【完結】白嶺に染まぬ黒 ~大人のためのウマ娘 プリティーダービー~ 作:モルトキ
トゥインクルシリーズなどの国内レースを独占的に中継配信する地上波番組。その放送権料は、URAの主要な収入源のひとつとなっている。
帰国早々、学園まで出頭した夏野に言い渡されたのは、無期限の自宅謹慎だった。
命令書を手渡す秋川理事長の、困惑と悲しみに歪む顔を、夏野は直視することができなかった。ただ一言、申し訳ありませんでした、と深く頭を下げた。
マンハッタンカフェと夏野蘭のモンブラン冬季登頂は、あっという間に日本にも伝えられ、連日大ニュースとなっていた。日本初であり世界初の業績。しかし、それに対する民衆の声は、賞賛よりも疑念と反感のほうが大きかった。
なぜ日本を代表する競走ウマ娘に登山をさせたのか。
リハビリの目的に反したレジャー行為なのではないか。
運営資金の無駄遣いだ。
批判を集約すると、おおむねこの三つに分類される。そのどれに対しても、夏野は反論の言葉を持たなかった。
山に登ったのは、自分のエゴだ。レースに勝てる競走ウマ娘を育てることがトレーナー第一の責務であり、それを全うしようと思うなら、カフェを拒絶し、止めなければならなかった。契約を切り、チーム解散も辞さない覚悟で。そうしなかったのは、自分がトレーナーの職責を放棄し、個人としてマンハッタンカフェに肩入れしたいと思ったからだ。
ターフの外側に、彼女の輝きを求めてしまった。
トレーナー失格だった。
厳然たる事実と向き合う夏野のもとに、追い討ちをかけるように学園経由でエアメールが届く。夏野宛の私信だった。ベッドに寝転がったまま封を切る。優雅な筆跡には見覚えがあった。
How did you like my present?
I hope for your brand-new success.
tata, BH.
『わたしのプレゼントはお気に召しただろうか。あなたたちの、新たなる成功を祈る。では、また』
わざわざイニシャルなど入れなくても、差出人はすぐ分かる。新たな成功と書くあたり、皮肉の効いた文面だった。ブランハンニバルは、カフェと夏野の退路を断ち、強制的に登山界に引きずり込むため、モンブラン登頂の事実をリークしたのだ。
怪物め。
心のなかで毒づく。トレセン学園にいるレースの怪物とは全くの別物。肉体のみならず頭脳でも戦える、権謀術数の魔物だった。
手紙を放り捨て、ベッドから立ち上がる。謹慎といっても、学園に立ち入ることができないだけで、私的な移動は認められている。今日は、同僚と会う約束があった。府中駅から電車を乗り継ぎ、高田バ場で下車する。大通りの喧噪から少し離れた、学生の頃には縁のなかった高級感のあるワンショットバーに入る。
広田翔は、すでにカウンターでグラスを傾けていた。少しクリーミーな黄色からして、バレンシアだろうか。ベースのリキュールと、オレンジジュースをシェイクしたカクテル。見た目は体育会系だが、かなりの甘党だった。
彼の隣に腰かける。マンハッタン、と言いかけて止めた。好きなカクテルだったが、この場にはそぐわない言葉だ。何より、禁断症状のように思われるのが嫌だった。
代わりに注文したギムレットを、一口飲み下す。きちんとシェイクされているし、氷の量も適切だ。これならば、少し話し込んでも味が緩むことはないだろう。
「URAは怒り心頭だ。せっかくのG1ウマ娘に、なんつう危険なことをさせるんだってな」
沈んだ声で広田は言った。おそらく大部分のトレーナーも、URAと同じ意見なのだろう。付き合いのあった同僚たちとは音信不通になっていた。かつての仲間から村八分にされたことを別段、恨んではいない。問題児と関わってURAに睨まれたら、今後担当するウマ娘にも迷惑がかかるからだ。
変わらず付き合ってくれるのは、広田しかいなかった。
「危険どうこうより、レース以外のことでウマ娘が注目されたのが許せないんでしょ。ウマ娘と国民の心がレースから離れたら、URAは財政的に弱体化するし、政治への影響力もなくなる」
