ARIA The PIACERE 3 その素敵な出会いの先に 作:neo venetiatti
午後からのもう一組のお客様は、年配のご夫婦だった。
少しふくよかな婦人と、スラッとしたご主人。
「足下にお気をつけください」
「ありがとう」
灯里の優しい言葉に、婦人はにっこりと笑顔を返した。
「ご主人様もお手をどうぞ」
「悪いねぇ」
にこやかな笑顔で、灯里の手を支えにゴンドラに乗り込んだ。
「水の上は少し冷えますので、これをお使い下さい」
灯里は用意したブランケットを、並んで座っているふたりに膝の上にかけた。
「まあ、これはこれは。気を使って頂いてありがとう」
「どういたしまして」
灯里は、寄り添うように座るふたりの姿に、自然と笑みがこぼれた。
「それでは出発します」
ゴンドラは海の上を滑るように動き出した。
「お客様、お望みの観光スポットなど御座いましたら、何なりとお申し付けください」
「そうねぇ」
婦人はそう言うと、少し考えるように間を置いた。
「あそこを是非お願いしたいわ。大きな風車がたくさん並んでいるところ」
「それなら、おそらく希望の丘だと思います」
「そういう名前だったかしら。高いところからネオ・ヴェネツィアが一望できて、とても感動したのを覚えてるわ」
「かしこまりました。それでは、ネオ・ヴェネツィアの名所をいくつか巡りつつ、最後に希望の丘へ向かうというコースでいかがでしょうか?」
「それでお願いするわ」
灯里は改めて舵をぐいっと切った。
改修中のカ・ドーロやマルコ・ポーロの生家を復元した建物など、観光名所と呼べるところから、生活が息ずくアパートが密集した地域など、ネオ・ヴェネツィアの異なった表情が楽しめるようなコースをたどっていった。
そして、リヤルト橋を通過してカナル・グランデを抜けると、のどかな田園風景が広がる地域へとゴンドラを進めた。
緑に囲まれた中に、水路が遠くまで延びている。
途中、風が心地よく通り抜けてゆくところに差し掛かると、灯里はゴンドラを止めた。
「少し休憩いたしましょう」
灯里は足元に置いていたカバンからポットを取りだし、用意していたカップふたつに紅茶を注いだ。
「まあ、いいのかしら?こんなにしていただいて」
「はい。お口に合うかどうかわかりませんが・・・」
婦人は紅茶を少し口に含むと、ほっこりとした表情になった。
「やさしい味ね。とってもおいしいわ」
そういう婦人の横で、ご主人は微笑みながらゆっくりとうなずいていた。
「ウンディーネさんにも休憩は必要よね。ゆっくりしてちょうだいね」
「あ、いえ、私のことは別にお気になさらなくても」
「そんなことないわ。一緒にお茶しましょ!」
「はい!」
灯里はもうひとつカップを取り出すと、ポットの紅茶を注いだ。
「それでは失礼していただきます」
「どうぞ。でもあなたが入れた紅茶よ。私が“どうぞ“っていうのもおかしいわね」
そう言って婦人は笑いだした。
「なんか、すみません」
灯里は恐縮して答えた。
少しばかり、のんびりした時間を過ごすと、灯里は再びゴンドラを進める準備を始めた。
「ウンディーネさん、このあとはどちらへ行くのかしら?」
「ここからしばらく進むと、水上エレベーターがあります」
「つまり、いよいよ到着ということね?」
「はい」
灯里はオールを持ってゴンドラをゆっくりとスタートさせた。
しばらくすると、視界に高い塔のような建物が見えてきた。
そこに近づくと、灯里は声をかけた。
「おじさーん、お疲れ様でーす!お願いしまーす!」
その塔の前で椅子に腰かけて新聞を広げていたおじさんが、灯里の声に気がついた。
「おおー、灯里ちゃーん!ちょっと待ってくれよー。すぐ降りてくるからー」
「はい!」
