【完結】白嶺に染まぬ黒 ~大人のためのウマ娘 プリティーダービー~   作:モルトキ

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ウマ娘必須イベント回。


第9話  あなたと勝ちたい

 北壁での懸垂下降という夏野の英断と献身的なマッサージにより、チベットからネパールに戻る頃には、マンハッタンカフェの脚はだいぶ回復していた。指先まで血が通っているのを確認し、夏野は安堵の息を吐く。会話がしっかりしているので脳機能は正常。肺や気管支から喘鳴も聞こえない。しかし、7000m以上の高地で、横にもなれない過酷なビバークを7日間にわたって強いられた身体は、疲労だけで力尽きそうだった。車中でも宿泊所でも、カフェはほとんど寝て過ごした。

 カトマンズにて、バルテンと別れる。感謝の気持ちをこめて、特別にチップを渡した。正規の料金ではないと彼は拒否したが、次にヒマラヤに挑むとき優先的に仕事を引き受けてもらうための前金だと説明した。アルパインクライマーにとって、信頼できる現地サポーターは、金銭では賄えない価値があった。

 その後、ふたりはタクシーで郊外の国際空港に向かう。

「プロジェクトU、どうでしたか?」

 成田空港行きの機内に乗り込みながら、カフェが尋ねる。

「やっぱプロの制作陣は違うね。場面の切り取り方がうまいというか、わたしも一緒に登ったはずなのに見入っちゃった。あれが編集の力かと思ったよ。大迫力の登山、そのクライマックスで、カフェ渾身の演説。放送直後から、もう日本中すったもんだの大騒ぎ。あなたの狙い通りだね」

 夏野は笑う。マンハッタンカフェの作戦は見事、日本人の心を揺さぶっていた。

 凱旋門で負けて、登山でも負けた、というカフェの主張。レースで負けているのは中央トレセンのウマ娘たちであり、登山で負けたのはカフェ個人なのに、まるで日本という国家そのものがフランスに劣っているかのような印象操作。口さがないネット住人は即座にブランハンニバルを叩き始めた。フランスへの対抗心の反動で、社会全体がカフェの登山活動を容認し、応援する空気に変わりつつあった。

 集団心理とは便利なものだとカフェは思う。ふだん、『わたしは日本人だ』と意識して生活している者はいない。しかし、対抗する集団が大きくなれば、自らの所属意識もまたそれにふさわしい規模にまで自然にシフトする。顕著なのはスポーツの国際試合。ただの個人が、テレビの前でだけ『日本人』に変身して、自国の代表チームを応援するようになる。その心理を利用し、カフェは五分足らずの演説によって、日本国民という漠然とした無意識下の巨大集団を味方に引き入れていた。

「ウマ娘関連の組織で沈黙してるのはURAだけ。何を聞かれても、ノーコメントの一点張り」

「そうでしょうね。下手なことを言えば、世論を敵に回してしまう。かといって放置すれば、国民とウマ娘の関心がレースから離れて、将来的な収益減につながる。さぞ悩ましいことでしょう」

 すこし得意げにカフェは言った。

 URA発足以来の大事件。引き金をひいた張本人はカフェだが、その舞台を整えたのはNUKの緑川常任理事だ。これ以降、日本におけるウマ娘の社会進出の在り方が変わるかもしれない。レース一辺倒ではない、それぞれの意志と能力で、人間との隔絶なく活躍できる国家。

 マンハッタンカフェと夏野は、まさに歴史の転換点に立っていた。

「そういうわけだから、カフェは帰国したら実家で休養ね」

 突然、夏野が言った。そのとたん、リラックスして垂れていた耳が跳ね上がる。

「……何がそういうわけなんです? 一緒に府中に戻るんじゃないんですか? あわよくば、そのままなし崩し的に同棲を」

 はっとして口を紡ぐ。いけない、本音が漏れてしまった。疲労による判断力の低下を、思わぬところで自覚する。

「マスコミは今、日本中の誰よりも、あなたを血眼になって探している。あろうことか日本の元G1ウマ娘がエヴェレストで世界初を競り合っていただなんて、そんな超特ダネをNUKに独占されてしまったからね。あと、実はわたしも追い回されてるんだ。マンハッタンカフェの元トレーナーだってこと、番組内でめちゃくちゃアピールされてた。それはもう感動的に」

