【ヘスティア・ファミリア】元団長 作:釜めしの素
雨が降っていた。
怒号と怨嗟、悲嘆に絶望が渦巻くオラリオの中に降り注ぐ空の涙。厚い灰色の雲は、人々の住まうこの大地に光を通さず、ただ時代を象徴するような暗闇ばかりをもたらした。
その雨を、少年は口を開けて眺めていた。
落ちてくる一滴を見極めるように。ジッと雲を見上げて、わずかに体を揺らす。乾ききって声すら出なくなった喉に染入る潤いは、今オラリオを包み込む世情のように冷たかった。
そうして、一時間も雨に晒された後にようやく、彼は逃げるように路地裏に入り込んだ。その歩調はあまりにも緩慢で、覇気がない。ありふれた浮浪者のように、何も持たざる者の姿は、例えそれがまだ小さな少年の容姿をしていたとしても、誰も気に留めないように自然であった。
怒号と悲鳴から遠ざかり、かき消えるような小さな腹の虫を鳴かせる。入り組んだ『ダイダロス通り』を歩き続ける。濡れた石畳の上を裸足で踏みながら、まるで幽霊の如く音を立てない。より正確には、足音よりも雨が石畳を打つ音の方が大きかった。
己の体を抱きながら、今にも消えてしまいそうな頼りない足取りで、震えながら歩き続ける。安息の地に赴くために。生きるために、争いのない場所を求めて喧騒に背を向ける。
生への執着に、大層な理由なんてなかった。ただ生存本能に従っていただけで、守るものもなければ、拠り所にするべき場所もない。孤独に立ち、歩き続けることだけを強要された人間は、誰の目に留まることもなく彷徨った。
落ち着いた場所に出れば、そこに腰を下ろして石のように動かなくなる。
落ちていた襤褸のフードで身体も顔も隠して、俯いたままジッとその場で耐え忍ぶ。
お腹の中がキリキリとねじれるように痛みを訴える。
中身のない胃の中が、悲鳴を上げる。
口の中が物欲しさに唾液で溢れて、それを飲み込んで喉の渇きを誤魔化す。
動かない、何も思わない、何も考えない。
長く、もっと長く生きるためにはそうしなければいけないと。彼は無意識の内に察していたのだ。
彼が『ダイダロス通り』に身をひそめるのは、単純な理由。他の何処よりも目につかない場所で、誰かと出会う可能性が低いから。
何より、表通りにまだ少しだけ存在する、人々の営みを見ないためでもあった。
手に入らない物を目の前に吊り下げられることが、苦痛で仕方がない。
手に入れたいモノを眼前に見せられると、例え警備の目があったとしても、手を伸ばしてしまいたくなる。
彼は、それを努めて自戒した。
リング・ヴェーダは与えられた名前の意味に従って、決して悪に手を染めようとはしなかった。
それが生きるための窃盗であったとしても。家族が遺してくれた唯一の形見を思えば、餓死さえ厭わない覚悟があった。悪事に手を染めて生きながらえるくらいなら、恥じない自分で在り続けて死のうと腹が決まっていた。
生き残る努力はしよう。しかし、悪事には決して手を染めない。
それがどれだけ、今のオラリオの中で生き辛いことか。悪事に手を染めてさえまともに生きられない世の中で、お利口に生き抜くことが如何に無謀なことか。
彼の瞳は空っぽのまま、どこも見ていない。
生きる屍。そう表現して差支えのない、そこに居るのかさえ疑わしい希薄な気配。瞬きのうちに、霞となって消えそうな頼りなさで、ぼうっとしている。
そんな彼に転機が訪れたのは、それから一夜を明かしてのこと。
ずっと同じ姿勢のまま、はたから見れば起きているのか眠っているのか、それとも死んでいるのかさえわからない。そんな状態で眠っていた彼が意識を取り戻し、曇天の下、更に物陰に紛れ込んで喧騒から遠ざかる。そんな折の出来事。
ある一人の少女とすれ違った時。
