛の医者は、英語で夏野に告げた。

 そこで夏野は、自分たちの旅程のことを思い出す。今は1月22日、午後6時。ハンニバルによれば、カフェは雪崩遭難地点から、わずか16kmほどしか進んでいなかったという。自力歩行が不可能な夏野とともに、あと二日で観測隊と合流するのは不可能だった。

「心配には及びません。我々が、チームシェアトを目的地まで送り届けます」

 ハンニバルは言った。隊は、すでに出発の準備を整えている。

「幸いにも、カフィは歩行だけなら可能です。痛み止めを打っても折れた骨には響くでしょうが、そこは辛抱してもらいます。そして、あなたですが―――」

 ハンニバルは、ゆっくりと夏野を抱きかかえる。鎮痛剤が効いているため、あまり痛みはなかった。そのまま外に出て、小さな引き橇に防寒対策を施した夏野を横たえる。

「わたしが橇を引きます。多少揺れますが、我慢してください」

 そう言って、ハンニバルは牽引ロープを自らのハーネスに繋ぐ。

「……いいんですか? 人間を引いて歩くなんて。その、あなたのプライド的に」

 躊躇いがちに尋ねる夏野。ハンニバルが人間に対して差別的な感情を抱いていることは、夏野も気づいていた。しかしハンニバルは、振り向きざまに笑ってみせる。

「確かに、わたしは人間を見下しています。身体能力が劣るばかりか、わたしの能力を満足に引き出すこともできない無能なる種。しかし、あなたは別だ。忘れているかもしれませんが、カフィと同じく、あなたはわたしの弟子なのですよ。人間としては、ただひとりの、わたしの弟子です。師が弟子を助けるのは当然のことです」

 ハンニバルは隊に出発の号令をかける。雪道をもろともせず、力強く橇を引く師の背中に、夏野は心から感謝の言葉を捧げる。橇のすぐ後にはカフェが続いた。

「さすが不死身の白。思ったより衰えていませんね。これは気を抜けませんよ」

 カフェが小さく軽口をたたく。思わず笑ってしまった夏野の前で、「聞こえていますよ」と耳を揺らすハンニバル。

 その後も、ブリザードに見舞われることなく順調な旅路が続いた。カフェと夏野が二日がかりで踏破した道のりを、わずか20時間ほどで乗り越えてみせた。白い地平線近くの最終デポ地点に、豆粒みたいに佇む雪上車が見えてくる。

 チームシェアトが、ヴィンソンマシフから生還した瞬間だった。

「我々が手を貸せるのは、ここまでです。あとは、あなたの手でバディを導いてください」

 ハーネスからロープを外し、ハンニバルは言った。

「十分です。ありがとうございました。どうか、お気をつけて」

 カフェは言った。その瞳には、偽りのない敬意が込められていた。

「また戦いましょう。どこかの山で」

 振り返らず、ハンニバルは進む。淀みない足取りで、ロンネ棚氷を目指して去っていく隊を、ふたりは見送る。その背中は、まだまだ追い越せそうにないとカフェは思った。

「さて、行きましょうか」

 右手でロープを掴み、カフェが牽引する。どこかの骨が折れているとは思えない健脚ぶりだった。雪上車に近づくにつれ、ようやく助かったという実感が湧いてくる夏野。むろん、これから到達不能極を渡り、S60拠点まで戻らなければならない。しかし、その道行に不安は全くなかった。

 橇から荷物を運んでいた井出が、カフェたちに気づく。最初、目を丸くして立ち尽くしていたが、すぐ何事か叫びながら隊員を呼び集めた。彼らはドラム缶を放り出して、カフェたちに駆け寄る。ヴィンソンマシフ登頂と、その後の遭難について説明するカフェ。勝利と生還、ふたつの奇跡に、屈強な男たちは咽び泣いた。すぐに骨折した夏野を雪上車内に担ぎこむ。

 およそ半月ぶりに文明的な室温に触れたカフェは、一気に緊張の糸が切れて、床にへたりこんだ。温かい茶を啜りながら、井出隊長に怪我の状態と、ハンニバル隊に救助されたことを伝える。

「よかった。本当によかった。無線からの連絡がないままだったから、ずっと生きた心地がしなかった」

 涙しながら井出隊長は言った。彼らは、日々の食事を切り詰めてまでカフェたちの帰還を待っていた。それでも、あと二日が限界だったらしい。隊長に苦しい決断をさせずに済んだことがカフェたちは嬉しかった。

