【ヘスティア・ファミリア】元団長 作:釜めしの素
火が灯る。
凍えた心身を温める、竈の炎。ゆらゆらと、心地の良い色合いが。パチン、と耳あたりの良いひかえめに弾ける音が、心を癒す。見つめるだけで落ち着く、平穏を象徴する主神の焔。
誰かが居るから、絶えず継がれる大切な火。あまりにも遠い、大切な場所。傷だらけの手を伸ばしても、決して届かない。
そんな大切な火を、取り囲む誰かたちが見えた。談笑しているのだろうか。竈を囲んでいるその楽しそうな姿を見て、どこか安心したような気分になる。竈だけが残されているわけじゃないんだと、ほっとした。
必死に走る必要が少しだけ、薄くなった。
代わりに、絶対に戻るんだという意思が、より強くなる。
いつか自分も、あの竈をもう一度、囲むんだと決意を燃やす。
己が主神に、面と向かって「ただいま」と言える。
そんな未来のために、まだ少し遠いその場所に一歩。
決意と共に、踏み込んだ。
◆◆◆
歌が聞こえた。
綺麗な旋律が歌声の名残をより際立たせる。それは、赤子をあやすような子守歌のように優しく。舞台に一人立ち、伴奏もなく歌う一流の
その美しい旋律の周囲に、雑音は一切ない。清々しいくらいの……いや、どこか重苦しい無音が、歌の背景を支配していた。
歌と背景は、どうしようもなく剥離していた。旋律が心を解し、背景が心を結ぶ。その違和感が頂点に達したとき、リングの意識は完全に覚醒する。自分が何をやっていたのか、意識を失う前の記憶を探りながら、五体を確かめ無事であることに安堵する。
そして、目を開けた。まず視界に入ってきたのは、魔石灯の光であった。
「……ッ!?」
弾かれるように飛び起きる。魔石灯は、間違いなく文明の利器であった。それがあるということは即ち、人間の生存領域に足を踏み入れた。その証左に外ならない。『
どちらにしても、絶望を真に超えたのだと、その心地に拳を握り締める。18階層以上であれば、彼のことを妨げるのは階層主のゴライアスだけだろう。そのゴライアスさえ、魔石を持った彼ならば容易に倒すことが出来る。
生き残ったんだ、とその瞳から大粒の涙をぼろぼろと溢す。あの地獄から。一体、どれだけの時間が経ったか分からないほど、冒険し続けて。死線を超えた数は数知れず。両腕につけた傷は五十。今だけは、腕につけた傷が誇らしく思えた。それは、彼が生きるために足掻いた証であり、彼自身が信念を守り抜いた、努力の証拠である。
やり切ったんだ、と両腕を見つめて、拳を強く、強く握りしめる。達成感に浸って、身をゆだねて。今だけは、安心してもいいだろう、と彼は倒れ込むように座ると、目をつむって歌声に耳を傾ける。
耳を傾けて――その旋律が、既に止まっていることに気が付いた。
「目覚めたノですね」
「……あぁ」
万感の思いを籠めて、リングは短く答えた。そしてふと、その片言混じりの声に、眉をひそめた。何かが違う、と本能的に察した。
「辛い夢ヲ見ましたカ?」
「いいや。……まだ見ない仲間が、家族が。うちの主神様を、家庭を。囲んでいる夢だった」
彼にとって、それはまさしく希望と勇気をもたらす夢だった。
仮に戻ったとしても、自分は一人じゃないんだ、と知らせてくれる吉報であった。直面した最悪の後には、最高の結末が待っているんだと。それだけで、もうちょっとだけ頑張れる。思い出すだけで、また一歩を踏み込む力をくれる。
「それは、よかった」
「あぁ。本当に、良い夢――」
眩しいくらい綺麗な泣き笑いを浮かべて、リングは声の方を見て。
――その瞳をドロリ、と一瞬で汚泥の如く濁らせ、表情が抜け落ちた。
「夢は、夢ってか」
緊張の糸が固く結ばれる。常在戦場の意識が呼び起こされる。生き残る、ということに全力を注ぐ。カチリ、と彼の中で音が鳴るように、全てが切り替わる。