「そこの君!」
彼はその声に足を止めることはなかった。緩慢に、今にも倒れてしまいそうな頼りない歩調で、どこかに向けて歩き続けた。
「あ、ちょっと待って待って!」
慌てた様子に、妙に明るい声が彼の神経を逆撫でる。
歩調に自然と力が入る。幽霊のようだった存在感に、色がついた。
ヤスリで皮膚を削られるような不快感を全身に感じながら、彼は路地の影にふらりと入り込む。誰も入り込まないような、暗闇の中を泳いで離れる。喧騒から逃げ出す。
曲がること十以上。複雑に入り組み、冒険者でさえ下手を打てば遭難してしまう『ダイダロス通り』の道を、彼は当たり前のように進み続ける。喧騒に追い立てられ、深く、より深く狭い通路を通り抜ける。
いくら動きが緩慢と言えども、『ダイダロス通り』の中をめちゃくちゃに進む彼を追う者は誰もいない。空が見えなければ方角さえ見失う場所。この曇天の最中、彼を追うことは遭難を意味するほどに危険なことだ。
静寂が訪れれば、彼は誰もいない場所に腰を下ろす。そしてまた、ぼうっと死んだように固まるのだ。
「ばぁっ」
そんな彼の目の前に、小綺麗な少女の顔がいっぱいに広がった。
彼は肩を大きく揺らすと、勢いのあまり後ろに顔を引き――その石の壁に後頭部を思い切り叩きつけて蹲る。
「えっ、あ、ご、ごめんね!? だ、大丈夫?」
「……」
少女に恨みがましい視線を向ける。その瞳の端には涙を溜めている。よほど痛かったのか、後頭部を手で押さえて歯を食いしばっている。
「痛いんだね? よし、よしよーし。痛いの痛いの、飛んでけー!」
「……」
彼はされるがままに、後頭部に置いた手に少女の手のひらを重ねられながら、そんな呪文を聞いていた。そんなことで痛いのが治るか! と視線を更に鋭く敵意剥き出しに睨み続ける。
「ごめんなさい。傷つけちゃって」
真っ直ぐ、視線を合わせて、少女は彼に謝罪を口にした。
あまりにも、その姿には芯が通っていた。心の底から反省して、謝罪をしている。
それは彼にとって――どうでもいいことだった。
善良な人間なのだろう。自分を傷つける意図はないのだろう。そうと分かれば、彼は自分の両膝の間に顔を埋めて、亀のように丸くなった。
謝罪されたとしても、痛みが引くわけでも、空腹が消えるわけでもない。
生き残るために、自分から謝罪する必要はあるかもしれない。下手に出て媚びへつらう必要はあるかもしれない。しかし、誰かから向けられる謝罪に、生き残るための力は欠片もない。
彼は、例えそれがどれだけ真摯なものであったとしても、パンくず程の価値さえ見出さない。腹が膨れる分、パンくずの方がずっと有意義だ。
「まだ痛いの?」
心配そうに声を掛けられるが、彼は答えない。答えるための体力を惜しんだ。
一貫して、彼は無反応な姿勢を崩さない。
「これあげる。きっと痛いの治るから」
ことん、と隣に置かれる音に、彼はわずかに顔を上げて視線を向ける。冒険者がよく扱うポーション瓶だ。水色の液体が中に入っている。
手に取って、鈍色の短髪の少女を見る。空のような澄んだ瞳が彼を見つめ返して、しっかりと頷いた。
彼はその蓋をとるや、グイっと一気に喉に触れるように液体を流し込む。生暖かい液体は、喉を潤すには十分な量だった。
すっかり潤った喉は、声を出せるくらいにはなっただろう。腹の奥に溜まった液体から、まるで力が溢れるように、空っぽだった体力が満たされていく。
「痛いの、治った?」
柔らかい。まるで羽毛に包まれているかのような声音が、彼の耳を通して頭を撫でる。それがくすぐったくて、振り払うように首を一度縦に振ると、また顔を両膝の間に埋めて動かなくなる。
「治ったんだね。よかった」
心の底から、少女は安心して声を出した。
