【完結】白嶺に染まぬ黒 ~大人のためのウマ娘 プリティーダービー~   作:モルトキ

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夜明け前が、いちばん暗い。


第8話  バディ

 ある登山家の日誌

 

 

5月12日

 吹雪がおさまらない。

 ノースコルのC1から、一日で700mも高度を上げなければならなかった。C2は7700m地点。長期の滞在で心身が疲弊していく。仲間の酸素ボンベの残量を見ても、あと三日が限界だ。

 チベット側北東稜は過酷だ。しかし、限られた人員、限られた食料と酸素でエヴェレストを制するには、このルートしかない。ネパール側ルートは混雑する。我々のような少数パーティーにとって、渋滞に巻き込まれることは死を意味する。

 わたしは、もう独りでは登れない。アイガー北壁で悟ったことだ。生還できたのは、幸運としか言いようがない。わたしは、世間が言うような不死身などでは決してない。ウマ娘としての肉体のピークはとうに過ぎ、あとは衰える一方だ。ゆえにマッターホルン以降はチーム戦を挑んできた。単独行よりも、ずっと辛い登山だった。自らの野心のために、他者の命を賭けねばならぬ矛盾と恐怖、そして重圧。

 それでも、わたしは登りたい。

 そして、こんなエゴイストについてきてくれる者がいる。

 前哨戦のブロードピーク、そして今回のエヴェレスト。わたしだけは無酸素で登りたいなどという、無茶な希望につきあってくれた四人の仲間。なんと得難き幸福だろうか。彼女たちを、わたしの元にお導きくださった神に感謝する。

 わたしの命が奪われようとも、彼女たちだけは生きて地上に帰れますよう。

 

 

5月13日

 天気は回復するどころか悪化している。切り出した氷のブロックで守ってはいるが、風圧でテントは押しつぶされ、支柱を何度も打ち直さなければならなかった。

 アナイスに喘鳴の症状が現れる。肺浮腫だ。まだ重篤ではないが、悪化すれば下山もままならなくなる。アタックするにしろ撤退するにしろ、吹雪が終わらなければ身動き取れない。

 わたしは隊長だ。いついかなるときも毅然とふるまい、不敵に笑っていなければならない。アナイスにはアタック隊から外れてもらった。わたしの分の非常用酸素ボンベを彼女に与える。別にかまわない。無酸素登頂の途中でボンベに縋りつき、隊員を死なせたとあっては、もうわたしに生きる価値はない。

 

 

5月14日

 灰色の分厚い雲が、山頂に切り裂かれながら流れ去っていった。

 吹雪が止んだ。しかし、頂に続くルートは積雪で覆われている。ラッセルがうまくいかず、酸素の残量が足りなくなれば、撤退するしかない。アナイスの脱落はかなりの痛手だ。四人だけで道を切り拓けるだろうか。生命の存在を許さぬデス・ゾーンで。

 ネガティブなことを考えていいのは、この紙面の上だけだ。必ず成功すると、隊員には笑顔で語り続けるのみ。だから、彼女たちの前で、ちょっとした細工を用意してみる。ブライトホルンで苦楽を共にした、日本のウマ娘へのメッセージカードだ。

 今シーズンか、来年か。遅かれ早かれ、彼女は到達するだろう。人間と一緒に登るのだから酸素も使うはずだ。それではいけない。劣等種とタッグを組んだところで、能力を無駄にするだけだ。まあ、全てはわたしの予想でしかない。あの狼の目をした少女は、とうに人間など見限って、我々より早く世界の頂点を獲っているかもしれない。それならそれで嬉しいことだ。

 仲間と語り、笑い合えば、気分も少しは晴れてくる。

 明日、早朝に出発する。

 神よ、我が隊を守りたまえ。

 

 

5月15日

 勝った。

 わたしは、わたしたちは世界の頂点をこの足の下に踏んだ。

 アナイスの体調も回復しつつある。下山の準備も万全だ。

 どうか天候が急変しませんよう、雪崩が起きませんよう、神に祈り続ける。地上に戻り、メディアの前に立ち、豪快不遜な勝利宣言を世界に向かって放つまでは、わたしは臆病で敬虔な登山家だ。

 

 

 

 

 

 

 6月。渋谷のNUK本社ビルにて編集会議が行われていた。巨額の費用を投じて成し遂げた、マンハッタンカフェのエヴェレスト登頂。その価値を再定義するためだった。

 5月18日に、ブランハンニバルのエヴェレスト登頂成功が世界中に報じられた。ウマ娘史上初であり、しかも無酸素。意外にもNUKは、このニュースを大々的に取り扱った。ふつうに考えれば、カフェの功績を霞ませる自殺行為だが、特番責任者である緑川はやて常任理事には、まったく別の思惑があった。

 もしあのとき、ハンニバルの初登に気づかず下山していたら、このプロジェクトは水泡に帰していただろう。日本のウマ娘が世界初を獲るという目的は完全に潰えたのだから。そうならなかったのは、ラストシーンのおかげだった。死の領域の最果てで酸素マスクもつけずに行われた、マンハッタンカフェ渾身の演説。凍りつく涙と壮絶な表情は、見る者の心を画面越しに揺さぶる力がある。

「素晴らしい泣き落としだ」

 緑川は言った。夏野と同じく、彼女もこれが演技であることを見抜いていた。

「これを見た人間は、ころっと騙されるだろうよ。日本人は判官贔屓だからね。ブランハンニバルに強い憎悪を抱く反動で、マンハッタンカフェ個人の活動を応援するようになる。それを狙っていたのだろう? 最後の最後でわたしの番組を丸ごと乗っ取って、自分の宣伝に利用したわけだ。さすが女優、転んでもただでは起きないね」

「別にいいじゃないですか。わたしのおかげでこの番組は肩透かしの敗北ドキュメンタリーではなく、次なる挑戦を促す起爆剤としての存在意義を得たのですから。互いにメリットはあるはずですよ」

「それくらいやってもらわなきゃ、4億もの予算をつけた意味がない」

 互いに微笑みあうカフェと緑川。怪物たちが牽制し合っているようにしか見えない光景に、夏野は背筋が寒くなった。

「ひとつ解せないのは、なぜフランスの葦毛ちゃんは、こんなメッセージを残したのかってことだね。どう考えても、きみを利する結果しか生まないというのに。敵に塩を送るのが趣味の篤志家なのか、ただのバカなのか」

 首をひねる緑川。

「出会った頃から、彼女は計り知れない存在でした。登山界では無名だったわたしの願いを受け入れ、懇切丁寧な登攀指導をしてくれたと思ったら、一転して敵対するような行動も取る。同じ登山家として、ちょっとだけ分かる気もしますが」

 孤独は、つらいですからね。

 語尾の小さな呟きは、夏野にしか聞こえなかった。

「まあいいさ。フランス娘の心裏など、我々にはどうでもいいことだ。それより、見たまえ。このシーン。傑作じゃないか」

 緑川が、巨大スクリーンの画像を切り替える。

 そこには、標高7300mのキャンプ3の様子が映されていた。テントの隙間からひょっこり顔だけを出し、貫谷を睨むマンハッタンカフェ。冷蔵庫より寒いテント内で『極楽だよ!』と笑う貫谷に、『何が極楽ですか』と辛辣にもカフェが言い放っている。

「テントから顔を出すマンハッタン嬢のぬいぐるみを売り出そうと思っている。商品名は『極楽カフェ』。表情の変化をつければ、シリーズ化できる。どうだい、グッズ展開の良いアイデアだろう?」

 冗談なのか本気なのか分からない緑川の提案で、会議室内に笑いが起こる。

 あのときと同じ、苦りきった表情のカフェ。しかし文句は言わない。本当にグッズ化されたらロイヤリティが見込めるうえに、自身の良いPRになるからだ。相変わらず、現実的で合理的な判断だった。

 

 

 撮影に二カ月を要した大作『プロジェクトU ターフを去った挑戦者・摩天楼の夢』は、予定通り9月に放送されることになった。夏野はひとまず胸をなでおろす。山頂でのカフェの機転がなければ、容赦なくお蔵入りにされていたはずだ。そんなことになれば、カフェの今後の活動も狭まってしまう。

 しかし当のカフェは、あまり喜んでいる様子はなかった。むしろ、低地での平穏な生活を厭うかのように、日々トレーニングに明け暮れた。意図的に低酸素状態を作り出せる特殊なマスクを眠るときも外そうとしない。それ以外の時間は、谷川岳など近くて良い山に足を運び、実践的な自らのクライミングやテント設営を撮影して動画にまとめ、Utubeのチャンネル『アルペンカフェ』に投稿していた。もはや趣味の範疇を超えた、元G1ウマ娘の登山活動は、若者を中心に少しずつ衆目を集めていった。

 トレーニングは共にしていたものの、撮影に夏野が同行することはなかった。ザイルパートナーが必要なレベルではないと、珍しくカフェのほうから断ってきた。

 カフェが家を空ける日が増えていく。その間、夏野は結婚に向けた準備を進めていた。荷物は極力そぎ落としてから、広田との同棲に臨むつもりだった。カフェは予想通り、独り暮らしを望んだ。ふたりの新婚生活を邪魔するつもりはない、と口では言うものの、内心不服なのは見え透いている。夏野が保証人になることで話はまとまり、この件をカフェが蒸し返すことはなかった。