酔いの回らぬうちから、すこし攻撃的な気分になっていた。トレーナーならば、分かっていても口にしてはいけない暗黙の了解を、堂々と破る。そんな夏野を、心配そうに広田は見ていた。
「本音はそうだとしても、話は建前で進んでいくぞ。おまえの罪状は、リハビリ目的から逸脱した危険行為および、それに伴う海外渡航費私的流用の背任行為。このふたつを査問員会に申し立てることで、おまえのトレーナー資格を剥奪する狙いだ。そのうえで、マンハッタンカフェを無罪放免とし、年度代表ウマ娘に選出することも画策している」
「トカゲの尻尾切りってわけね」
夏野は呟く。切られるのは、国民的人気のG1ウマ娘ではなく、新人トレーナー。組織としては合理的な判断だ。
「秋川理事長と生徒会、あと俺は、おまえの擁護に回っている。確かにモンブラン登頂はやりすぎたかもしれん。しかし、高地でのトレーニングは素晴らしい効果を挙げた。今、シャカールが平地での測定値をまとめているところだ。でもな、数字にしなくても、一目見ただけで分かったよ。タキオンの走りは変わった。以前より、圧倒的にパワーと粘り強さが増している。自分の脚じゃないみたいだ、と本人も言っていた。おまえは、身を削ってウマ娘とトレーニングを共にし、有用性を証明してみせたんだ。生徒会だって、おまえの熱意を認めている。それから、マンハッタンカフェが問題児であることも。どうせ、カフェに強要されたんだろう? 査問会でタキオンに証言させてもいい。あれはトレーナーの意志ではなかったと」
「それはやめて」
夏野はぴしゃりと遮る。
「仲間を裏切るような真似を、タキオンにさせないで。わたしのために頑張ってくれてるのは、すごく嬉しいし、チーム提携で協力してくれたことも感謝してる。だけど、どんな結末になっても、わたしは受け入れるよ。URAがわたしをお払い箱にしたいっていうなら、それで構わない。カフェの名誉さえ守られるなら、それで。トレーナーの職務に背いたのは事実だから」
すらすらと言葉が出てくる。しかし、夏野の目に生気はなかった。まるで決まったセリフを読み上げるロボットのようだ。
「なあ、いったいどうしちゃったんだよ」
広田が詰め寄る。
「おまえ、めちゃくちゃ頑張って中央のライセンス取ったじゃないか。せっかく受かった大手企業辞めて、死ぬほど勉強して、やっと中央のトレーナーになれたんじゃないか。ウマ娘の走る姿が大好きだ、彼女たちと一緒に頑張ってみたいって、ずっと言ってたよな。あのときの情熱は、どこに行ってしまったんだよ?」
早口にまくしたてる。グラス一杯も空けていないのに、もう酔いが回っているのだろうかと、夏野は内心苦笑する。
自分でも驚くほど、彼の言葉は胸に響かなかった。
「分からなくなった」
ぽつりと、夏野は呻いた。
「担当したのがカフェじゃなければ、たぶん何の疑問も抱かなかった。ウマ娘を育てて、レースで勝たせて、引退したらまた次の娘を育てて、そうやって、この先ずっとトレーナーとして生きていたんだと思う。ウマ娘だって、走ること、レースで勝つことを望んで学園に来るんだから、走れるだけ走ったら引退することに疑問は持たない。でも、カフェは違った。いずれ走れなくなる日を見据えて、レースの外側に生きる悦びを見出そうとしていた。わたしひとりじゃ、何十年経っても気づかなかったことに、彼女は気づいていた」
ときおりギムレットで喉を濡らしながら、夏野は独白を続ける。
「わたしも、気づかされちゃったんだろうね。終わりが見えていることの虚しさに。現役時代に、どれほど目覚ましい活躍をしても、ターフを去れば何もなくなる。勝ちたいという本能だけが、死ぬまで燻り続ける。トレーナーは、何十、何百というウマ娘に、同じことを繰り返す。それがしたくて、トレーナーになったはずなのに」
広田は黙って聞いていた。まだ夏野は、全てを吐き出していないと思ったからだ。