 ただちに燃料を補給し、最終デポ地点を出発する。手探りで進んできた往路と違い、復路は精神的な負担も少なく、順調な旅路だった。大きな低気圧が去った後の南極は、夏季本来の天候に戻りつつある。

 来季の観測のため、雪上車はS60拠点にデポしておくことが決まっていた。拠点に到着してすぐ、井上は昭和基地に連絡をとる。迎えのヘリの要請と、チームシェアトの負傷について伝えるためだ。

 通信から1時間後、拠点の小屋近くに、もうもうと雪煙をたてながら着陸する海上自衛隊の輸送ヘリ。衛生科の隊員たちが、夏野の身体を固定して引き上げる。隊員が乗り込んだところで、昭和基地までトンボ帰りする。井出から登頂成功を伝えられていた基地では、すでにお祭り騒ぎだった。貯蔵ビールが開放され、カフェと夏野を祝福する。しかし、当のふたりはパーティーに参加することなく、医務室に直行となった。

 海自医官による精密検査の結果、おおむねハンニバル隊の山岳医の診断どおりだった。しかし、これだけの骨折と全身打撲、さらに低体温症のなか、雪崩から生還できたのは奇跡としか言いようがないと、基地の隊員たちを驚愕させた。

 内陸旅行隊の日程がぎりぎりになったため、慌ただしく越冬交代式が行われる。一年間、極夜の観測任務を勤めあげた越冬隊が、新たな隊にバトンをつなぐ。カフェたちは夏隊の同行者であるため、2月10日をもって昭和基地からしらせに撤収する。

 苦楽を共にした井出、柏原、樋口は今期の越冬隊員でもあった。より過酷な冬の南極に挑むことになる。別れ際、カフェたちは彼らと固い握手を交わした。所属する組織は違えど、彼らは紛れもない、チームシェアトの一員だった。

「またおいで。冬の南極もいいもんだよ」

 そう言って井出は笑った。笑いながら涙する隊員たち。カフェと夏野も、人目を憚らずに泣いた。

「はい。そのときまで、絶対に死にません。だから、皆さんもどうかご安全に。また会いましょう!」

 カフェは言った。金色の瞳は、どこまでも澄み渡っていた。

 新越冬隊に見送られながら、ふたりはヘリでしらせまで戻る。そこからは、また数えきれないラミングと、嵐の海の航海だ。だが、心なしか往路よりも吐き気は緩和されていた。身体が極地に適応してきたのかも、と夏野は笑う。怪我をしていても、艦内ではできるだけ隊員たちと一緒に仕事をこなした。松葉杖なしでは歩けない夏野も、カフェに支えてもらいながら、清掃などをこなす。何かしていないと落ち着かない。完全に南極生活に染まっていた。

 3月25日。しらせは、無事にオーストラリアのシドニーに入港する。そこからは、観測隊員と空路で日本まで帰ることになる。

「成田に着いたら、たぶん報道陣に囲まれますよ。面倒ですね」

 機内でカフェがぼやく。一か月の航海で、だいぶ傷は癒えたが、骨は完全にくっついていない。

「動けるようになったら、感謝のウイニングライブしたらどう? 緑川さんに提案したら、すぐ舞台を用意してくれるよ」

 からかい半部に夏野は言った。

「冗談じゃありません。あの人にそんなこと口を滑らせたら、本当に東京ドームや武道館に立たされます。ライブはもうたくさんです。でも……」

 何かを思いついたように言葉を切る。

「夏野さんが一緒に踊ってくれる条件で、提案するのもアリですね。ライブ」

 にやりと、しかし目には本気の光を宿して、カフェは笑う。小一時間、夏野はカフェのご機嫌とりをする羽目になった。久々に女優の顔に翻弄された。

 

 

 成田空港に降り立ったふたりを迎える、大勢の人間とウマ娘たち。トレセン学園の制服もあれば、社会に出て働くウマ娘もいた。彼女たちは一斉に帽子を脱ぎ捨てて歓声をあげる。カフェによるヴィンソンマシフ初登は、この国のウマ娘史にとって、小さな、しかし決定的な転換点となった。人間であることを強制されず、ウマ娘のまま自由に生きていける社会の第一歩だ。