すると、少しして水路の突き当たりのところにあるゲートが、ガタンと大きな音を立てて開き始めた。
中からお客様を乗せたゴンドラが一艘出てきた。
そのゴンドラがすれ違い、通過するのを待って、灯里はゴンドラを中へと進めた。
中はゴンドラが余裕で収まるぐらいの十分な広さがあった。
「お客様、この水上エレベーターで上の水路まであがります。それまで少しの時間お待ち下さい」
ゲートがまた大きな音を立てて降りてきた。
完全に降りきると、薄暗くなった塔の中で、水が壁づたいに少しずつ流れ落ちてくる。
水位が上がり始め、ゴンドラも上に向かって上がり始めた。
見上げると高い天井が外から漏れる明かりでうっすらと見えていた。
その薄暗い塔の中を水の音だけが響いてゆく。
灯里とその老夫婦は、少しずつ近づいてくる天井をじっと見上げていた。
すると灯里がこう言った。
「いつもここへ来ると、なんだか違う場所に来てしまったように感じるんです」
「違う場所?」
婦人は不思議そうに聞き返した。
「はい。一瞬、別世界に来てしまったような・・・」
婦人は灯里の言葉を聞いて、辺りを見回してみた。
「確かにそうね。さっきまで明るい場所にいて、急にこんな暗い場所に入ると、なんだか不思議な気分になるわね」
そうすると、出口となるゲートが見えてきた。
水位がそこまで上昇すると、ゴンドラがそのゲートを目の前にした位置で止まった。
そして、大きな音とともにゲートがゆっくりと開き始めた。
外の明るさが今まで暗かった水上エレベーターの中へと差し込んでくる。
思わず目を細めてしまう眩しさ。
だがその陽の光は、オレンジ色へと変わりつつあった。
外はすっかり陽が傾き始めていた。
「お客様、お待たせいたしました。それでは出発いたします」
灯里がオールをぐいっと動かすと、ゴンドラは水上エレベーターから外へ進み出た。
すると、左手にネオ・ヴェネツィアの町並みが、まぶしいくらいに眼下に広がっていた。
「まあ、なんてすばらしい」
「おお」
無口だったご主人も、思わず声をあげていた。
灯里も眩しそうに、その光景に目を細めていた。
「お客様はご存じでしょうか?」
灯里のその言葉に婦人は、何気なく振り返った。
「この星が現在のように多くの水であふれ、アクアと呼ばれるようになる前は、まだ一面オレンジ色でおおわれていたそうなんです。だからでしょうか。このオレンジ色に染まる時間が、とても懐かしいような、いとおしいような、そんな不思議な気分になるんです」
婦人は灯里のその言葉に感慨深く聞いていた。
「そうね。ウンディーネさんのおっしゃること、わかるような気がする。これまで何度もネオ・ヴェネツィアへは来ているけど、こんな気分は初めてだわ」
灯里は少しゆっくりとゴンドラを進めた。
「それにしても、ウンディーネさん、お若いのにしっかりされているのね」
「あっ、いえ。実は今の話はある方の受け売りなんです。この話、とても好きなお話で、いつもこの時間にここを通ると思い出すんです」
「そうなの。でもいいお話ね」
しばらく進むと、右手に続いていた、生い茂った木々が途切れ、その大きな風車の群れが姿を現した。
いくつもの白く巨大な風車が、緑の丘の上に広がっている。
「お客様、希望の丘に到着です」
夫婦は、その壮大な眺めに圧倒されていた。
「お客様、いかがですか?」
「何て言ったらいいか、言葉が見つからないわ」
「少しの間お止めしますので、ゆっくりとご覧ください」
灯里はそう言うと、ゴンドラを丘の方の岸に寄せた。
オレンジ色に染まる風景と心地いい風。そしてゆっくりと回る風車たち。丘の反対側はアクアの海が広がっている。
言葉はいらなかった。
風の音と、ゴンドラに当たるかすかな水音。
