【完結】白嶺に染まぬ黒 ~大人のためのウマ娘 プリティーダービー~   作:モルトキ

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URA

ウマ娘中央レース協会。トゥインクルシリーズが開催される大規模な競技場を所有し、レース業界の全てを取り仕切る組織。政治に対する日本有数の圧力団体であり、トレセン学園においても絶大な影響力を有する。


第5話  葦毛の怪物

 ブランハンニバル。

 その名を知る日本人は、ほとんどいない。ウマ娘のスターダムは、トゥインクルシリーズと相場が決まっている。したがって、現役の競走ウマ娘以外が脚光を浴びることは、この国ではあり得ない。

 ところが、ひとたび海外に目を向けると、ウマ娘は実に多様な分野で活躍していることが分かる。そのなかでも、突出して世界の注目を集めているのがブランハンニバルだった。ストラスブールの名家出身であり、元々は競走ウマ娘としてフランスのターフを走っていた。イスパーン賞やサンクルー大賞といったG1にも出走しているが、すべて着外に沈んでおり、現役時代にこれといった功績は残せていない。だが、彼女が頭角を現したのは、ターフを去った後だった。

 引退後、わずか一年で、ウマ娘としては世界初となる、ヨーロッパ最高峰モンブランの冬季単独登頂に成功。それを皮切りに、次々と世界の名峰に挑み、制圧してきた。競走ウマ娘から登山家に転身した7年間で、『ウマ娘世界初』の称号を、無数の勲章のように自らの経歴に連ねている。

 登山素人の夏野でも知っている有名な山の名が、綺羅星のごとく並んでいた。ネットで調べたところ、特に偉業とされているのが、

 

 南米最高峰・アコンカグア(6980m)南壁ルート単独登頂

 北米最高峰・デナリ(6190m)冬季単独登頂

 アイガー北壁 冬季単独登頂

 

 だった。どれも、一流の登山家ですら命を落とすことがままある絶峰だ。登り切っただけでも称賛に値するのだが、彼女はなんと、その全てで下山途中に遭難している。アコンカグアとアイガーでは岸壁下降の途中で滑落し、デナリではヒドゥン・クレバス(目に見えない氷の割れ目)に飲まれた。肋骨骨折、全身打撲を負いながらも、自力でクレバスから這い上がり、痛みに耐えながら救助ヘリも待たず独りで生還した。それらの武勇伝から、『Blanc the immortal』(不死身の白)という二つ名がついた。お嬢様然とした見た目とのギャップも人気を呼び、一部のサイトではアイドルのように愛されていた。

 現在、広告代理店を兼ねた自らの会社法人を持ち、さまざまな企業やフランス国家の後ろ盾を得て、冒険の幅を広げている。今回、スイスのツェルマットに入ったのは、アルプスの角と呼ばれる超名峰・マッターホルンのウマ娘冬季初登頂を狙ってのことだった。これはフランスの国家機関である国立高地研究所のプロジェクトであり、現地での指揮権限をハンニバルに委任していた。

 国をあげて、レース以外でウマ娘の活躍を後押しするなど、日本では考えられないことだった。

 マッターホルンに挑むハンニバル隊は、すでにテオドール氷河のおひざ元であるガンデック小屋付近にベースキャンプを張っていた。ベースといっても、標高は3000mもあり、そこに滞在すること自体が高地トレーニングといっても過言ではない。

 12月中旬、夏野一行はベースキャンプに入った。ここまで来ると、アルプス山脈の威容を肌で感じるようになる。ツェルマットを拠点にしていた頃は、遠く美しい背景でしかなかった世界の屋根が、これから人間が登るべき現実として聳え立つ。数千万年の氷雪をまとい、あらゆる生命を拒む4000mの岩の壁。その中でもひときわ天高く突き出す影が、マッターホルンだ。奇跡のように美しく恐ろしい、アルプスの角。

 自分が登るわけでもないのに、夏野は脚がすくんでいた。

 どう見ても、歩くだけで登頂できる山ではない。あからさまに怯える夏野を、マンハッタンカフェは喜々として訓練場所まで引きずっていく。この様子では、どんな山に登るにしろ、カフェのザイルパートナーは夏野が務めることになりそうだった。アイゼンの装着や、アイスピッケルとアイスバイルの使い方、ロープワークは学んでいたが、それが高地での実戦に通用するかは分からない。トレーナー業とは全く無関係の技術であるが、命がけで学ぶしかなかった。

