【完結】白嶺に染まぬ黒 ~大人のためのウマ娘 プリティーダービー~   作:モルトキ

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マンハッタンカフェのヒミツ



実は、登山好き。


第4話  登るウマ娘

 マンハッタンカフェが退院したのは、11月に入ってすぐだった。

 炎症は落ち着き、日常生活には何ら差し支えない。すなわち、人間と同程度の運動ならば問題なくこなせるということだ。走ったり泳いだり、筋トレもできる。ただし、レース出走、あるいはそれに準じるトレーニングは絶対に禁止だった。

 ウマ娘の最高速度は、時速70キロにも及ぶ。運動生理学的には、一度地面を蹴るごとに、10トン近い衝撃が脚部全体を襲う計算になる。つまり競走ウマ娘は、ただ走るだけで骨折や筋断裂のリスクに晒されることになる。サイレンススズカ、トウカイテイオーといった天才たちも、レース中の骨折により選手生命を脅かされてきた。

 このような激しい運動を再開すれば、炎症は治らないばかりか悪化するのは自明だ。

 フジキセキの言う通り、屈腱炎は肉体よりも精神を蝕む病だった。痛くも痒くもないのに、走ることを許されない。レースに復帰できる保証もないまま、終わりの見えない灰色の日々を生きていく。他のウマ娘の活躍が、自分の情けなさを浮き彫りにする。チームメイトも、トレーナーも、自分から心が離れていく。

 マンハッタンカフェは、それに耐えられないと判断したのだろう。玉砕の許可を貰うための凶行だった。しかし、夏野の献身によって、すんでのところで自殺レースは食い止められた。

 事件ののち、夏野は謝罪とお礼のため、学園内をかけずりまわっていた。広田のチームと両寮長、生徒会に、にんじん菓子折りを持参する。その際、アグネスタキオンから、お見舞いの品として大量の紅茶パックを渡された。あの漆黒娘と、唯一まともにコミュニケーションを取っていたのがタキオンらしかった。夏野は深く感謝し、すぐ病室のカフェに紅茶を届けた。

 マンハッタンカフェは紅茶が大の苦手であることを、夏野は初めて知った。カフェいわく、コーヒー党の自分は、紅茶党のタキオンとは趣味が合わないらしい。つまり、これは単なる嫌がらせであるという。友人としての、愛のある嫌がらせだ。カフェの渋面を見た夏野は、声を殺して笑った。

 生徒会の判断により、カフェの暴挙は当局側に報告されることはなかった。こういう問題が起きたとき、できるだけ誰も傷つかないよう、穏便に事を片付けるのも生徒会の使命であるとルドルフは語る。

「生徒会は、学園の自治組織であると同時に、当局やURAに対する組合でもあるのです。上の人間が望むのは、競争と成果だけです。わたしたちが相争うことで、より華々しいスターが生まれ、レース業界の未来は盤石なものとなる。しかし、我々は使い捨ての駒ではありません。競争しかない社会では、心身ともに摩耗し、負の感情ばかりが膨れ上がってしまう。そうならないよう、現場のウマ娘目線で生徒ひとりひとりに寄り添い、ときには当局に交渉を持ち掛け、生徒全員が切磋琢磨し、相乗効果を生み出せる学園を作っていきたいのです」

 ルドルフの言葉に、夏野は感銘を受けていた。生徒会は、単なるエリートウマ娘の勲章的存在ではなかった。皇帝と女帝と三冠ウマ娘。この面子ならば、理事会と渡り合うこともできるだろう。トレーナーといっても、所詮は雇われの身。首と財布を握られている以上、当局に強く出ることは難しい。真にウマ娘の味方になれるのは、同じ修羅場をくぐってきたウマ娘に他ならない。ルドルフは、皇帝たる自らの強さを、正しい方向に活用していた。

「礼を言うのは、むしろこちらのほうです。担当ウマ娘のために、自分の命さえ顧みないトレーナーが、この学園にどれほどいることか。あなたのような人間こそ、わたしたちの救いなのです。本当にありがとうございました」

