あの日、僕はいつも通りに全力でお仕事に打ち込んでいた。
神宮球場での始球式ゲストを、プロデューサーも若干引くような素晴らしいストライクで勤め上げた。
歓声に笑顔で手を振って、控室で着替えているときにふと、やらかした失態に気が付いてしまった。
普通の、かわいいアイドルは、始球式で豪速ストライクは出さない。
ああっ!と頭を抱えていた時に、控室の扉がノックされた。
入ってきたプロデューサーは案の定、にやにやとした笑みを浮かべている。
毎度のことだけれど、この人には僕が張り切りすぎて、そして今になって我に返ったことまで、お見通しなのだ。
「もう、なにも言わないでくださいよ…」
先んじてプロデューサーの言葉を遮ぎったけど、それでも良くやったな。と言われると嬉しくてたまらなくなってしまう。
大丈夫、真のかわいさは俺が一番理解しているよ。
そんなダメ押しまでされたら、僕はすっかり上機嫌だ。
うん、次こそ、次こそはかわいく…どうすれば…春香を参考に…?振りかぶってコケる…?
などど考えていたら、次のお仕事の時間が迫ってきてしまった。
慌てて荷物をぎゅっと纏めて、背負う。
「それじゃ、プロデューサー!また後で!」
プロデューサーとはここで一旦お別れだ。近くの現場にいるやよいを拾って車移動するらしい。
比較的次の現場が近かった僕は、一人で電車移動の予定だった。
――今でも後悔している。あんなに簡単に別れてしまったことを。最後にもう一度、ちゃんとプロデューサーの顔を見ておかなかったことを。
最寄りの、青山一丁目駅に向かって小走りに進む。
改札をくぐっで、ちょうどよく来た渋谷方面行きの半蔵門線に乗り込んで、一休み。
そこで僕の、僕らの世界は、暗転した。
気が付くと、闇の中で横たわっていた。
何も見えない。目隠しされているような暗闇の中。
意識が朦朧とする。耳鳴りが酷く、喉奥も焼けるように痛い。
ここは?電車は?事故?体は?
混乱する脳内が、鋭い針で引っ掻き回すような頭痛を生じさせる。
落ち着け。とプロデューサーの声が聞こえたような気がした。
横たわったまま、まずは自分の身体に意識を集中する。
四肢に痛みは、ない。
麻痺しているだけかもしれないけど、大きな違和感も感じない。
次に五感、地面の冷たさ、風の音、耐え難い悪臭、視覚と味覚はわからないけど…
少しばかり落ち着きを取り戻した僕は、ゆっくりと体を起こす。
頭痛はまだ重く、思考は纏まらない。
ただ頭を撫でまわしても血の感触はない。大きな傷を負っているわけじゃない。
もし事故にあったのだとしたら、助けを待ったほうがいいよね。
僕はそう結論づけてから、まずは助けを呼ぼうと大きく息を吸った。
しかし、突然肺を握りつぶされたような息苦しさを覚え、激しく咳き込む。
「がはっ…ごふっ…」
肺は空気を拒絶し、体外にすべてを送りだそうとする。
「い…息がっ…」
涙が勝手にあふれ、涎が口の端から滴り落ちる。
身体から力が抜けていくのを感じながら、僕は意識を失った。
頬に当たる水滴の感触で、意識が戻った。
多分、まだ、僕は生きている。
どのくらい、時間がたったのだろう。
無意識の行動だと思うけど、口元を覆っていたハンカチを通しておそるおそる息をする。
浅く、少しなら呼吸できる。大丈夫、まだ大丈夫。
大声で助けを呼ぶことは、できなくなっちゃったけど…
呼吸を抑えるために、落ち着いて耳を澄ませる。
水の滴る音。低い風切り音。遠くからは何かが軋む音もする。残念ながら、こちらを呼ぶ声も足音もしない。
それぞれの音にわずかな残響があることから、どうやら建物かトンネルの中にいるようだ。
頭を、切り替える。
ここでじっとしていても、多分なんらかの理由があって助けが来ない。もしくは来れないんだ。
なら、僕が動くしかない。
口元をハンカチで抑えたまま、ふらつく足で立ち上がる。
片手をまっすぐ伸ばして、一歩ずつ、すり足で闇の中を進むと、
数メートル歩いたところで、湿ってぬるつく壁に手が触れた。
「うひゃ…!」
落ち着け。落ち着け…と手をぬぐいながら自分に言い聞かせる。焦ったらまた息ができなくなる。
全く見えなかったけど、壁がある。
「触りたくないけど…ないんだけどさぁ…」
昔雪歩が教えてくれた、壁に片手をついて進む方法が一番いいってことは頭では理解している。
けど、得体のしれないものが覆っている壁にずっと手をつけるのは、相当な勇気が必要だった。
「うぅ…女は度胸だ…」
ぬちゅ…と手のひらを通して伝わる不快感が全身に鳥肌を立てる。
無事にここから出られたら、思いっきりプロデューサーに慰めてもらおう…と心に決めてから
風が背中に当たるように向き直って、僕はゆっくりと、闇の奥に歩みだした。
ほんの数分だったのか、数時間は経ったのか。
不可視の暗闇の中で、時間の感覚はひどく曖昧になっている。
ただ、確実に、前に進んでいることは分かった。
呼吸がかなり楽にできるようになったのだ。
出口が近づいている。
相変わらず、光の一筋も見えないけれど、その事実は大分僕の心を軽くした。
片手の不快感はもはや完全に慣れてしまい、歩調は早くなっている。
「歌でも歌おうかな?」
そんな考えも持てるようになっていた。
しかし、次の瞬間には、わずかに芽生えた余裕は完全に打ち砕かれた。
「「GRAAAAAAUUUUUUU!!!」」
背中から、後方の闇から、身体を揺さぶられるような唸り声が聞こえた。
「っひゅっ…」
心拍数は跳ね上がり、呼吸は浅く、早くなる。
やばい。あれは絶対にやばい。
生き物としての本能が、逃げろと理性に怒鳴りつける。
「う、うわぁああああ!」
全力で、進行方向に駆け出す。
アドレナリンで向上した聴覚が、なにか湿った重いものを叩きつけるような音を、背後から無数に拾っている。
追われている!
恐い!怖い!コワい!
足元は砂利や瓦礫で不安定だ。足を取られたら、死ぬ。
「助けてっ…!誰かっ…!」
こんな時に助けを祈る神様を持たない自分には、ただ運に祈るしかない。
背後に迫る何かの息遣いが聞こえる。
爪が地面を抉る音、牙が擦れる音まで聞こえるような気がする。
満足に呼吸が続かない。足が重い。
背中に、”死”が爪を立てるのを感じた。
その時、目の前に確かな光が見えた。
弱弱しい、消えてしまいそうな、たった一筋の光。
それでも僕は、その光にすべての運を掛けるしかなかった。
「った、助けてくださいっ!」
肺に残ったわずかな空気をすべて押し出して、叫ぶ。
光がまっすぐに僕を捉えて、黒い何かに掴まれた。
力強く地面に引き倒され、頭だけをなんとか持ち上げた僕は、やっと自分を引き倒したのが光の主であることを理解した。
ああ、ヘッドランプの明かりだったのか。
薄れゆく意識の中で、何かが破裂するような轟音と、恐ろしいうめき声だけははっきりと耳にしていた。
765プロではよくあること