彼は両の腿で耳を塞いだ。目を閉じた。暗闇と静寂に身を委ね、ジッと耐え忍んだ。
耐えて、耐えて……いつの間にか、意識を飛ばして。
次に目覚めた時、世界は心地の良い静寂と暗闇に包まれていた。
顔を上げれば、雪のように真っ白な月が仄かに地上を照らしている。彼はそんな優しい光を、ぼうっと見つめて、求めるようにその手を伸ばした。
「お月様が好きなの?」
その手が伸びきる前に、ピタリと止まる。
彼が自分の隣に目を向ければ、鈍色の髪の少女が、白光を受けながら微笑みを携えてそこに膝を抱えて座っていた。
希薄な瞳が、胡散気に歪められる。湿り気を帯びた視線が少女を見つめる。相も変わらず口は一文字に結んで、彼は膝の上に両腕を乗せて、その両腕の上に顎を乗せて淡く照らされる石畳を見つめた。
「私もお月様が好きなんだ。ほら、お月様ってすごく静かで、綺麗でしょ? ちょっと気分が落ち込んだ時とかに見てると、だんだんと心が静かになるから」
彼は少女の言葉の意味を理解しようとしなかった。右から左に聞き流して、考えることを一切合切捨て去って。ただただ、耐えていた。
「こんな時間まで外に居て、大丈夫? 夜は、とっても危ないよ」
その声は、最初に出会った時のような溌剌とした、太陽のような姿を潜めていた。とても穏やかで、震えもなく、落ち着いた声音。まるで、今まさに空に浮かぶ月のように、静かであった。
彼は、無意識のうちに頷いていた。
頷いてから、口をきつく結んで下を向いた。
「何かあったの?」
小さく、ほんの僅かに頷いた。
「迷子?」
思わず首を横に振った。
「そっか。私は迷子」
「……?」
少しだけ瞳をのぞかせて、少女の方を見た。
彼女は照れくさそうにはにかんで、困ったように頬を指の腹でかいていた。
「ここって、すぐに迷子になっちゃうから。実は、君を見つけた時から迷子だったんだ」
えへへ、と笑いかけてくる少女に、彼は肩を落とした。
そして立ち上がる。風に乗る雲のようにゆったりと、歩み始めた。
「あっ、どこ行くの?」
少女もすぐについてきた。横にピッタリと並んで、彼の様子を静かに見守る。
彼はそんな少女を気に掛けず、いつもとは真逆に進んでいく。
少女は、それから一言も言葉を口にしなかった。
ただ、懐かしい歌を口ずさんでいた。その旋律だけを口からこぼし、月明かりによく似合う音色を奏でる。
そんな声音も、しばらく進むと喧騒にかき消える。
路地裏の出口。少なくない影が往来する場所に続く道。
少女は、出口を見つめて目を丸くした。彼と出口を交互に見て、柔らかく微笑んだ。
「ちょっと待ってて」
少女はそれだけ言葉を残すと、出口に向かって一直線に走っていった。これ以上は待つ義理もなく、往来の足音と小さな声が耳をいじめる。耳の中に針でも入れられたかのような怖気が、背筋に走る。
彼は少女の言葉に従うことなく、踵を返した。ゆらり、ゆらりと今にも倒れそうなほど頼りない足取りで、足跡を重ねるように歩き出す。
「あ、待って待って」
しかし、少女は彼が路地を曲がるより前に戻ってきた。目の前に立ちはだかると、膝を折って視線を合わせ、「はい」と鼻孔をくすぐる熱々の紙袋を彼に差し出した。
「ありがとう。これ、お礼だよ。助けてくれて、ありがとう」
二度もお礼を重ねる少女。
そんな感謝の言葉よりも、彼は紙袋を手に取って、中身を確認した。
袋を開けた途端。ぶわっ、と湯気が溢れた。ほかほかの、美味しそうな香りが顔いっぱいに浴びせかけられ、鼻から喉にかけて溢れかえる。
その正体は、きつね色の衣を纏った食べ物が二つ。1個30ヴァリスの食べ物、「じゃが丸くん」であった。
「元気でね」