 マッターホルンの前哨戦としてハンニバル隊が選んだのは、隣にある4164mのブライトホルンだ。アルプス4000m峰のなかでは登りやすい、というのが一般的な評価だが、それはあくまで登山シーズンである春と秋の話だ。アルプスの冬は、あらゆる山を鬼にする。山頂に至る荒々しい岩肌を綺麗に舗装しているかのような雪は、ひとたび雪崩となればチーム全滅の脅威だ。ぱっくりと口を開けた氷の裂け目も、雪がブリッジ状に吹き積もるせいで覆い隠されてしまう。

 クレバス落下を防ぐため、縦列をなす隊は、ひとりずつザイルで連結されている。カフェと夏野はしんがりを務めた。

 前を行くハンニバル隊は、驚くべきことに全てウマ娘だった。ベースキャンプに対する補給や事務管理は人間が行っているが、アタックをかけるのはウマ娘のみ。いわゆる雇われであり、国籍は様々だが、全員同じフランス国旗を肩に貼り付けている。英語でコミュニケーションが取れるため、ベースキャンプにて少しばかり会話もしていた。彼女たちは元競走ウマ娘か、あるいはレースが盛んではない国の出身だった。祖国では認められなかった才能をハンニバルに見出されたという。みんな、ハンニバルのことを慕っていた。

「大丈夫ですか?」

 カフェが、最後尾の夏野を気遣う。夏野だけが、隊のペースについていけず、少し遅れ気味だった。高地での歩行には慣れていたし、体力的にきついルートでもないのに、息があがる。よく考えれば当然だった。ウマ娘と人間とでは筋力も基礎体力も桁違いだ。隊は、あくまでウマ娘のペースで進んでいく。夏野は、ついていくだけで精一杯だった。

「なんとかね」

 まだ言葉を出せるくらいには、肺活量に余裕があった。地道なトレッキングが活きていると早くも実感した。

 緩やかなU字谷を越えたと思えば、すぐそこに最初の難関が立ちはだかる。高さ約30メートルほどの氷壁だ。岩肌に雪と氷が張りついただけで、途方に暮れるほど登れる気がしない。

 そこを単独登攀することが、ブランハンニバルからの最初の課題だった。

 安全のため、まず先遣隊がルートをつくる。この程度の壁なら、転落防止の支点となるアイススクリューやハーケンを打ち込む必要はないが、今回は訓練ということで万全を期していた。

 落ちても死なないが、落ちるようではアルプスに入る資格なし。ハンニバルは笑顔でそう言った。これが、彼女流の登竜門だった。

 まずは、マンハッタンカフェが氷壁にとりつく。両手のピッケルとバイルを氷の表面に突き立て、両脚のアイゼンを同じように蹴りこみ、身をよじるようにして少しずつ登っていく。アイスクライミングにおいて、もっとも基本的なダブルアックスによる登攀だ。氷に刺した刃が効いているかは、手足に伝わる感触だけで判断しなくてはならない。カフェは、最初は両手足を平行にそろえてから、次のスイングを打ち込むXスタイルで登っていたが、やがて氷に慣れてきたのか、手足を互い違いに出していくNスタイルに変更した。スピードは上がるが、バランスを崩しやすい登り方だ。しかし、その後もカフェは一切ペースを崩すことなく、わずか15分で氷壁を登り切った。

「素晴らしいです、カフィ。クライミング経験があるとは聞いていたが、これほど成長が速いとは……」

 夏野の隣で、ハンニバルが銀色の瞳を輝かせていた。彼女は、マンハッタンカフェの名を独特なイントネーションで呼ぶ。それがニックネームのように、隊のなかで浸透していた。