 夏野は、自らの肖像権は全て制作側に委ねる、と緑川に伝えていた。その結果、どさくさに撮影された空港でのプロポーズ劇も、番組に盛り込まれた。中央トレーナーの職を辞してまで元担当のカフェを支え、愛する男にプロポーズされても命がけの登山に同行する過程が、視聴者の心を掴むための演出としてナレーションに利用されていた。

 モンブラン登頂をめぐるURAとの確執、辞職の真相、カフェとの関係性など、マスコミにとって夏野はカフェと並ぶネタの宝庫だった。

「わたしも、いっとき東京を離れたい。それで、カフェの御両親に相談したんだ。今後のこととか話し合いたいし、カフェと一緒に―――」

「ぜひ、我が家にいらしてください! 美瑛はいいところですよ。目と鼻の先に大雪山系の山がありますし、トレーニングも休養も思いのままです。気に入ってもらえたなら、いっそ定住してもらっても大丈夫ですよ」

 夏野の言葉を遮るようにカフェが力説する。疲労が抜けきらないせいで、少し掛かり気味になっているな、と夏野は観察する。

「定住はおいといて、カフェの御両親から許可はいただいたよ。バカな娘にしっかりお灸を据えたいから、首根っこ掴んで連れ戻してくれって頼まれた」

 それを聞くと、上機嫌だった耳がみるみる前に垂れ下がる。ごく稀に見せてくれる渋面を、夏野はひそかに『紅茶顔』と呼んでいた。心配をかけた両親に負い目を感じる程度には、まだまだカフェも年頃の少女ということだ。

 紅茶顔を見た夏野は、ふと思い出す。

「そういえば、緑川さんが言ってた例の『極楽カフェ』、ほんとにグッズ化されたよ。表情のバリエーション合わせて全六種類。いまやURAのぱかプチを上回る売れ行きだってさ」

「……あの人ならやりかねないと思っていましたが、やはりそうなりましたか」

 カフェは盛大に溜息をつく。しかし若干、耳が復活していたので、自分のグッズが現役競走ウマ娘のぬいぐるみよりも売れていることは素直に嬉しかったようだ。

 府中に戻ったら、荷物を整理してすぐ羽田空港から旭川まで移動するつもりだった。できるだけパパラッチなどのマスコミ関係者を避けるためだ。しかしカフェは、どうしても一か所寄りたいところがあるという。

「今回のエヴェレスト北壁敗退を、緑川さんに報告しておこうと思います。カメラの映像データと、ビバーク中の手記も含めて。彼女ならばいずれ、うまく料理してくれるでしょう」

 こともなげにカフェは言った。

 内心、夏野は反対だった。カメラには、モンブラン登頂のリークをカフェが意図的に仕組んだことまで記録されている。万が一、情報が流出すれば、カフェは一転して窮地に立たされる。人気が高まっているときほど、それをひっくり返そうとする性根の腐った輩もまた活性化する。しかし、カフェの「彼女を信用しています」という一言で、夏野は反論を胸におさめた。

 成田空港に降り立ってすぐ、夏野は緑川に連絡を取った。常任理事の立場にありながら、緑川は、わざわざふたりのために都内支局に会議室おさえ、そこまで出向いてくれた。そこでカフェは、包み隠さず全てを話した。登山過程のみならず、夏野と両親を騙してまで単独行にこだわった心情さえも。

 たった三人だけの会議室で、緑川は黙って聞いていた。カフェが全てを話し終えても、何かを思案するように目を閉じている。おそらく二手、三手先の情勢を読んでいるのだろう。夏野には想像もつかない、権謀術数の世界。

「情報ありがとう。むろん部外秘として扱うので、安心してくれたまえ」

 しばらくして、緑川は口を開いた。

「しかるべき時がきたら、よろしくお願いします」

 カフェが頭を下げ、緑川はうなずく。それだけで両者には通じ合うものがあるようだった。

「お礼に、こちらからも有益な情報を教えよう。パリ支局の社員から昨日連絡があってね。例の葦毛ちゃんが、インドネシアに向かったらしい」

 その言葉で、カフェの眼光が一気に鋭さを増した。

 登山家の間でインドネシアといえば、オセアニア最高峰・カルステンツピラミッドだ。標高は4884mほどしかないが、恐竜の背びれのような荒々しく切り立つ岩壁を登るには、高度なクライミングスキルが必要となる。