彼が受け取ったのを確認するや、少女はそう言い残して立ち去った。実際には手を振って、別れを惜しんでいたのだが。彼は今、その「じゃが丸くん」に釘付けになっていて、少女の姿など眼中になかった。
そして彼が次に動き出した時には、そそくさと小走りで路地の奥を駆け抜けた。何十と曲がり、入り組んだ道の中に静寂を捜して。求めた場所に腰を降ろせば、紙袋の中から取り出して、ぱくり、と口に含んだ。
じゅわっ、と溢れる油が口の中を満たした。目が覚めるような少なくない油が、口の中へ勢いよく溢れてくる。熱々の湯気がいっぱいに広がり、その風味が口中はおろか、鼻の奥から頭に直接、そして胃の中にまで充満して、身体が温かくなる。
「はぐっ、むぐっ」
鼻水を垂らしながら、彼は口を慌てて「はふはふ」と湯気を逃すように動かしながら噛みしめる。1個食べ終えれば、すぐに2個目を取り出して、また無心で大きくかぶりついた。
静かなる月夜の中で、幸せな時間はあっという間に過ぎ去った。
気づけば紙袋を片手に、月を眺めていた。
彼は、その紙袋を小さく分厚くなるまで折りたたむと、それを握り込んで離さなかった。
月を映したその瞳は静かな輝きを携えていた。
そんな出会いを皮切りに、少女との邂逅は増えていった。
「あっ、君! 奇遇だね。いつも此処に居るの?」
『ダイダロス通り』の奥深く、あるいは入り組んだ道を、静かな方に向かって移動し続ける彼と出会うことは非常に難しい。
それなのに、少女は度々、彼と邂逅を果たす。
「えっと、ちょっと大きなお家なんだけどね。すっごく飾り気がなくて、フードを被った怪しい人が出入りしていて、奥深くにあるみたいなんだけど。わかる?」
その度に、少女は道案内をしてほしいと囀った。
彼はそれに対して、分からないモノには無視を決め込み、分かるモノは先導した。
「今日もありがとう! はい、これお礼だよ。限定の『デラックスじゃが丸くん』!」
そして先導した後には、お礼が貰えた。いつもの紙袋を貰えば、彼はもう少女を視界に入れず、そそくさと『ダイダロス通り』の奥深くに走り出す。それを、少女が追うことは一度もなかった。
そんな日々が、しばらく続いた。彼が静かな場所に逃げ込む日がなくなるまで、続くかと思われた。
ある日のオラリオ。彼は『ダイダロス通り』を右往左往していた。
鼻につく僅かな香りから逃げるように、ずっと歩き続けていた。それでも、臭いから無縁な場所はなく、一番マシなように思えたその建物の前に出て、後悔する。
冒険者達がいた。
建物の前で女性冒険者が固まっていた。赤色、金色、桃色、真っ黒、青色、そして見覚えのある鈍色。
よくよく見てみれば、そこは少女を案内したことのある建物だった。
彼が息をひそめて様子を伺っていると、間もなく冒険者たちは建物の中に突入した。
そして漏れ出てくるのは、人々の怒号。悲鳴に絶叫。
何が起こっているのか、すぐにわかった。命を奪い合っている。鉄錆の臭いが強くなり、逃げてきた臭いが途端に酷くなっていく。
そんな場所に、あの少女が入り込んでいった。
「……」
来た道を振り向くと、鼻が曲がるような臭いに顔をしかめた。慌てて、身を隠すように建物の中に入ってしまえば、後の祭りだった。
臭いは未だに外から強烈に漂い、建物の中もまた鉄と乾いた臭いに溢れかえっている。
剣を交え、怒号が飛び散り、時折断末魔が響くその場所。
彼は慌てて柱の陰に隠れて、隙を見て木箱の影に隠れて。そうやって奥に、奥にとまるで追い立てられるように移動していく。合間を縫って、誰に見つかることもなく最深部に到達した。
その時さえ、すぐに陰に隠れて様子を伺った。