 後には引けない。これは自分自身が決めたことだ。左手薬指に光るプラチナの指輪を見つめながら、夏野は心を引き締める。

 やるべきことは山積している。6月以降はレースが本格化するため、広田は休日返上で担当ウマ娘の指導に当たっている。新居探しや結婚式の段取りなどの雑務は、自分が引き受けると伝えていた。

 いずれは、互いの実家にも挨拶に伺わなくてはならない。

 今から気が滅入る。夏野は、実家とは絶縁状態だった。大企業を辞めてトレーナーになると伝えたときは罵詈雑言が飛んできたため、それ以来会話を拒否している。モンブラン冬季登頂が報じられたときも、何度もスマホに電話がかかっていたが全て無視した。しかし、今回は自分だけの問題ではないため、会わないわけにはいかなかった。

 どうせ言われることは決まっている。定職につき、子どもを育て、幸せな家庭をつくれ。それらは自分の意思で目指すべきもので、他人に指図されることではない。

 こういう思考回路が、マンハッタンカフェと少し似ているのかもしれない。

 部屋を見渡すと、日々の生活のなかに彼女の気配を感じる。安物の食器にまじる、ドイツ老舗のカップとソーサー。水切り籠のなかで輝きを放つ、純銀製のナイフとフォーク。自分では絶対に使わないコーヒーミル。いつの間にかテーブルの上に飾られていたプリザーブドフラワー。物の数自体は少ないのに、否応なく同居人の存在を主張してくる。

 高尚で高級で非凡な同居人。

 しかし今は、彼女のことを、そう遠くには感じない。

 玄関の鍵が開く音がする。足音と荷物の摩擦音だけで、誰なのか分かる。一週間にも及ぶ撮影から、マンハッタンカフェが帰ってきた。競走ウマ娘だった頃の表面的な華やかさはすっかり剥がれ落ち、鍛え抜かれた刀身のような鋭さが剥き出しになっている。

「シャワー浴びてきますね」

 荷物を置いて早々、空気カットマスクも外さずカフェは言った。

 平地にいようと、彼女は登山家の目をしていた。

「夕食は要りません。あとでコーヒーを淹れてあげます」

 そう言って、カフェは脱衣所に消えた。撮影から帰ってきたときは長風呂だ。その間に、簡単な食事をすませる。考えてみれば、食後のコーヒータイムを共にするのは久々だった。エヴェレストから帰還した直後は胃が弱っていてカフェインなどの刺激物を摂れなかったし、それ以降も互いにずっと忙しかった。

 リビングでくつろいでいると、上下ともぴっちりした黒いスウェット姿でカフェは現れた。ブレンドされた豆の織り成す芳醇な香り。口に含んでみると、少しマイルドな舌触りだった。

 コーヒーの味は、彼女の心情を表している。これはもてなしの意味。つまり交渉の前触れだった。

「8月末から遠征に出たいと思っています」

 こちらの出方をうかがうように、ゆっくりと言葉を紡ぐカフェ。金色の瞳は、わずかな表情の変化も見逃さないよう、夏野を凝視している。ポーカーフェイスを崩さないまま夏野が場所を尋ねると、カフェは南米パタゴニアと答えた。ロッククライミングの聖地として有名な、荒地に強風吹きすさぶ地の果てだ。

「ご迷惑はおかけしません。一人で行ってきます」

 先回りして答える。

「挑戦的な登山ではありません。あくまで技術向上を目的とした遠征です。費用もすべて、わたし一人が負担します。夏野さんは今大切な時期ですから、わたしのことはお気になさらず」

 口調は冷静そのものだった。レースで負けたときのように、激情に任せて行動しているわけではない。それだけは分かる。

「今やる意味はある? 9月に特番が放送されたら、もっと多くのスポンサーが見込める。慣れない環境のせいで怪我したら、後に響くよ」

「怪我のリスクなら、学園にいた頃のほうが遥かに高かったですよ。なにせ走るだけで骨折したり死亡したりする狂気のスポーツでしたからね。あと、わたしが焦っているように見えるなら、あながち間違いじゃないかもしれません。ライバルの背は、まだ遠い」

 そう言って、カフェはカップを口に運ぶ。

「それにしては、落ち着いているように見えるけど? わたしの肩も無事だし」

 思い切って尋ねる夏野。

「あの登山は、敗北ではありません。だって、ふたりで登りきったじゃないですか。あくまで登頂することが勝利条件でしたからね。ハンニバルの登山は、レースに例えるなら、わたしが勝ったG2と同時期に開催されたG1を制したようなものです。これを敗北とは呼ばない。ただ悔しいだけです。悔しいから、わたしはじっとしていられない」

 その言葉で、夏野は納得する。登山において、直接対決が行われることは稀だ。季節やルート、スタイルなど条件には無数の差が出る。その条件がより厳しい登攀を成し遂げた者が、登山史に名を残す。

「わたしと離れ離れになっても?」

 今度は夏野が、相手の懐に駒を進めた。威力偵察。その効果は覿面だった。カフェは不愉快そうに、テーブル上の、ある一点を凝視する。

 夏野の左手薬指。その根元に燦然と輝く、プラチナのリングだ。

「はっきり言っておきますが、わたしは不満です。あんな凡百の男、あなたには相応しくない。でも、そう思っているのは世界でわたしひとりだけみたいですから、どうすることもできません。自分のなかで折り合いをつけるしかないんです。だから、そんな意地悪なこと言わないでください」

 珍しく、露骨に落ち込むカフェ。耳も垂れ下がるままになっている。

「ごめん、カフェ。わたしが悪かった」

 夏野はとっさに謝る。愚かにも、つい失念してしまうのだ。彼女が、まだ多感な年頃の少女であることを。並外れた行動力や賢さ、女優としての振る舞いに目がくらみ、彼女が理解不能な怪物のように見えてしまったら、自分はもうパートナー失格だ。

「結婚式、いつですか?」

 俯いたままカフェが尋ねる。

「9月20日の予定。できれば、カフェにも……」

「出席しますよ。登山家なので確約はできませんが」

 そう言って、カフェは顔をあげる。穏やかな微笑みに似合わず、瞳は鋭く輝いている。その強い意志が、生きて帰ってくることに向かうよう夏野は祈る。

 それ以降は、もう言葉を交わすことはなかった。

 ふたりの将来とって意味のある会話は為されないまま、8月30日にマンハッタンカフェは出発した。

 地の果てパタゴニアではなく、アジア大陸に聳え立つ世界の屋根へと。

 

 

 日本の地方空港と同等の、小さな国際空港にてビザの発給を受ける。タクシーチケットを買って、首都のカトマンズまで移動する。二カ月ほどしか経っていないのに、懐かしい匂いがする。雑踏の中に混ざり合う、土と獣と米とスパイスの匂い。

 マンハッタンカフェは、ひとりこの地に戻ってきた。美しい漆黒の髪と青白い美貌に似合わない、100ℓもの巨大なバックパックを背負って。ウマ娘が、このような大荷物を背負っている光景は珍しい。通行人の視線を集めながら、カフェは黙々と歩く。

 目的地は、旅行代理店だ。アメリカや日本大使館が並ぶ、カトマンズでは最も洗練された中心街。そこにコズミックトレイル社のオフィスがあった。エヴェレスト登頂では、ネパール政府に対する入山申請や登山料の支払い、シェルパの手配など、裏方の仕事を堅実にこなしてくれた。信頼できる会社だと分かっていたため、カフェは個人でコズミック社を利用することを決めた。前回は、ポーター役やコック、キッチンスタッフを合わせて19名ものシェルパを動員したが、今回カフェが雇ったのはひとりだけだ。

 コックとして日々の食事を賄ってくれた、バルテンという名の青年だ。

 シェルパ族出身であり、与えられた仕事に対する責任感が強く、忍耐力もある。それに加え、彼の人柄に好感を抱いていた。高山病で食欲を失った夏野のため、日本風の味付けを考えてくれた。自発的に見返りのない善行ができる人間は、信用に値する。これがカフェの人選眼だった。

 バルテンと共に、カトマンズの市場で食料の買い出しを行った。お馴染みのにんじんやじゃがいも、ピーマン、たまねぎといった野菜に、ダルバート用の豆、保存食として使えるソーセージやツナ缶。しかし、傷みやすい卵や生肉は買わなかった。

 ネパールという国自体が、今回は通過点にすぎないからだ。

 翌日、トレイル社が用意したバスに荷物を積み込み、カトマンズを出発する。この国の首都は標高1300mの盆地にあり、その周囲をぐるりと山に囲まれている。そのため、移動とはすなわち坂を登ることである。標高が1000m上昇するごとに、沿道の景色が変わってくる。棚田の稲が緑っぽくなり、樹木はまばらに紅葉する。少し移動するだけで季節を前倒しするほど、同じ国のなかでも平均気温が下がるのだ。

 やがて、ネパールと中国の国境に近づいてくる。コダリという小さな集落には、町の規模に似合わない大型トラックが列を為して停車している。両国を結ぶ、陸路物流の拠点のひとつだった。