 葦毛の怪物にとっては赤子の手をひねるようなものだろうが。

「カフェが北壁に挑んでいる間に、ハンニバルはフランスのテレビ番組の企画で、キリマンジャロにも登頂してる。カルステンツピラミッドを落としたら、六大陸の最高峰を制した世界初のウマ娘になる」

 夏野が補足する。アフリカ最高峰のキリマンジャロは、トレセン入学前のウマ娘たちを引き連れた『ハンニバルキッズ隊』によって、いとも簡単に登頂された。葦毛の怪物にとって、それはもはや登山ではなくエンターテイメントであり、自らのPR活動にすぎなかった。

「値千金の情報です。ありがとうございました」

 とくに焦りを見せないまま、カフェは緑川に言った。これ以降、ハンニバルについて言及することはなかった。黄金の瞳は、次の戦いだけを見据えるかのように、泰然とした輝きを放っていた。

 

 支局を後にしたふたりは、慌ただしく荷造りをして旭川に飛んだ。徹底した変装で窮屈なはずなのに、カフェは終始ご機嫌だった。しばらくの間、夏野を独占できるからだ。これからは天皇賞秋やジャパンカップ、有馬記念といった大きなレースが続く。北海道までは広田も追って来られまいと、悦に浸っていた。

 旭川から在来線を乗り継ぎ、美瑛町にたどりついたとき、すでに日が暮れていた。

 カフェに案内されたのは、田園地帯を抜けた先にある、小さな喫茶店だった。ログハウス風の、瀟洒な外見。ガラス扉には、『MERU』という店名が印字されている。酒類を提供しない、いわゆる純喫茶だった。

 マンハッタンカフェの両親、石黒和夫・秋穂夫妻は、揃ってふたりを出迎えた。カフェのみならず、夏野にとっても久々の再会だ。初めて顔を合わせたのは、カフェとチームを立ち上げたときだった。夫妻は、遠路はるばる府中まで挨拶に出向いてくれた。ふたりの穏やかで飾らない人柄は、夏野を驚かせた。マンハッタンカフェの底知れぬカリスマ性や女優適性の継承元とは思えなかった。唯一、面影があったのは、母親の外見だけだ。艶やかな漆黒の髪に、はかなげな輪郭の白い肌。元競走ウマ娘であり、現役時代は『サトゥルチェンジ』という名前だった。

 夫妻は、無断登山したカフェを、しこたま叱りつけた。そして、繰り返し夏野に礼を言った。娘の命の恩人である夏野には、これからもカフェの手綱を握っていてほしいと懇願する。

 トレセン入学まで、あのエキセントリック漆黒娘を育ててきた人たち。その気苦労は察して余りある。しかし、彼らは心からカフェを愛していた。カウンターの奥に飾られた、家族での登山写真。そして、出窓の縁には、百面相する極楽カフェがずらりと並んでいた。

 手の込んだ夕食を共にしたのち、カフェはすぐ自室に引っ込んでしまった。疲労もあったのだろうが、大人同士の会話に気をきかせてくれたらしい。

 石黒夫妻とは、カフェの話題で大いに意気投合した。とにかく手のかかる娘であることが、三人の絶対的な共通見解だった。

「正直に申しますと、娘は中央で挫折すると思っていました」

 元競走ウマ娘の秋穂が言った。カフェとよく似た、低く落ち着いた声質。

「あの子の走る姿が他のウマ娘と違っていることは、幼少期からなんとなく分かっていました。でも、理由までは分からなかった。肉体的素質の優れた娘ほど、成長するにしたがって勝ちたいという欲求が強まり、より上のグレードのレースでの活躍を望むようになります。でも、カフェは違いました。たぶん物心ついたときから、ずっと何かに挑み続けていました。競う相手がいなくても、原っぱを駆け回っているんです。楽しいとか、嬉しいとか、そういう気持ちではなさそうでした。お腹のすいた赤ちゃんが泣き叫ぶみたいな、本能的な渇望とでも言うのでしょうか」

「見かねた私たちは、カフェを登山に誘ったんです」

 和夫が口を開く。若い頃は海外の山に挑んでいた、本格的な登山家だった。

「小学校に入る前でした。いつも空虚な目をしていたカフェが、山にいるときは年相応の表情を見せてくれました。たぶん、あの子にとって登ること自体が挑戦だったと思います。ですが、山を共にできたのは、カフェが10歳になるまででした。私では、もう登攀スピードに追い付けなくなりました。辛うじて妻が同伴していましたが、不注意から怪我をしてしまいまして。それ以来、カフェは私たちを登山に誘わなくなりました。関心も、レースに移っていったんです」