女性冒険者たちが、一人の女を追い詰めていた。口の端から裂けるように大口を開けて笑う女を見て、アレは関わっちゃいけない、と目の前が真っ赤に染まる。頭が沸騰するように熱くなり、けたたましい警鐘を鳴らす。
肌の上に熱が浮き出るかのような熱さが、全身を覆った。背中から汗が流れ始め、ようやく自分が「場違い」であることに気が付いた。
もう逃げよう、と踵を返そうとしたところで、視界の端に鈍色の髪の少女が見えた。
「っ!」
途端、むせ返るような臭いに喉を詰まらせた。
怪しいローブを被った子どもに、少女は歩み寄ろうとしている。
ダメだ、と本能が叫び散らした。
それでも、声が出なかった。咄嗟に口を開けても、スカスカの息だけが漂い、揺れすら起きない。
咄嗟に何かないかと地面を見回し、ポケットの中を漁り――固く折りたたまれた、「じゃが丸くん」の袋がポケットから出てきた。
「――っ!」
彼は、その「じゃが丸くん」の包み紙を柱の陰から投げた。綺麗な放物線を描いて、それは怪しい子どもの顔にこつん、とぶつかりほんの少しだけ、怯ませた。
だが、硬直したのは子どもだけではなかった。
「えっ」
少女もまた、あまりにも場違いなゴミの投擲に、目を丸くして固まった。
彼は咄嗟に柱の陰にしゃがみ込み、それでもそこから様子を見守った。
そして、視線が交差した。
彼と少女は、お互いを見つめて、時が止まった。
止まったのは、二人の間だけであった。
カチ、と小さな音のすぐ後に。
閃光が視界を白く染め上げ、轟音が頭を揺らし、衝撃が身体を痛めつけた。
気が付けば、天井を仰いでいた。
視界が半分真っ白に染まりながら、もう半分は確かに色を映していた。
首を横に傾ければ、鈍色の髪の少女が、倒れているのが見えた。
重苦しい身体を地面にこすりつけながら、彼は少女に手を伸ばす。這う這うの体で進みながら、瓦礫の降り注ぐ空間を進み続ける。
気づけばその足で立ち上がり、少女を背負っていた。
血だらけで、端正だった顔は半分焼け焦げていて、もう死んでいるように思えた少女。それでも彼は、それを置いて逃げることが出来なかった。
「……」
進んでいく。すぐ隣に大きな瓦礫が突き刺さろうと、構わず前に足を進めた。
鼻から吸い込む空気は熱く、喉を焼かんと熱をはらんでいた。それに構わず、思い切り鼻呼吸で喉を焼き、代わりにその熱を脚力にかえて立ち向かう。
そして、あと一歩。
あと一歩のところで、穴の開いた壁から脱出出来る。そんなところで。
天井から、瓦礫が降り注いだ。人体が耐えられる重量を超えた、瓦礫の山。しかし、目の前しか見えていない彼は、それに気づけず――
――とん、と彼はその背中を押されて。
一足早く、転げるように外に飛び出した。
そして、破砕音と共に建物が崩れ落ちる。
間一髪のところで、彼は建物から逃げ延びることが出来た。
「――えっ」
だが、背中の重みは消えていた。
大切なものが、背中からなくなっていた。
周りを見ても、どこにも落ちていない。
建物の奥は、もう瓦礫の山に埋もれて見通せない。
「あっ……あぁ……!」
手を伸ばした先は、もう崩れ落ちた後で。
非力な彼には、積み重なる瓦礫一枚さえ持ち上げることが出来なくて。
周りは逃げ惑う人々ばかりで、頼りに出来る誰かは当然居なくて。
外に出たことで、より濃くなった臭いに耐え切れず。
彼はとうとう、その場から逃げ出した。
フードを深く被り、闇の中に溶け込んで、聞こえる喧騒から少しでも遠く、離れていく。
在りし日の失敗。
感情はおろか、熱や痛みさえ切実に伝える。
思い出の悪夢は、間もなく覚める。
◆◆◆
悪夢から跳ね起きた。布団を蹴り飛ばし、額に髪の毛をべったりとはり付けて、荒い息が室内にやたら大きく響き渡る。
「クソっ……!」