 ルドルフと共に頭を下げる、エアグルーヴとナリタブライアン。ときに謙虚で礼儀正しい彼女たちに、夏野はただ感服するばかりだった。

 マンハッタンカフェが退院してすぐ、夏野は休養申請の準備に入った。しかし、トレーニングに該当する一切の行為を禁じる完全休養ではなく、身体機能を回復させるためのリハビリ的休養だった。本当は北海道の実家で気兼ねなく療養してほしかったが、その提案をカフェは拒否した。「トレーナーさんが一緒じゃなければ、わたしは雄大な北海道の大地をタガが外れたように走り回るでしょうね」と、にこりともせずのたまう始末。そのため、休養理由を、リハビリと書き換えるしかなくなった。そうすれば、トレーナーの夏野が同伴できる。

 問題は、リハビリの方法だった。

 通常のトレーニングをせずに、身体機能を向上させなければならない。矛盾する命題は、屈腱炎に立ち向かう多くのトレーナーを苦しめてきた。夏野もまた、トレーナー室で大量の論文と治療データに埋もれ、打開策を見いだせず迷走していた。

 そこに一筋の光明をもたらしたのは、ダダをこねた張本人であるマンハッタンカフェだった。

「高地トレーニングなんてどうでしょう? 標高3200メートル以上の環境であれば、ただ歩くだけでも心肺機能の強化につながります」

 夏野にとっては、目からウロコの意見だった。都会派な彼女から、なぜそんな発想がでてきたのか分からないが、検討に値するとトレーナーの勘が告げていた。詳しく調べてみると、確かにカフェの言う通り、富士山の八合目と呼ばれる約3200メートルを境に、肺胞内の酸素分圧が顕著に低下し、呼吸量が増加する。つまりふつうに歩いているだけで、平地でのジョギングと同じ負荷がかかることになる。ウマ娘にとっても同じだ。ただ、スピード重視の日本のウマ娘にとって、一番のトレーニングはターフを走ることであり、レース場のない山岳地など見向きもされてこなかった。

 もしかしたら、このトレーニング方法は、屈腱炎に苦しむ全てのウマ娘の救いとなるかもしれない。レースが可能になるまで炎症を和らげつつ、筋力とスタミナを落とさず、精神的健康も維持できる。高度は徐々に上げていき、最終的に3200メートルを目指せばいい。

 だが、実現させるとなると、超えるべきハードルは山積みだった。まずは休養地の選定。国内で段階的な高地となると、富士山しかない。一般の登山者も多く、傾斜がきついためトレッキングで使用するのは不向きであり、何より長期間滞在する際の補給の便が悪すぎる。必然的に、海外に目を向けざるを得ない。そうなると、今度は費用がかさむ。トレーニングやレースに起因する怪我の治療と療養費は、チームごと割り当て予算とは別途、学園から支給される。しかし、リハビリのための海外休養など前例がなく、レースに復帰できる保証もないため、理事会が反対するのは目に見えていた。

 このことを広田に相談すると、チームメンバーのひとりから即座に協力の申し出がなされた。

 アグネスタキオンである。

 『超光速の粒子』の異名を持つ実力者だが、学園内ではもっぱらマッドサイエンティストとして有名だった。得体の知れない薬品をジュースか何かのように勧めてくるため、近づく者は少ない。しかし、研究に捧げる熱意と知性は本物であり、彼女が考案したトレーニングによって、チーム未所属のウマ娘も恩恵を受けるほどだった。

 タキオンによれば、屈腱炎のリハビリ法は、ずいぶん前から研究を進めていたそうだ。長時間、安定した運動ができる点では、プール内よりも高地が適しているという結論に達した。しかし実証する機会がなく、現段階では机上の空論としてお蔵入りしているらしかった。

「わたしは、別にカフェのことを特別扱いしているのではない。あくまで自分の研究のためだ。屈腱炎の克服もそうだが、ウマ娘の身体機能、その果てなき向上は、わたし個人の命題だ。貴重なデータを得る、またとない機会。なんだってしてみせるさ」

