【完結】白嶺に染まぬ黒 ~大人のためのウマ娘 プリティーダービー~   作:モルトキ

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マンハッタンカフェ公式サイト初期設定


 漆黒の黒髪が美しいウマ娘。
 一見、何を考えているかわからないちょっと不気味なところがあるが、実はトレーナーのことが大好きな一途すぎる性格。
 他では得られない快楽を求めて、レースに参加している。本人いわく「もしウマ娘に生まれてなかったら、人生が退屈すぎて、きっと犯罪を犯していたかも……」。
 実は女優業でも活躍中。
 



第3話  生きる悦び

 病院に到着してすぐ、夏野は担当の看護師から状況を聞き出した。午後の検診を終えてから夕食を配膳するまでの三時間弱で、マンハッタンカフェは忽然と病室から姿を消したらしい。持ち込んだ私服や外套がなかったため、おそらく敷地外に逃亡したものと思われる。

 行先に心当たりがある。機転をきかせ、そう夏野は答えた。下手に騒ぎ立てて学園当局の知るところとなれば、カフェのキャリアに傷がつく。できれば何事もなかったかのように病院へ戻したかった。それに、行先に当てがあるのは、あながち嘘ではなかった。あのエキセントリックウマ娘が、どこをほっつき歩いているのか見当がつかない。しかし、最終的に辿り着く場所は目星がついていた。

 広田には、すでに手を回してもらっていた。彼のチームメンバーを通して、生徒会と寮生にマンハッタンカフェの目撃情報を呼びかけた。学園にはふたつの寮があり、栗東寮の寮長・フジキセキと、美浦寮の寮長・ヒシアマゾンが、それぞれまとめ役となって寮内のウマ娘から情報を募ってくれている。

 おそらくカフェは、学園に戻ってくる。ほぼ確信に近い予感があった。自らのアイデンティティを満たせる唯一の場所。何食わぬ顔で、シェアトのチーム棟にいるかもしれない。ぎらぎらした目で、有馬記念までのトレーニングプランを聞いてくる姿が目に浮かぶ。

 トレセン学園に戻る途中、さっそく広田から電話があった。

 予想通りの内容だった。マンハッタンカフェ発見の知らせが、ヒシアマゾンからあったという。しかし安堵の息をつく暇もなく、現場の状況が伝えられてくる。

 確かにカフェは学園内にいた。しかし、そこはターフの上でもチーム棟でもなかった。

『急いでくれ。あの娘は、おまえ以外じゃどうすることもできない』

 諦めのにじむ声を残し、通話は切られた。

 驚愕を通り越して、笑えてくる。肩に噛みつかれたときもそうだったが、いつもいつも、こちらの想像を斜め上に飛び越えてくるウマ娘だ。

 学園の正面ゲートをくぐり、美浦寮に向かう。寮の入口には、すでに広田が待機していた。ヒシアマゾンが言うには、風呂上りの寮生が屋上のテラスで涼もうとしたとき、偶然見つけたらしい。屋上に出ると、そこにはすでに人だかりができていた。会長のシンボリルドルフに、副会長のナリタブライアン、エアグルーヴ、寮長のフジキセキとヒシアマゾン。それに広田のチームメンバーであるエアシャカールとアグネスタキオン。学園を代表するような錚々たる顔ぶれだが、誰ひとりとしてマンハッタンカフェに近づくことができない。

 実際に目の当たりにすると、異常な光景だった。

 カフェは、テラス席に座っていた。

 転落防止の柵の向こう側、わずかに張り出したスペースに、丸いテーブルと二脚の椅子を置いて。

「夏野トレーナー」

 シンボリルドルフから声がかかる。

「マンハッタンカフェは、あなたを所望しているようです。しかし、自らの命を危険にさらすような状況ですので、応じる義務はありません。我々は引き続き説得にあたりますが、万が一のときは、覚悟しておいてください」

 冷静な声音だが、その両目には悲しみが揺れていた。中央トレセンは激烈な競争社会だ。長年会長を務めるルドルフは、敗れ去った者の末路についても、相応のものを見てきたはずだ。

「行きます。必ず連れ戻します」

 きっぱりと夏野は言った。はじめから迷いなどなかった。夏野にだけ聞こえる声で、ありがとう、とルドルフは囁く。その声は、かすかに震えていた。普段、皇帝の名にふさわしい立ち居振る舞いばかり見てきたから、この娘とて心根は年頃の少女であること夏野は忘れていた。