 マンハッタンカフェは、国境を越えて中国のチベット自治区に入ろうとしていた。

 わざわざネパールを経由するのには理由がある。まず、信頼できる登山専門の旅行代理店があること。手数料はかかるが、煩雑な越境手続や入山料の支払いなどを代行してくれる。チベット自治区は政情不安定な地であるため、単身で乗り込むにはハードルが高く、組織の後ろ盾がなければ当局に目をつけられかねない。もうひとつの理由は、バルテンだった。彼は長らく多国籍の登山隊の世話をしてきたため、言語に堪能だった。英語や日本語なら、ある程度は話せる。なにより有難いのは、チベット語も日常会話くらいなら扱えることだ。ベースキャンプまで荷物をあげるために、現地人のヤク使いを雇わなければならず、彼らとのコミュニケーションの取れる者が不可欠だった。

 ネパール側国境事務所の手前でバスから荷物を下ろす。国境は、深い渓谷によって分かたれており、彼我の町を結ぶのは『フレンドシップ・ブリッジ』という名の橋だ。中国とネパールの友好の意味が込められている。バルテンが現地で雇った人夫が、荷物を橋の反対側に運ぶ。カフェとバルテンは、歩いて国境を越えた。そこからは、チベット山岳協会が用意したトラックに荷物を積みなおし、目的地まで向かう。運転手のほかに、もうひとりチベット自治区の人間がいた。国境から山岳地帯まで登山者を案内し、下山後にはネパール側まで送り返すことを任務としている。外国人登山客をサポートしてくれる一方で、彼らが不審な行動をしないか監視する役目も併せ持っている。宿泊場所も、あらかじめ山岳協会が指定しており、自由には選べない。標高3700m、ほぼ富士山頂に等しい高さにあるニェラムという町で一晩を明かす。そこから、チベットの山岳地帯をぐるりと迂回する幹線道路を走り、ヒマラヤ山脈の足元の町までトラックを進める。車窓から見えるのは、世界の終わりのような光景だ。地平線まで延々と続く赤茶けた荒地。遮るものがないため、ひとたび風が吹けば、もうもうと砂埃が舞い上がる。とても窓など開けてはいられない。

 カフェが腕の高度計を見ると、すでに5000m付近を指している。すでにヨーロッパ最高地点を超えてしまっていた。しかし、息苦しさは感じない。日本に戻った後も、ひたむきに低酸素トレーニングを積んでいたおかげだった。

 一行は、二日かけて拠点となる町、ロンブクに到着する。そこでカフェとバルテンは、肉や卵を購入した。人間が生活を営めるのはここまでが限界だ。すなわち、その先からは山が始まる。

 マンハッタンカフェが、星を見るように頭を傾ける。

 帰ってきたのだ。空高くそびえる極地に。モンスーン明けの新雪をかぶる白い山脈が、視界全体に横たわっている。世界の頂点をこの足で踏んだことが、自分でも信じられない。それほどまでに、ヒマラヤは高く巨大だった。

 偉大なる世界の屋根に、ひとりのウマ娘が挑もうとしている。

 荒野の果てで、誰に知られることもなく彼女のリベンジは始まった。

 今年は雪の量が多く、路面は凍結していた。チベット山岳協会は、安全が確保できる限界までトラックを進めてくれた。その後は、バルテンの雇ったチベット人が、ヤクの背中に荷物を括りつけて運ぶ。若い者もいれば、老人もいた。カフェと同い年くらいの少女さえ、大人たちと変わらない手捌きで、自分の身長の二倍以上ある巨大な動物を駆っていく。高地のきつい紫外線で顔は真っ黒に日焼けし、感情のこもらない目で淡々と仕事をこなしている。これが彼女の生業。生きるための手段だ。生まれた環境が違えば、手段を選ぶことさえできないかもしれない。しかし彼女は、そんな可能性を即座に鼻で笑い飛ばす。自らの環境を恵まれたものと思い、謙虚に生きられるなら、今頃北海道の実家で穏やかに年金暮らしをして、適当な男と結婚して流されるままに人生を畳んでいただろう。そうならなかったのは彼女がマンハッタンカフェだからだ。この世で絶対なのは自分の意思のみ。癒えることのない勝利への執念を燃やし続ける。病の炎症とは異なる、精神的な熱を帯びた彼女の両脚は、氷を踏み砕きながら雄々しく進む。

 9月9日。標高5700mのベースキャンプに到着する。積み荷を降ろしたヤク使いたちは、素早く下山していく。色とりどりのテントが集落のように立ち並んでいたネパール側のキャンプとは、まるで別物だ。秋のハイシーズンだというのに、荒涼とした谷間には他のテントがひとつも見当たらない。路面が凍結していたので今年は特に登山者が少ないですねとバルテンが呟く。

 チベット側のベースキャンプ。

 ここから出発するのは、マンハッタンカフェただ一人。

 葦毛の怪物も、同じ景色を見たに違いない。

 ローツェ、ヌプツェの頂を従え、悠々と青空を覆っていたネパール側とはまったく異なる表情。視界には、もうその山しかない。世界の頂点が、一直線に青天まで伸びている。上部にはクーロワールと呼ばれる、急峻な岸壁に沿った溝が刻まれており、まるで眉間に皺を寄せているかのようだ。チベット語でチョモランマ、大地の母神という意味の山は、自らに近づく全ての命に警告していた。

 わたしに登れば死ぬぞ、と。

 カフェの金色の瞳が、鷹揚にその頂を睨み返す。

 標高6000m付近まで登ってからベースキャンプに引き返す基礎順応を行う。心身の準備ができ次第、アタックをかけるつもりだった。

 最低限の人数、装備によるスピーディな登山を、『アルパインスタイル』と呼ぶ。人類で初めて八千メートル峰14座を完登した伝説的登山家ラインホルト・メスナーが大成させたスタイルだ。従来の『極地法』では、大規模な人員と物資を少しずつ移動させ、選び抜かれた隊員だけで最終アタックをかける。安全性と確実性は増すが、そのぶん時間とコストが多大にかさむ。前回のエヴェレスト登頂が、まさに極地法だった。そちらのほうが成功率は格段に上がる。だが、それはあくまで人間の身体能力を前提とした話だ。人間のパワー、スタミナを遥かに上回るウマ娘ならば、有利を保てる7500mまでは膂力に任せて素早く登ったほうがいい。酸素ボンベの有無に関わらず、デス・ゾーンでの登攀に余力を残せるからだ。

 ウマ娘の生理学的には、アルパインスタイルこそが最も合理的な登山方法と言える。

 だが、マンハッタンカフェにとっては、そう易々と選択できないスタイルだった。彼女のパートナーは人間だ。高地順応に天賦の才でもない限り、ウマ娘の登攀速度についていくのは難しい。まして夏野は、それほど順応が得意なほうではなかった。

 アルパインスタイルを選ぶことは、すなわち夏野との別離を意味する。

 ここに至るまで、カフェは内心悩み苦しんでいた。自身の能力を最大限に発揮しなければ、ライバルの背を追えない。しかし、全力で登る自分に人間は追いつけない。少なくとも7500mまでは。

 夏野のことを考える。一度は手に入れた気になっていた。トレーナーを辞めてまで自分についてきてくれた。しかし、どこまでいっても彼女は人間であり、自分はウマ娘だ。彼女には彼女の人生がある。思い出すのも憚られる、忌々しい男の顔。そいつの前で幸せそうに笑う、最愛の元トレーナー。

 現実から逃げるように、帰国直後にカフェは決意した。

 世界の頂点に再戦を挑むには、単独でのアルパインスタイルしかない。その方法でしか、ライバルを上回る勝利は得られないのだ。

 登山において、絶対の価値とはやはり『初登』である。しかし、一度誰かに登頂されたからといって、その山の価値が消失するわけではない。より難しいルート、より短い時間、無酸素、単独など、さまざまな条件を足し合わせ、新たな『初めて』を達成できるからだ。

 ブランハンニバルが成し遂げたのは、チベット側北東稜ルートによる無酸素登頂。山での経験値、技術力、組織力は圧倒的に格上の相手。そんな彼女につけ入る隙は、やはりひとつしかない。

 単独行だ。

 アイガー北壁以来、ハンニバルは単独行をしなくなった。おそらく死の恐怖が名誉欲を上回ったのだろう。別に恥ずべきことではない。合理的な判断だ。彼女の年齢は30を過ぎている。ウマ娘の身体能力のピークは、おおむね14歳から19歳。どうあがいても現役のウマ娘と戦える身体ではない。