 真剣な目でタキオンは言った。その言葉どおり、彼女は理事会に対するプレゼン資料を、あっという間に完成させた。トレーナー顔負けの知識量を、素人でも分かりやすく整然とまとめてある。

 タキオンの熱意に後押しされたこともあり、夏野は以前から打診されてきたチーム提携を正式に結んだ。これによりタキオンは一時的にシェアト所属となり、問題視されていたワンマンチーム状態が解消され、理事会を説得する材料がひとつ整った。その間に、夏野は政治的な工作にも奔走していた。生徒会を通して、高地休養の有益性について理事長に根回ししておいた。シンボリフドルフによれば、反応は上々だったらしい。こういうとき、学園のトップが先進的な思想の持ち主だと助かる。

 休養申請の決裁権者は、今のところ秋川理事長だ。理事たちの反発を受けても、彼女さえ説得できれば、どうにかなる。

 そのためには、他ならぬマンハッタンカフェ自身の言葉が必要だった。

 理事長は、誰よりもウマ娘個人の意志を尊重する人だ。自らの権限を振るうかどうかは、必ず本人に確認を取ってから決める。そのことをマンハッタンカフェに伝えると、意外にもあっさり承諾した。

「構いませんよ。提案したのはわたしですから、それくらいの説明責任は果たします」

 その素直さが、夏野にはかえって不気味だった。

 数日後、理事長を前に、カフェは見事な演説をやってのけた。まるで夏野と話すときのように、堂々とした喋り方だった。夏野がしたことといえば、タキオンが制作した資料をプロジェクターに映写するだけだ。

 前日に、タキオンから受けたアドバイスを思い出す。『人間を動かすには、99%の理論と1%の感情が必要だ。どれだけ理論が完璧であっても、起爆剤となる感情の火を灯せなければ意味がない』。

 その1%は、カフェの気持ち次第だった。

「わたしの目標は、もう一度、欧州G1に挑戦することです。屈腱炎を理由に、肉体の弱体化を招くわけにはいきません。高地でのトレーニングにより、むしろ発病前よりも身体機能を強化し、欧州のレースに適した強いウマ娘になりたいのです」

 よどみなく、それでいて熱のこもる声でカフェは語る。

 今の彼女には、聴衆の心に訴えかける1%の感情が、まぎれもなく備わっている。

 ように見える。

 プレゼン終了後、理事長は満面の笑みを浮かべた。

「見事ッ! 難病を克服せんとする意志、レース復帰への想い、確かに受け取った。高地休養の件、必ず裁可してみせよう。きみたちの試みが、ウマ娘の未来を切り拓く先駆けとなることを期待する!」

 秋川理事長は、熱い声でそう言った。

 ありがとうございます、と腰を折るマンハッタンカフェ。流れ落ちる黒髪の隙間から、金色の瞳が、ぎらりと光るのを夏野は見逃さなかった。おそらく夏野にしか分からない、表情未満の機微。あれは憤りの感情だ。

 何に対する怒りなのか推測するには、まだ情報が足りなかった。

 

 プレゼンから二週間後、休養の決裁が下りた。理事会では相当もめたようだが、秋川理事長が、持ち前のポジティブな強引さで押し切ったらしい。しかし、夏野には喜んでいる余裕などなかった。宿泊場所の確保や、リハビリプランの作成、渡航準備など、すべて夏野の仕事だった。何より、あれだけ親身になってくれた理事長を裏切るわけにはいかない。必ず成果を出さなければ。

 新人トレーナーには重すぎる対価。それでも潰れずにいられるのは、広田のおかげだった。アグネスタキオンの派遣に、彼はもうひとつの目的を持っていた。

「万が一、マンハッタンカフェがレースに復帰できなくても、タキオンさえ結果を出すことができれば、高地トレーニングの効果が証明される。それはすなわち、現地で指導したおまえの手柄だ。トレーナーとしての名目も保たれる」

