【ヘスティア・ファミリア】元団長 作:釜めしの素
奈落が、口を開けて彼を地の底に誘う。
奇跡的に、あるいは作為的に。彼はダンジョンの中でモンスターと出会うことがなかった。まるで誘いこんでいるかのように、あらゆる障害が取り払われている。
獣に、見られている気さえした。
「――ッ!」
『死の臭い』が、階を降りるごとに強くなっていく。18階層を超えれば、もはやその臭いはむせ返るほど濃いものとなった。目に染みるほど強く、枯れた筈の涙が、とめどなく溢れてくる。
「『慈悲をくれてやる。ただ一撃のもとに消え去るがいい』――『ブラフマン・シャクティ』!」
一度目の歌を以て、その手に槍を持つ。19階層に降り立ち、頭が締め付けられるような苦しさに肩で息をしながら、それでも彼は全力で駆ける。
「『慈悲をくれてやる。ただ一撃のもとに消え去るがいい』――『ブラフマン・シャクティ』!」
再度の詠唱。
しかし、彼は破壊の大魔法を繰り出したわけでも、もう一本、槍を生み出したわけでもない。
代わりに――彼の額に虚空が裂けるようにして現れ、そこにギョロリ、と第三の目が生まれる。
それこそが、彼が【
第三の目は、当然ながら装飾やただのファッションではない。
それは、彼の身体能力を。感知能力を。あらゆる『ステイタス』を昇華させる。ともすれば『
【
彼の魔法。『ブラフマン・シャクティ』が持つ三つの力によるところもある。
一つ目は単純明快。地形を変える、消し炭にするほどの大魔法の行使。あるいは、威力を絞った攻撃魔法として応用することもできる。
二つ目は、魔法の武器を生み出す神秘の力。
そして三つ目、『
三位一体の力こそが、彼の魔法『ブラフマン・シャクティ』の正体である。
十全に使う代償は、彼には到底支払うことのできない多大な『
その内二つ……常時発動するのであれば、一番消費の重たい『
第三の目が、ギョロリと周囲を見回す。駆けながら、「ここじゃない」という結論に至るのは、20階層へ通じる道に到着するのと同時であった。
そうして20階層に降りれば、また同じように、次の階層に向けて全力で走る。
『
奈落を生き抜いた力に、彼は全幅の信頼を置いていた。
感知範囲は、階層を補えるほど広くはない。しかし、階層を駆け抜ければそのほぼ全域を把握出来るほどには、優れている。
彼の進んだ後には、多くの灰が舞う。魔石が、その力を失い減っていた。
24階層に降りた時、その死臭は彼の鼻を容赦なく突き抜け、頭を大きく揺らすような衝撃をもたらした。
それを例えるなら、屍の山の上に立たされているような。あるいは、火葬場に赴いた時のような。重たく、沈み込んだ空気が漂っている。嫌に乾いたダンジョンの香りは、骨粉を想起させるほど不吉なものであった。
「『慈悲をくれてやる。ただ一撃のもとに消え去るがいい』――『ブラフマン・シャクティ』――ッ!」
三度の行使。さらなる『ステイタス』の昇華を以て、第三の目を使い、類を見ない高速探索が行われる。
彼の視界は今、二つに割れている。
彼が生来より持つ瞳は、高速移動下においてもダンジョンの様子をつぶさに観察し、わずかな変化さえ逃そうとしない。色の具合、部屋の損傷具合、足跡から、情報を吸収し、次に辿るべき順路を割り出していく。
彼が生み出した第三の目は、階層の壁さえ突き抜けて、色を映し出す。冷たく無機質な水底のような色が大半だが、時折冒険者らしき橙色が人型を象り、モンスターらしき魔石は紫色に淡く輝く。モンスターは決まって、ほとんど水色か真っ赤かといった、極端な色合いをしていた。
――そして、程なくして彼は見る。
冒険者たちらしき、人型の橙色を見る。次々と消えていく、紫色の光を見る。紫色を内に、外側を象っている色は青白く、蜘蛛の身体から人の上半身を生やす
(数が少なすぎる――不味いッ!)