 マンハッタンカフェが唯一、ブランハンニバルを上回る能力。それは若さだった。

 しかし、それゆえにカフェは、彼女と同一ルートでの登頂を良しとしなかった。

 肉体の衰えた相手に対し、単独行をもって勝利宣言するなど、カフェのプライドが許さなかった。若者が老人相手に腕相撲で勝って、それを誇れるだろうか。

 むろん客観的に見れば、単独無酸素という実績はハンニバルを上回るだろう。しかし、登山の価値とは、そもそも他人が決めるものではない。

 自分にとって、満足いくものかどうかが、登山の全てだ。他者からの称賛や記録は、自己満足の後についてくるオマケでしかない。競走ウマ娘時代と何も変わらない。

 チベット側北東稜よりも難しいルートを制して初めて、あの葦毛の怪物に完全勝利できる。その信念を胸に、マンハッタンカフェが選んだのは稜線ではなく壁だった。

 エヴェレスト北壁ルート。かのラインホルト・メスナーが無酸素単独登頂を成し遂げたことで、アルパインスタイルの名が世界に轟くきっかけとなったルートだ。北東稜と西稜の間の岩壁は、まさにエヴェレストの裏の顔。年間登頂者が700人もいるエヴェレストだが、ほとんどがネパール側ノーマルルートでの登頂である。チベット側、まして北壁ルートなど、国家の威信をかけた大規模登山隊か、世界最高峰のアルパインクライマーしか挑まない。そのため情報量が少なく、事前対策ができなかった。実際に足を踏み入れてみなければ、雪や岩の状態、岩溝内での環境など見当もつかない。

 カフェは山頂アタックから下山までの日数を6日間と決めた。予備日は設けない。悪天候や雪崩に邪魔されたら、その時点で諦めるしかない。北壁を無酸素単独で落とすには、全身全霊燃やし尽くすだけでは足りない。天運の味方が必要不可欠だった。

 神々の座する頂は、自分を登るにふさわしい者と認めてくれるだろうか。

 アタックの前日、バルテンはカフェのために日本風のカレー味のダルバートに、ピザ、蜂蜜乗せホットケーキなど、ウマ娘の好む味付けの料理を用意してくれた。彼には、GPSの座標モニターを渡してある。それは救助目的ではなく、万が一遭難したときに遺体の場所を特定するためのものだった。発信元となるのは、ライバルとなった葦毛の師からもらった高性能小型カメラだ。

「出発から12日間、わたしがベースキャンプに戻らなければ、死んだものとして扱ってください」

 カフェはそうバルテンに伝えた。彼は真剣な顔で頷く。瞳には純粋な悲しみが揺れていた。この心優しい青年を、困難な単独行に引っ張ってきたことが少し後ろめたい。もし自分が死ねば、彼はその悲しみを一人で受け止めなければならないからだ。金銭での報酬では贖えない、精神の傷だ。

 その夜、カフェは装備品を点検する。食料は、乾燥五目飯や乾燥スープ、ビスケット、粉末ココアといった乾物ばかりだ。アルパインスタイルでは、あらゆるものを軽量化することが基本となる。おそらく7500m以上の環境ではまともな食事がとれなくなるため、固形物は最低限にして、行動食を兼ねたアミノ酸とブドウ糖タブレットを用意しておく。

 悩ましいのは、ハーケンとアイススクリューだ。ハーケンは岩の溝、アイススクリューは氷壁に打ち込み、ザイルを通すことで滑落を予防できる。どちらもチタン製であり、徹底的に軽く作られてはいるが、数が嵩むと厄介だ。酸素が平地の3割ほどになるデス・ゾーンでは、たった100gの重さが命とりになる。しかし、標高7800mから頂上付近まで刻まれた縦方向の岩溝、クーロワールの情報が少ない以上、装備を手薄にすることはできない。壁は、登るより降りるほうが難しい。膂力に任せて一気に登っても、ハーケンやスクリューが足りなければ、下降のための身体の確保ができなくなる。つまり降りられなくなる。

 苦悩の末、カフェは10本ずつ持っていくことにした。装備品ひとつでも計算が狂えば、この山は挑戦者を生きて帰してはくれないだろう。自分の判断を信じるしかなかった。

 9月11日、明朝4時半。朝食の後、バルテンが安全祈願をしてくれた。小さな石塔を積み、カラフルな旗のついたロープを四方に張る。プジャと呼ばれるシェルパ族の伝統儀式だった。

「必ず帰ってきてください。それだけを祈っています」

 バルテンは言った。彼と握手を交わしたのち、カフェは出発のときを迎える。2日間で、標高7000mのキャンプ1に到達する予定だった。しかし、雪の状態が遠目で見るより悪い。傾斜50°を登攀中、固い氷かと思いアイゼンを蹴りこむと、ぬかるみに嵌まったかのように脚が突き刺さる。中身は柔らかい雪のままだった。これでは踏ん張りがきかなし、いちいち足を取られる。できるだけ安定した氷を選んで爪先を蹴りこむ。一挙手一投足の選択だけで時間を浪費する。おまけに、クーロワール帯に至るまでの壁は、ところどころ氷が付着しておらず、岩肌が剥き出しになっている。迂回する余裕はないが、岩壁と出くわすたびアイゼンを外してロッククライミング用の装備に転換するのは不可能だ。山肌は傾斜を増していく。途中で突き当たった落差100mの垂直壁を、身をよじるようにして登る。貫谷から教わった、スタミナを温存できるスタイルを駆使する。雪がついていない剥き出しの岩肌に、なんとかアイゼンの爪先をひっかけ、冷や汗を流しながら慎重に体重をかけていく。アイゼンは、あくまで人間用だ。うっかりウマ娘の膂力で岩に蹴りこめば、最悪刃先が折れてしまう。岩が天井のように突き出した巨大なオーバーハングを横切るときは、さすがに支点を作らざるを得なかった。滑落すれば、1000m下まで真っ逆さまだ。

 神経をすり減らすクライミングが続く。氷壁についた雪は、予想以上に薄かった。しかも固い。アイゼンを蹴りこむと、まるでガラスのようにパキリと割れて奈落に舞い落ちてしまうこともあった。ハーケンとアイススクリューの減りが早い。多めに持ってきたのは正解だった。

 出発から4時間。カフェは、腕の高度計を見て、呻いた。まだ6500mにも到達していない。それなのに、想定よりも早く疲労を感じていた。

「なぜ……」

 歯の隙間から白い息が漏れる。

 順応は、かつてないほどうまくいっていた。体力、気力も十分だった。こんなところで疲労を自覚するなど、ありえない。単独行のプレッシャーが肉体に響いているのだろうか。前回のエヴェレストならば、一呼吸のうちにピッケルとバイルを振るえたが、今回は同じ運動量でも三倍の呼吸が必要だった。

 予定を二時間もオーバーし、なんとかキャンプ1に辿り着く。キャンプ地といっても、氷壁の傾斜が少しだけ緩くなった、畳二枚分ほどのテラス(岩棚)だ。もう動く気力もなかったが、なんとか岩肌にハーケンを打ち込み、吊り下げ式のテントを張った。この作業だけで一時間を要した。アイゼンだけはなんとか外し、テント内に倒れこむ。

 高山病の症状はない。味覚、視覚、聴覚、すべて正常。ただ心身が疲労している。

 ここが、まだ7000m地点であることが信じられない。

 いったい自分の身に何が起こっているのか。いくら考えても分からない。緩慢な動きで湯を沸かし、フリーズドライの五目飯に注ぐ。食欲があるうちに、ビスケットも消費しておく。少し体力が戻ったところで、小型カメラを起動し、自分に向けた。

「北壁ルート、7000mのキャンプ1に到着しました。やや疲労感が強いです。明日は、7800m

のキャンプ2を目指します」

 それだけ喋り、カメラを切る。単独行ではあるが、可能な限り映像記録を残すつもりだった。表情や声、どんな言葉を使っているか、そのときの体調など、後で見返すことに価値がある。カフェは、最初の師の教えを忠実に守っていた。

 就寝前に、念のためダイアモックスを半錠だけ服用する。可能性は低いが、血中酸素濃度の急低下による昏睡を恐れていた。今、自分の肉体が普通でないことは分かる。精神衛生上、リスクはひとつでも潰しておきたかった。

 夢のなかで、懐かしい声を聞いた。

 雨に濡れた芝のうえで、寮の屋上で、あるいは真っ白な雪原で、その人はカフェの名を呼ぶ。その声は次第に強くなっていき、やがて耳元で叫ぶような大音量となる。

 飛び起きたとき、かすかに頭痛がしていた。これが幻聴ではなく、ただの夢であることを祈った。

 9月12日、午前7時。インスタントラーメンとチョコレートの朝食を終え、カフェはテントを畳む。今日は800m高度をあげ、クーロワールの入口に入る予定だった。テラスから頂は見えない。ひらすら白と青黒い壁が、灰色の空に続いている。少し雪が舞い始めたが、風はそれほど強くない。

「いける……」

 一言、自分に言い聞かせる。そうでもしなければ、この非情なる壁の途中で心が折れてしまいそうだった。

 キャンプ1に至るだけでも難しかったが、クーロワール直下の壁は、もはや鬼だった。打ち込もうとしたピッケルやアイゼンの刃先が、弾き返される。雪の数センチ下は岩だった。それも、粘土岩のような、のっぺりした一枚岩だ。ハーケンを打ち込むためのリス(岩の割れ目)が見当たらない。

 ここからは、確保なしで登らなければならなかった。ほとんど足がかりのない岩壁の、わずか数センチの出っ張りにアイゼンの爪先を乗せる。そして、次の目標を見定め、トモに力を込めて身体を引き上げる。それを何度も何度も繰り返す。岩とアイゼンの、1㎠にも満たない接地面積に命を賭けるのだ。地上7500mで、命綱もつけずピアノ線を綱渡りしているようなものだ。