 広田の好意に、危うく涙が零れそうになる。アグネスタキオンは、広田にとって不動のエースだ。自分には何の得にもならないエースの派遣を、あっさりと認めてくれた。

「その代わり、約束してくれ。これからもトレーナーを続けると。おまえは将来、学園を支える存在になる。俺もそのつもりだ。俺たちが育てたウマ娘が、ドリームトロフィーの舞台で競い合うのを見たい」

 広田のトレーナー業に対する熱意は本物だ。リギルやスピカといった一流チームのトレーナーにも並び立つほどに。そんな男に認められていることが嬉しかった。

 11月25日、タキオンが加入したチーム・シェアトの三人は、羽田国際空港から飛び立った。ドイツのフランクフルトで乗り換え、スイスのチューリッヒに入る。そこからバスと鉄道を乗り継ぐ16時間の旅程だ。

 ほぼ格安航空機に缶詰だが、マンハッタンカフェは終始ご機嫌だった。黒のロングコートにグレーのパンツというボーイッシュな格好が妙に似合っている。改めて見ると、悔しいくらい美形だ。ウマ娘は容姿端麗な者ばかりだが、マンハッタンカフェの美しさには、内側から滲みだすような凄みがあった。卑近な言葉を用いるなら、オーラとでも呼ぶのだろうか。

 さすが、映画俳優を務めただけのことはある。

 デビューのきっかけは単純なものだった。過去に活躍した、ある偉大なウマ娘とマンハッタンカフェがそっくりだったのだ。そのウマ娘役のエキストラとして、たまたま街中でスカウトされたのだが、未経験者とは思えない演技力と、天性のオーラによって準主役まで配役が押し上げられた。すでにG1ウマ娘として名が知られていたこともあり、カフェは一躍映画界の寵児となった。本人も俳優業を楽しんでいたが、やはりレースが最優先ということもあり、それ以来、女優としての活動は休止している。

「どうしたんですか。わたしをまじまじと見つめて」

 気がつくと、金色の瞳が夏野を見つめ返していた。年ごろの少女らしい、無邪気な微笑みを浮かべている。

「ご機嫌だなと思ってさ」

 皮肉をこめて口にする。振り回されるこちらの身にもなってほしいが、そんな弱音が通用する相手ではないことくらい、この二年弱で嫌というほど理解していた。

「過去最高に、わたしは上機嫌かもしれません。だって、これから三か月間、トレーナーさんを独り占めできるんですから」

 臆面もなくカフェは言った。

「これで、いちいち気を揉まなくて済みます。トレーナーさんが、他の娘に浮気しないかなとか、わたしに黙って辞職しないかな、とか」

 微笑しつつも、声音は真剣そのものだ。こういうところが怖い。

「あとは、そうですね。一番恐れているのは、異性関係ですかね。どこのウマの骨とも知れない男に掻っ攫われるんじゃないかと、気が気ではありませんでしたよ。学園のトレーナーは男性が多いですからね」

 金の目が、夏野の心まで覗き込むかのように鋭く光る。この様子だと、まだ広田との関係を疑っているようだ。これだけの知性と洞察力を持ち合わせているカフェが、人間の年齢的には、まだ女子高生であることに頭痛がしてくる。

「わたしに言い寄ってくるモノ好きなんていないよ」

 適当にはぐらかす。触らぬカフェに祟りなし。広田との関係性を、正直に教えてやる必要はない。

「トレーナーさんは外見だけでも十分魅力的ですよ。背も高くて、モデルさんみたいです。学園の男どもで、釣り合う奴はいませんね」

 あからさまに牽制の意図を含んだ賛辞。それでも、顔がにやけそうになるのを、ぐっとこらえた。

「おやおや、カフェ。わたしのことは警戒しなくていいのかな?」

 後ろの席から、ぴょこりと顔を出すアグネスタキオン。

「思うに、夏野トレーナーはモルモットとして最適な人材だ。きみのような根暗クレイジーサイコを二年近く相手にできる強靭な精神力が、適正値の高さを証明している。どうだい、夏野トレーナー。わたしの専属モルモットとして、正式に契約を交わさないか?」