神ヘスティアに出会う前の頃。オラリオの「暗黒期」の真っ只中で、身寄りもなく街中を放浪していた時の話。
あと一歩が間に合わなかった、在りし日の失敗。声を出せたなら。もっと早く歩けたなら、力があれば。諦めず、無謀ながら見捨てず瓦礫を撤去出来ていれば。
そんな「たられば」の多くが、自責の念となって降りかかってくる。
逃げなければ、変わっていた未来があるかもしれない。
それは今、まさしく直面してしまった問題に対しても言えることだった。
「今度は、立ち向かえって、言うのか、よ……」
声が震えた。血管に針を流し込んだかのように、全身が粟立つ。ぶるり、とあまりの怖気に己の体を抱いた。
「死ぬだろ……そんなこと、したら。死んじまう。倒せないで、何もできないで。意味もなく」
消滅の閃光を思い出した。
降りかかる巨石を知っている。
実力差などと言い表せない、隔絶した差を知っている。
1匹の蟻では、龍には勝てない。
それはもはや、絶対に覆せない生命体としての格差。
アレに挑むということは、死を意味することは誰よりも、相対した彼が一番よくわかっていた。
分かっているから、誰かに頼むことさえ出来はしない。
大鎌の冷たい刃が、首筋に触れているようだった。
いつ来るかも分からない相対の時。何処で出遭うかも分からない怪物の影。しかし、確実に迫ってきている足音。それらが頭の中に蛆のように恐怖となって湧いてくる。
もしもアレが、階層を上がってきているのだとすれば。
そんな妄想をしたところで、頭を掻き毟り嗚咽を漏らした。首を横に振り、そんなわけがあるか、と虚勢を張った。
「まだ、先のはずだ。そうだ、どのみち今来たら……終わりだ」
そして、目を背ける。
いつ来るかも分からないものだと。今考えたところで結果は変わらないと。相対したらもう終わりだと開き直って、浮上してきた問題を頭の隅に追いやった。
「――リング君!」
これからどうするべきか、ダンジョンに行くべきか、それよりも
現実逃避気味に、ほんの少しでも余計なことを考えられないように思考を高速回転させているところに、神ヘスティアの明るい声が飛び込んだ。
「ヘスティア、様ァ!?」
同時に、腹部に飛び込む主神の重みのせいで素っ頓狂な声が腹から飛び出した。溜まった空気を吐き出し切って、思わずむせる。そんな間も、神ヘスティアはその顔をうりうり、とリングの腹部に埋めていた。
「体調はどうだい? どこか怠いところとかあるかい? 苦しいところがあったら言うんだよ?」
「……腹が」
「お腹が空いたんだね? ならちょうどいい! とっておきの、ボクお手製の『じゃが丸くん』があるんだ!」
いやそうじゃない、とは言えなかった。
腹部の衝撃ばかりに意識が行きがちではあったが、彼が何かを言う前に「きゅるる」と腹の虫が鳴いた。
「すぐ戻るよ!」
と神ヘスティアは風のように退室して、一分も待たないうちに木枯らしのように戻ってきた。ぜぇ、ぜぇ、と肩で息をしている姿は、いかに全力で走っていたかがよく窺えた。
「こ、これ……ふぅ、ふぅ。これが、いつもの味。こっちの袋が抹茶小豆味。こっちがクリームで、こっちの大きいのが何と! お祭りなんかでしか出てこない、デラックスじゃが丸くんさ!」
成果を自慢する子どものようだった。
いくつもの紙袋を次々とリングの膝元に置いて、彼女は胸を張って口元を綻ばせている。空色の目は細く、その様子は猫のようにも見える。
「……いっぱい、ありますね。食べきれないかもしれません」
「ようし、なら一緒に食べようじゃないか! 久しぶりに、食卓を囲むんだ!」
「ここはベッドですけどね」
「対面して、隣り合って。一緒にご飯を食べれば同じ食卓さ! 細かいことは気にしない気にしない」