「さて、次はあなたがチャレンジしてみてください。マネージャーといえども、このくらいの壁は登れなければ、のちのちカフィのクライミングをサポートすることは難しい」

 ハンニバルは言った。

 マネージャー。その言葉が、妙に引っ掛かる。日本語は達者なようだが、言葉のニュアンスを誤用しているのだろうか。

「わたしは、マンハッタンカフェのトレーナーです」

 念のため訂正しておく。するとハンニバルは一瞬、不思議そうな顔をした後、何かを悟ったようにうなずいた。

「ああ、レース関係者でしたか。失念していました。しかし、ここは競技場ではありません。人間とウマ娘の間に、何の隔たりもない。さあ、カフィの背を追いかけてください!」

 底知れない笑顔でハンニバルは言った。隔たりがない、という表現は、単純な平等を意味するものではない。圧倒的な身体的優越を誇るウマ娘と、同じ土俵に立たせられる。

 抗いがたい脅威を、夏野は感じていた。

 何も言わず、最初の刃を氷壁に打ち込む。習った通り、手足が平行になるように、右手、左手、右足、左足の順番に、氷を捉えていく。壁を這う尺取虫のような、遅々とした進み。それでも、夏野は一挙手一投足が無駄にならないよう、考えながら登る。ピッケルを氷に打ち込むとき、窪んでいるところにインパクトしなければ、しっかり刃が刺さらない。刺さったとしても、その刃が効いているかどうかは、体重を預けてみないことには分からなかった。ときおり氷が割れたり、もろい雪面に刺さってしまったりで、何度も打ち直す。もし、これが標高差何千メートルの絶壁なら、たった数度の打ち直しでも、積み重なれば膨大な体力を消耗してしまう。

 まだ自分には、本格的なアイスクライミングなど夢のまた夢と思い知らされる。

 時間の間隔が薄れ、どのくらい登ったのかも分からない。腕を振るうだけで、うめき声が漏れるようになった。根性を振り絞らなければ、手も足も前に出ない。防寒対策はしっかりしているが、凍りついた岸壁からは絶えず冷気が放たれ、露出した目や皮膚を苛む。これだけ激しい運動をしているのに、手足には熱が通わず、むしろ冷たくなっていく。

 蒸気機関車のように、もうもうと白い息を吐きながら、夏野はようやくトップまで2メートルのところまで登った。あと少しだ。

 そのとき、インパクトした右手のあたりから、パキリと小さな音がした。

 直後、右上半身が、ふわりと宙に浮いた。右手のピッケルを打ち込んだ氷が、剥がれたのだ。とっさに左手足に力を籠め、壁にへばりつこうとする。しかし、今度は蹴りこみの甘かった左アイゼンの刃が外れた。

 虚空。

 ただ重力に吸い込まれる感覚。残された左手のバイルが、ガリガリガリと凄まじい勢いで氷を削っていく。

 そして衝撃。がくんと身体が揺れる。内臓がひしゃげ、骨が軋む感覚。落下が止まった。ハーネスに繋がられたザイルによって、夏野は宙吊りになっただけで済んだ。すぐに体勢を立て直し、氷壁にとりつく。

 もし身体を確保していなければ、まっすぐ30メートル落下していた。地面は、固い岩と氷。今まさに、自分は死にかけたのだ。身体が宙に浮いた瞬間、骨の髄まで恐怖に浸った。なんとか登り切るまで、ずっと手指の震えが止まらなかった。

「お疲れ様でした」

 マンハッタンカフェが、労いの言葉をかける。

「タイムは?」

 息も絶え絶えに、夏野が尋ねた。

「1時間2分。初心者にしては、いい時計です」

 カフェは上機嫌で言った。しかし、夏野は内心落ち込んでいた。精魂尽き果てたあげく、カフェの四倍近い時間を要した。数値化されると、やはりショックだった。

「さあさあ、夏野トレーナー。心拍数とSPO₂を取らせてくれたまえ!」

 夏野の気も知らず、さっそくタキオンが夏野の腕と指に計器を取りつける。そんな同僚ウマ娘を、カフェは忌まわしげに睨んでいた。

 