「スイスでね、あるウマ娘に言われたんだよ。トレセン内は楽園だけど、その外側は絶望の淵だって。わたし、納得しちゃったんだ。URA。日本ウマ娘中央レース協会。日本で最も
大きいウマ娘関係の組織が、『レース』っていう名前を冠している時点で、この国のウマ娘はレース以外に輝ける道は無いんだ。レースで勝つことを目指すかぎり、何不自由ない暮らしが学園内で保障されているけれど、怪我や病気で走れなくなって、学園から放り出されたら、ほんと、この国って何にもないんだよね。わたしの仕事って、ウマ娘を酷使したあげく、使えなくなったら暗闇のなかに捨てることなのかな。そんなことを考えるようになってしまったよ」
もしかしたら、自分は酔っているのかもしれないと夏野は思う。舌の回るがまま、これまで堰き止めていた本音が、ぼろぼろと溢れ出て止まらない。
広田は、目の前のグラスを一息にあおる。夏野を見つめる瞳には、怒りとも悲しみともつかない、抑え込まれた激情が揺れていた。
「おまえがマンハッタンカフェの名誉を守りたいように、俺や生徒会は、おまえにトレーナーを続けてほしいと思っている。だから、こっちも勝手にやらせてもらう。どのみち、マンハッタンカフェとの契約は切れる。おまえの指導を受けたい娘たちも大勢いる。それでも辞めたかったら、好きにすればいいさ」
珍しく、荒い口調だった。
夏野も、残ったギムレットを飲み干した。
傍から見たら痴話喧嘩のように見えるだろうか。まだ恋人同士でもないというのに。
「あと、これも伝えておく。たとえおまえがトレーナーを辞めたとしても、俺はおまえから離れるつもりなんてないからな」
言い放った直後、広田は照れ隠しのように追加のグラスを注文する。
「……都合よく解釈するけど、いい?」
少し声がうわずってしまう。広田は横を向いたまま、かすかにうなずいた。
「ありがと。それじゃ、ここの払いよろしく」
明らかにアルコールのせいではない赤面を見られたくなくて、夏野は席を立つ。なにがそれじゃだよと笑う広田も、少し穏やかな顔に戻っていた。
「そうだ、カフェは今どうしてる?」
去り際に、夏野が尋ねる。
「規定どおり、美浦寮で待機しているよ。ただし、自室じゃなくて地下の懲罰房だが」
苦々しげに広田は答えた。
『あまり悪い子だと地下牢に送るぞ』。規則破りのウマ娘に、寮長が使う脅し文句として有名だが、それらは実在する。ウマ娘が本気で暴れたら、人間基準の建築物など、監獄としての用を為さないからだ。
「何をやらかしたの?」
「待機を言い渡されていたにも関わらず、無断で寮を出ようとした。おまえに会いに行くといってな。偶然、寮の外に居合わせた桐生院トレーナーとハッピーミークが止めに入り、乱闘騒ぎに。そのおり、カフェはハッピーミークの腕に食らいつこうとしたそうだ。体格に勝るミークがなんとか踏ん張って、最終的に生徒会の面々に抑え込まれ、地下に収容された」
言葉の終わりに、長い溜息を添える広田。
「やっぱり、あの娘はどうかしている。俺たちトレーナーの手に負えるウマ娘じゃない。もし査問会をくぐり抜けることができたら、カフェとの契約は理事長権限をもって解除される。それは確定事項だと思っていてくれ」
「そう、分かった」
夏野は特に驚きもせず席を立った。
慣れとは恐ろしくも偉大なものだ。地上の人間を急に8000m上空まで持ち上げたら、わずか三分で意識を失い、脳細胞が死滅していく。しかし、段階的に高度順応を行い、身体を慣らしていけば、同じ高さでも死なずに済む。マンハッタンカフェもまた、付き合った時間が長いほど、精神に耐性がついてくる。
地下牢にいるなら、好都合だ。そのまま査問会が終わるまで大人しくしていればいい。トレーナーの首と引き換えに、名誉だけ受けて学園を去ればいい。例え日本が彼女を持て余したとしても、この世界には輝ける場所があるのだから。
3月10日。