そう言ってベッドに腰かけると、神ヘスティアは普通の「じゃが丸くん」を手に取り、リングにもそれをひとつ取って手渡した。
「それじゃあ、いただきます!」
「いただきます」
男神タケミカヅチの教えに則り、手を合わせて食前の挨拶。まともな食事にありつけることの有難みを、彼はよく知っていた。
袋を開けてみれば、ほわっ、と熱い湯気が顔に拭きかかり、思わず目をつむる。鼻孔をくすぐる熱い香りが、鼻の奥まで入り込んで、素材の新鮮な風味が広がった。
一口かぶりつけば、カリッと子気味のいい音と食感が広がり、懐かしい味が口の中に広がった。素朴ながら、心の温まる味は熱さと一緒に口の中に充満して、思わず口を動かして熱を逃がした。はふはふ、と口を忙しなく動かしながら、夢中でその1個を食べきった。
「いい食べっぷりだね。作った甲斐があるってもんだよ!」
さぁじゃんじゃん食べておくれ! と、神ヘスティアが嬉しそうに言葉にするものだから、彼は次なる「じゃが丸くん」を、クリーム味を手に取り口に含んだ。
「……甘い」
思わず目を丸くして、愚痴るように言葉が漏れた。噛み口を見てみれば、そこからは金色の月のような色の、ドロリとした甘いクリームが入っている。乳の香りが熱い湯気にのって漂い、何とも言えない不均衡に口が一文字に結ばれる。
「そっちはスイーツみたいに出してるやつだから。……新商品さ」
「大盤振る舞いですね」
「そうだろうそうだろう? ボクたちの食卓は、これでいいのさ」
そう言いながら、神ヘスティアは抹茶小豆味を手に取り口にする。
慣れない味に唸りながら、リングはクリーム味を完食。最後、「デラックスじゃが丸くん」に手を伸ばして袋を開けたところで――食べ終わっていた「じゃが丸くん」の袋を手に取り、これを半分に割って、片方を神ヘスティアに手渡した。
「ん、ありがとう。えへへ、いいね、こういうの」
「はい」
自然と、リングと神ヘスティアの口元が綻んだ。
特別な「じゃが丸くん」を口に含めば、そのホクホクの湯気が香りと共に胃の中まで駆け抜けた。熱々の白米を口に含んだ時のように、潰した芋の香りに満たされる。湯気を逃すために口を動かしながら噛むうちに、じゅわっ、と旨味が溢れてくる。濃厚で熱々の肉汁が、口の中でシンプルな芋と合わさり、ひとつの料理として完成する。
柔らかく、美味しい小さなキューブ状の肉が中に入っていた。
質素とは口が裂けても言えない、御馳走が口の中で踊っている。
『今日もありがとう! はい、これお礼だよ。限定の「デラックスじゃが丸くん」!』
忘れようとしていた笑顔が、蘇ってくる。
たらればを語っても辛いだけだった。だから、もう二度と同じ過ちを犯さないために、尽くしてきた。
目の前の、彼と同じそれを頬張って幸せそうに笑っている女神を見ていると、心が温かくなって、その後すぐに冷や水を浴びせるように、過ちが蘇ってくる。
逃げた先に、失ったじゃないかと。戒めが訴えかけてくる。その通りだと、彼は何も言い返せない。
逃げなかったから、拾えた命があるじゃないかと、経験が訴えかけてくる。
あと一歩遅ければ、失っていた命があった。大切な、自分を救ってくれた恩人たちの中の、たった一人だけだったが。それでも、その手で救えた命はあった。
逃げた先に守れたのは、自分の命だけだった。
逃げ出した後に、大切な人はいなかった。
でも、立ち向かった先には、待ってくれている人がいた。
神ヘスティアもそうだった。
【ヘスティア・ファミリア】という新しい家族も、きっとこれから、大切なものになっていくだろう。
(……逃げて、自分だけ助かって。それじゃ、意味がない)
欲しかったものがこぼれ落ちたから、また新しいものを探す?