 この日以降も、ブライトホルンにて雪上歩行とアイスクライミングの訓練を繰り返した。十二月後半に入ると天気が悪化したため、ハンニバル隊もツェルマットに留まることとなった。キリスト教圏では、年越しは家族や友人が一緒になって、お祭り騒ぎをする。ハンニバル隊が予約していたビストロにて、カフェ一行も年越しパーティーに参加した。騒がしいのは苦手だ、と食べるだけ食べてタキオンはさっさと帰ってしまった。カフェは拙い英語を用いて、他の隊員とクライミング技術について情報交換をしている。

 久々の楽しい時間だった。さわやかな口当たりの白ワインを傾けながら、夏野はカフェを見つめていた。レースに出ていた頃の凄惨なオーラは鳴りを潜め、純粋に楽しそうに語らっている。レース以外に生き方があるのなら登山家を目指したという言葉に、偽りはなさそうだった。

「よい夜ですね、ナツノさん」

 ふと、となりから声がかかる。美しい葦毛のウマ娘が、夏野の隣に腰かける。

「少し、お話ししませんか?」

 酔った様子もなく、ブランハンニバルが尋ねる。彼女に導かれるまま、吹き抜けになった二階のテラス席にあがる。

「日本語、お上手ですよね。過去に滞在したことがあるんですか?」

「いいえ。言語の習得は、なかば趣味のようなものでして。チベット語やネパール語は、仕事にも役立つのですが、フィン語、マジャル語、日本語などの独立系言語は、どのような歴史のなかで文法や単語が育まれてきたか知ること自体が楽しいのです。とくに日本語は、表意文字である漢字と、表音文字である仮名を使い分けます。おまけに、仮名にもひらがなとカタカナのふたつがある。こんなに文字による表現法が多彩な言語は、他にありません」

 すらすらと語るハンニバル。この時点で、非常に高い知性と学習意欲が見て取れる。それに加え、様々な組織の後ろ盾を得て、自らの隊を率いるカリスマ性。自身も単独で山に挑める実力。ウマ娘としては、規格外の才気である。

 それゆえに実家とは絶縁し、レース界からも放逐されたのだろう。

 登山家に転身する前の経歴についても、あらかた調べはついていた。名門貴族の末裔にふさわしい優雅な見た目とは正反対に、相当な気性難だったらしい。フランスの中央トレセンでは何度もトレーナーが変わっている。ケガが理由で引退と公表されていたが、本当は担当トレーナーに暴力行為を働いたことが原因であるとの噂が立っていた。

 夏野の肩の傷も、暴力行為の範疇なのだろうが、愛情の裏帰しであるカフェのそれとは意味が異なる。

 ハンニバルが人間を見る目は、どこか軽薄だった。あからさまな侮蔑の色はないが、まるで愛玩動物に向けるような眼差しで、訓練中の夏野を見ていた。

「さて、話とは何でしょう?」

 心を落ち着けてから、単刀直入に夏野が尋ねる。話が早いといった満足気な顔で、ハンニバルは口を開いた。

「カフィを、正式に我が隊に加えたい」

 夏野は動じなかった。予測していたことだった。

「彼女は天性のクライマーです。初登の壁を難なくクリアするには、スタミナや技術だけでは足りません。一瞬で最高率のルートを見極め、それを達成するために、どこに、どのくらいの力で、どの程度の角度で刃やアイゼンを打ち込むべきか判別がつく。先天的な嗅覚、すなわち登山センスが、彼女には備わっている。後天的な努力で補えるレベルを遥かに超えたところに、すでに彼女はいるのです。この才能を、もっと輝かせたい。わたしのもとで、あらゆるクライミングを経験していけば、必ず世界最高のクライマーになれる。わたしさえ凌駕する絶対的な王者に」

 熱のこもる、本気の声だった。銀の瞳に、もはや夏野の姿は映っていない。遥か彼方、真っ白な氷壁を這い上っていく漆黒のウマ娘を夢想している。

「お二人の経歴は知っています。おそらく、あなたがわたしのことを調べたように、わたしもまたあなた方のことを調査しました。G1三勝は素晴らしい成績です。学園の人間は、必ずカフィを復帰させようとするでしょう。しかし、あなたは理解しているはずです。走るために酷使されてきた脚が、もう限界に達していることを」