夏野は学園本部に出頭した。トレーナーバッジを胸につけ、白手袋をはめる。就任式以来の正装だった。査問会のメンバーは、秋川理事長以下、常任理事5名と、生徒代表のシンボリルドルフ、さらにURA本部から出張ってきたと思われる中年の男が二名。おそらく、実質的な処分権限を持つ監察官だ。
まず監察官が、事実確認を行う。トレーニング内容から逸脱した登山を行ったこと、それに伴う費用を学園から交付されたリハビリ休養費から支出したこと。夏野は聞かれるがまま、全てを肯定していく。
現実の裁判と同じく、これは単なる儀式だ。内部規定にのっとり、淡々と進むだけ。あらかじめ結論は決められており、形だけ弁明の機会が与えられているにすぎない。ゆえに、今さら何を主張しようと無意味だ。処分軽減の嘆願ならば、すでに理事長や生徒会から出されているはずだ。
最後に、補足したいことはあるかと聞かれた。夏野は、ありませんと首を横に振る。
全ての手続きを終わらせた監察官は、すました顔で処分内容を読み上げる。
「中央トレーナー資格を剥奪のうえ、免職処分とする。処分の日以降、3年間は新たなトレーナー資格を取得不可とする」
不服申し立ては3か月以内に、だとか言葉は続いていたが、夏野は早々に一礼する。下された処分に、今さらショックを受けるようなことはなかった。URAがこういう組織であることは、とうに知っている。ただ、今も歯を食いしばるようにして俯く秋川理事長やルドルフの気持ちを考えると、胸が痛くなった。
ごめんなさい。わたしは、もうトレーナーではいられない。
自分のために尽力してくれた彼女たちに、報いることができない。それだけが無念だった。退出しようとしたとき、ふとルドルフの顔が見えた。何かを決意したかのような、鋭い目つき。
その瞬間、場違いな電子音が会場に響いた。
「失礼、緊急の連絡網です」
ルドルフが制服からスマホを取り出し、応答する。一言、二言話して、すぐに通話を切った。
「みなさん、非常事態が発生しました。美浦寮地下にて拘束されていたマンハッタンカフェが脱走したとのことです」
朗々たる声でルドルフは言い放つ。にわかにどよめき立つ会場。
「非常に興奮しており、周囲の者に危害を加える可能性があります。居場所が分かるか、生徒会が身柄を確保するまで、安全のためここで待機をお願いします」
冷静な口調でルドルフは告げる。秋川理事長以外の者は狼狽しきっており、とくに監察官ふたりの怯え方は顕著だった。
何をするつもりだろう。かつてないほど嫌な予感がこみあげてきた瞬間。
背後から、爆音がした。
可燃性の何かが爆発したとしか思えなかった。しかし後ろの壁を振り返ると、火や煙はまったく見えない。そのかわり、あるべきものが、そこにはなかった。
ドアが、蝶番の金具ごと吹き飛び、床に転がっている。
丸見えになった廊下に、人影があった。まるで映画のワンシーンのように、右足を高く掲げている。その人物がドアを蹴破ったことを理解するのに、夏野は数秒の時間を要した。
漆黒のロングコートを身にまとい、ランウェイを歩くかのように優雅な足取りで彼女は入室してくる。
会議室にいる人間は、誰ひとり、一歩も動けなかった。
彼女は夏野の隣に立ち、目の前の人間たちに恭しく一礼する。
「査問会の皆さま、ごきげんよう。騒がしくしてしまい申し訳ありません」
おだやかな微笑みを湛えて、マンハッタンカフェは言った。
彼女は、G1レース用の勝負服を着ていた。黒の地に、金の装飾がよく映える。おそらく、自分なりの正装のつもりなのだろう。ひとつレースの時と違うのは、口の周辺を拘束具で覆われているところだ。決して噛みつけないよう、会話と呼吸のための鉄格子が並ぶ、金属製のマスク。
「しかし、妙なこともあるものですね。査問されるべきわたしを軟禁し、あまつさえ会場から締め出すとは。おかげで、強硬手段に出ざるを得ませんでした」
声だけは正気そのものだ。しかし、夏野を除いて、この場の誰も彼女を安全だとは思っていない。高い知性を宿しただけの、血に飢えた猟犬にしか見えなかった。