 両親の証言で、夏野はカフェの知られざる歴史を垣間見た。カフェは、いわゆる才能に恵まれたウマ娘だった。シンボリフドルフ以来の快挙を成し遂げ、日本代表として凱旋門賞に挑めるほどの。それゆえに、幼少の頃から、ずっと孤独を背負っていたのだろう。

 人間との肉体的格差。

 競走ウマ娘との精神的格差。

 ふと、6月の編集会議で、『孤独はつらいですからね』と呟いたカフェの姿を思い出す。夏野が小学生の頃など、男子と混じって無邪気に校庭を走り回っていた記憶しかない。そのような時分から、カフェは周囲との隔絶を理解し、独り渇き続けていた。走りの才覚が開花し、地元では負けなしとなった後も、娘を中央のレースに挑戦させることを両親は不安に思っていた。

「わたしもトレーナーのもとで走っていたのでわかります。カフェは、間違いなく気性難に分類されるウマ娘です。競走ウマ娘に求められるのは、走って勝つこと。それだけです。そこに余計な矜持や精神的満足感を持ち込まれるのは、トレーナーにとって面倒でしかない。だから、いつか夏野さんとも衝突して、その後はどこのチームにも属せないまま学園から追い出されるんだろうなとさえ思いました。でも、夏野さんは娘をお見捨てになりませんでした。G1三勝だけでも生涯の誉れですのに、まさか怪我で走れなくなったカフェのためにトレーナーを辞してまで、娘の新たな挑戦にお付き合いくださるなど。本当に感謝しかありません。もしわたしの現役時代、あなたがトレーナーであったなら、わたしは絶対の忠誠を誓ったでしょう」

 穏やかな声が、徐々に熱を帯びてくる。この情熱的な語り口は、なるほどカフェの母親だと夏野は思った。心なしか瞳も鋭さを増している。

「ですから夏野さん、娘に無理難題を押し付けられ、本当に命の危険を感じたときは、どうか遠慮なさらず、私どもに伝えてください」

 ヒートアップしかけた妻を遮るように、和夫は言った。

「カフェの、娘の気性は重々承知しています。今までも散々ご迷惑をおかけしたでしょうし、これからも、あなたを振り回すはずです。しかし、あなたは家庭を持つ身です。娘が、あなたのみならず、周りの大切な人まで巻き添えにしてしまったとあっては、我々は世間に顔向けできません。どうか、御自分の心に正直でいてください。その答えが否であれば、私たちが、カフェをあなたから引き離します。命に代えても」

 決意のこもる目で、和夫は言った。

「ありがとうございます。そういうことがあれば、すぐに相談させていただきます」

 夏野は頭を下げる。

 決して大げさな表現ではなかった。現役年齢の暴れるウマ娘を止めるのは、まさに命がけだ。拳の一振りですら、当たり所が悪ければ人間ひとり殺しうる。マンハッタンカフェの親であることは、娘の行いに死すら辞さぬ責任を負うことを意味する。夫婦の覚悟に、素直に感服してしまった。

 その後は、学園でのカフェや、友人アグネスタキオンのことで和やかに歓談した。この一晩のうちに、すっかり夫婦と打ち解けることができた。

 夏野にあてがわれた部屋は、居住スペースとなっている二階。登山シーズンには、親しい友人に宿泊所として提供することもあるゲストルームだった。カフェの部屋の向いだった。同室にしてほしいというカフェの願いは却下されたようで安心する。シャワーを浴び、自室に戻ると、向かいの扉からカフェが顔を出した。

「明日からの予定の相談なのですが……」

 珍しく、遠慮がちに耳をふせるカフェ。両親に絞られたのは、さすがに堪えたようだ。

「分かった。そっち行ってもいい?」

 夏野の言葉で、ぱっと表情が明るくなるカフェ。たまに見せる年頃の少女らしさは、いつも夏野をほっとさせる。

「コーヒーを淹れてきます。ベッドに座って、くつろいでいてください。寝転がってもいいですよ」

 そう言って、そそくさとキッチンに急ぐカフェ。

 トレセン入学までカフェが生活していた空間に、夏野は初めて足を踏み入れる。

 予想通り、シンプルで小奇麗な部屋だった。簡素な木製ベッドと勉強机。登山用具はきちんと整備されて、壁際に立てかけられている。本棚には、背丈のバラバラな書籍が隙間なく詰まっていた。英字のタイトルもある。写真やぬいぐるみなどの装飾は皆無だった。唯一、子どもらしさを偲ばせるのは、壁に貼られた地図だ。