「頼むよ、夏野さん。あたしの寮から脱落者なんて出したくないからさ」

 ヒシアマゾン寮長が、真剣な顔をしていた。マンハッタンカフェは美浦寮の所属だ。交友関係の少ないカフェを、ずいぶん気にかけてくれていたようだ。

「あの、わたしからも、少しいいですか?」

 今度は、フジキセキ寮長が夏野の前に出る。

「屈腱炎の辛さは、よく知っています。あれは肉体よりも精神に与えるダメージが大きい病気です。わたしの場合、弥生賞の直後に発症しました。多くの人に期待され、わたし自身の夢でもあったクラシック無敗三冠は、挑戦することすらできずに潰えました。あのときは、本当に苦しかった。でも、諦めなければ、諦めさえしなければ、また走れるようになります。どうか、彼女の気持ちに寄り添い、導いてあげてください」

 ウマ娘たらしで有名なフジキセキとは思えない、真摯な眼差しだった。

「分かった。きちんと話してくるよ」

 振り返らず、夏野は歩き出す。ぼうっと座っていたカフェが、不意に群衆を睨んだ。

「ここからは、ふたりきりでお願いします。トレーナーさんが柵を超える前に、全員退出を」

 他人に対してはぼそぼそと喋るカフェが、威圧感さえある鋭い声を飛ばす。夏野は、注意深く彼女の視線の行方を追っていた。

 月明りにきらめく金色の瞳は、学友のウマ娘ではなく、広田をじっと見つめていた。

 ふたり以外の、すべての人影が屋上から消える。夏野は鉄柵を乗り越え、担当ウマ娘のいる屋上の縁に立った。

 丸テーブルを挟んで、カフェの向かい側に、ご丁寧にも一脚の椅子が置かれている。奈落まで一メートルもない距離だが、夏野はどかりと腰を下ろした。

 こういうとき、この娘の前で弱みを見せてはならない。

「ようやく静かになりましたね。あなたとお話しするのに、外野の騒音などいりませんから」

 病院を脱走したことなど悪びれもせず、マンハッタンカフェは穏やかに言い放つ。

 テーブルの上は、この状況とはあまりにミスマッチだった。二対のコーヒーカップとソーサー、さらに小さな焼き菓子が並ぶ小皿。そして、円卓の中央には、夏野が見舞いのために持参したフラワーバスケットの中身が、花の部分だけ無造作に散らされていた。

「久々の夜会です。風がなくてよかった」

 そういって、カフェは銀色のポッドから、フィルターのコーヒー粉に少し熱湯を注ぐ。たちまち泡がドーム状に盛り上がってくる。

「今回は時間がなかったのでストレートの挽き豆ですが、なかなかいいものですよ」

 普段と変わらない調子で、さらに湯を注いでいく。実家が北海道の喫茶店とは聞いていたが、いつ見ても素晴らしい手際だった。

「どうぞ」

 カップの載ったソーサーを、静かに夏野に供する。

 何も言わず、ひと口含む。

「おいしいよ」

 正直な感想を述べる。それだけで、瞳がぱっと輝く。

 マンハッタンカフェとは、夕食後にコーヒータイムを共にすることがあった。その名の通り、コーヒーに拘りがあり、専門の豆店に通っては、ブレンド用の豆を自分で厳選するほどだ。カフェが淹れてくれるコーヒーは、とても香り高い。日によって表情を変える味は、口にする者の気持ちに寄り添ってくれる。毎日飲んでも飽きることはない。

 ここがチーム棟か、学園の食堂内ならば、どれほど心休まるひと時だろうか。

「ああ、やはり違う」

 自分で淹れたコーヒーを啜り、マンハッタンカフェは呟く。

「ひとりで飲めば、ただのおいしいコーヒーだけど、あなたと一緒なら味がひとつ上のレベルにシフトします。不思議なものです」

 焼き菓子をあてにしながら、ゆっくりカップの中身を減らしていく。根っからのコーヒー党でありながら、胃が弱いため少しずつしか飲めない。そんな彼女を見ていると、この異常な環境が、いつもの日常と地続きのように思えてくる。

「本題に入りましょうか?」

 カップの中身を飲み干し、夏野は言った。どうしてこんなことをしたのか、など聞くだけ無駄だ。どうせ、交渉を有利に進めるための演出だろう。奇抜な行動自体に、彼女の本質は表れない。