「不可解。『査問されるべきわたし』とはどういう意味かな。ここは、夏野トレーナーに対する処分を言い渡す場所だ」
何も言えない監察官に代わって、秋川理事長がカフェに尋ねる。
「いったい何の処分ですか? 夏野トレーナーは、悪意をもって学園に損害を与えたことなど一度もありませんよ。わたしの怪我は単なる不可抗力です」
小首をかしげながらカフェは言った。
「な、なにを言うか! 夏野トレーナーは、独断で危険な登山をしたばかりか、そんなことのために療養費を使い込んだんだぞ! 懲戒免職くらい当然だ!」
ようやく監察官のひとりが上ずった声で叫ぶ。しかし、金色の瞳がぎょろりとそちらに向くと、情けない悲鳴をあげながらルドルフの後ろに逃げ隠れてしまった。
「それは大いなる誤解であり、甚だ愚かしい冤罪です」
一段と低い声で、カフェは言い放つ。
「モンブラン登頂と費用の使い込みは、わたしが彼女に指示し、強制したことです。よって今回の事案の全責任には、わたしにあります」
何の気負いもなくカフェは言った。
秋川理事長とシンボリルドルフは、黙ってカフェを見つめていた。夏野だけが、首を横に振りながら、カフェに縋りつく。
「お願い、やめて、カフェ……」
そんなことを証言すれば、せっかくのキャリアに泥を塗ってしまう。年度代表ウマ娘選出も取り消されてしまうかもしれないよ。震える唇は、そこまで言葉にできない。しかしマンハッタンカフェは、悪戯っぽい微笑みを返すだけだった。
「証拠は、あるのかね?」
沈黙していた片方の監察官が、カフェに尋ねる。他の理事や監察官が混乱した虫のように部屋の隅に固まっている状況で、彼だけはまだその場に踏ん張っていた。
「きみが夏野トレーナーに、規則違反を強制した証拠はあるかと聞いているんだ。わたしには、きみがトレーナーを庇っているようにしか見えない。もしそうなら、今のうちに発言を撤回しなさい。せっかく年度代表ウマ娘として、URA賞を受賞できるというのに」
ときおり声を震わせながらも、監察官は果敢に言った。
黄金の瞳が、ターゲットを捉える。それだけで、憐れな監察官は、蛇に睨まれたカエルのように硬直してしまった。
「あなたはURAの内部規則にお詳しいようですね。では、お尋ねします。中央トレセン所属のウマ娘が、同施設の職員及び担当トレーナーに暴力行為を加えた場合、どのような処分がくだされますか?」
唐突にカフェが質問する。監察官は、ぽかんと口を開けていたが、なんとか頭の中の知識を絞り出す。
「そんなもの、放校処分のうえ、あらゆるレース競技からの永久追放だ。ウマ娘が、その身体的優越をもって人間を攻撃するなど、最低最悪の愚劣なる行為だ。そんなことをする奴は、二度とこの国で日の目を見ることは許されんぞ!」
半ば叫ぶように監察官は答える。この場を恐怖で支配するマンハッタンカフェに対する警告でもあった。
ウマ娘が本気で人間に牙を剥けばどうなるか。ここは、ありえたかもしれない世界の縮図だと、ルドルフは思う。そうならないよう戦後の日本は、URAのもとトゥインクルシリーズを開設し、ウマ娘を人々から愛され、讃えられるアイドルに仕立て上げた。力ある者は学園と競技場に集結し、人間社会から隔絶されるシステム。しかし、全てのウマ娘が、そのシステム内に収まるわけではない。欧米諸国では、すでにウマ娘による公民権運動が成熟し、あらゆる分野への社会進出が始まっている。
日本はこのままでいいのだろうか。レース以外の生き方を認めないままで。他ならぬレースでの活躍により、今の地位にのしあがった皇帝ルドルフの胸に、仄かな疑念が湧き上がる。
鉄のマスク越しに、マンハッタンカフェは笑っていた。
「そうですか、そうですか。つまりURAは、そんな最低最悪の愚劣なウマ娘を、年度代表に選出し、賞を与えるのですね。職務に忠実で有能なトレーナーを切り捨てて。これは傑作!」