 最初、何の地図なのかピンと来なかった。よく目を凝らすと、見覚えのある形を左下に発見する。逆さまになった日本列島。これは世界地図だ。北極ではなく、南極を頂点にした地球の俯瞰図。

 小学生のカフェは、何を思ってこの一風変わった地図を部屋に掲げたのだろうか。

 しげしげ眺める夏野のもとに、マグカップを携えたカフェが戻ってきた。今日のコーヒーは、いつもより華やかに香り立つ。今宵は寝かさないというストレートな想いが込められた一杯だった。促され、ベッドに座る夏野。

「トレーニングがてら、旭岳・トムラウシ山の縦走に行きませんか?」

 隣に腰を下ろしながら、カフェは言った。ハイキングにでも行こうとばかりの気楽さで、テント泊の縦走を提案してくる。ふたりの実力を考えれば、三泊四日ほどの日程になるはずだった。

「最終日は、ゆったり温泉に浸かれますよ。たまには、のんびり登山を楽しみましょう」

 囁くようにカフェは言った。登山後の温泉。その誘惑に耐えられるはずもなく、あっさり夏野は承諾した。

 翌日、互いに装備を点検したのち、MERUを後にする。夏野の同行を、石黒夫妻は喜んで承諾してくれた。

 麓のロープウェイまではバスで向かう。ここが縦走のスタート地点だ。秋のハイシーズンであり、ロープウェイを使わない登山客も多く見られた。カフェは、今や競走ウマ娘よりも登山家として名を馳せているようで、声をかけてくれる人は皆一様に次の登山の応援をしてくれた。

 今回の縦走は、難易度においてはアルプスやヒマラヤとは比べるべくもない。しかし、夏野にとっては新鮮な体験だった。これまでの、岩と氷ばかりだった山とは違う。微かに漂う硫黄、木々や草のにおい。生命の存在が許される世界。

「トレセンに入る前は、大雪山系をトレイルランしていました。走りと登山を両方味わえる、いいトレーニングでした」

 先導しながらカフェは言った。著名な登山コースは、カフェにとって庭のようなものだった。幼いカフェが、縦横無尽に山岳地帯を駆け抜ける様子が目に浮かぶ。

「歩くだけの登山もいいもんだね。プレッシャーないから、純粋に楽しめる」

 夏野の言葉に、すこし不思議そうな顔をするカフェ。

「……確かに、これは楽しいのかもしれません。久々です、楽しさを実感できるなんて。両親と登ったとき以来です」

 にこりと笑うカフェ。

 不意に訪れる胸の痛みを、夏野は無視した。憐れみや同情など、彼女には不要だ。前を行くバディが求めるのは、共に登っているという現実だけだ。

 行程は順調に進み、雪崩や落石の心配がないテント泊を満喫したのち、最終目的地であるトムラウシ山の温泉旅館に辿りつく。カフェが気を利かせて、宿泊の予約をしてくれていた。

 夕食前に温泉に行こうとカフェに誘われる。ノリノリで応じる夏野だが、大浴場に向かう途中で、ふと気づいた。

 カフェと一緒に入浴したことなど、一度もない。

 トレセンにいた頃はウマ娘寮とトレーナー寮は隔離されていたし、同棲を始めてからも、せまい浴室にふたりで入ることはなかった。

 いったん気にしてしまうと、どうにも落ち着かなくなる。この美しい娘の前に晒していい身体なのか、少し不安でもあった。過酷な登山に耐えるため、トレーナー時代よりも体脂肪率が増えている。だらしない肉体に見えないだろうか。

 悶々とする夏野をよそに、脱衣所にてカフェはさっさと自らの衣服を剝ぎ取っていく。元担当トレーナーだから、カフェの身体など見慣れている。しかしそれは、あくまでレースに関係する部位だけだ。下着で隠されたプライベートゾーンは完全に未知の領域だった。