「殺しますよ」

 にこりと歯を見せてカフェは言った。

「残念だ。まあ、今回はきみで我慢するとしよう。わたしはね、いつになく高揚しているんだ。ウマ娘の身体機能、その深淵に一歩近づけるんじゃないかと期待している。三か月間、よろしく頼むよ、わたしの可愛いモルモットちゃん」

 言うだけ言って、タキオンは後部座席に引っ込んだ。

「……普段から、あんな感じなの?」

 あっけにとられた夏野が尋ねる。

「そうですね。昔から彼女は、わたしに対して遠慮がない。頭のネジが飛んでいるからなのでしょうけど。トレーナーさん、彼女の発言は全て無視してください。本気で言っているぶん、タチが悪いですから」

 落ち着いた様子でカフェは言った。これもひとつの友情の形、と夏野は思い込むことにした。

 

 目的地のツェルマットは、標高1600メートルほどにある山間の街だ。アルプス山脈の玄関口として、世界各地から旅行者や登山家が集まってくる。そのため、へき地の割には交通網や商業施設が発展しており、生活の拠点としては申し分ない。夏野が手配したのは、中長期滞在者向けのガレージホテルだった。費用を抑えるため、当初は三人部屋を予定していたが、研究に集中したいと主張するタキオンのため個室を用意せねばならなくなり、夏野とカフェは相部屋となった。

 まずは、一週間ほど周囲のトレッキングルートを巡り、高地の空気に肺をなじませる。それから徐々に高度を上げていき、運動距離も伸ばす予定だった。

 ところが、はじめの一週間で、さっそく問題が起きた。

 日本から、身に覚えのない荷物が大量に輸送されてきたのだ。梱包を解くと、使い込まれた登山用品が溢れ出してくる。送り元は、北海道美瑛町。マンハッタンカフェの実家がある場所だった。

「実はわたし、登山が好きなんです。実家にいたころから、大雪山系の山によく登っていました。両親に頼んで、使えそうな道具を送ってもらったのです」

 さらりとカフェは言った。しかし、夏野はその言葉を受け流すことはできなかった。ダウンジャケットや化繊下着、手袋などは分かる。しかし、なぜ先の尖ったハンマーみたいなものや、鳶職人が使っていそうなハーネスとロープ、無数のカラビナは一体何なのか。極めつけは、サイズの小さい吊り下げ式のテントだ。

「こんなの、いつ使うの?」

 嫌な予感が増大していくなか、夏野が尋ねる。

「むろん、山に登るときですよ。危険ですから、自分の身体をロープで確保しながら、少しずつ登っていきます。氷壁の場合は、アイスバイルとアイスピッケルを両手で突き刺し、両脚のアイゼンを蹴りこみます」

 トレーナーである夏野には、彼女の話す言葉の意味が分からなかった。本能的に察知できたのは、自分の考える登山と、カフェの中の登山には、大きな隔たりがあることだけだった。

 これはもう、登山好きというレベルではない。完全なるクライマーの装備品だった。

 おまけに、よく見るとアイスピッケルやらアイゼンやらが、なぜか二組もある。

「トレーナーさんの分もありますよ。母が使っていたものですが、体格はほぼ同じなので問題なく扱えると思います。現地で買うと高くつきますから」

 どんどん話を進めていくカフェ。

 まさか、と夏野に戦慄が走った。あれだけ熱心に高地トレーニングを主張したのは、アルプスの山々を登るためだったのか。もしそうなら、理事長の前で語ったレース復帰への熱い想いは、すべて演技だったことになる。

