【ヘスティア・ファミリア】元団長 作:釜めしの素
――獣が笑っている。
落ちる。
意識が落ちる。
底の底。奈落に背中を叩きつけられる。
鐘の音が聞こえる。祝福するように、嘲笑うように。ゴーン、ゴーン、と鈍い音を立てる。
起き上がった時に見たものは、礼拝堂の趣をこしらえた広間の一角。そこに鎮座する白銀の獣。
全身が、総毛立つ。鼓動が爆発するような早鐘を打ち、脂汗がとめどなく溢れて止まらない。
――死んだ。
見ただけで、彼は確信した。自分の死を突きつけられる。彼我の実力差だとか、もはやそんなことを言ってのけられるほど、目の前の獣は……いや、獣の顔を貼り付けた四足歩行の下半身に、騎士の上半身を持つ者は、理の内に収まっているとは思えない。
意識を刈り取ろうとしてくる死への恐怖に、それでも辛うじて抗った。また意識を手放すことだけはなかった。
分かるのは、奈落で出会ったあの怪物が「死の象徴」とするならば、今目の前にいる獣は「死」そのものといったところか。
人類が、なんてちゃちな話ではない。
「ふざ、けろ……」
奈落のモンスターなど、目の前の存在に比べればゴミ同然だ。
そんなのがどうして、また不幸にも己の前に現れてしまったのか。何とか立ち上がり、白銀の怪物の奥を見れば行き止まり。神々しく輝くステンドグラスに照らされて、いやに綺麗にうつる銀の表皮。騎士然とした上半身は無手であり、武器を持っているわけではない。
立ち向かえる存在ではない。
背後を確認すれば――これもまた、行き止まり。
周囲を確認しても、どこかに行けるような通路は見当たらない。階段も見当たらない。隠し通路があるのか、それとも密閉空間か。
空を見上げれば、蓋をするように天井があるだけだ。材質は石か、それとも金属か。脱出の可能性に掛けるのであれば、天井を破ることが正攻法か。
考えている内に。
正面の獣がその大口を開けた。
「――ッ!?」
――リヒト・ゾイレ――
それは何の因果か。奈落に落ちた時の焼き回しのようであった。
死を避ける己の本能が、奇跡の跳躍を起こした。一瞬前まで居た場所に消滅の閃光が走り、一切合切を消し飛ばす。
その閃光に活路を見出した。もしかすれば、脱出の糸口が見つかるかもしれない、と閃光の先を見て。
「『――――』」
それを咎めるように、騎士然とした上半身が聞き取れない、それでもはっきりと耳に伝わってくる詠唱を始めた。その指先で宙にらくがきでもするように、あるいは指揮棒を振るようにしながら。
ゾクリ、と背筋に悪寒が突き刺さる。あれを完成させてはダメだ、と本能が理解した。
「『慈悲をくれてやる。ただ一撃のもとに消え去るがいい』ッ!」
その一撃に、彼は全てを懸けた。
全身にのしかかる倦怠感も、意識を覆い隠そうとする闇の気配も退けて。その手の内に朱い槍を象って、彼は半ば悲鳴を上げるように。
「『ブラフマン・シャクティ』ッ!」
その手から流星を落とす。
狙うは一点。どんな生物といえども弱点足り得る体内への通路。愚かにも詠うことによって晒されている弱点――口の中。
練度の賜物か。それとも火事場の馬鹿力というやつか。それは寸分の狂いなく、騎士然とした者の口に吸い込まれていき――
「……おい」
ハエでも払うように、その手のひらで無力化される。
その間にも、相手は詠唱を紡いでいる。
「ふざ、けるな」
消滅の閃光の先を追ってみれば、待っているのは抉れた壁であった。
逃げ場はなく。
渾身の一撃も一蹴され。
目の前に立つ「死」を前にして、大地に着地した彼は絶望した。
「ふざけるな、ふざけるなッ!」
それでも、抗い続ける。どうしようもないと理解しながら。絶対に勝てないと、ここから逃げ出すことは不可能だと理解しながら、死を拒絶する。
間もなく詠唱が終わり、それが彼を指差せば。
彼のすぐ近くが破裂する。鼓膜を破壊するような轟音と共に、無数の岩の礫が彼の身体を苛め抜く。
「かはっ」
その衝撃を皮切りに、彼の周囲は爆発と轟音、礫の嵐に見舞われる。
空を見上げれば、どこから現れたのか。人間の頭部よりも少し大きい岩が、降り注いでいる。そのひとつが、ふと虚空から現れ彼の真上に陣取った。
風を切る音が、妙にむなしく耳を通り抜ける。
己の身体を打ちのめす岩の礫さえ、この時ばかりはそよ風のように感じられた。
直撃すれば、もはや一瞬先の未来さえ潰える。
――本当に、それでいいのか。
自分のうちに問いかける。本当に、一瞬先の未来に潰され、全てを閉ざされてもいいのかと。
走馬灯のように、よりにもよって奈落での孤独が蘇る。
仮にここから逃げられたとして、あんな絶望をもう一度味わうのか、と。
心が軋む。