彼は更に加速する。その身に刻まれた恩恵を、残り火と思い込んでいるそれを遺憾なく発揮し、風さえ置き去りに、時にダンジョンの壁さえ走破する。
大魔法を以てダンジョンの壁を諸共破壊すれば、目標の居る広間が崩落する恐れがあった。そうなれば、よくて生き埋め。悪ければ即死。最悪――また、あの奈落が大口を開ける。
「『慈悲をくれてやる。ただ一撃のもとに消え去るがいい』」
歌を口の中で転がした。魔力を第三の目に押しとどめ、その魔法を発動する寸前に維持し続ける。
広間への道の直線に到達した。
その瞳が捉える。嬲られる
口から溶解液を吐き出し、その腕を振るって冒険者を払いのけ。
冒険者の白刃が迫る中、それでも気丈に抵抗をし続ける彼女は。
「――貴様等にッ、この身を辱めることなど許さない!」
続く言葉は、どこまでも気高く、己を貫こうとする。意志を貫き、やり遂げようとする、最後の輝きを放っているようにさえ見えて。それが、彼にはどうしようもなく恐ろしくて。
あと、数歩。
冒険者たちは、彼に気づいていない。彼女の影になっていることもあって、気づかれていない。
――間に合えぇぇぇッ!
心が叫ぶ。魔法の戒めを解き放つ。
第三の目に、閃光が集まる。破壊をもたらす光が溜まり――
「『ブラフマン・シャクティ』ッ――」
リングが広間に飛び出した。
第三の目から閃光が飛び、その天井を、冒険者と彼女を分断するように正確に崩落させた。
……同時に。
彼女は自らの腕で、己の血肉を貫き破った。
「グロ、ス――あとは」
空になった魔石の入ったポーチを投げ捨てると、その中に残った灰だけが宙を舞う。
瓦礫が降り注ぎ、冒険者たちの視界はより一層悪くなる。
そんな中でも、止まらない彼女の腕を、その身体を。
「死ぬなッ!」
彼は掴み取り、昇華された『ステイタス』の暴力に身を任せ、彼女を抱きかかえて。その耳元で、力強く、血反吐を吐くように。懇願するように。彼女にだけ聞こえる声を上げ。
リングは、
「生きろ、諦めるな。あと少しだけ、耐えろッ! 生きてりゃどうにだってなる。どうにだって出来る。だから、生きろ。仲間が、待ってるんだろ!? 帰る場所があるんだろ!?」
強く、強く。
彼女の手を握り締め、その身体を決して離さず。彼は一息つける区画。背負うもののない袋小路に出たところで、彼女をそっと降ろし、槍も手放し、その目を見た。
「――お前、は」
白かった目は、化け物を表す黒色に染まり、瞳の中央は血のように真っ赤に染まっている。まだ、その瞳は光を失っていない。生きている。
彼は慌ててポーチのひとつを手に取り、その中から――魔石をありったけ取り出した。
奈落より持って帰った、怪しき光を持ち、その奥に焔のような黒い魔力を内包させる魔石を。
彼はそれを、彼女の空いている手に握らせる。
「食え。魔石だ。奈落から持って帰った、魔石だ。食わなきゃ、その傷じゃ、死んじまう。頼む、食ってくれ……!」
引き留めるように、リングは彼女の肉体に埋もれる腕を引き、その目を見つめて、懇願する。今にも額を地面に叩きつけそうなほど、鬼気迫った様相。
その姿は、あまりにも格好悪かった。弱者の命乞いのように無様で、死の恐怖に怯えて泣き叫ぶ人間と同じように顔を歪めて。とても、敵だとも、味方だとも。脅威だとも、思えない。全てを奪われた敗者の姿。
少なくとも、
見覚えのある顔だ、とも思った。
手に握らされた魔石に視線を落とすと、その力の奔流に気圧された。今まで見たこともないような、恐ろしい魔力が籠っている。見ているだけでわかる。自分では、どうやっても勝てないような化け物の魔石なのだと。小さくとも、その質に間違いはないと。
これを食べれば、また戦うことが出来る。