 ほんの数ミリのズレが、生死を分ける。それがエヴェレスト北壁だった。

 キャンプ2まであと100mというところで、目に見えてカフェの動きは鈍くなっていった。

 おかしい。カフェ自身が、謎の不調に首を傾げるしかなかった。スタミナは十分ある。水分も食事も摂取した。それなのに、なぜ今自分は、根性を削って登っているのか。歯を食いしばり、肺を限界まで膨らませ、ピッケルの一振りに全霊を籠める。レースに例えるなら、最後の直線の手前で、すでにいっぱいになっているような状態だ。

 3時間かけて、100mを登り切る。キャンプ2のテラスは、雪が固まり、ほとんど坂のようになっていた。アイスピッケルを使い、できるだけ平坦になるよう氷を切り崩して地均しする。なんとか日が落ちる寸前にテントを張ることができた。もう湯を沸かす余力もなかった。しかし、水分を摂らなければ、死のリスクが一気に高まる。低酸素下では赤血球が増え、血が流れにくくなっている。あらゆる疾病の引き金になるだけではなく、耳や手足の指の凍傷にもつながる。なんとかコッヘルに雪を入れ、沸騰させる。コーンスープにビスケットを溶かして無理やり胃に流し込む。

 本当は、目視でルートを確認しておきたかった。しかし、山頂付近は真っ白なガスで覆われ、雪の勢いも強まっている。天候が悪化すれば、ビバークを強いられるかもしれない。そうなれば、もう登頂は諦めるしかなかった。

 カメラを起動する。

「キャンプ2に到着しました。高度は7800m付近。すでに息が苦しいです。余裕があれば、一気にクーロワールを登ろうとしていた自分が、いかに愚かだったか思い知らされています。しかし、なぜこうも体調が悪いのか……」

 続く言葉が見つからず、カフェは気が沈んだままカメラを切った。

 シュラフに入っても、やはり眠れない。肉体を休めることだけに終始する。強風がテントをバタバタと揺らすが、あまりうるさく感じない。感覚器官の働きが、鈍くなっているのかもしれない。食事にも妙に味がなかった。

 9月13日。疲労が抜けないままテントから顔を出し、上空を睨むカフェ。夜が明けても、空に太陽は見えない。分厚い灰色の雲が、不気味なほどの速さでヒマラヤの空を流れていく。クーロワールの状態を確認したかったが、霞んでよく見えなかった。雪やガスのせいだろうか。

 いや、ちがう。

 霞んでいるのは自分の目だ。テントの中に視線を戻しても、しばらく焦点が合わずにぼやけている。高山病の症状だった。血中酸素の減少で、網膜の働きが悪くなっている。

 ともかく移動しなくてはならない。これ以上風が強まれば、吹き曝しのキャンプ2に留まるのは危険だ。クーロワール直下のキャンプ3ならば、岩溝の壁にテントを吊り下げることで風を避けることができる。

 湯にチョコレートを溶かして飲み込む。

 迷っている時間がもったいなかった。ヒマラヤに絶対はない。秋のハイシーズンだからといって、嵐が来ない保証はどこにもない。テントを畳み、ピッケルとバイルを握りしめる。今回、高度としては100mほどあげるにすぎない。しかし、難易度が高いルートだ。クーロワールの入口まで、断崖絶壁をトラバース(横移動)する。キャンプ3で一晩休まなければ、とうていウマ娘未踏の岩溝に挑むことはできない。

 トラバースは、垂直登攀よりも過酷だった。同じ距離を移動するにしても、ふつうに走るより、横跳びのほうが疲れる。耳音で唸り声をあげる強風。ときおり頭上から、雪に混じって刃物のような氷片が降ってくる。どうか氷塊を頭に落とさないでくれと祈る。剥き出しになった岩壁の色が変わっていることに、ふとカフェは気づいた。青黒かった岩が、少し白みを帯びて、ところどころ黄褐色にも見える。

 かつて、この世界の頂点は海の底にあった。プレート運動によってインド大陸とユーラシア大陸が衝突したことで、数千万年のときを経て海底が押し上げられたのだ。8000m以上の地層から、古代の海棲生物の化石が発見されている。

 エヴェレストは、生きている。今も代謝している。風と雪に削られながらも、地球の力によって成長し続ける。人間が恐れる地震や雪崩は、この山脈にとっては古い角質が落ちた程度のことなのだろう。前回の登山で、夏野が言っていたことを思い出す。エヴェレストの氷からは古代の匂いがする、と。あれはエヴェレストの呼吸だった。吸って吐く、それだけの間に人類の歴史が収まってしまう。

 嗅覚に意識を向けてみる。しかし、カフェには分からなかった。鼻孔を通る空気は、ただ刺すように冷たい無味無臭。

 この巨大な存在に挑む自分とは、いったい何なのか。不用意にも、覗くべきではない深淵を見てしまった。

 何のために登るのか。すでに答えは出ている。生きる悦びのためだ。レースを失い、行き場のなくなった渇きを癒してくれる、美しく残酷な山々。しかしその回答は、今の彼女に力の一片も与えてはくれない。

 この壁のように、自分の心に足がかりが見つからない。

 いろいろなことを覚悟してきたはずだった。単独行をする意味。ライバルを超えたいという執念。道標になるはずだったものが、心身の疲労とともに脆くも崩れ去っていく。

 なぜ前回は、デス・ゾーンであれだけの力が湧いてきたのか。なぜ今回は、追い詰められたら、その分だけそっくり疲弊していくのか。燃え上がる闘志や勝利欲求に変わることなく。

 余計なことを考え、気が緩んだ瞬間、右足のアイゼンの感覚が消えた。

 怖気がするような、岩と金属の摩擦音。

 重力に足首を掴まれる直前、カフェは渾身の力で右手のバイルを振るった。インパクトするのがどこかなど確認する余裕はない。まさにとっさの判断だった。岩ならば弾き返され、氷なら刺さる。

 岩なら死ぬ。氷なら生きる。

 右足を踏み外した体勢のまま、ぴたりとカフェの滑落は止まった。幸運にも、バイルの刃先は氷の部分に刺さっていた。しかし、決して厚い氷ではない。岩壁にへばりついた青いガラスのような氷は、いつ割れるか分からない。みしみしと、嫌な音を立てる氷壁。人間には聞き取れない小さな音も、ウマ娘の耳ならば拾える。

 このままでは剥がれる。

 カフェは再び四肢の力を振り絞り、右足のアイゼンを引き上げる。氷を掴めている間に、足がかりを作らなければ。レースでのラストスパートと同じ、筋肉内のブドウ糖を酸素の消費なしで燃やし尽くす、わずか40秒の勝負。アイゼンから伝わる感触だけで足場を見極める。なんとか岩のでっぱりに爪先をひっかけた。力が四点に分散され、氷の軋みが止まった。

 助かった。

 極限の恐怖と安堵の振れ幅に気持ちがついていかず、しがみついたまま動けなくなる。なんとかキャンプ3まで移動しなければならない。しかし、さっきのインパクトから右腕が重い。痺れにも似た疲労が抜けなかった。これではトラバースできない。

 カフェの体内では、筋肉がガス欠を起こしている状態だった。

 震える手で、アウターのポケットに忍ばせていたタブレットを口に入れる。とにかく糖分を補給しなければ、持久系瞬発系問わず、あらゆる力が出せなくなる。五分ほど壁に身を寄せていると、少しずつ四肢に力が戻り始める。しかし、身体の動き自体は鈍ったままだ。もうすぐ日が落ちる。ヘッドランプの明かりだけで、北壁をトラバースするのは自殺行為だ。天候もますます悪化している。

 戻るのは危険。しかし目的地にたどり着けそうもない。

 カフェは決断する。トラバースルートのどこかでビバークするしかない。足場の確保も難しいほどの絶壁だが、どこかで身体を休めなければ明日から動けなくなる。

 動き続ければ、やがて力尽き、壁に張りついたまま死ぬ。羽化に失敗した蛹のように、永久に凍りつく。

 今日中にキャンプ3まで行けない。それは登山の敗北を意味する。クーロワールの入口にすら辿りつけない完敗だ。しかし、敗北は次の勝利につながる。

 死ねば全てが虚無に帰す。

 アグネスタキオンの言葉が頭をよぎる。

「わたしは、死んだら負けだ……!」

 自分に言い聞かせるように呟く。生きて帰らなければならない。あの人のもとに。

 ようやくカフェは、まだ雪が残っている岩棚を見つけた。なんとかピッケルで氷を削り、テラスを作ろうとするが、やはり岩が露出してしまう。ぎりぎりまで氷を削っても、奥行きはわずか10㎝ほどしかない。しかも断崖に向かって、やや傾斜している。

 テントを置くことはできない。カフェは、粘土質の岩の、わずかな窪みに向かってハーケンを突き立て、バイルを振るった。ウマ娘の膂力で打ち込まれたチタン製のハーケンは、少し岩を削っただけでひしゃげて使い物にならなくなる。今度は、アイススクリューの先端を使って、無理やり岩の割れ目をこじ開ける。本来の使い方ではないが、ハーケンを刺せるようにしなければ、この滑り台のような場所で身体を確保できない。