 同性だから気にする必要などない。分かっていても、彼女の肌を直視することは憚られた。

 何か、神聖なものを侵すような気がしてならなかった。

「先、入ってますね」

 一糸まとわぬ姿になったカフェは、美しい黒髪をなびかせて浴場に入った。おかげで、ひと息入れることができた。勘の鋭いカフェの前で、これ以上挙動不審を晒したくはない。普段どおり身体を洗う。屋内の岩風呂にカフェはいなかった。ここは露天が売りだと聞いていたから、そちらに入っているのだろう。心を決めて外扉を開く。

「夏野さん、こちらです」

 黒髪を結い上げ、とっぷり肩まで浸かったカフェが手を振っている。こちらの姿は、カフェから丸見えだった。気恥ずかしさを押し殺して、ゆっくりカフェの隣に腰を下ろす。トムラウシ川の清流を眺めながら、足を伸ばし、大きく息を吐く。筋繊維と神経がほぐれ、心の淀みさえ湯に溶けだしていくかのような悦楽だった。

 しかし、カフェは目の前の絶景に一瞥もくれない。金色の瞳は、ひたすら夏野に向いていた。景色を眺めるふりをして、夏野はカフェの眼光から視線をそらす。ここの湯は、濁りがほとんどない。今さら隠すに隠せないため、もう好きにしてくれと開き直るしかなかった。

「脚の調子、だいぶ良くなりましたよ。ありがとうございました」

 脚をVの字に広げるカフェ。元トレーナーとしての本能から、つい目線を向けてしまった。現役時代よりも、肉付きのよくなった両脚。鉄条網のような筋肉が詰まっているとは思えない、真っ白でしなやかな曲線を描いている。

 だが、さすがに脚だけをピンポイントで見ることはできない。

 図らずしも、カフェの赤裸々を視界全体に収めることとなった。下心がないとはいえ、頬は上気し、心臓はうるさいくらい高鳴り始める。

 規格外の美しさだった。しみひとつない雪面のような身体、可憐にふくらむ胸部、あどけなさの残る頬の稜線。少女らしい魅力の全てを鋭さに反転させる、底知れない知性と意志の強さを湛えた瞳。

 見惚れないほうが、どうかしている。

 ばしゃりと湯を顔にかける夏野。横目でカフェを見ると、口角をあげてご満悦の表情だった。まさか、自らの裸体を見せつけるために、脚の話題を振ってきたのだろうか。

 たぶんそうだろうな、と夏野は溜息をついた。

「……次に登りたい山なんですが」

 カフェが口を開く。やや声のトーンを落としていた。

「やはり、難易度が高くなります。山自体の難しさより、それを取り巻く環境、辿り着くまでの道のりが桁違いに厄介です」

「いつ?」

 夏野が尋ねる。驚いたように目を見開くカフェ。

「できれば、今年の12月から、来年の1月末くらいまでの旅程を考えています」

 それを聞いた夏野は、しばらく宙を見つめる。

 12月以降は、冬季登山となる。あらゆる山を地獄に変える、魔の季節。しかし、おそらくカフェは冬季登頂の勲章を狙っているわけではない。

「あなたが登りたい山の名前をズバリ当てることができたら、ひとつ、わたしのお願いを聞いてほしいんだけど」

「いいですよ。バディを解消すること以外なら、どんな願いでも叶えてあげます。先に答えからどうぞ」

 少し弾んだ声でカフェは言った。こういう賭け事をもちこむのは、おおむねカフェばかりだったので、夏野から挑戦されたのが嬉しかったようだ。

「北壁に挑んだときの気持ちが消えていないなら、あなたは今もライバルの背中を追っている。わたしたちの師である、葦毛の怪物との決戦を、あなたは望んでいる」

 ゆっくりと推理を披露する。

「ネパール・エヴェレストのときは、ハンニバルの動向が読めなかったけど、今は分かる。彼女は若い頃、モンブラン、デナリ、アコンカグアを登頂している。そして今年、エヴェレスト、キリマンジャロ。今回挑戦しているカルステンツピラミッドを制したら、もう残っている山はひとつしかない。セブンサミット最後の一角。この世界の、あらゆる山のなかで、もっとも人類文明から遠い場所」

 ヴィンソンマシフ。

 夏野は、その名を口にする。

「南極大陸最高峰。ブランハンニバルは、この山を制することで、史上初の七大陸最高峰を完登したウマ娘として歴史に名を刻むことになる。おまけに、ヴィンソンマシフはウマ娘未踏の地。かつて南極点に立ったイギリスのウマ娘と並び称される偉業。まさに世界の頂点を争う大舞台だ。あなたは、そこで戦いたいと思ってる」

