三度、意識を失ってしまった僕は、薄暗い電灯が照らす、雑然とした部屋で目覚めた。
恐ろしい唸り声は、聞こえない。
代わりに雑踏や子供の声と、かすかにギターの音色が聞こえる。
部屋を見渡すと、2メートル四方もない空間にあらゆる生活雑貨が詰め込まれ、一見するとザ・ゴミ屋敷といった様相だ。
「僕は…何かに追われて、そして…」
記憶を辿ってみるが、映像を断片的に思い出せるだけで、まるでコマ撮り映像のようだ。
ただ、とりあえず僕はまだ生きている。どうやらあのヘッドライトに人に助けられたらしい。
まるで悪い夢を見たように実感が無い。
そのまましばらくベッドに腰かけていると、粗末なベニヤのドアを軋ませながら、部屋の主と思しき人が入ってきた。
「やっと起きたのか…良かった」
そのおじさんは本当に安堵したように息をつき、抱えていた湯気を立てる器を積み重なった本の上に置く。
「イェーガーに抱えられた君を見たときは本当に肝を冷やしたよ、一人でガスマスクもなしにトンネルに出るなんて正気じゃない」
背もたれのない小さな椅子に腰かけながら、おじさんは独り言のように話し続けている。
「しかも、そんな軽装だ。一体どこの駅から来たんだ?」
「あ、あの…」
「いや、そうだな。名乗ってもいなかった。私は指谷陽介だ、君の名前は?」
おじさんは僕の言葉を遮ってどんどん話を進めてしまう。
「き、菊地真です」
「真くんか。よろしく。それより、さぁこれを食べなさい」
指谷さんはさっき抱えてきた湯気の立つ器を渡してくる。中を見ると薄い色の液体にしなびたキノコが数本浮いてる。
「この駅自慢のキノコのスープだ。見た目はみじめだが、味は保証するよ」
喉も乾いていたので、ありがたい。口を付けてみると、うん、薄い。見た目通りの味だよ…
指谷さんの様子を見ると、特に味の感想は求めていないようだ。助かった。
「さて、真くん。飲みながらでいい。さっきの質問に答えてくれると嬉しい」
僕が器を半分ほど空けたところで、指谷さんは会話を再開させた。
「実はさっきも言おうとしたんですけど…」
「なんだい?」
「ここはどこですか?」
「…そうだね、状況が分からなくて不安だろう。まずはそちらの説明から始めようか」
指谷さんはふむ、と頷いてからゆっくりと話し出した。
「ここは元は明治神宮前駅と言われていた駅だ。今では近くにある競技場の関係からアリーナ駅と言われている、そちらの方が聞き覚えがあるんじゃないかな?」
「い、いえ明治神宮前駅の方が…アリーナ駅なんて呼ばれているほうが初耳です」
いつの間にそんなおしゃれな通称が流行ったのだろうと首を捻っていると、指谷さんが苦笑していた。
「メトロの辺境に位置するような駅だからね…無理もないさ」
「辺境…?」
いやむしろ色々な観光スポットも近い、メジャーな駅だと思うんだけど…
「真くん、君は崩落した北参道駅の方向から現れたと聞いている。ミュータントに追われている君をオーダーのイェーガーが助けたんだ」
「ほ、崩落?ミュータント…!?」
このおじさんは真顔で何を言ってるんだ。
「ま、待ってください。何ですか?ドッキリか何かですか?」
「どっきり…?一体何を言ってるんだね真くん」
「だって、僕はお仕事終わりで…電車で寝ていて…そしたら急に…」
「落ち着きなさい。真くん」
「ならあの息苦しさは…?追いかけてきていたものは…?」
「真くん!」
指谷さんがぎゅっと肩を掴み、まっすぐに僕を見つめてきた。
その目はとても真剣で、ドッキリなら…という安堵と、でももし…という不安で揺れ動く僕を、微動だにせず捉えている。
「どうやら君はなにか事情があるようだね?この駅は中立だが、場合によっては君を拘束しなければならない。」
低く、淡々と指谷さんが話す。
「ぼ、僕はアイドルをしていて…、神宮球場での仕事を終えた後に地下鉄で渋谷に、向かっていて…」
僕は必死に、訴えるようにこれまでのことを話した。
指谷さんは黙ったままだけれど、次第にその顔から疑いの色が隠せなくなっていた。
「君は随分混乱しているようだ」
最後までほとんど一息で話したせいで、肩で息をしている僕を見ながら、憐れむように言われた。
「20年も前の世界のことを、最近の出来事のように言うなんてね。老人なら分からなくもないが、君が生まれる前の話だろう、それは?」
「に、20年前…?僕には指谷さんの言ってることの方が分かりませんよ!」
「そうだろうね。ゆっくり思い出していけばいいさ。落ち着いて聞いてほしい、今は、ここは」
ひどくゆっくりと言い含めるように、穏やかな指谷さんの声が響く。
「2033年の東京、最終戦争の核で世界は滅び、わずかに残った私たち人類は地下で、このメトロで生き延びている」
そこから、指谷さんに聞いた話を僕は最初、全く信じていなかった。
世界を終わらせた最終戦争のこと。
その何年も前から少しづつ戦争に向かっていった日々のこと。
そして、核が落ちた日のこと。
その日、偶然にも地下鉄に逃げ込めた人だけが生き残り、以来20年間、駅を拠点に凄惨な生存競争を続けていること。
放射能で汚染された地上。突然変異した醜悪な生物。地下での生活。
長い長い話の後、指谷さんは記憶が戻るまで、この駅に居たらいいと言ってくれた。
最初の数日は、それでもずっとドッキリであると疑っていた。いや、信じていた。信じたいと思っていた。
しかし、1週間過ぎ、2週間が過ぎた頃には、どうやらこれは本当のことなんだと、確信せざるを得なくなっていった。
―そして、輝くアイドルの日々が遠い記憶になり、凍てつく血と闇が日常になるほどに、時間がすぎるまであっという間だった。
指谷、さしや、サーシャ。