 群衆のなかに、緑川はやて常任理事の姿もあった。豪快に自らのクロッシェ帽を宙に投げ飛ばす。その下から、まだまだ毛艶のいいウマ耳がぴょこんと飛び出した。そして、帰還したチームシェアトのふたりに拍手を送る。彼女が立っているだけで、カフェの南極行きを応援しなかった外様の報道陣は、主役のふたりに近づくことすらできない。

 すぐにカフェと夏野は、親しい人たちに囲まれた。石黒夫妻は、今度は『おめでとうマンハッタンカフェ』の横断幕を掲げて感涙に咽んでいる。一足先に帰国していた貫谷隊が、ふたりの無事と勝利を祝福する。アグネスタキオンは、真剣な目で、そっとカフェを抱擁した。カフェは無事だった右腕で、彼女の背中を抱き返す。もはや言葉は不要だった。喜びと感謝の気持ちが、互いに直に伝わってくる。

 タキオンを連れてきた広田翔が、夏野の前に立つ。その手には、プラチナの指輪があった。夏野は、そっと左手を差し出す。カフェが、右側から彼女を支える。広田は、ゆっくりと妻となる女の薬指にリングを嵌めた。

「おかえり」

「ただいま」

 命がけの旅の終わりを告げる、何気ない挨拶。夏野蘭は、登山家からひとりの女性に戻ることができた。穏やかな表情のバディを、カフェは微笑みながら見守っていた。

 

 それから、日本はマンハッタンカフェ旋風に湧いた。カフェが撮影したヴィンソンマシフのラストスパートをもとに、これまでの活躍をまとめた特別番組をNUKが放送した。同時に、ブランハンニバルのセブンサミット完登もまた世界中に報じられる。インタビューのなかで、彼女はヴィンソンマシフの初登はカフェであることを証言し、自らの弟子の健闘を讃えた。その姿は、アムンセンの勝利を証明したスコットに例えられるほどの英雄視を受けた。世界中の世論を味方につけてようやく、ハンニバルは本心を口にした。自分を否定し、蔑んできた祖国のレース関係者に一言、「ざまあみろ」と。夏野とカフェが思わず笑ってしまうほどの、無邪気な、すがすがしい笑顔だった。

 マンハッタンカフェは、NUKと、世話になった報道機関や後援組織による記者会見に応じた。その中でカフェは、これからも登山を続けること、ブランハンニバルとの再戦への意気込みを語る。

 カフェがメディアの前に姿を見せたのは、これっきりだった。

 勝利後の自分語りに興味はない。それよりも、バディにとって大切なイベントが間近に迫っている。

 延期すること8カ月。ついに、夏野蘭と広田翔の結婚披露宴が行われた。交流の深い人間と親族のみで行われる、ささやかな式だった。親族といっても、新婦側には父も母もいない。トレーナーとしての人生も登山家としての人生も認めなかった両親を、夏野は容赦なく式から締め出した。その代わり、美瑛町から石黒夫妻が駆けつけてくれた。ふたりは、我が子のように夏野の門出を祝福してくれた。ほかにも、登山活動を支え続けてくれた緑川や貫谷、広田のチームに所属するウマ娘も出席している。アグネスタキオンとエアシャカール、そして未来のトゥインクルシリーズを担う若い戦力たち。ゆえに夏野は、みじんも寂しさを感じない。

 新婦の友人代表として挨拶したのは、他ならぬマンハッタンカフェだった。

「長いようで、短い旅路でした」

 ブライダル会社が用意した挨拶文を全て無視して、カフェが語る。

「およそ一年前、トレセン学園に、マンハッタンカフェという名の奇特なウマ娘がいました。走ることでしか心を満たせない、健気で純粋な儚いウマ娘です」

 嘘つけ、どこが儚いんだ、剛毅で図太いウマ娘の間違いだろ。と広田チームから野次が飛び、会場に笑いが広がる。カフェもまた愉快そうに微笑んでいた。

「そんなウマ娘を担当してくれたのは、やっぱり奇特なトレーナーでした。そのトレーナーは、担当が走れなくなってもチームを続け、担当が学園を去ると、トレーナーの職を辞してまで彼女の隣に立ち続けました。トレーナーから、バディという名に絆の形を変えて。その関係を例えるなら、世界でひとつだけの鍵と錠前です。夏野さんがいないわたしは在り得ず、わたしがいない夏野さんもまた在り得なかった。そう自負しています。わたしたちの出会いは宿命でした」