作り笑いではない。カフェは本当に笑っていた。楽しそうに、それでいて嘲るように。
「ど、どういう意味かね?」
震えた声で監察官が尋ねる。
「この場を借りて、わたしの罪を告白します。二年前のメイクデビュー以来、わたしは夏野トレーナーに断続的な暴力を加えてきました。レースで敗北したとき、トレーニングメニューが気に入らなかったとき、彼女を殴りつけ、床に引き倒し、頭を踏みつけました。海外療養のときも、彼女を脅しつけて山に同行させたのですよ。むろん、同行していたアグネスタキオンには悟られないように。ウマ娘として生まれ持った強靭な肉体を使って、か弱くて愚かな人間を屈服させてきました。夏野トレーナーは、よく耐えましたよ。初めての担当、初めてのチームだからと、誰にも打ち明けることなく、孤独に頑張っていました。その責任感の強さにも、わたしはつけこんだわけですが」
過分に脚色された証言。しかし、理事たちは全員、信じ込んでいる様子だった。顔が青ざめており、卒倒寸前の者もいる。秋川理事長でさえ、苦しそうに唇を噛んでいた。
「う、うそだ。そんなこと、あるはずがない! URAが認めたウマ娘が、そんなこと」
後ずさりしながら、監察官が言った。
カフェは、無言で夏野の腰に腕を回した。びくりと身体を震わせるも、されるがままの夏野。こうなっては止めようがない。連れだって歩く夫婦のように、一歩ずつ、監察官に近づいていく。
「いいんですかぁ? 証拠を見せても?」
低く、ねっとりとした声でカフェが問う。監察官はガタガタ震えたまま何も言えない。
「彼女の肩には、わたしの噛み痕が残っています。あのときは、わたしもずいぶんと荒れたものです。メイクデビューで負けた夜でした。わたしは、思い切り彼女の左肩に噛みつきました。それこそ肉が抉れ、血を啜れるほど、強く。歯型が一致するので、確実にわたしの犯行だと証明できます。URAの内部規定どころか、国の刑法にも触れる犯罪行為ですね。しかし―――」
不意にカフェは、口の拘束具に両手をかけた。そして、いとも簡単に引き千切る。革が破れ、鉄の砕ける音が、会議室にこだました。
「衆目の前で、女性の肌を晒すものではありません」
解放された口元で、白い歯が光る。
マンハッタンカフェは、ゆっくりと監察官に近づく。壁際に追い詰められ、腰を抜かして尻もちをつく。男はもう後に引けない。屠殺を待つ牛のように震えるだけだった。
「代わりに、あなたの身体に歯型を刻んであげましょう。肉を剥ぎ、骨を砕くほどの、一生消えない傷跡を。誰が見てもわかる場所じゃないといけません。手の甲、首筋、いや……」
黄金の瞳がぎらりと輝く。唇の隙間から赤い舌がのぞく。
「額のほうが、いいですね」
男の眼前で、ぐわっと口が開いた。
憐れな監察官は白目を剥いて気絶し、床に倒れ伏した。
「しませんよ、そんなこと。わたしは美食家なんです。こんな下水の魚野郎に、わたしの唾液はもったいない」
心底軽蔑しきった眼差しで、カフェは男を見下ろしていた。
「さて、みなさん。聞いての通りです。あなたたちURAは、犯罪者を守り、忠義者を切り捨てる選択をした。この事実が世間の知るところとなれば。まあ、言わずともお分かりでしょう」
悠々とマンハッタンカフェは部屋を横切り、理事席のボイスレコーダーを手に取る。議事録の代わりに、査問会の発言を記録していたものだ。
「これと引き換えに、わたしはふたつのことを要求します。まず第一に、夏野トレーナーは無罪放免のうえ、依願退職とすること。第二に、わたしもまた自らの意志による自主退学とすること。URA賞はいりません。野良犬にでも食わせてください」
いつもの静かな声に戻り、カフェは言った。依願退職という形なら、トレーナー資格は剥奪されることがなく、夏野の名誉も守られる。
秋川理事長が、一歩前に出る。
「了承。手続きはこちらで済ませておく。マンハッタンカフェは寮の荷物の整理を始めたまえ。夏野トレーナーは、どうか。退職の意志ありということでいいかな?」
