ARIA The PIACERE 3 その素敵な出会いの先に 作:neo venetiatti
灯里は、その日一組目のお客様を迎えていた。
「お手をどうぞ」
男女のカップルだった。
彼女の方がゴンドラに座るなり、灯里に話しかけてきた。
「ねえ、ウンディーネさん?」
「はい、なんでしょうか?」
灯里は彼氏の方をエスコートしながら、それに応えた。
「わたし、ネオ・ヴェネツィアのこと、あまり詳しくないんだけど大丈夫かしら?」
すると彼氏が座席に腰掛けながら彼女の方を見た。
「えっ、そうなの?なんか、知ってる風なこと言ってたけど」
「別に知ってると言ったわけじゃないわよ」
「違うの?」
灯里は、二人がゴンドラに乗り込んで、いきなり雲行きが怪しくなっていることに戸惑いを隠せないでいた。
「あ、あの、お客様?お詳しくなくても大丈夫ですよ。こちらでネオ・ヴェネツィアの名所・旧跡など、いろいろとご案内することはできますので」
「そうだよね」
彼氏が納得したように言った。
「あっ、そうだ!」
彼女の方がいきなり声を上げた。
「は、はい!なんでしょうか?」
「行きたいところがあるのよ」
「どちらまで?」
「あそこ!ため息橋!」
「はい、かしこまりました。それでは、ため息橋を巡りつつ・・・」
「ああ、どんなため息をつくのかしらね!」
「えっと、そうだっけ?」
喜びに満ち溢れた彼女の横で、彼氏がポツリと呟いた。
「何?どういうこと?」
「はひっ」
「確か、そういうことじゃなかったと思うよ。ねぇ、ウンディーネさん?」
「まあ、それは、諸説いろいろと申しますか・・・」
「僕が以前聞いたのは、罪人だか処刑人だかが・・・」
「ちょっと待って!なんでそこで罪人とかが出てくるわけ?ため息が出るほど素晴らしいということに決まってるじゃない?ねぇ、ウンディーネさん?」
「史実は史実。それとこれとは、また別だよ。ねぇ、ウンディーネさん?」
「何よ、それ!ああそうですか!歴史にお詳しいんですね!」
「ああ~いやぁ~その~ですから~」
灯里の目の前でふたりは、それぞれ別々の方に顔を向けてしまった。
「あの~お客様?せっかくのご旅行ですので、ここは仲良くされてはいかがかと・・・」
灯里の声に全く何の反応もない。
「こんなふうにネオ・ヴェネツィアで過ごされる時間は、今だけの、大切なものなわけで」
灯里は、どうしたものかと、ため息をついていた。
だが、そこで小さく「よしっ」とつぶやいた。
「お客様?」
ふたりは灯里の問いかけに、何気なく振り返った。
「もしよろしければ、お客様のかけがえのない時間を、私に少し預けていただけないでしょうか?」
「預ける?」
ふたりは呆気にとられた表情で、笑顔満面の灯里の顔を見上げていた。
「ご満足いただけること、間違いないです!」
ゴンドラはカナル・グランデを進み、リヤルト橋をくぐると、その少し先で狭い運河へと舵を切った。
灯里は周囲の状況に十分な注意を払いながら、狭い運河を縫うように進んでいった。
そこは、観光地という印象とはほど遠い住宅街の中だった。
「ここは、どこ?」
彼女は思わず小さな声で、その言葉を口にしていた。
だが次の瞬間、すぐに表情が変わった。
「かわいい!」
運河沿いに続く塀の上を、親猫の後ろに何匹もの子猫が続いて歩く光景に出くわした。
彼氏が急いでバッグからカメラを取り出すと、シャッターを切った。
その音に驚いたのか、猫の一団は角を曲がって姿を消した。
その様子に残念そうにしていたふたりだったが、彼氏が見せるカメラのモニター画面に、彼女は嬉しそうに見入っていた。
そのまま進むと、今度はあるアパートメントの前で止まった。
灯里が窓越しに中へ声をかけると、中からおじさんが顔を出した。
灯里はそのおじさんに、手を添えてなにやら耳打ちした。
すると、おじさんは中に引っ込んでしまった。
カップルのふたりは、その様子をポカンと見ていた。
しかし、再び登場したおじさんの手には、いくつかの花でこしらえた、小さな花束があった。
「こちら、花飾りの工房なんです」