もっと強くなれる。
あの人間たちから――同胞を、取り戻せる。
その確信に至ると、彼女は自分の肉から手を引き抜き――そこから血が溢れるが、構わなかった。
リング……人間が慌てて止血を試みようとしているようだが、彼女はそれを一瞥するだけで気にも留めない。
――三粒。
血に濡れたその手で摘まむと、彼女は迷うことなくそれを口に含み……飲み下した。
変化は、一瞬で訪れる。
腹の中に魔石が落ちた瞬間、下半身の節足から蜘蛛の胴体にかけて、奔るように禍々しい紫色の文様を浮かび上がらせる。
胃の中が沸騰するように熱くなるが、不思議と不快なものではなかった。腹部の自傷は瞬く間に塞がり、彼女を濡らす赤い血は止まっていた。
折れた腕と節足は、すぐに完治することはなかった。
しかし、その内側から蠢くような感覚があることを、彼女だけが知覚していた。より強く、今まさに強化されようとしているのだと、理解する。モンスター特有、階位昇華の変調が、煩わしいくらい伝わってくる。
「生きてるよな? 間に合ったんだな!?」
「……うるさい。静かにしろ」
「――よかった」
頬にくすぐったさが走る。不意打ちのような行動に、彼女は目を見開き、ついで視線を彼に落とした。
「ほんどうに、よがっだ……」
その人間は、泣きじゃくっていた。
彼女にはばかることなく。安心したように目じりを緩めながら、その顔を老人のようにしわくちゃにして、不細工な顔で、泣きぐずるのだ。
その姿に、彼女はどうしていいのか分からなくなった。
敵や色目を使ってくる輩であれば、この場であっても殴り飛ばしていただろう。
偽善のように、上から「よかった」などと言われて抱きしめられたのであれば、その顔面に容赦ない拳を飛ばしただろう。
だが、違うのだ。
目の前の人間は、どうしようもなく弱々しく。彼女を救った張本人であるのに……まるで、自分が救われたかのように。安心したように泣き出して、我がことのように喜んで、心の底から延々と感情を垂れ流している。
彼女を抱きしめている手というのも。どちらかといえば、縋りつくに近い。壊れモノを扱うような力ではない。絶対に手放さない、という。宝物を手放そうとしない幼子のように、しがみついてくるのだ。
「――生ぎででぐれで、ありがどう――ッ!」
この人間は、どうしようもない奴なのだと、彼女は結論付けた。
どうしようもなく、かわいそうな奴なのだと思った。情けのない奴だと思った。あまりにも小さい子どもなのだと思った。
レイの言っていたことに、彼女は共感を覚えた。
生まれたばかりの同胞――なるほど、確かにその通りだと。
その通りではあるが。
違うところも、またあるのだと、そう思う。
高揚する気分。熱くなる胸の内。温かく緩む感情。
それらは全て、魔石を食べたことによる影響なのか。
それは誰にもわからないが。
「いつまで、泣きじゃくってる。いい加減離れろ……ええい、鬱陶しい! さっさと離れろ!」
どうしようもない奴に助けられた事実を彼女は受け止めて。
怒りの炎の指向性が揺らぎ――カチリ、と何かが変わる。
分水嶺に立っていた彼は。
その手を寸前のところで届かせた。
みっともない姿をさらして、とても英雄とは思えない格好の悪い姿ばかりを見せつけて。
それでも、彼の信念に。その想いに揺らぎは――ただの一度もない。
火を継ぐのだ。
その灯を、彼は確かに引き継いでいる。
奈落に落ちてからこの方。
ようやく成功した彼の火種は。
今、確かに煙を上げて。
弱々しくも、ゆらゆらと、小さな火を灯すのであった。
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