 二時間かけて、やっと三本のハーケンを打つことができた。もう手持ちは残っていない。この難所で一晩明かしたら、すぐに下山しなければならない。

 カフェは、ふらふらと急ごしらえの岩棚に腰を下ろす。尻を乗せるのがやっとのスペース。斜めになっているせいで、今にもずり落ちそうだ。テントを取り出し、頭からすっぽりとかぶる。これで多少は、体感温度を上げることができる。一息ついたところで、膝の上に抱えたザックからコッヘルとコンロを取り出す。テントの隙間から雪を掴んで、コッヘルに入れて湯を沸かす。口に含んだビスケットやチョコレートと一緒に飲み込む。

 岩棚から投げ出された爪先、違和感を覚えた。凍傷の予兆だ。太ももが圧迫されて血流が悪くなっている。しかし、アイゼンやブーツを外してケアすることはできない。もし落としてしまえば、下降することができなくなる。ふくらはぎの筋肉を意識的に収縮させる。しかし、ふと気づけば動きが止まっている。眠気とは別種の倦怠感が襲ってくる。心身の疲労のため、意識が薄れているのだ。

 もうカメラを構えて喋る余力はなかった。代わりに、手のひらサイズの薄い防水手帳とペンを取り出し、膝の上に乗せる。現状をメモしておく。

 

 

 北壁トラバースルート、7800m付近でビバーク。テラスに腰かけたまま、眠ることもできない。自覚症状、頭のふらつき、目のかすみ、食欲減退。

 帰りたい。

 夏野さんに会

 

 

 はっとしてペンを止める。震える文字が、いつの間にか弱音に変わっている。

 休むことに集中しなくては。目を閉じる。テントを揺さぶる風が強くなっていく。神々の領域に迷い込んだ命を、あの世に引きずりこもうとするかのように。

 朝が来ても、太陽が顔を出すことはなかった。

 テントの外は灰色の渦だ。ポストモンスーン季には珍しい猛吹雪。カフェは感情の死んだ目で、テントを押さえつける。ここがデス・ゾーンより下でよかった。触覚を失い始めた指を見つめながら、カフェは思う。

 風の勢いが和らいだ僅かな隙に、カフェはペンを持つ。

 正気を保つには、これしかない。一文字ずつ、ふだんの十倍の時間をかけて震える文字を綴る。

 

 

 9月14日。

 嵐が来た。この地獄のような場所で、またビバークしなければならない。もう脚の感覚がなくなってきている。身体がずり落ちるため、眠ることもできない。うとうとして、脳をだましだまし休ませるのが限界だ。

 ハーケンは、三本ともまだ無事。強風が続いたら、抜けてしまうかもしれない。どうかもってほしい。下山するには、最低三本は必要だ。あとで回収しなくては。

 もう書くことがない。こんなものが遺書にならないことを祈る。

 

 9月15日。

 嵐はおさまる気配がない。食料を切り詰める。とにかく脚を動かさなくては。血がとどこおったら指を切らなければならないかもしれない。指を失ったら、もうライバルに追いつけなくなる。

 耳もケアしなければ。とくに凍傷になりやすい部分だ。防寒カバーを外して、手でマッサージしている。しかし、指も耳も、互いの冷たさを感じるばかりだ。

 

 9月16日。

 頭がもうろうとしてくる。辛うじて栄養はとれている。しかし、かむのものみこむのも体力をつかう。動きがかんまんになる。

 チョコレートをのんだら、すこし気分がましにになる。

 風が強すぎて、雪をとるのもおっくうになる。風がはいってきてうっとうしい。さむい。さむい。ただひたすらにさむい。

 書きたいことなどない。でもかかなければ、あたまもからだもうごきが止まる。

 さきのことを考えたくはない。かんじょうを空っぽにして、胃だけを満たせばいい。

 

 9月17日。

 からだが重いと思ったら、テントの上に雪がつもっていた。みみのかんかくがない。なげだされたあしは、うごかしてみるまで、わたしにくっついているのかわからない。まだあしはあるのか。ある。うごく。

 かんじを思い出せない。かくのもおっくうだ。のうに水がたまっているのかもしれない。あらしがやむまで、どうにか正気をたもちたい。

 かえりたい。わたしはかえりたいんです。

 なつのさん。

 なつのさん。

 なつのさん。

 いま、むしょうにあなたがこいしい。ほかのだれよりも、あなたに会いたい。たんどくこうをきめたのは、わたしなのに。むしがよすぎますよね。

 生きてかえりたいんです。

 あなたのなまえをあたまのなかでくりかえすと、まだいきていられるきがします。

 

 9月18日。

 山でしぬことにこうかいはない。ただ、ひとつだけ、のこされるひとのことだけがむねんだ。ゆるしをこわなければならない。わたしのつみの、ゆるしを。

 

 

 ペンが、指から零れ落ちた。視界がぼやけて、自分の字さえ見えなくなっている。ゆっくりと瞼を閉じる。嘲るようにテントを打ち据える暴風の音すら、もう聞こえない。消えていく感覚器官のさらに奥、どこにあるのかも分からない魂を使って、マンハッタンカフェは想い続ける。

 生きて帰る。あの人のもとに。

 手に入らずとも、せめて隣に。

 どれくらい経ったか分からない、暗黒のまどろみ。瞼を開けると、まだ身体を動かすことができた。テントの外を除く。吹雪は収まり、ヒマラヤの山々の影がうっすら見える程度には視野が開けている。

 今なら下山できる。

 次、また嵐が来たら終わりだ。食料も底をつく。今日中にキャンプ2、できればキャンプ1まで戻りたい。下降すれば酸素も濃くなる。生還のチャンスだ。

 急いで湯を沸かそうとする。胃を休めることができたのは幸いだ。残ったインスタント麺やスープを消費し、あとは全て行動食に回そう。

 そのとき、カフェは自分の手が震えていることに気づく。

 いや、ちがう。手どころか全身。さらにテント、尻を乗せているテラス自体が微かに振動していた。

 平地ならば、小さな地震としか思わないだろう。しかし、ここはヒマラヤだ。

 山が震える理由は、もうひとつある。

 カフェはとっさに防寒用の耳カバーを外した。鮮明になる外部の音。これと似た音質を知っている。観客スタンド前を駆け抜けるウマ娘たちの走音。あの地鳴りのような低い打撃音が、数百、数千倍に増幅され、直上を駆けおりてくる。

 全身が総毛立つ。

 雪崩が来る!

 声も出せなかった。エヴェレスト全体を揺さぶるような震えが、どんどん激しさを増していく。

 一秒の迷いが生死を分ける。

 カフェは立ち上がり、氷壁にへばりつくように身体を沿わせる。圧倒的な危険や恐怖を前にすると、生物は本能的に身体を丸めてしまうが、雪崩の前では逆効果だ。その威力を全身で受けてしまう。

 テントの幕ごしに、冷たい壁に頬を押し付ける。

 衝撃。

 首の骨が砕けそうになりながらも、カフェは必死に岩壁にしがみつく。しかし獰猛な雪の塊は、小さな命を削ぎ落そうとするかのようにテントを殴りつける。テントに引きずられ、壁から身体が剥がされていく。打ち込んだ三本のハーケンのうち、すでに右端の一本が外れた。このままでは叩き落される。カフェは両腕を上に伸ばし、歯を食いしばってテントを引き裂いた。あっという間に押し流され、アイゼンに引っ掛かりズタボロになる。だが、これで雪崩の圧力を躱すことができる。

 寒気がする浮遊感。右半身が宙に浮く。真ん中のハーケンが外れた。残るは一本のみ。これが耐えられなければ、落ちる。

 祈るような十秒間だった。

 エヴェレストは、その身に積もる雪を振るい落とした。カフェが身体を壁に戻すと、力尽きたように最後のハーケンが、渇いた音を立てて岩肌から抜けた。

 雪崩が終わってからも数分間は、呆然とその場に立ち尽くしていた。

足元には、襤褸切れのようなテント。命は救われた。最善の判断だった。しかし、その判断をもってしても、この神の領域では、寿命を一日かそこら伸ばしたにすぎない。

 カフェは、へなへなとしゃがみこみ、テントの残骸を巻き取った。

 夜の防寒装備を失った以上、次に嵐が来たら終わりだ。低酸素にあえぎながら、必死に考える。この絶望的な状況下で、たったひとつ生還できる道があるとすれば。

 足元の、さらに下を見る。

 白い靄がかかり、底すら見えないエヴェレスト北壁。

 ここを最短ルートで下降するしかない。それは、北壁に挑む者ならば、絶対に通ることのない難所。想定外に次ぐ想定外に見舞われたカフェには、もうそこしか活路が残っていなかった。

 躊躇う時間がもったいない。

 三本のハーケンを回収する。行動食のタブレットを口に含む。アイゼンと両手のピッケル、バイルを確認し、すぐさま下降を開始する。

 クライミングにおいて、下降は登攀よりも遥かに難しい。肉体の悲鳴を押し殺し、見えづらくなった目をきつく細めて、カタツムリが這うような速度で壁をくだっていく。ハーケンは残り三本。支点をつくる余裕はない。一度でも脚を滑らせたら死。