「……この女優め」

 またしても、してやられた。ほぼ確信に近い直感を得て、夏野は呻いた。

「お願いします。トレーナーさん。いや、夏野さん」

 真剣な顔をしたカフェが目の前に立つ。

「一度燃え上がった脚は、走り続ける限り永遠に鎮火することはありません。わたしの身体は、競走ウマ娘としてはもう限界です。あなたが、トレーナーとしてわたしを大切にしてくれるのは承知していますが、この結論は変わりません。ならば、わたしは次のステージに進まなくてはならない。レースに代わる、生きる悦びを見つけなければなりません」

「それが、登山だっていうの?」

 夏野が問う。

「わたしには、たまたまレースの才能がありました。そして、わたしの求める勝利の快楽を得られるのは、レースしかなかった。もし日本が、ウマ娘に多様な生き方や活躍を認められる国だったなら、わたしは登山家を目指したでしょうね」

 その言葉で、夏野は確信した。マンハッタンカフェは、突飛な思いつきで登山を始めようとしているのではない。彼女のなかに古くからあった、切なる欲求。それと同時に、理事長に対するプレゼンの際、カフェが見せた怒りの理由にも気づいた。あれは理事長に向けられたものではない。レース以外の生き方を認めようとしない学園、URA、ひいては日本という国家全体に対する、ひとりのウマ娘のやりきれない怒りだ。

 応援してやりたい。トレーナーではなく、夏野蘭個人として。そんな気持ちが、強く湧き上がる。一方で、広田や理事長の好意を裏切ることへの罪悪感もまた、腹の底に膨れ上がっていく。

 マンハッタンカフェは競走ウマ娘として、夏野蘭はトレーナーとしての活躍を、周囲は望んでいる。

「お願いします。挑戦させてください。あの日、終焉を望むわたしを踏みとどまらせたときくれた言葉が、まだ生きているのなら」

 カフェは言った。真摯な瞳だった。

 忘れるはずがなかった。『あなたの生きる悦びを、この世界のどこかに必ず見出してやる』。夏野は、確かにそう言った。まさか、こんなに近くて遠いところに存在しているなど、夢にも思わなかったが。

 もう答えは決まっていた。

「分かった。やってみよう。レースを引退した後も、あなたたちの人生は続くんだ。わたしたちトレーナーは、もっと早くから、きちんと向き合うべきだった。終わりの先のことまで」

 迷いなく夏野は言った。

 ありがとうございます、と振り絞るような声でマンハッタンカフェが囁く。

「さて、問題はタキオンだね。レースに復帰する気がないとなると、さすがに見逃してはくれないだろうし」

「あ、それなら問題ありませんよ」

 即座にカフェは言った。

 そのとき、ふと背後に人の気配を感じる。

「とっくに根回しを受けていたからね。そこの根暗サイコウマ娘から」

 いつの間にか部屋に入ってきたアグネスタキオンが、いつもの薄笑いを浮かべていた。

「わたしはカフェと取引をしたのさ。この休養期間中、ありとあらゆるトレーニングや登攀訓練中の身体データと引き換えに、本来のリハビリから逸脱する行為を見逃すと。カフェが何をしようと勝手だが、そのせいで、せっかくの研究機会が奪われるのはごめんだからね」

 そう言って、タキオンはカフェに近づき、肩に手をのせる。

「このときをもって、マンハッタンカフェはわたしのモルモットだ。血中酸素濃度、体温、血圧、呼吸数、脈拍、乳酸値、脳波、精神、足の裏から髪の毛の先まで、すべてのデータはわたしのもの。それが訓練につきあう条件だよ」

「分かっているから離れてください。うっとうしい」

 手を振り払い、低い声でカフェは言った。

「とういうわけで、タキオンさんのことは心配いりません。無視してくれて結構です。彼女が欲しいのは、あくまでわたしから検出される数値だけなので」

 さらりと言ってのけるカフェ。

 目的のためなら手段を選ばない性格が、おそらく本能的にふたりを引き合わせるのだろうと、夏野は遠い目をしながら思った。

「まあ、それはいいとして、わたしは登山技術なんて指導できないよ。レースで勝つためのトレーニングしか知らないし」

「大丈夫です。師(メンター)は、わたしのほうで手配しておきました。合流するのは一か月後です。それまでに高地での運動適正を高めておきましょう。3200メートル以上で問題なく動けるようになるくらいが理想ですね」