カフェの要求を鵜呑みにせず、理事長は最後に夏野の意志を確かめる。もう少し迷うかと思ったが、答えはすんなり口から出た。
「はい。今までお世話になりました」
心からの感謝をこめて、夏野は頭を下げた。それでいい、とばかりに笑う理事長。しかし、その目には、うっすらと涙が溜まっていた。
学園本部を出て、カフェと連れ立って歩く。このキャンパスもターフも、今日で見納めになる。少しはセンチな気分になるかと思ったが、先ほどの事件のせいで感性が麻痺しているようだった。
「筋書通り、うまくいきました。ルドルフ会長には負担をかけてしまいましたが」
微笑みながらカフェは言った。冷静になって考えれば、堅牢な地下牢に幽閉されていたはずのカフェが、脱走できること自体おかしい。
「まさか、ルドルフと共謀していたの?」
「はい。暴れて幽閉されたら、会長は必ずわたしを訪問すると見込んでいました。そこでわたしは、取引をもちかけたのです。もし夏野さんが不名誉な形で学園を追われるなら、わたしがしてきた暴力行為を全て公表する。それが嫌ならば、わたしを査問会に出席させろと。頭の回転が早い会長は、瞬時に事の重大さを理解しました。そんなことになれば、トレーナーとウマ娘の信頼関係が揺らぐばかりか、学園全体の信用が損なわれてしまう。彼女は、黙って牢の施錠を外してくれましたよ。査問会の内容は、ルドルフ会長の携帯を通して、わたしに筒抜けでした。夏野さんの処分が確定した瞬間、わたしが通話を切り、もう一度彼女の携帯に決行の連絡を入れたのです。マンハッタンカフェ劇場開演の連絡を」
さらりと種明かしをするカフェ。その策略家ぶりには、今さらながら舌を巻くしかなかった。
「会長はいまだ現役の競走ウマ娘ですが、いつか引退してURAの要職に就いたときは、この国の全てのウマ娘が幸せを目指せる王道楽土をつくってほしいものです。あの政治力と器の広さを、ターフの上だけに押し込めるのはもったいない」
「それはいいとして、あなたこれからどうするの? 寮を出た後、住むところは?」
「もちろん、夏野さんの自宅です。私物は少ないので、わたしひとりくらい大丈夫ですよ」
なぜか教えてもいない住所や部屋の間取りをすらすら口にする。夏野には、反論する気力は残っていなかった。
「お疲れのところ悪いのですが、引っ越しが終わったら、すぐに行くところがありますので。わたしたちの今後に関わる、重要な案件です」
素知らぬ顔でカフェは告げる。
「全部後にして。本当に疲れた」
そういって、正門を出ていく夏野。
「これから、よろしくお願いしますよ。夏野さん」
もはやトレーナーではなくなった女性の背中に、満面の笑みでカフェは手を振った。
夏野の依願退職が受理されてから一週間後。マンハッタンカフェ電撃引退が新聞の一面を飾った。屈腱炎の根治が見込めないことが、表向きの理由として書かれている。夏野に対するカフェの暴力行為と、査問会での暴れっぷりは、URAによって見事に隠蔽されていた。カフェに弱みを握られている以上、そうせざるを得なかった。
学園史上稀に見る大事件を起こした本人は、何事もなかったかのように夏野のマンションに転がりこんできた。彼女の言う通り、荷物は少なかった。登山用具一式と、お気に入りのカトラリー、最低限の衣類に、あとは古びた文庫本が一冊。繰り返し読まれているらしく、ページが開き気味になっている。
タイトルは、『サウスポール・ヒーロー』。表紙には、互いを支え合うようにして真っ白な雪原を歩く男性とウマ娘の姿が描かれていた。
「さて夏野さん。晴れて互いに無職となったわけですが、まずはこれを見てください」
我が物顔でソファに座るカフェが、夏野の前にスマホを掲げた。
動画が再生されている。ダウンジャケットに身を包んだマンハッタンカフェが、のこぎりの刃のように切り立つナイフリッジを進んでいく。モンブラン登頂時に、夏野が撮影していた映像の一部だ。どうやらカフェが編集して、大手動画サイトに投稿したらしい。