 それでも、少しでも早く、少しでも先へ。

「なつのさん。なつのさん。なつのさん……」

 自分でも気づかないうちに、独り言を口走っていた。その名を呼ぶごとに、疲弊しきった筋肉にかすかな力が蘇る気がした。

 時間経過の感覚はなくなっていた。高度は7010m。下降するほど、氷のつき方がよくなってくる。風も強まってはいない。

 いける。

 そう思った矢先。カフェの脚は、あるはずのない地面についた。

 巨大なオーバーハングに行き当たった。壁の途中で、岩が屋根のようにせり出している。迂回するには相当な時間がかかる。かといって、ロープを使って懸垂下降するには、この岩壁のどこかに支点を作らなければならない。

 そんな余力は、もう搾りかすほども残っていなかった。

 カフェは、ふっと寂しそうに笑う。

 どこまでも思い通りにならない山だ。もうすぐ日が沈む。壁を背に、ずるずると崩れ落ちる。テントの切れ端を身体に巻きつける。できたのは、それくらいだった。

 明日まで生きている確率はどれくらいだろう。例え生きていたとしても、もうオーバーハングを突破できる力はない。

 詰みだった。

「わたし、死ぬのか……」

 どす黒いヒマラヤの空に向かって、カフェは呟く。万人に等しく訪れる結末でありながら、意識してこなかった。今ですら、どこか他人事のような気がしている。

 山で死ぬことに後悔はない。自らの魂が向かう方向に、正直でいられた。命を賭けた何かの途中で死ぬことは、望むべくもない最高の結末だ。

 しかし、最高だと思えるのは、あくまで自分だけだ。

 巻き込んでしまった人がいる。その人には責任を取らなければならない。これからも生き続ける、愛する人の未来に足枷を残さぬよう。

 震える手でカメラを取り出す。電源を入れた。映像は撮れているか分からないが、少なくとも音声は入るだろう。

「9月19日。高度7010m。キャンプ2とキャンプ3の途中から下降を試みるも、オーバーハングに阻まれました」

 一息つき、声に魂を込める。

「わたしは死にます。その前に、伝えなければならないことがあります。わたしの愛する、たったひとりの人のために。夏野蘭さんのために。わたしの犯した罪について」

 胸のうちに仕舞い続けてきた『罪』という言葉を吐き出す。

「あなたが、学園から追われることになった原因、モンブラン登頂。あのニュースをリークしたのは、わたしです。正確には、我が師・ブランハンニバルから賜ったカメラに、衛星通信機能がついていることを知っていました。本人から事前に説明を受けていましたから。知った上で、放置したのです。登頂の事実を秘してくれなど、一言も告げませんでした。ハンニバルも、暗黙のうちにわたしの意図を察してくれました。結果、あなたは学園から追放された。あなたにとって、通過点のひとつでしかないはずのわたしが、永久にあなたの、唯一の担当ウマ娘になることができたのです。そこまでしてでも、あなたが欲しかった。わたしにとってあなたは、人生における一過性の存在ではなかった」

 呼吸を区切りながら、カフェはゆっくりと隠し通すべきだった秘密を暴露していく。

「思惑通りに事は運べました。しかし、人生はわたしが思うよりもずっと、ままならないものでした。幼く愚かなわたしは、愛の力量を見誤っていたのです。表向きは依願退職ですが、実質的には不祥事が原因であることは学園の人間なら誰でも知っています。そんなあなたと結婚するメリットなどない。複数の有能なウマ娘を受け持つトレーナーなら、なおさら。しかし、あの男は、わたしの予測をあっさり覆しました。空港で、あなたにプロポーズしてきたとき、わたしは敗北を自覚したのです。戦闘に勝って、戦争に負けたのだと」

 息が苦しい。もうカメラのレンズさえ見ない。だが、最後まで証言しなければならない。

「本当にわたしは、あなたしか見えていませんでした。あなたの人生に絡んでくる他人のことなど眼中になかった。でも、あなたは、多くの他人と絆を結んでいますし、これからも結び続けるでしょう。夫に子供。血縁は無条件に強い絆です。そこにわたしが割って入る余地などあるでしょうか。きっとあなたの大切な人は、危険な登山など望まないでしょう。いずれ、わたしとあなたは引き離される。そうなる前に、わたしは独り立ちしたかったんです。世界最高峰の難関ルートの、無酸素単独という形で。わたし独りでやっていけると、あなたに示したかった。その末路がこれですから、自分でも笑ってしまいます。夏野さん。わたしはあなたの人生を狂わせました。あなたの、競走ウマ娘に対する愛、レースへの情熱を奪い取ったんです。未来永劫、あなたの隣を独占するために。わたしは狡猾で卑怯で、最低のウマ娘です。だから、わたしの死に負い目など感じないでください。あなたは優しい人だから、きっと嘆き悲しんでくれるでしょう。でも、いつかは癒えます。あなたが愛する全ての人が、その悲しみを癒してくれます。さよなら、夏野さん。明日は結婚式ですよね。出席できなくてごめんなさい。どうか、幸せに生きてください。わたしは幸せです。あなたに見初められた日から、この命が尽きるまで、あなたのウマ娘であれて、わたしは幸せです」

 カメラの電源を切る。

 もう言い残したことはない。あとは、いつになるか分からないが最期の時まで、ここにいるだけだ。

 暗く静かな夜だ。瞼を開けても閉じても変わらない。

 この世界で息をしているのが、自分独りであるかのように。

 幻聴と幻覚。あるいは走馬灯だろうか。鮮やかな音や景色が、脳裏に再生される。ターフを駆け抜ける、無数の人影。雪の道を歩く、巡礼者のような登山家たち。先行く列の中に、あの人の姿もあった。大人びた美しい顔に似合わない無邪気な笑顔で、こちらに手を振っている。

 早くおいで、と呼んでいる。

 愛する人の背に、もう追いつけない。

「やっぱり、寂しいよ、なつのさん」

 涙はすぐに凍りつき、少女の瞳を固く閉ざす。

 どれくらい時間が経っただろう。また幻聴が聞こえる。カフェ、カフェ。懐かしい声とともに夏野蘭が駆け寄ってくる。

「ああ、そんな目でわたしを見ないでください。最期の夢くらい、笑顔で見送ってくれませんか。わたしはそれだけで十分……」

「カフェ! カフェ!」

 さらに幻聴が強まる。少しうるさいくらいだ。うっすら開いた瞼のうちに、夏野の顔がのぞく。怒りと悲しみが綯交ぜになった表情。

 自分を責める顔。

 ―――わたしのような奴には、これがお似合いってことですね。

 寂しく笑うカフェ。その直後、身体が激しく揺さぶられた。

「カフェ! しっかりしろ、このバカ娘!」

 頬がはたかれる。怒鳴り声に驚いて、耳が垂れてしまった。

 凍っていた瞼を、パリパリと見開く。焦点が合ってくる。ここにいるはずのない人が、視界に映っていた。

「夏野さん……?」

 恐る恐る尋ねる。これが幻覚なら、いよいよ自分は危篤状態だろう。しかし、震えながら伸ばした手は、確かにその人の顔に触れた。幻ではない、生身の感触が伝わってくる。

「よかった。生きてた……」

 一転して泣きそうに口を歪める夏野。彼女はザックを下ろし、酸素ボンベのマスクをカフェの口元にあてがう。

 ひと呼吸で、体中の苦しみが消えていく。まさに神の助けだった。

「どうして、ここが?」

 マスク越しに、カフェが尋ねる。おそらく居場所は、バルテンの持つGPS端末を辿ってきたのだろう。しかし、エヴェレスト北壁に挑むことは、バルテンとコズミックトレイル社の人間以外には誰も話していない。

「今回は詰めが甘かったね。カフェは未成年だから、出国には親権者の同意がいる。北海道の御両親に聞いてみたら、ネパール観光に出かけたってさ。パタゴニアじゃなく、ネパール。わたしに嘘ついた時点で、もう嫌な予感しかしなかった。伝手があるとすればコズミック社だけど、さすがに利用者の個人情報までは教えてくれない。けどね、所属してるシェルパのことなら誰でもわかるように社屋内のボードに予定が書かれてるんだよ。前の撮影で一緒だったシェルパのうち、単独行、しかもチベット側からエヴェレストに入っていたのはバルテンだけだったから、ピンときた。あなたもバルテンを気に入っていたし、間違いないと思ったよ」

 湯を沸かしながら夏野は答える。見事な推理だった。

「わたしの居場所が分かったとして、ここまでどうやって……」

 疑問を途中で切り上げる。酸素のおかげで脳が回るようになっていた。ここは、よほどの事情がない限り挑む意味のない難所。中間のキャンプを経由せず辿り着いたということは、もうルートはひとつしかない。

「登ってきたんだよ。直登でね。6500mから酸素を吸った。わたしには登山家のプライドとか無いからね。どんな手を使ってでも、カフェの元に辿り着く。それだけだよ、今回の目的は」