すると、婦人がこう言った。
「本当に素敵なところに連れてきてくれてありがとう、ウンディーネさん」
「いえ、お客様のご要望にお応えしただけです。わたしの方こそ、お客様に喜んでいただけて光栄です」
「実はね、本当のことを言うと迷ってたの。来るかどうしようか」
「そうだったんですか・・・」
婦人は少し間をおいて、改めて話し始めた。
「実は私の孫娘、ウンディーネ志望なの」
「はひっ!そうなんですか!」
「そうなの。でも、私は反対だったの。そんなはしたない仕事いけません、てね」
「はしたない、ですか」
「ごめんなさいね。その時はそんなふうに思ってた。でも今日こうしてゴンドラに乗って、観光案内というものを改めてこの目でみて、その考えは改めなきゃいけないと思ったわ」
灯里は、恐縮すると同時に、どう言葉を返していいかわからなかった。
「それでね、ひとつ聞いておきたいことがあったのだけど、いいかしら?」
「はい、どうぞなんなりと」
「今日の目的地を、この希望の丘にした理由なんだけど。ウンディーネの方たちにとって、ここは大切な場所だということを聞いたからなの。よかったらその理由を聞かせていただけないかしら?」
「お客様、その話をどこでお聞きになったのですか?」
灯里はその婦人から以外と思える言葉を聞いて驚いていた。
「もちろん、そのウンディーネ志望の孫からよ」
「お孫さん、ですか・・・」
灯里は少し戸惑いを感じつつも、話し始めた。
「この丘の名前を希望の丘とお話しましたが、実は本当の名前は“風車の丘“というんです」
「そうだったの?」
「はい。ご覧いただいているとおり、風車が立ち並ぶ風景がその名前の由来そのものですが、ここはウンディーネたちにとって忘れることの出来ない場所でもあるんです」
灯里はそう言って、丘の上に壮大に回る風車を見上げた。
「ここは、ウンディーネたちが昇格試験の結果を告げられる場所なんです。ここまで、指導をしてきた先輩や指導員がゴンドラに同乗し、その結果をここで言い渡す。中には、ここまで来れない人もいます。その前に引き返すわけです。まだ実力が伴わないと判断されて」
「そんなことがここで・・・」
「これまでたくさんのウンディーネたちがこの場所にいろんな思いを、そして希望を抱いてきた。だから、いつしか希望の丘と呼ばれるようになったんだと思います」
灯里はそう言うと、今度はネオ・ヴェネツィアを見渡す風景に目を移した。
「ただ、これは私が一人前のウンディーネを目指していた頃より、もっと前からのお話なので、実のところ定かではないのですが・・・」
婦人は少し振り返り、灯里の横顔を眺めていた。
「いろんなことがあったのね」
「あっ、でも、私の場合は、指導していただいた先輩がとても優しい方で。なんか、そんな、大変なことなんて何もなかったんですけど。エヘヘヘ」
「謙遜なさらなくていいわ、ウンディーネさん。いい話を聞かせていただいたわ。是非孫にも聞かせないといけないわね」
「あっ、いえ、それは言わない方がいいかもです」
「あら、どうして?」
「それはですね、ピクニックということでして・・・」
「ピクニック?何のことなの?」
「お孫さんはご存知かも知れませんが、これはシングルの昇格試験の時の話なんですけど。その試験が行われる前日に、先輩から言われるんです。あしたピクニックに行かないかって」
「なんだか楽しそうね」
「その時はそう思うんです。憧れの先輩から誘われて、一日先輩とゴンドラで過ごして。でも、最後にこの希望の丘にたどり着いたとき、初めてわかるんです。実は試験を受けていたんだと。合格を言い渡された時は、驚きと感動でいっぱいになるんですけど、その後で気づくんです。さっきまで、そんなことになってたんだ!って」