 少しずつヒートアップしていく語りに、いつの間にか聴衆は惹きつけられている。今のカフェは女優モードだ。その語らいは、まだ彼女の本心に踏み込んでいない。

「だから、彼女にはわたしこそが相応しい。人生を共にするパートナーとして。わたしは本気で思っていました。エヴェレスト北壁に挑むまでは」

 愛と絆の区別が、ついていなかったのです。そうカフェは語る。

「独りよがりの願望でした。夏野さんは、わたしとは違います。社会に根をおろし、周囲の人々と愛を分かち合うことで、次の世代に命を繋いでいける人です。わたしは、『ふつう』の愛を理解できず、勝利の悦びだけを糧に細々と生きながらえる浮草のような存在です。だから、ずいぶん嫉妬しました。彼女の隣に立つ男が、わたしから唯一無二のパートナーを根こそぎ奪っていくかのようで。そして、その男と結ばれることは、夏野さん自身が望む幸福であることもまた、思い知りました」

 臆することなくカフェは広田を見つめていた。広田もまた、まっすぐカフェを見つめ返す。両者の瞳に後ろ暗い感情は全くなかった。

「ゆえに、わたしはエヴェレスト北壁に単独で挑みました。自分ひとりでも、生きていけることを証明するために。そして敗退しました。夏野さんという半身を失ったわたしが勝てる相手ではありませんでした。独り凍りつき、死を迎えるはずだったわたしのもとに、夏野さんは駆けつけてくれました。恋人にも、娘にも、妻にも、夫にもなれないわたしのために、命をかけて。本来行われるはずだった結婚式を放りだしてまで。わたしにとっての生きる悦びを彼女は肯定してくれた。今回の南極渡航とヴィンソンマシフ登頂も、彼女がいてくれたからこそ達成できたのです。わたしたちにはバディの絆があります。だから、人間としての愛と幸福は、広田さんが与えてあげてください。それは、わたしにはできないことです。最後になりましたが、どうかわたしのバディをよろしくお願いします」

 カフェは広田に頭を下げる。広田は覚悟のこもる瞳で、深く頷いた。

「そして、夏野さん。我が最愛のバディ」

 カフェが、夏野を見つめる。トレセンのターフで出会ったときより、はるかに輝きを増した瞳。飢えや渇きではない、生きることへの前向きな熱意が燃えている。十代の少女らしい、希望に満ちた顔。マンハッタンカフェの偽らざる本心だ。

「わたしは、これからもあなたと共にあります。あなたもまた、わたしと共にあり続ける。ふたりの間にどれほどの距離があっても、どれほどの時間が流れても、わたしたちの魂は共に在る。チームシェアトのバディとして。わたしには、それだけで十分幸せなのです。その幸せがあればこそ、一瞬の栄光ばかり追い求める自分の人生を肯定できる。こんなふうにしか生きられない、わたし自身を肯定できるのです。ありがとう、夏野さん。心から、あなたの幸福を祈っています。おめでとう」

 マンハッタンカフェは、深く頭を下げる。穏やかな瞳のまま、ひっそりと舞台から降りていった。

 会場に拍手が響き渡る。夏野は、涙を止められなかった。これまでの旅路が鮮やかに甦る。ターフの上。氷の壁。荒れ狂う海。果てしない白亜の大陸。彼女と共にした時間の全てが愛おしい。敗北の苦しみ、傷の痛みさえも、今は生涯の誇りだった。

 来客の中に消えていくカフェの背中を、夏野はずっと追いかけていた。

 

 

 式はつつがなく終わり、慌ただしい日々が戻ってくる。カフェはしばらくメディアに引っ張りだこであり、女優力を遺憾なく発揮してスポンサーを拡大していった。NUK主導のもと、新たな登山ドキュメンタリー企画が、はやくも持ち上がっているという。一方、夏野は、夫となる男との共同生活のため引っ越しの準備を進めていた。

 カフェとの同棲も、これで終わりとなる。しかし、カフェは即座に、広田のマンションの近隣にワンルームアパートを借りてしまった。生活圏から離れるつもりは毛頭ないようだった。