 不安が払しょくされたためか、軽い口調でカフェは言った。しかし当の夏野には心配事しかなかった。そもそもウマ娘と人間とでは身体の構造も機能も違う。仮に高名な登山家が師になったとして、ウマ娘にとっての正しい登山技術を指導できるだろうか。日本のウマ娘が国外の名峰に挑んだ例はないから、夏野にとっても未知の領域だった。

 そんなことを考える暇もないほど、一か月はあっという間に過ぎた。拠点となるツェルマットから、ひたすら高所を目指して歩いては引き返す。蒼穹を衝かんばかりの白い峰や、雄大な湖と氷河の色彩は、慣れてしまえば単調な背景と化す。油断すれば、肉体から魂がふわーっと抜けてしまいそうになるトレッキング。基礎体力がつき、3000メートルほどの低酸素状態には肉体が慣れてきた。わざわざ日本から血中酸素濃度(SPO₂)を測るパルスオキシメーターを持ち込んだアグネスタキオンが、喜々として数値の改善を記録していた。

 夏野は、一往復ごとにカフェの脚を入念にチェックしていた。しかし、人間にとって苦しい程度の運動では、屈腱炎に再発の兆しは見られない。むしろ、脚に過度の負担をかけることなく、心肺機能は向上していた。

「そろそろ、師が来る頃じゃない? 一応、実績とか調べておきたいんだけど、どんな人?」

 少し不安そうに夏野が尋ねる。しかし、カフェは悪戯っぽく笑った。

「誰が人間と言いました? 人間だけが登山を許されているのではありません。意志と実力さえあれば、山は誰も拒まない。走ることばかりに固執する日本のウマ娘やトレーナーは一生知らないままかもしれませんね。世界には、登るウマ娘もいることを。わたしたちの師となるのは、ウマ娘ですよ」

 にやりと笑うカフェ。

 驚愕のあまり声も出ない夏野の横で、「走行能力を十全に発揮できない山登りなど、ウマ娘にとっては非合理的行為だ」とタキオンがぼやいていた。

 顔合わせの場所は、ツェルマット中心部のレストランだった。

 山に興味がない自分には時間の無駄だと、タキオンは同行しなかった。夏野とカフェはふたりで、指定されたテーブルにて待つ。

 まだ顔も知らないというのに、夏野は自らの師が誰であるのか瞬時に悟った。群衆のなかにあってさえ、身にまとう気配の違いがはっきり分かる。身長170センチを超える、すらりとした肢体。それでいて、一切体幹のぶれがない。アルプスの雪に染まるかのような真っ白な長髪に、同じ色の長い睫毛に縁取られた銀色の瞳。

 神秘的なまでに美しい、葦毛のウマ娘。

 マンハッタンカフェが立ち上がる。夏野も、半ば呆然としながら、つられて席を立った。ふたりが目に留まると、彼女はにこやかに接近してくる。そして貴族のように優雅な一礼をした。右耳についた、金モールと赤い十字架の飾りが揺れる。

 防寒ジャケットの肩には、フランスの国旗。その下に、アルファベットで名前が縫い付けられている。

 『Blanc Hannibal』。

「初めまして。ハンニバル・ブロンです」

 口から出たのは流暢な日本語だった。

「国際的には、ブラン・ハンニバルの名を使っています。どうか気軽に、ブラン、あるいはハンニバルと呼んでください」

 にっこりと笑う彼女に対し、マンハッタンカフェもまた、笑顔で自己紹介しながら握手する。しかし、その瞳の奥には、レース出走直前のような鋭い闘志が宿っていた。

 

 後に、ウマ娘山岳史に名を刻むこととなる、白と黒の両雄が出会った瞬間だった。

 

 

 

 




いよいよ、本格的な登山が始まります。

走ることだけが、ウマ娘の人生ではない。マンハッタンカフェとトレーナーの行末はいかに。
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