 ふたたび瞳の焦点が、夏野の顔に戻ってくる。

「日本は、世界でもトップクラスの競走ウマ娘先進国です。中央トレセンの福利厚生は素晴らしいものだ。しかし、生徒たちは過酷なトレーニングで肉体をすり減らし、その多くが怪我や病気で引退していく。たった6,7年の現役生活を終えれば、あとにはもう何もない。レースでの生き方しか知らないウマ娘は、国から支給されるわずかな年金を頼りに、残りの人生を漠然と消化するしかない。さらには、日本では、ウマ娘の就労に関して厳しい制約がある。あなたもご存じでしょう?」

 ハンニバルの言葉は、全て事実だった。

 建設業や運送業、あるいは兵役など、人間よりも身体機能の優越が発揮される仕事は、ウマ娘に禁止されている。もしそういった職種を希望する場合は、バ籍を抜けて、新たに戸籍と名前を取得し、人間として生きていかなくてはならない。その場合、外見も人間と同じくすることが求められるため、耳や尻尾は意図的に隠す必要がある。

 このような制約が課されるようになったのは、人類の歴史が関係している。

 ウマ娘には、勝ちたいという本能が備わっている。人間はそれを悪用した。二度にわたる世界大戦のおり、勝利欲求の矛先を、『敵に勝つこと』へと捻じ曲げたのだ。公式には明かされていないが、多くのウマ娘が従軍し、その身体機能を人間同士の醜い争いに投じた。これは戦勝国も敗戦国も同じだが、こと敗戦国においては、その歴史がトラウマとなり、ウマ娘に肉体労働を課すことを、ひどく恐れるようになった。

 罪滅ぼしのような形で、戦後、ウマ娘のための組織であるURAが結成され、大々的に開催されるようになったのがトゥインクルシリーズである。

「レースは平和の祭典。人種も国境も関係なく、人々に夢と希望を与えるもの。ウマ娘は人間に愛され、尊ばれる存在となりました。しかし裏を返せば、雛壇に飾られた人形でしかない。円形のターフは、いわばモルモット用の巨大な滑車です。勝ちたい気持ちを発散させ、人間社会から隔離するための」

 ハンニバルが人間を見る目の原因。この言葉で、夏野は少し分かった気がした。

「連合国や中立国では、ウマ娘の社会的地位は高まりつつあります。わたしのようなレース界のはみ出し者でも、実力を示せば国や企業から支援を得られる。ここスイスでは、国防軍にウマ娘の部隊さえある。自らの力で自由と独立を勝ち取ってきた国では、ウマ娘もまた自らの意志により生き方を選べる。しかし、日本は違います。結局、お上の定めた範囲内でしか自由も権利も認められない。競走ウマ娘にとって、トレセン内は楽園かもしれません。しかし、その外側は絶望の淵です。わたしは、そこからカフィを引き上げ、世界の舞台に立たせてやりたいのです」

 夏野を射抜くような瞳だった。ウマ娘のことを第一に考える姿勢は、シンボリルドルフと同じだ。しかしハンニバルは、レースだけがウマ娘の幸福ではないとはっきり態度に示している。

「トレーナーであるあなたに、それができますか? レースで勝てるウマ娘を育てることが至上の目的であるあなたに、身体を壊し引退した娘の余生にまで責任を持てるのですか?」

 ハンニバルが問う。つまり、こういうことだ。

 『マンハッタンカフェとの契約を解除し、彼女をフランスに引き渡せ』。

 夏野は答えなかった。自分が答える必要がなかったからだ。

 音もなく、その漆黒は近づいてくる。気配を悟られないまま、ハンニバルの背後に立った。

「それを決めるのは、夏野さんじゃありません。わたしです」

 普段の、ゆったりとした低い声でカフェは言った。驚いたように振り返るハンニバル。人間より遥かに優れたウマ娘の聴覚をもってしても、カフェの奇襲を察知するのは難しいようだ。

「……きみには、すでにアルプスの大岩壁に挑める実力が備わっている。我々の徹底した事前調査とサポートがあれば、マッターホルンを制することもできるでしょう。わたしと共に、世界初を獲ってみませんか?」