そんな居場所に、価値などあるものか。そんな場所で、自分が求めているものが手に入るわけもない。
彼が欲しいものは、純粋なものだった。与えられるしかないものだ。与えたから返ってくるモノでは意味がない。
少女との邂逅は偶然であり、神ヘスティアとの邂逅は奇跡である。
もう一度与えられたチャンスを、同じ過ちで失っていいのか。
――そんなものは、決まっている。
「ヘスティア様」
ジッと、神ヘスティアのことを見つめる。女神は、そんなリングの態度に「なんだい」と呑気に、いつも通りを装って返した。
「俺は――っ」
立ち向かう、その言葉が喉で詰まった。
死の怪物が、口を開けて笑っていた。
その獣が、嘲笑うように彼を見下しているようにさえ感じた。
首筋に冷たい悪寒が、一筋の風となって走る。
その一言を口にすれば、次の瞬間には首が飛んでいる。そんな幻覚が、閃光のように脳裏を過ぎ去る。
「俺はッ」
次の言葉が出てきたとき。
彼は自分が、まだそんな言葉が吐けることに、絶望した。
「――死にたく、ないっ」
ふざけるな、と心の奥底から火柱が立ち上がる。
憤怒が頭を染め上げ、目の前が真っ赤になるような錯覚に陥る。冷静だった思考が一息にぐちゃぐちゃになって、頭を抱えて蹲る。
そんなことが言いたいんじゃない。
決意を口にしたいんだろう。もう失わないために、命を賭して守り抜きたいんだろう。
この場所を失いたくないんだろう。だから、立ち上がろうとしたんだろう。
なのに、どうしてそんな自分勝手な言葉が吐き出せる。
その自分勝手のために、大切なモノを失ってきたことを忘れたか。
立ち向かわなかったら、どれだけのモノを失ってきたか、わかっているのか。
――分かっているのに、どうして言葉すら吐き出せない!?
死ななかった先に、確かにずっと希望は在り続けた。
だけど、この次にも希望があることに期待でもしているのか? そう考えているなら、一体どれだけ恥知らずか、わかっているのか。
自分の名前の意味を、履き違えるつもりか。両親が遺してくれた大切なモノさえ、捨て去る気か。
「大丈夫だよ」
蹲った彼を、女神は抱きしめた。
背中をさすり、頭を撫でて、柔らかい声音が降り注ぐ。
「リング君は、十分頑張ったさ。リング君の次に、ボクがわかってる。文句言ってくるヤツが居たら、ボクが叱ってやるさ。リング君の何を知っているんだ! ってね」
その愛情に、リングは涙を溢した。
肩を震わせて、力なくその身を女神に預けて。
「でも、リング君は納得してないんだよね?」
女神の言葉に、彼は強く頷いた。
「見届けよう」
力強く、女神ヘスティアが言い切った。
「君はこの【ファミリア】の団長さ。なら、団員のみんなが頑張る姿を、見届けるのも仕事の内さ。歯がゆいかもしれない。飛び出したくなるかもしれない。それが怖くて、目を背けて、自分が嫌いになっちゃうかもしれない。……それでも、リング君はリング君さ」
強く、彼のことを肯定する。
弱くていいんだと。それでも受け止める、と。
それに、と女神は言葉を付け加える。
「ボクたちは家族なんだぜ? なら、みんなで問題を解決するのって、当然じゃないか!」
パァ、と明るく言い切る女神に、彼は何度救われたことか。
ただ甘やかすだけでなく、そうして一歩でも前に、手を繋いで先導してくれる女神。その手に、何度導かれたことか。
「新しい家族がどれだけ凄いのか。しっかり見せてあげるよ」
だから、と女神は言葉を続けた。
「一緒に見守ろう、リング君」
リングが顔を上げれば、そこには得意げな微笑みを浮かべた神ヘスティアが居た。
根拠のある、自信に満ちた笑みだった。
支えられて、手を引かれて、転んでも受け止められて。
何があっても大丈夫。そう示した神ヘスティアに、彼は頷いて見せた。
「はいッ」
見捨てない。それ以外の決意を曖昧にして、一歩ずつ、ひとつずつ、確実に。
千里の道も一歩から。
支えられながらも、彼はその一歩を踏み込んだ。
難産でした。
感想や評価などお待ちしております