涙は途切れ、視線は鋭く。重く腰を据えて、彼は目の前の――微笑んでいたレイのことを見た。その奥に控える、様々な怪物たちの姿も見た。その中には、見知った猛牛も堂々といた。
「ここは何処だ?」
「……ここハ、我々ノ家です」
「そうか。ダンジョンか? ダンジョンなら何階層だ?」
「ダンジョンです。二十階層ノ中ニあります」
「二十……二十!?」
リングは思わず素っ頓狂な声を上げた。二十階層と言えば、あと二階層上がれば『
「一体、どれだけ……いや、今はいい。今も話をしているってことは、後ろの奴らも、殺し合いたいわけじゃない。そういう認識でいいんだな?」
「もちろン」
「ならいい。それで、俺に何を求める? 地獄のことなら幾らでも話してやる。魔石が欲しいなら、幾らか融通は出来る。使い走りにしたいなら、一回くらいなら請け負ってやってもいい。殺しはなしだ」
さばさばと、リングは要件を聞く。早く地上に帰りたい、という欲求はある。しかし、知っている階層まで運んでくれた恩もある。そして、こんな場所に連れてきた以上、何かしらの要件があることは明白だ。まさか完全に善意、とは言わないだろう。
一体、どんな要求をされるのか。彼は静かに、ジッとレイのことを見つめていると。
「まぁそんな身構えるなって! オレっち達はただ、人間と仲良くなりたいだけなんだ」
お気楽で、快活な声が聞こえてくる。レイの後ろから、がはは! と大口を開けて現れたのは、ぬらりと輝く赤緋色の鱗を外皮に持つ、
「お前は?」
「オレっちはリド!見ての通り
蛇のような瞳がジッとリングのことを見つめる。疑心の瞳、ではなかった。心なしか緩められた目元は、彼のことを気遣っているようにさえ見える。
「お前はリング、で合ってたよな?」
「合ってる。それがどうしたんだ」
「これから『リグっち』って呼んでもいいか?」
意図が読めなかった。
親しみを込めて名前を呼ぼうとしていることはわかる。しかし、リドという蜥蜴人が何を思って、これだけ距離を縮めようとして来るのか、彼にはわからなかった。
「……お前たちは、そういう文化でも持っているのか?」
「ん? そういうって?」
「あだ名を付けることだ」
「それはオレっちの個性だな!」
自信を持って胸……いや、胴体だろうか。それを張って上体を反らすのは、無駄に人間らしい動きだと言える。やっぱり、こいつらは元人間では、と疑念が頭の中に残る。
「……好きにしてくれ」
「おう! よろしくな、リグっち!」
「短いだろうけど、よろしく」
リドはそう言って、リングの目の前にまで来ると手を差し出した。
彼はその手を当たり前のようにとり、握手を交わす。
リドはリングに握手された途端、肩を揺らした。瞳が驚きに細くなり、しばし茫然とした。
「その爪立てないでくれよ」
「……そりゃ当然! なんたって、オレっち達はもう友達だからな!」
リドの宣言に、わぁぁ! と割れんばかりの、小さな地震かと勘違いするほどの歓声が上がった。直後、地を鳴らして彼を取り囲む輪が形成されて、彼はその勢いに思わず身を引いた。引いた途端に後ろにまで回り込まれて、逃げ場を失う。
一歩間違えば、絶体絶命、
ひとしきり挨拶を終えた後。
待っていたのは、要件を伝える真面目な話し合い――
「それじゃあ、人間、リグっちとの交友記念! 新たな理解者の誕生に、乾杯!」
『かんぱーい!』
――などではなく、飲めや歌えのどんちゃん騒ぎ。即ち、宴会であった。
どうしてこうなった、という思いは多分にある。要件早く切り出せよ、と焦る気持ちも少なからずある。
しかし、こうも嬉しそうに歓待をされては、それを遮って機械的な遣り取りだけ行うのは、野暮だと思った。言い訳のように、二十階層まで運ばれ時間短縮出来たことを考えれば、と考える。