 誘いをかけるハンニバル。しかし、カフェは間髪入れず首を横に振る。

「せっかくですが、御遠慮させてください。わたしが一緒に登るのは、夏野さんです。マッターホルンは素晴らしい山ですが、わたしたちには荷が重い」

「後悔するかもしれませんよ。ウマ娘と人間の格差に」

 険しい視線を向けるハンニバルに、カフェはゆったりと微笑みかける。

「後悔なんて、とっくに過ぎてますよ。わたしたちを隔てる壁が大きいことも、散々思い知らされてきました。それでも、わたしは夏野さんと一緒にいたいんです」

 凛としてカフェは言った。その言葉で、どうしようもなく夏野は胸が熱くなる。

「分かりました。であれば、わたしは師としての役割を全うするのみです。教えてもらえませんか? あなたたちの処女登山について」

 令嬢然とした柔和な顔つきに戻り、ハンニバルが尋ねる。

「まずは、ヨーロッパ最高峰。モンブラン・ノーマルルートを制します」

 迷いなく宣言するカフェ。初耳の夏野は、口が開きそうになる。

 標高4810m。アルプスの女王と呼ばれる、美しくも過酷な山だ。登山シーズンである夏季を含めても、登頂率はわずか20%しかない。冬季の難しさは言わずもがな。そんな山に、ハイキングにでも行くかのように登頂宣言をするカフェ。

「そうですか。あなたたちの行く道に祝福のあらんことを」

 ハンニバルは止めようとしなかった。酔いなど微塵も感じられない優雅な足取りで、階下の騒がしい仲間のもとに戻っていく。

「ちょっと、カフェ! 冬のモンブランって……!」

「大丈夫です。天候次第ですが、わたしたちならやれます。ハンニバルは、本当に優れた師でした。ですが、いずれ弟子は巣立つもの。これからはライバルですよ」

 マンハッタンカフェは勝気に笑う。これはもう、行くしかないと夏野も腹を括った。

 

 1月10日。ハンニバル隊は、いよいよアルプスの角に挑むためツェルマットを発った。その直前に、ささやかなお別れ会が催された。互いの無事と健闘を祈る、隊員とカフェ一行。その際、ハンニバルは餞別としてふたつのものをカフェに与えた。

 ひとつは、ウマ娘専用の防寒耳カバー。もうひとつは、小型高性能カメラだった。

 身体機能に優れるウマ娘だが、寒冷地において唯一の弱点となるのが耳だ。手足の指に比べて血流量が少なく、露出する面積も大きいため、凍傷のリスクが極めて高い。もし耳介を失えば、聴力が極端に落ちてしまう。雪崩やクレバスの回避に不可欠となる、微小な音の変化を察知できなくなる。それを防ぐため、ハンニバルはフランスの登山メーカーと耳カバーを共同開発した。特殊な繊維により、内側の熱を遮断しつつ、外からの空気振動を通す。これにより、保温しながら聴力を保つことができる。一方で、カメラは登山の必需品ではない。ただし、登頂過程や山頂からの景色を記録しておくことは、後々のために役立つ、とだけ聞いていた。

 ツェルマットの駅まで、アグネスタキオンが見送りに来てくれた。通常の高地トレーニングを続けるため、彼女はこの地に留まる。

「死なないでくれたまえよ」

 いつもの人を食ったような薄笑いはなく、かつてのライバルにエールを送る。しかしその後、ちゃっかりパルスオキシメーターや記録用紙を押しつけてきた。

 

 スイス、フランス間の国境を越え、ふもとの街であるシャモニに入る。前日には強烈な風が吹き荒れていたというモンブランの上空に、雲ひとつない。ヨーロッパ最高峰にふさわしい悠然たる姿が、どこまでも真っ白な雪で輝いている。標高3200m付近のテートルース小屋で一泊する予定だったが、未明から出発してもあまり体力を消費せずにすんだため、第二のベースとなるグーテ小屋まで進む決断をした。ノーマルルートならば天候次第というカフェの言葉は正しかった。

 クレバス落下を防ぐため、互いの身体をザイルで結ぶ。先行はカフェが務めた。雪中のわずかな軋みを頼りに、安全なルートを見極めていく。3500mを超えても、まだ高山病の症状は出ていない。ブライトホルンでの過酷なトレーニングが、確実にふたりの肉体を強化していた。できる限り、夏野はカフェの姿をカメラに収め続けた。