「ハハハハ、それは確かに驚くわね。でもピクニックに誘う先輩も、お芝居が上手くないとダメね。今日はなんか違うぞってなったら、手が震えちゃったりするかも・・・」
「ほんとに」
婦人と灯里は顔を見合わせて笑った。
その婦人の横で、ご主人は穏やかに微笑んでいた。
「ところで、ウンディーネさんにはどんな後輩さんがいるの?」
「私にはまだ後輩はいません」
「そうなの。そういえばお店に誰もいなかったわね」
「はい、お店は私ひとりだけです」
「ひとりだけ?」
「はい」
「それは大変ね」
灯里はそれ以上は答えようとしなかった。
そのため、少しの沈黙が流れた。
「ウンディーネさん?」
「はい、なんでしょうか?」
「孫に伝えておくわね。ウンディーネに本気でなるつもりなら、いいお店があるからそこにしなさいと」
「はい?」
「お店の名前、改めて教えていただけるかしら?」
「はひっ!私のお店ですか?」
「当然でしょ!」
「ああ、それは、とても光栄なことですが・・・」
「ARIAカンパニーじゃ」
ご主人がしゃべった。
「あらあなた、覚えてたのね」
「まあな」
「ARIAカンパニーね。覚えておくわ」
「はい・・・」
灯里はあまりスッキリしない表情で、曖昧な返事をした。
「ウンディーネさん?」
「はい?」
「私、主人とは五十年近く連れ添ってるのだけど、この年になってつくづく思うの。誰か横にいてくれることの大切さを。分かち合える人がいるだけで、人生違うものだって」
「そういうものですか・・・」
「そういうものよ、ウンディーネさん!」
「は、はい!」
婦人は楽しそうに笑った。
その横でご主人が変わらずに微笑んでいた。
灯里は、老夫婦をマルコ・ポーロ国際宇宙港近くの船着き場で下ろすと、そのままARIAカンパニーへは戻らず、以前よく行っていたパン屋へ寄り道することにした。
近くの市場の船着き場にゴンドラを係留し、そのパン屋に歩いて向かった。
辺りは暗くなり始め、街灯が点り始めていた。
パン屋までたどり着くと、店主が片付けを始めていた。
灯里がこのまま引き返そうかと迷っていたら、ちょうど店の主人が灯里を見つけ、声をかけてきた。
「灯里ちゃーん、久し振りだねー!」
眼鏡をかけ、口の下に髭を蓄えた、優しそうな店主が、少し離れたところから手を振っていた。
「お久し振りです」
「せっかく来てくれたのに、悪いねぇ」
「いえ、気になさらないでください。ちょっとタイミングが悪かったみたいです」
灯里は苦笑しながら顔の前で手を振った。
「そういえば最近どうしてるの?いつものメンバーは?」
「いつものメンバー?」
「いつも元気な娘とちょっとおとなしめの娘」
「はい、あのふたりですね」
「あのふたりも最近あまり見かけないなぁ」
「みんな忙しくしていまして。ここ最近来れてないと思います」
「そうなんだ。でも忙しいのはいいことだ。商売繁盛だね!」
「確かにそうですね」
「灯里ちゃんもがんばってね。あ、そうだ。ちょっと待ってて」
「はい?」
店主は灯里にそう言うと、駆け足で店の中に消えていった。
そして今度は、紙袋を小脇に抱えて戻ってきた。
「これ、持ってって」
「これは・・・」
「少し取っておいたものなんだけど、食べてみて」
灯里は手渡された紙袋を少しだけ開けて中を覗いてみた。
すると、芳ばしい香りが漂い出てきた。
思わず笑みがこぼれる。
「いいんですか?」
「いいのいいの。その代わり、感想聞かせてよ。今度また時間があるときでいいから」
店主はそう言って、また駆け足で店の中に消えていった。
灯里はその後ろ姿を見送りながら呟いた。
「ありがとうございます。必ずまた来ます」