「もう一度、お願いに参りました」

 カフェが口を開く。美しい貌から微笑が消えていた。

「有馬記念を走らせてください」

「何のために?」

 間髪入れず、夏野が問う。そこを理解しなければ、この娘とは永遠にすれ違ったままだ。

「わたしを終わらせるためです」

 女の子にしては低めの、たおやかな声でマンハッタンカフェは答える。

 ようやく突破口が見えた、と夏野は思った。

「先に言っておきますが、屈腱炎が原因で自暴自棄になっているわけではありません。それ以前に、わたしは競走ウマ娘としての自らの限界を感じていたのです。凱旋門賞に敗北したときから。予感、とでも言うのでしょうか。まったく根拠はないのに、なぜか自分の未来がぼんやりと見えてしまったんです」

 記憶を反芻するように、カフェは言った。

 予感、特別な絆、あるいは縁。言い回しは様々だが、ウマ娘にはある種の第六感が備わっていると昔から噂されてきた。確信の度合いが強いほど、それは高確率で的中する。科学的に実証するすべはないが、トレーナーにとっても無視できないほど、現実味のあるオカルトだった。

「おそらく、わたしはもう勝てない。わたしの求める勝利が手に入ることはない。あの日、わたしは確かに感じたんです。屈腱炎は、そのダメ押しでしかありません」

 カフェの言葉で、ひとつ疑問が氷解した。

 凱旋門賞敗退のあと、なぜ肩を噛まなかったのか。次の勝利につながらないからだ。負けた悔しさや不満足を、トレーナーの身体で埋め合わせることで、次のレースを目指せるようになる。しかし、もう勝てる見込みがない、と本人が思い込んでいるならば、その行為に意味はなくなる。

 確かにマンハッタンカフェは、凱旋門賞直後に未来の勝利を諦めていた。

「負けると分かっている有馬記念ですが、それでもわたしは、走って終わりたいのです。どんな結果でもいい。競走ウマ娘としての自分に決着をつけたいんです。ずるずると走れない日々が続くなかで、G1レースからわたしの存在が忘れ去られていくのは耐えがたい。どうかお願いします。わたしを、ターフの上で終わらせてください」

 本音を吐露していくマンハッタンカフェ。

 競走ウマ娘であれば、いずれ誰もが引退の日を迎える。その原因は様々だ。加齢による脚力の衰え、突発的な事故やケガ、あるいは勝利が見えないことに対する絶望。だが、それらは現象にすぎない。走ることを諦めるのは、その現象を背負ったウマ娘自身だ。

 マンハッタンカフェは、まだ走ることを放棄していない。あくまで走った結果として、ターフから去ろうとしているだけだ。彼女はまだ、走ることを、勝利を欲している。

 ならば、答えは明白だ。

 今度こそ、トレーナーとしての役目を果たさなければならない。

「それはできない」

 きっぱりと夏野は言った。

 カフェは無表情だった。しかし、頭上の耳が、内に秘めた感情を如実に物語っていた。裏側を見せるように、後ろに倒れる両耳。

 今、マンハッタンカフェは猛烈に怒っている。

「せっかく、勇気を振り絞って言ったのに」

 音もなくカフェが立ち上がる。青白い月光の下、ぴったりとした黒の外套をまとう姿は、まるで映画のワンシーンのようだ。

「わたしから提案してあげてるんですよ? あなたは押しに弱いから。狂乱するわたしに、黙って血肉を提供するほどに。だから、わたしから離れてあげると提案してあげてるんです。有馬記念が終わったら、もう金輪際関わり合いにならない、と。それなのに、なぜ拒否するんですか?」

 見開かれた金の瞳に、情炎が揺れる。

「大きなお世話だよ」

 椅子に腰かけたまま夏野は言った。

「わたしは、あなたのトレーナーだ。わたしの意志で、あなたを支えると決めた。契約の一方的な解消なんて認めない」

「ふざけないで!」

 突如として、カフェが叫ぶ。

「あなたにとって、わたしはただの通過点でしかない! 否が応にも時が来ればわたしは去り、あなたは新しい娘をチームに迎え入れるでしょう。わたしとあなたのチーム・シェアトに、どこのウマの骨とも知れない娘が、我がもの顔でのさばるんでしょう。それを何度も、何度も繰り返す」

 能面のようだった貌が、みるみる崩れていく。激しい嫉妬と怒りが、本来あるべき表情となって噴出してくる。

「わたしには、あなたしかいないのに」

 一瞬、泣きそうな少女の顔が、目の前にあった気がした。

「今さらだけど、聞いていいかな?」

 夏野が問いかける。チーム設立から今まで、がむしゃらの毎日だった。マンハッタンカフェの性格や嗜好性も、少しずつ理解できるようになった。しかし、ふたりの関係の始まりとなった部分を、いまだ夏野は知らない。