 フランスで最も高い場所にあるグーテ小屋を午前4時に出発する。アルプスの稜線を超えて太陽が顔を出し、あらゆる景色を黄金色に染め上げていく。その中を歩く漆黒のウマ娘の姿は、神秘的にさえ見えた。両側が崖のように切り立つナイフリッジも、思ったより恐怖感はなかった。

 午前7時14分。マンハッタンカフェが、夏野に笑いかける。微かに白み、雪の舞う空。眼下には、山脈を超えてどこまでも果てしなく欧州の大陸が広がっている。ここがモンブランの頂点。すなわち、ヨーロッパの頂点だった。畳一枚もない、分厚い氷で覆われたスペースを、勇ましく踏みつける。

「凱旋門の仇は取れたかな?」

 カメラに担当ウマ娘の姿をおさめながら、夏野が尋ねる。

「いいえ。これはメイクデビューにすぎません。世界の頂は、まだ遠い。ですが、やはり嬉しいものです」

 将来のことや下山の消耗戦も忘れ、このときばかりには歓喜に浸る。冬のトップ・オブ・ヨーロッパが初戦とは、末恐ろしいと夏野は苦笑した。

 山頂にいたのは、わずか5分だった。下山は迅速に行うのが、登山界の鉄則だ。この日のモンブランの空は、ふたりの初登頂を祝福するかのように終始機嫌が良かった。

 シャモニで一泊して疲労をとり、ふたりは無傷でツェルマットに戻った。

 駅には、出発時と同じく、アグネスタキオンが出迎えてくれた。しかし、モンブラン制覇をメールで伝えておいた割に、その表情は険しい。

「夏野トレーナー、カフェ。おめでとう、と言いたいところだが、手放しには喜べない状況になった」

 そう言って、間髪入れずに、ふたりの前に複数の新聞を広げる。スイスの日刊紙である20ミヌーテンの他に、フランスのル・モンド、ドイツのディー・ヴェルトもあった。その一面には、尖った岩壁を取り巻く5人のウマ娘の写真が大きく掲載されている。ブランハンニバル隊が、ウマ娘で史上初となるマッターホルン冬季登頂を成し遂げた記事だった。

 それだけなら、ただ同業者の成功を祝うだけでよかった。

 各新聞とも、ハンニバルの記事の横、あるいは下に、別のウマ娘の写真と見出しを載せていた。

 

 日本のウマ娘とトレーナーが快挙。ウマ娘と人間のペアとして、史上初の冬季モンブラン制覇。

 

 英雄のようにヨーロッパの頂を踏みつけるマンハッタンカフェが、各国の代表的な新聞の一面を飾っている。

 夏野には何が起こったのか分からなかった。登頂成功のことは、アグネスタキオンにしか伝えていない。

「このカメラはGPSが搭載されているようです。遭難防止のためでしょうが、映像の通信機能もあったみたいですね。ハンニバルは、単なる老婆心から、これをわたしに与えたのではなさそうです」

 カフェが独り言のように呟く。つまり、モンブラン登頂の事実を各国の新聞社に伝えたのは、ブランハンニバルということになる。

「どうあれ日本のウマ娘が、ヨーロッパ全土を沸かせたのは喜ばしいことだ。しかし、当の日本では、とんでもない騒ぎになっているよ。レースを走るべきウマ娘が、あろうことか山に登ったのだからね。当然、お偉方が黙ってない」

 そう言って、タキオンはノートパソコンを取り出し、画面を夏野に向ける。

 メールにて、学園から即時帰国の命令文が届いていた。休養明けまで、まだ半月あるにも関わらず。

「今から覚悟を決めておきたまえ、夏野トレーナー。きみたちは、学園を、ひいてはURAを敵に回してしまったのだ」

 静かにタキオンは言った。

 全てを理解したうえで、マンハッタンカフェは落ち着いていた。狼狽を隠せない自らのトレーナーを、金色の無機質な瞳で、ひそかに観察していた。

 




実力、才知、ともに怪物のブランハンニバル。

無断登山がバレてしまった夏野とカフェの運命はいかに。
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