 さらりと夏野は言った。その言葉の裏に、どれほどの危険と困難が隠されているか、実際に壁を降りてきたカフェならわかる。満足に支点をつくることもできない、薄い氷と固い岩。並の登山家では取りつくことすらできないエヴェレスト北壁を、彼女はひとりで登ってきたのだ。

 愛するウマ娘の命を救うために。

「ヘリでの救助も考えたけど、高度限界が4500mくらいらしいし、お金も時間もないから諦めた。悪いけど、ベースキャンプまで自力で降りてもらう。わたしがルート工作をしてきたから大丈夫。カフェなら絶対できるよ」

 沸かした湯に、粉末のスポーツドリンクを入れる。カフェに手渡し、少しずつ飲ませる。アミノ酸と糖分が染み渡り、急速に身体が熱を帯びてくる。細胞が息を吹き返した。さらに夏野が日本から持ち込んだという、暗褐色の物体を湯に溶かして飲み込む。舌が焼けるような甘ったるさに、カフェは思わずむせこんだ。チョコレートに蜂蜜、あとは何の味か分からない。

「タキオン印の圧縮カロリースティック。出国前に持たせてくれた。これ一本で一日分のカロリーらしい。旅客会社に遭難時の非常食として売り込もうかと言っていたよ」

「借りができてしまいました……」

 ひどい後味に苦笑しながら、カフェは言った。タキオンは、カフェが遭難することを見越して、夏野にこれを授けたのだろう。

「ありがとうございます。夏野さん……」

「お礼は後で。説教も後だ。動けるなら行くよ」

 そう言って、夏野はカフェを引き起こす。そのとたん、カフェはまともに歩けず夏野に寄りかかってしまった。義足に置き換わったかのように、両足首から下の感覚がない。夏野はしゃがみこみ、アイゼンを外して、プラスチックブーツを脱がす。オーバーシューズと化繊の防寒靴下をまくると、カフェの脚が見えた。

 もともと色白だった皮膚が、石膏みたいに異様な白に変色していた。

 凍傷の兆候だった。

「……知ってると思うけど、ここは大きなオーバーハングの上だ。わたしは迂回してきたけど、この足じゃ時間的にも難しいね。今日中にベースキャンプまで下りたい。懸垂下降しよう」

 夏野は言った。カフェは首を横に振る。懸垂下降とは、支点からまっすぐ垂れ下がったロープを伝い降りることを意味する。空中では身動きが取れないため、もし雪崩や落石が襲ってきたら回避する術はない。夏野の安全を考えれば、元来た迂回ルートを辿るほうが正解だ。

 しかし夏野は、頑として聞き入れなかった。

「一刻も早くベースキャンプで、足のケアをしないと。100mほど下ったら、わたしがルート工作してきたところまで戻れる。大丈夫、わたしを信じて」

 かつてレース前に見せてくれた穏やかな笑みで、夏野は言った。緊張をほぐそうとしてくれている。トレーナーだった頃と同じように。

 もう反論することはできなかった。

 オーバーハングの尖端に、二本のハーケンを打ち込む。回収するつもりはない。とにかく外れないよう徹底的に食い込ませる。

 先に降りるのはカフェだ。懸垂下降の場合、後に降りるほうが危険だった。先に降りた者は、取りついた先で新たな支点をつくる。後に降りる者は、もし滑落すれば、下降地点から支点、さらにロープの長さの分まで落ちる。夏野が用意したロープは五十メートル。つまり、後発の夏野の場合、二倍の百メートルの高さを滑落することになる。

 カフェは慎重に、しかし力強く壁を蹴りながら下降する。手足の感覚はほとんどないのに、どうしてこうもエネルギーが溢れてくるのか。酸素や栄養だけではない。単独行のときは欠いていた存在が、もうひとつある。

 その答えが出たところで、カフェはエヴェレスト北壁に完全なる白旗をあげた。

 降下地点は、比較的、岩の割れ目が多かった。今のカフェの膂力であれば、ハーケンを打ち込むのは容易だった。合図を送ると、夏野が下りてくる。スムーズな下降だ。まるで歴戦の登山家のように頼もしい姿だった。岩棚に降り立つと、ふたりは身体を寄せ合い、ロープを回収する。この作業を繰り返し、ついに難所を超えて北壁の取りつきまで辿り着いた。

 健闘を讃え合う間もなく、歩き始める。夏野が切り開いてきたルートをなぞる。一時は死を覚悟するほど疲労困憊しているはずだった。それなのに、歩みが淀むことはない。むしろ遭難前よりも力が増しているようにさえ感じた。

 ベースキャンプの青いテントが見えたとき、ようやくカフェは実感した。

 生還できたのだと。

 こちらに気づいたバルテンが駆け寄ってくる。涙を流しながら、「死んだかと思いました、死んだかと思いました」と繰り返した。彼はすぐに、ふたりのためのテントを立て、大量の湯を沸かしてくれた。

 テントのなかで、カフェは両足を湯に浸した。ホルマリン漬けのように漂白された足を、夏野が懸命にマッサージする。ここに来るまでは、両手足指の何本かは切ることになるだろうと冷静に計算していた。しかし、学園にいた頃と変わらず、必死に自らの足をケアしてくれる元トレーナーの姿を見て、理性の奥の感情に火が灯る。

 たとえ小指の一本でも失いたくない。

 最愛の人が、いつまでも大切にしてくれる脚だから。

「……夏野さん。どうかそのまま、聞いてください」

 カメラに吹き込んだ自白を、この場で繰り返す。長い独白の間、夏野は一言もしゃべらず、ひたすら冷たい足に血を送りこみ続けていた。

「許すよ」

 手を止めることなく、夏野は言った。

「こんな言葉で、カフェの気持ちが救われるなら、いくらでも言ってあげる」

 カフェは目を見開いた。屈腱炎で入院したとき、夏野に与えた免罪符をそっくり返されてしまった。

「カフェ。確かに、わたしにはわたしの人生があるよ。退職も結婚も、自分で決めたこと。そして今、結婚式をキャンセルして、あなたを追いかけてきたのも、全部わたしの意志。あなたは、もうわたしの人生の一部なんだ。こんなところで、孤独に死なせたりしない。わたしにとって、マンハッタンカフェは―――」

 少し言い淀む。夏野は探していた。トレーナーではなく、同行者でもない。ふたりの関係を示す、的確な言葉を。

 ささやかな逡巡の後、結論に至る。

「バディ」

 夏野は言った。カフェの目をまっすぐ見つめ、まるでプロポーズでもするかのように真剣な声で。

「命を預け合える、この世でたったひとりの存在。それがわたしたちの関係。だから、わたしは絶対に、あなたを独りになんてさせない。あなたが挑むなら、どこにだって行く。共に命を賭ける。これからもずっと」

 そう言って、夏野蘭はにっこり笑う。

 カフェは何も言えなかった。美しい頬の稜線を、ひとすじの涙が伝う。演技ではない、本物の感情から生まれた熱い雫は、目の縁から次々と溢れ出していく。

 この世に生れ落ちてから、これほどの歓喜があっただろうか。

 不治の病でレースを失った。愛は他の男に簒奪された。それでも、この人は自分のもとに戻ってきてくれた。他の誰にも真似できない、唯一無二の絆を携えて。

「……いいんですか。後悔するかもしれませんよ」

「そうかもね。わたしだけ生き残ったら絶対後悔する。死ぬまで苦しみ続けると思う。バディだからね。死んだくらいで、わたしたちの絆はほどけない」

 夏野はさらりと言った。呪縛であるはずの感情を、彼女は祝福に反転してしまう。

 マンハッタンカフェは悟る。生きる悦びは、彼女の祝福なしには、もはや成り立たないことを。

 涙をぬぐう。

 澄んだ瞳で、カフェは夏野を見つめた。

「夏野さん、わたし、負けました」

 エヴェレスト北壁敗退を、はっきりと口にする。

「肩、貸そうか?」

 穏やかな表情で夏野は尋ねる。

「いいえ。左手を出してください」

 言われたとおり、夏野は左手を伸ばす。その薬指からは、本来あるべき物体が外されていた。

「登山のときは、つけないよ」

 心を見透かすように夏野は言った。カフェは、そっと彼女の手をとり、自らの顔の前にかかげる。そして間髪入れず、薬指を口の奥深くまで咥えこんだ。

 唇の隙間から白い歯がのぞく。舌で支えながら、カフェは指の付け根に軽く歯型をつけていく。優しく、慈愛に満ちた咬合だった。

 熱い口腔内から指が解放されたとき、そこにはぐるりと一周、噛み痕が残っていた。すぐに消えてしまう程度のくぼみ。だが、それはまぎれもなく指輪だった。バディに贈る目に見えない指輪。

「素敵なプレゼントだこと」

 指を広げてかざしながら夏野は笑う。

 カフェも笑った。これでいい。夏野と自分を結ぶのは魂の絆だ。金属の輪っかや、紙切れ一枚の婚姻届など、とうてい及ばない至高の絆。

 登山の敗北と引き換えに、マンハッタンカフェは、人生で最も得難い幸福を手に入れた。

 

 

 




エヴェレスト編、これにて終幕です。
残り4話、マンハッタンカフェと夏野の旅路をお楽しみください。
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