「どうして、わたしなの?」

 一番訊きたかったはずの疑問を、今ようやく言葉にすることができた。

 しばらくの沈黙ののち、カフェが口を開く。その耳は、もう倒れてはいなかった。

「競走ウマ娘・マンハッタンカフェの本質を見抜いたからです。それも、たった一度の選抜レースで」

 釈然としない夏野に、「憶えていませんか?」と寂しそうに笑う。

「レースで勝った後、たくさんのトレーナーがわたしを勧誘に来ました。そのひとりひとりに、わたしは質問していたんです。『わたしの走りは、どんなふうに見えましたか?』と。それに対する回答は、『素晴らしい』とか、『将来必ずG1で勝てる』とか、『ドリームトロフィーを狙える逸材だ』とか、ひどいものだと『うちのチームに入れば間違いない』とか、てんで的外れなものばかり。この有様では、どのチームに入っても、いずれわたしは持て余され、放逐されるだろう、と確信しました。中央トレセンには選りすぐりの伯楽が揃っていると聞いていたのに。正直、絶望でしたね。どいつもこいつも、上っ面の数字しか見えない節穴です」

 その言葉に、夏野は驚いていた。いかにも奥手といった感じで、ぼそぼそと喋っていたカフェが、内心そのようなことを考えていたとは。

「最後に残ったのが、あなたでした。胸のトレーナーバッジが新品だったし、他のトレーナーに気圧されてるようでしたので、まだチームを持てていない新人だと分かりました。でも、せっかくわたしを見てくれたのだから、あなたにも同じことを聞いたんです」

 一言一句覚えています、と恍惚の表情でカフェは言った。

「『なんか、飢えた猟犬みたいだった。勝ちたいっていうよりは、勝たなきゃ死ぬってくらい必死な感じ。あなたにとっての勝利は、他のウマ娘とは意味が違う気がする』」

 夏野のなかでフラッシュバックする記憶。確か、そんなことを言った気がする。スカウト合戦における先輩トレーナーに対する羨望や劣等感から投げやりな気持ちになり、ずけずけと物申した程度しか覚えていなかった。

「衝撃でした。本物の伯楽に、年齢や経験値、まして性別などまったく関係ないと思い知りました。その後も、幾度かスカウトを受けましたが、わたしの本質を見抜いたのは、あなただけでした。だから、わたしは決めたんです。この人のもとで走ろう、と」

 屋上の端をランウェイのように歩き、距離を詰めてくるマンハッタンカフェ。

「走ること、勝利することは、わたしにとって生きる悦びなのです。ウマ娘は本能的に勝利を求める生物ですが、それはあくまで日常生活の延長線上にあるもの。あわよくば手に入る景品、ご褒美です。レースで結果を残せず、あるいは怪我や病気で引退したウマ娘も、この社会のなかで生きています。しかし、わたしは違う。生きていくために必須の栄養なんです。物心ついたときから感じていた、心の渇き。底なしの渇望を唯一癒してくれるのがレースでした。レースこそ、わたしの生きる原動力なんです」

 奈落を背にして、マンハッタンカフェが夏野の前に立つ。

「もしウマ娘に生まれていなかったら、きっと今頃犯罪者として牢の中でしょうね。それくらい、わたしの渇きは強い。ゆえに、わたしには必要だったんです。わたしのことを分かってくれる人。わたしを解き放ってくれる人を」

「それが、わたしだったわけね」

 目を逸らさぬよう夏野は言った。あと一歩でも後ろに下がれば転落する位置に、カフェはいる。

「はい。絶対勝てるはずだったメイクデビューで負けたとき、わたしに身体を許してくれましたね。あれで、わたしにはこの人しかいないと確信しました。満たされない飢えと渇きまで受け入れてくれる人。でも、あなたはわたしじゃなくてもいいんです。トレーナーの技量をさらに上げて、もっと多くの娘を輝かしい勝利に送り出してやれる。そして、ときが来れば、同じ人間の男とつがう。大切な存在が、どんどんあなたの周囲を固めてしまう。きっとわたしは攻撃するでしょう。わたしとあなたの間に割り込むもの全て。そんなことをあなたが望まないことくらい、分かっているんです。だから、有馬記念を終局の舞台にしたい。わたしが破滅すれば、あなたは解放される。お願いします。どうか、走らせてください」