そんな未来はご免だと悲鳴を上げる。もう一度経験するくらいなら、死んだ方がマシだと、思考が狂乱に晒される。あぁ、ならこれでいいんだ、と抵抗する力を身体から奪っていく。
ここで終わろう、と。
『生きろッ!』
そう、全てを諦めかけた時に、誰かの声が聞こえてきた。
『諦めるな、絶対に、絶対に!』
無責任な声援が聞こえてきた。
『まだ、お礼も言えてないんだ! 生きろ、生きてくれ、リグっち!』
閉ざしかけていた意識が、日の出と共に照らされる街の如く鮮明になっていく。
『リングさん、諦めてハいけませンッ! 目ヲ、開けてくださイ!』
『同胞ヲ泣カセルナ! 貴様ガ死ネバ同胞ガ泣ク!』
『まだ脅威は去っていない! お前が死ねば、どれだけ同胞が死ぬと思っている!?』
リド、レイ、グロス、ラーニェ……『
消えかけていた火に、薪がくべられる。
赤い鱗を持つ手が、薪をくべた。
くすんだ金色の翼の側面に置かれた薪が、そっと火の中に埋もれる。
鋭い爪に石の手が、持っていた薪を投げ入れた。
病的にまで白い人間の手が、先を何かで濡らしている薪を火にくべた。
途端、火が大火となって燃え盛る。
激情が起こる。静寂から死に向かって衰弱していた意識が跳ね起きる。
『――生きるんだッ! リング君ッ!』
「――ッ、うぁああああああ――――ッ!」
紙一重。身体を掠めて大地に激突した岩が砕け散り、その礫に身体を打ちのめされながらも、生命の息吹が彼の口から溢れ出した。
そして、走り出す。
岩の直撃を寸前のところで躱し。
礫に身を叩かれても怯まず踏み込み。
後頭部に大きな破片が直撃し、意識を刈り取られそうになれば歯を食いしばり、唇を噛み切って、こぼれそうな命を握り込み。
目の前で岩が破裂しようとも、臆さず怯まずがむしゃらに走り抜け。
「『慈悲をくれてやる』ッ!」
拳を握る。その死に立ち向かい、それを打ちのめさんと、無謀な勇気を奮い立たせる。
魔法が今も発動しているためか、棒立ちの「死」は格好の的である。
「『ただ一撃のもとに消え去るがいい』ッ!」
三つ同時の落石。それが進路を覆い、轟音を奏でる寸前。
彼は、飛び上がる。降り注ぐ岩を掻い潜りながら、その勢いのままに宙に躍り出て一直線に「死」に向けて。
「『ブラフマン』――」
拳を引く。
天運が味方したのか、降り注ぐ岩はどれも、彼に直撃しないものばかり。
生への渇望をその手に灯し。
彼がその拳を振るったところで。
――鐘の音が止まった。
◆◆◆
薄っすらと、霧のように広がる闇が瞳を覆っている。
耳の奥に何か詰まっているのか。声が遠くから、降り注ぐように聞こえてくる。まるで他人事のように、何を言っているのか聞き取ることが出来ない。耳を傾けたところで、その意味を理解することが出来ない。
自分の身体を認識出来ない。
水の中にいるようだった。肉体と他との境界線が混じって宙に浮いているような、自分が本当にここに居るのか。存在しているのか。此処ではない何処かに、意識まで溶け込みそうになっていく。
瞼が重い。
開いているのか、閉じているのかさえわからない。ただ闇色の霧が目の前を覆っている。それが瞼の裏なのか、あるいは本当に暗闇の中なのか。それとも夢の中なのか。それさえも分からない。
ただ、恐ろしい夢を見ていた気がする。
身体が凍えているかのように冷たい。遠のきそうになる意識は、首の皮一枚で繋がっている。静寂に包まれれば、今にも眠ってしまいそうだった。
『――』
遠くから聞こえてくる声は、何を言っているのだろうか。
問い返そうと口を開くと、口の中に妙に熱い空気が入り込んできた。それが、全身に行き渡るように、固まった身体を内側から溶かしていく。
呂律の回らない口で、言葉をひねり出す。辛うじて喉の震える感覚。自分にさえ聞こえない声は、果たして届いたのだろうか。
喧騒が、少しずつ収まっていく。意識が水底に引きずり込まれるように、重く遠のいていく。繋ぎとめていたものがなくなったせいだ。
その中で、何とかもう一度だけ声をひねり出す。自分が何と言ったのかわからないが、それが限界だ。
闇が深くなっていく。
瞳を覆う霧は闇に塗りつぶされる。
現実から、自分の身体が指先からゆっくりと、冷たく溶け出していく。
「――て」
もう一度だけ。意識したわけではない言葉が飛び出した。
それがきっかけだったのか。ふと、溶けていく腕が形を取り戻して、水面から持ち上がるようにはっきりと感覚が戻る。冷たかった手は、竈の火に当たるかの如く、温かい何かに包まれる。
片方の腕もまた、今度はくすぐったさと温かさに見舞われながら、形を取り戻していく。それが自分の腕なのだと、認識を取り戻しつつある。