 断言する夏野。バディの見解に、カフェは満足そうに微笑んだ。

「正解です。ヴィンソンマシフこそ、登山家マンハッタンカフェの凱旋門。リベンジの地です」

 カフェは言った。夏野を見つめる目が、鋭さを増していく。

「対外的な理由だけではありません。子どもの頃、『サウスポール・ヒーロー』を初めて読んだときから、南極はわたしの憧れでした。強い意志と力がなければ、立ち入ることさえ許さない、雪と氷の世界。その中に聳え立つ山など、極地のなかの極地。地球のてっぺん。わたしは南極点よりも、ヴィンソンマシフに恋焦がれていたのです。むろん、本当に行けるとは思っていませんでした。レースを走っている間は、内なる渇望を忘れることができましたから。でも、今は違います。登山家としての実力があり、知名度があり、時流を味方にしている。何より、あなたというバディを得た。競走ウマ娘である限り、絶対に手に入らなかった永遠の絆を。だから、わたしは挑みたいんです。日本から遥か1万5千キロ。その果てしない夢の舞台に。誰にも譲りたくないんです、この山の初登だけは。どれほど困難で、どれほど危険があろうとも、わたしは―――」

 あなたと勝ちたい。

 マンハッタンカフェは、澄んだ瞳でそう言った。

「いいよ」

 夏野は即答する。もとより、そのつもりだった。対等なバディとして、自らの意志と責任で選び取った人生だ。

「のぼせてきたし、そろそろあがろうか」

 これ以上、話し合うことはないだろう。カフェは欲しかった答えを得たはずだ。夏野は脱衣所に戻る。その後ろを、カフェがついてくる。嬉しそうに尻尾を揺らして。

「ところで、夏野さんのお願いって何ですか?」

 バスタオルで身体をぬぐいながら、カフェが尋ねる。

「髪をね、触ってみたいなって」

 照れたように夏野は言った。一瞬きょとんとするも、可笑しさと落胆が混ざり合ったような、複雑な表情をするカフェ。

「ちょっと内容が軽すぎやしませんか? もう少し大胆にわたしを求めてくれても……」

「いいから。ほら、乾かすよ」

 そう言って、浴衣姿のカフェを鏡の前に座らせる。ドライヤーを当てながら、丁寧に髪を梳く。

 想像していたよりも遥かに、滑らかな手触り。黒の光沢が、さらさらと指の間から流れ落ちていく。真っ白な肌とのコントラストが眩しい。

 マンハッタンカフェの身体で、唯一、無目的に触れてもいい場所。密かに憧れていた、彼女の象徴とも言える漆黒の髪。今のうちに堪能しておく。カフェは気持ちよさそうに、耳を横に倒していた。

 客室に戻り、夕食を共にする。久々の布団の魅力に抗えず、夏野はすぐ眠りについてしまった。

 カフェはひとり、旅館の外に出る。観光客の姿は見えず、旅館の明かりだけが、神々の遊ぶ庭に人の営みを灯している。

 スマホで国際電話をかける。かつての友情を記念して教えてもらった番号だが、使うのは初めてだった。

『ボンジュール』

 ほどなくコールが止まり、馴染みの声が聞こえだす。

『いや、日本はもう夜でしたか。お久しぶりです、カフィ』

「ご無沙汰しています、ブランハンニバル。少々お時間よろしいでしょうか?」

 畏敬と戦意をこめて、師の名を呼ぶ。ハンニバルは、あっさり了承してくれた。弟子から連絡を貰えたことを、素直に喜んでいた。聞かれもしないうちから、現況を喋り始める。

 オセアニア最高峰のカルステンツピラミッドは、葦毛の怪物の前にあっさりと陥落した。今は隊員の労いを兼ねて、会社運営のためフランスに帰国しているらしい。

「6大陸最高峰の登頂、おめでとうございます」

『祝福の言葉は、まだ早いですよ。世界に大陸は七つあり、それぞれに最高峰が存在する。あとひとつ、獲るべき頂点が残っています』

「やはり行くのですね、南極へ」

 カフェの問いに、きっぱり『はい』と答えるハンニバル。その声に、迷いも憂いもなく、ただ絶対的な意志だけが込められていた。

『これを成し遂げて初めて、わたしは声高に宣言できるのです。ウマ娘は、もはや人間の管理下で地べたを駆けずり回るだけの生き物ではない、と。心の渇望が示す道に、自由に進んでいけるのだと証明したい。行く手に障害があるならば、それが人間だろうと何だろうと、自由に跳ねのける権利があることを』