「ダメだ。わたしの未来を勝手に決めるな」

 夏野が立ち上がる。カフェを引き戻そうと腕を伸ばすが、すげなく振り払われる。

 形の良い唇から、大きなため息がこぼれた。瞳から激情は消え、悟ったような理知の光だけが、じっとりと夏野を見つめている。

「そうですか。わたしのささやかな願いすら聞き届けてくれないなら、仕方ないですね。こんな終わらせ方は、本当は嫌だったのですが」

 そう言って、カフェは外套のポケットから銀色の何かを取り出す。

 ナイフだ。刃渡り十五センチほどのサバイバルナイフ。彼女は、器用に刃を回転させ、柄の部分を夏野に向け、卓上に置いた。

「これから、あなたの首筋を本気で噛みます」

 マンハッタンカフェは言った。その瞳に、狂気の色は微塵もない。まっすぐな眼差しが、まるで慈悲を乞うかのように、夏野に注がれている。

「ウマ娘の全力で噛みつかれたら、致命傷は免れないでしょう。それが嫌なら、ナイフで抵抗してください。具体的には、痛みを与えてから後ろに突き飛ばすといいでしょう。ウマ娘には強力な生存本能が備わっています。あなたがどんなに暴れても、わたしはわたし自身を落とせない。痛みという、より直接的な恐怖で、本能を麻痺させるしかありません。どうぞ、遠慮なさらず。抵抗しなければ、自分が死ぬんですから。悪いのは全部わたしです。わたしのことなんか綺麗さっぱり忘れて、あの男と仲良くやってください」

 一歩、カフェが距離を詰める。

 大した洞察力だ。この期に及んで夏野は感心する。カフェが広田と直接会ったことはないはずだ。屋上での微細なやり取りから、ふたりの関係性を推察したに違いない。

 つくづく、手のかかる娘だと、夏野は苦笑する。

 テーブルのナイフを手に取る。研ぎ澄まされた刃先に、艶めかしく月の光が溜まっている。

「それでいいんです。さあ、抵抗してください。死にたくなければ」

 言葉の激しさとは裏腹に、寂しそうにカフェは笑っていた。

「まあ、確かに死にたくはないよ。まだ28だし、結婚だってしたいし。でもね、わたしはトレーナーなんだよ。あなたの、マンハッタンカフェのトレーナーだ」

 そう言って、夏野はジャケットの襟をはだけ、左首筋を露にする。

「担当ウマ娘を殺すトレーナーがどこにいるのさ? そんなことをするくらいなら、わたしは―――」

 ナイフの刃先を翻し、自らの首に突きつける。

「さよなら」

 そして、腕に力を籠めた。

 スローモーションのように、目の前の少女が動く。ナイフを奪おうと伸びる右手。夏野は真横にナイフを投げ捨て、かわりにカフェの腕を取った。そのまま全身で抱きつき、ごろごろと柵のほうに転がる。

「あなたはッ! なんて、バカなことを……!」

 身じろぎしながら、苦しげにカフェが叫ぶ。押し倒すように担当ウマ娘の頭を抱いた夏野は、声を出して笑った。

「役者でしょ、わたし」

 その言葉で、カフェは急に大人しくなった。全身から力が抜け、借りてきた猫のように夏野に抱かれていた。

「あなたの気持ちは分かった。それでも、わたしはあなたの破滅なんか望まない。エゴでも我儘でもいい。あなたが、その予感とやらをどれだけ信じていたって、わたしは全力で否定してやる。走れなくたって、勝てなくたって、あなたの生きる悦びを、この世界のどこかに必ず見出してやる。だから、まだわたしから離れないで。わたしたちはチーム・シェアト。ふたりでひとつのチームなんだ」

 もう二度と逃がさない。それくらい強く抱擁しながら、夏野は、しおれた耳元で囁く。

「敵いませんね、トレーナーさんには」

 少し震える声でカフェは言った。夏野の背中にも、おずおずと両腕が回される。こういうときは奥手なのか、と少し微笑ましかった。

「従います。そして、わたしはこれからも、あなたに執着し続けるでしょう。嫉妬や怒りといった厄災を周りに振りまきながら。覚悟しておいてくださいね?」

 互いの身体を抱き寄せたまま、唇が触れそうな距離で、猟犬は静かに微笑んだ。

 

 




 初期設定からアプリ出走までの期間、キャラの変更幅が最も大きかったのはマンハッタンカフェでした。
 この作品では、初期設定のマンハッタンカフェをじっくり描いていきたいです。
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