そして何より、彼が腰を落ち着けたのは――急いで帰る必要が薄くなったから。
夢を見て、主神は一人じゃないのかもしれない。いや、一人じゃないのだ。夢を現実のものに落とし込んで、その希望に縋った彼は、あくまで息抜きとして腰を落ち着ける。
どのみち、宴会など半日にも満たない。たったそれだけの時間に、カリカリする必要もない。焦りは隙を生み、やがて致命的な失敗に繋がる。ならばここが身体の休め時なのだと。
そんなこと、何度も自身に言い聞かせた。
宴に出された食べ物は、驚くほど美味かった。
出された酒は、久々ということもあり瞬く間に顔が赤くなり、酔っぱらった。
気が大きくなったり、小さくなったり。様々な理性的な怪物たちと話しながら。
その話題に切り込んだのは、リドからであった。
「それにしても、リグっちはオレっち達に全然怖がらないよな。普通、ちょっと躊躇ったり、問答無用で攻撃してきたりされるんだけどな」
「そりゃあ、もっと怖いもの見てきたからだ。お前たちなんて、豆粒だ。豆粒。あと、言葉を交わして目を見ればわかる。あそこで仏頂面してる牛よりもずっと分かりやすい」
「豆粒って……オレっち、この中でも一番強い、って自負があるんだぞ」
「どうせ豆粒だ。あの化け物見たら、お前の自信だって粉々だろうよ」
「45階層くらいならオレっち一人で行けても?」
「その倍くらい潜って出直せ」
かーっ、手厳しい奴だな! とリドは目の上あたりに手を当てて、おどけたように叫んだ。
怖がらない理由だけはよくわかった。だからこそ、リドはそんな反応を返す以外に、出来ることがなかった。
リドは少ない交流ながらも、リングがある種「同類」なのだと察した。詳しくは聞いていない。来歴だって、ただ下から来た、ということしか知らない。しかし、飢えているのだと、それくらいは明確にわかる。自分たちが、そうであったから。
遠巻きからその様子を見る者たちも、口を挟もうとはしなかった。
本能的に、その箱を開けてはならないのだと察して、努めて口を閉ざしていた。
「あぁ、そうだ。レイ、もう一度、歌を聴かせてくれないか?」
酔っ払いとは無敵なのか。それとも、殺し続けた地の性格が表に出てきただけなのか。察している、遠慮している相手の意図など構わず、雰囲気に流されず、呑気にして大胆に声をかける。
「約束、でしたカ」
「そうだ、約束。約束。やっぱ、綺麗な歌は宴の華ってね。荒々しい野郎の喝采もいいけど、今は華の気分なんだ」
レイはちらりと、周りの同胞を見ると、誰もが頷いて、あるいは「ウタッテー!」と声を上げて、彼の言葉に同意する。
自然と、彼女はその顔を綻ばせ、頷いた。
「わかりましタ。約束ヲ果たすため、宴ニ彩ヲ添えられるように。……気合ヲ入れましょう」
立ち上がり、歩みだしたのも三歩目にふわりと跳躍し、音もたてず宴の中心に降り立った。片翼を胸に、もう片翼を大きく広げて。
「歌いましょう。今宵ノ出会いニ、交友ニ、祝福ヲ込めて」
そうして紡ぎだされた歌声に。
リングはあっさりと泣き出して、おいおい、とリドに背中を軽くさすられながら、それを最後まで、しっかりと聴くことになる。
それは、宴の席に似つかわしくない、子守歌のような静かな曲であった。騒ぐための歌ではなく、その雰囲気に酔いしれるための歌。
酒が沁み入るように、歌が心に沁み込んだ。数々の地獄の様相も忘れて、今だけは、その幸せに没頭することが出来た。
不快感は奔らない。
ただ、懐かしくて、苦しくて。地上に向けた憧憬を強くして。そんな想い全てを、身勝手に委ねることが出来るような、そんな心地に浸りながら。
歌をひとしきり聞き終えた彼は。
泥のようにまた、眠りにつくのであった。