形を思い出してくる。腕を始まりとして、次に確認できたのは心臓の鼓動。その次に身体を巡る血液の流れ。その流れを認識すれば、自分がどのような形をとっているのか、血流の後を追って理解することが出来た。
自分がここに居る。それをはっきりと理解する。
考え込んでいる頭を、意識を自覚した。水底に沈んでいた自意識が、今度は上に、上にと上っていく。漠然とした意識という塊が閉塞感に苛まれながらも、そんな苦痛がより己を鮮明に映し出す。
そして、瞳が開く。
闇の霧が少しずつ晴れていき、目の前の光景が霞ながらも見えてくる。
「起きろリグっち!」
「リングさん! 起きてくださイ!」
「コンナトコロデ、クタバルナ小僧!」
「起きろリング! お前にはまだ、やることが残っている!」
鮮明にその声が耳に届いた瞬間、意識が覚醒した。
殻を打ち破る。己を密閉して安息に落とし込もうとした空間に穴が開き、その全てが砕け散る。
視界に色が戻る。
瞳を濡らして揺らす
光が差し込む。
その光景を見て、どうしようもなく眩しいと感じて目を細める。何を勘違いしたのか、それによって一層喧騒が強くなっていくことに、胸が熱くなる。心に火が灯る心地だった。
「ぁ、あ……」
喉に何か詰まっているかのように、うまく声が出せない。
それでも、視界は鮮明に色づいている。声に込められた感情まで耳に届いてくる。もう引きずられるような重みは感じない。
両手には熱を感じる。柔らかく温かい。くすぐったくて温かい。
ラーニェが手を握ってくれていた。何処かに行こうとする彼を引き留めるように、その手は強く握り込まれている。
レイがその翼で彼の手を覆っている。握れる手を持たない彼女は、抱きすくめるようにその羽毛で包み込んでいる。
胸の熱さが鼻の奥にツンと上ってくる。目頭にまで燃え移ったように熱くなって視界が霞む。
心配させているのだと気づいた。心配されているのだと、心が躍った。
引き締めようと思っても、口元が笑ってしまう。不謹慎だと思っても、心が溢れて止まらない。
死を乗り越えたことに嬉しくなったわけじゃない。
死を乗り越えた先に待っていた今が、たまらなく嬉しかった。
「生き、る……」
生きる理由が、死ねない理由が、増えてしまった。
それが門出を祝う春風よりも温かく、「いってらっしゃい」と背中を押してくれた主神の声と同じくらい心がいっぱいに溢れかえるなんて。
知らなかった。初めて知って、感情がこぼれ出した。途端に目の前が滲み、見えなくなった。
顔を隠したくても、両腕をとられてそれも叶わない。格好悪い姿ばかりで、情けない姿ばかりで。
それなのに、見放そうとするどころか、もっと強く呼びかけて、手を握って、壊れモノでも扱うようにそっと包んでくれる。
だから、止まりなんてしない。この感情を止めることが出来ない。
そんなに心配なら、ちょっとは手加減してほしい……なんて嘘だけど。
「誓うッ」
この気持ちを、この感動を、永遠に忘れないために。
灯を永久のモノにするために、ガラガラ声を引き絞る。
「ぜっだい、放ざないッ」
強く引き留めるように握り込まれた手を、握り返して。
包み込んでくれる羽毛を、その先を摘まんで。
「背中の灯に、誓うッ」
何よりも重い、覚悟を口にする。
「今度は、俺がッ」
その手を引いて導く番だ、と。
彼はひとしきり、必死に言葉という形にしながら、言い終えれば感情のままに声を上げた。本心のままに、感謝やら約束やら、宣誓やら友情に親愛を口走る。
あけすけに、包み隠さず、ただ真っ直ぐ言葉を紡ぐ。目の前が滲み切って見えないが、彼はその清聴の姿勢だけは感じ取っていた。
今を逃したら、伝える機会も失うだろう。
だから、叫ぶ。大好きだと、断ち切れない絆だと、嬉しくて泣いたんだと、何があっても手を取ると、ありがとう、と。
恥ずかしげもなく、むしろ誇るように。彼は堂々と言い放つ。誰よりも情けなく、泣き虫な外面のまま、弱い姿を飾らずありのまま。
器の昇華が始まった。
それはまだ、始まりの芽に過ぎない小さなものであったが。
着実に根を張り、成長し、水を待つ。肥料を待つ。
水は既に目の前に。
肥料は土の奥深く。
そしてこれらを綴るのは、神の役割。
胎動しろ、『異端の英雄』よ。
全てを乗り越えた先にこそ。
神意を覆す、お前の希望が待っているのだ。
多くの反応、感想、コメント、評価などなど、本当にありがとうございます。
いつもこのような定型文になっていますが、実のところ小躍りするように喜んで、しっかり描写したところを感じ入ってもらった時には拳を握り締めて「よしっ!」などと喜んでいます。
リング・ヴェーダの物語。とくとご覧あれ