 カフェの私物を選別する。本人に確認しなくても、すぐ分かる。アンティークのカップ、銀食器、クラシック音楽のCD、洋書など、自分には縁のない品々。

「というか、いるんだったら手伝ってくれない?」

 夏野は、リビングのウマ娘に呼びかける。ソファに我が物顔で腰かける少女は、薫り高いコーヒーを嗜みながら、地図を広げていた。ヒマラヤ・カラコルム山系が一面に広がっている。赤ペンを走らせ、物資の輸送ルートを練っている。

「夏野さんのレベル的に、次はブロードピークなんてどうでしょう? ローツェやマカルーの前哨戦ということで」

 平然と八千メートル峰の名前を出してくるカフェ。もはや名前を聞いただけで、その山の標高と所在地が分かる夏野は、すっかり染められてしまったと苦笑いする。

「言っておきますが、同棲を解消しても、バディは解消しませんよ。プロジェクトUの続きを、わたしと一緒に作ってもらうんですから」

 少し不満げにカフェは言った。瞳には、かすかに不安の色が浮かんでいる。互いに、新たな環境に移るのだから無理もない。未来のことなど誰にも分からない。かつての海底が、今エヴェレストの頂点にあるように。

 だが、望むことはできる。生きてさえいれば、在りたい未来を掴み取ろうと手を伸ばせる。それが命の意味。生きることの意味だ。

 夏野は作業をやめて、カフェの隣に座る。

「当たり前でしょ。わたしたちはチームなんだ」

 夏野は、そっとカフェに寄りかかる。数千メートルの氷壁を攀じ登ってきたとは思えない、華奢な少女の骨格。

「カフェと山に登ることは、もうわたしの人生の一部になってしまった。死ぬまで消えることはない、生きる悦びのひとつに」

 その言葉に、黒い耳がピンと立つ。そして、カフェもまた愛する人に身体を預けた。

「夏野さん。わたしは、これから生きていけるでしょうか?」

 黄金の瞳が、まっすぐこちらを覗き込んでくる。かつては不気味に思い、恐怖したこともある、飢えた狼のような双眸。だが今は違う。その異質さを理解し、受け入れることができる。

「大丈夫」

 夏野は笑顔で答える。

「八千メートル峰14座、各大陸の最高峰、アルプスの北壁。登るべき山は、たくさんある。人間の一生じゃ到底足りないくらい、挑むべき価値のある山が、わたしたちを待ってる。いつまでも、カフェの渇望を満たしてくれるよ」

 夏野は自信をもって断言する。

 他の誰よりも、彼女の生き様を知っている。勝ちたいという本能に、どこまでもまっすぐな魂。燃え尽きるまで走り続けることを宿命づけられた命。死という結末は平等だ。積み上げてきた偉業も栄光も、最期は孤独という虚無に帰す。しかし、そこに至るまでの幸福が失われることはない。絆を分かち合うバディが孤独の闇を打ち払い、それを証明してくれるから。

 夏野にとっても同じだった。マンハッタンカフェと共に歩んだ人生は、悦びに満ちている。死も孤独も、その輝きを奪うことはできない。

「わたしが、ずっと隣にいるからね」

 耳元で夏野は囁く。生涯の愛バに、親愛と決意を込めて。

 そのとたん、カフェは夏野を抱きしめる。もう離さないとばかりに強く、優しく。言葉にならない気持ちを抱擁にこめる。夏野のまた、ゆっくりと彼女の背を抱いた。夏野の左肩に、ひとしずくの涙が落ちる。

 ひとは嬉しいときでも泣くものだと、カフェは知っていた。

「一緒に生きていこうね、夏野さん」

 マンハッタンカフェは、満ち足りた顔で微笑んだ。

 

 

 




 完結まで漕ぎつけることができました。

 マンハッタンカフェの誕生日である3月5日から連載を始めて、はや4カ月と少し。感慨深いです。

 この作品を書いた動機は、ウマ娘には引退した後も幸せであってほしいという願いでした。
 競走馬の引退後は、一部の例外を除き極めて過酷です。ウマ娘が、リアルのサラブレッドの名前と魂を受け継いだ存在ならば、せめてそちらの世界では引退後も満ち足りた人生を送ってほしい。人間に管理されることなく、対等な関係で、自由に勝利を追い求めてほしい。その願いを、マンハッタンカフェに託しました。

 アプリでの実装を心待ちにしています。

 ここまで読んでくださり、ありがとうございました!
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