 競走ウマ娘時代から彼女を突き動かしてきた原動力。心のなかで何度も繰り返してきた自由で在りたいという動機を、静かな声でカフェに語り聞かせる。

『言葉にして聞かせたのは、あなたひとりです。本音を振りかざすだけでは、スポンサーはつきませんからね。隊員は薄々、わたしの人間嫌いを察しているようですが』

 愉快そうに笑う葦毛の怪物。

「あなたの野望に、わたしは挑戦します。ヴィンソンマシフは、わたしにとって特別な山です。その初登を譲るつもりはありません」

 カフェもまた、堂々と宣戦布告する。

 ここに、ひとつの山頂をめぐり、白と黒の両雄が激突した。

『いいでしょう。受けて立ちます。あなたも承知の通り、登山にはレースのようなスターティングゲートはありません。身体能力、資金力、人脈、時間、あらゆる要素における総力戦です。しかし、今回は、あなたが同じ山頂を目指していることを知ったので、フランスを発つ日時だけは記者会見で公表します。不意打ちで勝ったなどと思われるのは、わたしのプライドが許しませんから』

 言葉とは裏腹に、嬉しそうにハンニバルは言った。

「わたしも、そうするつもりです。おそらく、公表はあなたのほうが早くなると思いますが。その際は、エヴェレストのときのように利用させてもらいます」

『あの手紙は、どうやら役に立ったようですね。レースしか見えていない日本人を焚きつけることができたなら幸いです』

 笑うハンニバル。カフェの思った通り、彼女は彼女なりの方法で背中を押してくれていた。

『ですが、ここからは、もう敵同士です』

 一息のうちに鋭さを増す口調。空気が変わったのが、スマホ越しでも分かる。

『あなたは、わたしではなく、あの人間を選んだ。そのこと自体、どうこう言うつもりはありません。しかし、あの人間と共に、わたしに挑戦するというのなら、容赦なく叩き潰してあげましょう。これはウマ娘による偉業であって、人間ごときが介入する余地はない。あなたたちの登山は、わたしの思想を根底から否定するものだ。ゆえに絶対、わたしは勝ちます』

 本気になった怪物の声。奈落の底に突き落とされるかのような、まさに命を脅かす神威だった。しかし、カフェは一歩も引かない。その精神は、バディの手でしっかりと確保されている。

「あなたは人間を見限った。わたしは希望を見出した。それだけのことです。絶対に負けません。わたしの夢を叶えるため、そして共に戦ってくれるバディのために、わたしは勝ちます」

 カフェは言った。しばらく沈黙するハンニバル。やがて、乾いた笑い声が聞こえた。

『武運を祈っています。わたしのバディにならないなら、せめてライバルになってください。わたしが競い合うに足るライバルに』

 通話が切れる。

 やはり彼女も孤独だったのだ、と客室に戻りながらカフェは思う。ブランハンニバルとは、在り得たかもしれない自分の姿だ。もし夏野蘭と出会わず、レースでの成績不振や怪我で学園を追い出されたら、人間に絶望していたはずだ。無茶な単独行に挑み、今ごろどこかで野垂れ死んでいたかもしれない。

 孤独は辛い。

 生きることには、あらゆる苦しみがつきまとうが、最期に向き合わなければならないのが孤独だろう。エヴェレスト北壁で死を覚悟したときもそうだった。生きるか死ぬかは、結果論でしかない。死が迫ったとき、この世界にたったひとりでも、魂に寄り添ってくれる存在がいるかどうか。それが重要なのだ。

 暗い部屋。静かに寝息を立てる夏野。バディの布団に、そっと潜り込む。その体温と匂いを全身に浴びて、カフェは現世の幸福を噛みしめる。

「ありがとう、夏野さん。わたしは救われたよ」

 そう呟き、愛しい人間の寝顔を見納めながら、カフェはゆっくりと瞼を閉じた。

 

 




カフェと夏野、久々の休息。

温泉イベントを書けて満足しました。
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