灯里はポカンとしているふたりに笑顔で説明した。
彼女はおじさんから、その小さな花束を受け取った。
「いいから、持っていきな」
目尻にたくさんのしわを作った笑顔で、おじさんはそう声をかけた。
「ありがとう」
彼女はそう言うと、優しい笑みを浮かべて、その花束を見つめた。
「それ、造花?」
彼氏の問いかけに、彼女はキッとにらんでみせた。
「ご、ごめん」
灯里は少々焦りながら、苦笑していた。
そのまま狭い運河を進んでいると、大きなシーツが上空から落ちてきて、ふたりの上に被さった。
「うわっ!」
「な、なに?」
「あわわわ~」
灯里はその光景にうろたえるしかなかった。
「灯里ちゃーん、ごめんよー!」
アパートメントの3階の窓から女性が下を覗いていた。
「だ、大丈夫ですか?」
「まあ、一応大丈夫だけど」
ふたりは頭から被っていたシーツを剥ぎ取りながら応えていた。
「大丈夫だったかーい?」
「大丈夫です!後でお届けしまーす!」
「悪いから、今から行くよー!」
「はい!」
灯里はゴンドラを岸に寄せた。
「すみません。とりあえずお渡ししてきます」
ふたりから受け取ったシーツをたたんだ灯里は、下りてきたおばさんにそのシーツを手渡した。
すると、今度はおばさんの方から灯里に大きな紙袋が手渡された。
チラッと中を見た灯里はニッコリと微笑んだ。
「ありがとうございます!」
ゴンドラまでもどった灯里は、カップルのふたりにその紙袋の中から大きなリンゴをひとつ取り出して見せた。
「おばさんが迷惑かけたからって、いただきました!」
リンゴを受け取ったふたりは、その大きさに驚いて顔を見合わせていた。
「それじゃあ、お言葉に甘えていただきまーす!」
彼の方ががぶりと一口食べた。
「美味しいー!」
それを見た彼女のほうもがぶりと食べた。
「ほんと、おいしいー!それに甘ーい!」
「ほんとだ。蜜がすごい!」
ふたりは満足げにリンゴをほおばった。
笑顔でゴンドラに乗り込んだ灯里に彼氏が振り返った。
「ウンディーネさんも食べたら?」
「あ、でも私は仕事中ですので・・・」
「せっかくだから食べなよ!おいしいよ!」
「はあ」
灯里は、どうしようか迷っていたが、がぶりと一口食べた。
「ほんと、おいしいー!」
「でしょ?」
三人は、部屋に戻ったおばさんが、またベランダから顔を出したところへ手を振って返した。
「おばさーん、ありがとうー!」
「おいしかったよー!」
おばさんはバルコニーから手を振って応えた。
そこからは、ネオ・ヴェネツィアらしさを感じられる名所へと舵を切った。
そしてしばらく建物の密集する運河を進むと、両岸の建物の壁から伸びてつながっている橋が前方に見えてきた。
「お客様、前方に見えるのが、ため息橋です」
灯里のその言葉にふたりは同時に顔をあげた。
「これが」
「ためいき橋」
「この橋は、その昔、マンホームのヴェネツィアで刑の宣告を受けた罪人が、この橋を渡って監獄へと向かったと伝えられています」
「ほら、やっぱりそうじゃないか」
彼の方が納得したように言った。
彼女は怪訝な表情になっていた。
「その時、罪人は橋の窓からアドリア海を目にして、あまりのその美しさにためいきをついたそうです。もうこの美しい光景を目にすることは出来ないのかもしれないと」
二人は黙って灯里の言葉を聞いていた。
「いくら後悔をしても、もう二度と戻せない時間。罪をおかした人にも後悔させるほどのヴェネツィアの風景。いったいどんな風に見えていたのでしょう」
ゴンドラはそのまま進み、運河の端まで来ると、そこにかかる橋をくぐった。
すると目の前の視界が一気に大きく開けた。
「きれい!」
「すばらしい!」
遠くまで広がる海。
きらめく波が眩しく、二人は目を細めてその目の前の光景に圧倒されていた。
そして、風が心地よくゴンドラの上を吹き抜けてゆく。
「お客様、正面に見えるのが、サン・ジョルジョ・マッジョーレ島です。あの鐘楼からは対岸が一望できて、とても素敵な風景を見ることができるんです。絶好の観光スポットとなっていますので、一度行かれてみてはいかかでしょうか」