夏野が驚いたのは、動画の内容ではなかった。
桁を読み違えるほどの再生数と、コメントの数。
「おおむね好評です。レース至上主義者からの辛辣なコメントもありますが、多くの視聴者が、我々の登山を、トレーニングがてらのお遊びでないことを認識してくれています」
「もしかして、Utuber(ウマチューバ―)として活動していくってこと?」
半信半疑で尋ねる夏野。しかしカフェは首を横に振った。
「この動画は収益化していません。誰でも無料で視聴できます。いわば先行投資ですね。これが功を奏して、さっそく、番組出演のオファーが来ました。以前、映画女優としてお世話になったところです。面接のアポを取っているので、支度してください」
カフェが口にした会社名は、日本人ならば誰もが知っている超有名法人だった。
URAに次ぐ、ウマ娘関連の大規模組織。戦後、放送業を主軸として発展、国内のあらゆるレースの中継配信権を持つ、URAにとっての一大スポンサー。
NUK(日本ウマ娘協会)だった。
夏野はスーツに、カフェはオフィスカジュアルな黒いボウタイブラウスとパンツに着替え、渋谷区の本部ビルを訪れる。カフェとの付き合いが長いと、緊張や焦りといったものが鈍化していく気がした。
受付で入場許可証をもらったのち9階の役員フロアに通される。
常任理事室の応接スペースにて、その人物はふたりを待っていた。
「ご足労恐れ入ります。緑川はやてと申します」
マンハッタンカフェと変わらない背丈ながら、その眼光の鋭さは彼女以上の迫力があった。還暦をとうに過ぎている年齢だが、異様なほど若々しい。
緑川はやて常任理事。制作畑からの叩き上げであり、今なお現役の番組プロデューサーだった。お堅いイメージのあったNUK内で、バラエティ性に富んだ番組路線の開発に成功した革命者。
「着帽のまま失礼。この国の、これがルールですので」
笑いながら、緑川はソファに腰を下ろす。ウマ娘の象徴である耳を隠すためのクロッシェ帽を、軽く指ではじく。
「さて、こういうときまずは社交辞令で腹のうちを探り合うのですが、マンハッタン嬢とは以前の映画撮影で知己がある。彼女の性格は理解しています。だから、本題から入らせていただく。あなたたちの登山を、地上波で放送したい。そのためのプロジェクトに参加してもらいたいのです」
緑川は言った。
これはまたとないチャンスだ、と夏野は内心息巻く。どんな小さな企画でもいい。NUKが後ろ盾になってくれたなら、後の活動の幅も広がる。
「プロジェクトの内容をお聞かせください。まさか、富士山に登れなんておっしゃるつもりはありませんよね?」
夏野より先に、カフェが口を開く。緑川は、面白がるように口角をあげた。
「冬のモンブランを制したあなた方に、富士山では役不足でしょう。もっと相応しい舞台を用意するつもりです。ただし―――」
眼光の鋭さが倍増する。夏野は思わず背筋が冷えた。レース前のシンボリルドルフでも、こんな目はしない。
「リスクは負ってもらうことになります」
緑川は告げる。登山界においてリスクとは、死の可能性に他ならない。しかし、マンハッタンカフェは逆に瞳を輝かせていた。
「わたしは、どこの山を登れますか?」
耳をピンと立ててカフェが尋ねる。
緑川は一呼吸を置いたのち、まっすぐふたりを見つめながら口を開いた。
「成功すれば、ウマ娘において世界初となる挑戦です。日本のウマ娘が、世界の頂点を獲る姿を、わたしは見たい。レースだけではない、あらゆるジャンルにおいて、日本のウマ娘が世界の強豪に並び立ち、飛び越える姿を見たい。あなたたちに挑んでもらうのは、有史以来、ウマ娘未踏の地。この世界の、最も高い場所」
エヴェレスト8849m。その頂点を踏んでもらいます。
緑川の言葉が、夏野の頭蓋内でこだました。
折り返し地点に来ました。あと6話、頑張ります。えい、えい、むん!