「はあ……」
閑散と冷え切った地下の研究室で、セブルス・スネイプは重いため息をついた。
唯でさえ仕事が忙しいというのに、学習意欲のない生徒の採点なんて負担でしかない。机に積みあがった書類の山を今すぐに燃やしてやりたい気分だった。
「……チッ」
鬱憤を晴らすように積み上がったレポートへ容赦なくペケを付けていく。補修課題を受けさせた生徒の名簿にはハッフルパフとグリフィンドール生が一番多く書かれており、それが益々苛立ちを呼んだ。
もう何も考えまいと機械的に右手を動かしていたスネイプは、ふと目に付いた名前に頭痛が酷くなった。
スネイプは入学きってからのホグワーツの問題児、ウィーズリー家の双子には二年生になった今でも変わらず──むしろかなり悪化した──悩まされていた。
流れるような校則違反、嬉々として罰則に取り組む等、まさしく
結論としてスネイプの精神衛生はかろうじて瀕死程度で抑えられたが、あの双子自体が苦手な部類であることには変わりはなく、相変わらず頭は痛い。
故にいつも付き纏われているリラン・エアクイルには少し同情を覚えていた。
……いや、エアクイルも問題児と言えば問題児だ。
いくら成績優秀な彼女でも、マグル生まれのスリザリン生と言う時点でスネイプには厄介そのもの。組み分け儀式の後に彼女の出生を知った時は時は本当にどうしようかと頭を抱えたものだ。
実際、寮内の不和の元凶だったのだしこの認識は正しい。だが悩ましくも、きっちりケリをつけたのもやはりエアクイル本人であるのだ。
紅茶で唇を濡らしたスネイプは眉間のしわを深め、再び書類に向かった。
「……」
彼女は不利な立場にも関わらず、たったの一年で全てを治めた。一年時の陰湿な虐めにも迅速に対処し、大事になりかけた際も冷静に場を乗り越えてしまった。
スリザリンという寮は半純血でも肩身が狭いことをスネイプは深く知っている。そして多くの生徒が血の縛りによって辛い思いをしてきたことも大いに分かっていた。
もとの寮風に加えて闇の帝王の影響もあり、スリザリン生は孤独を強いられる。それ故に内から追い出された人間は偏見の犠牲者になり虐めの事実を黙認される。胸糞の悪い話であるがこれが真実で現実だった。
────だからこそ、呪じみた血の束縛を振り払った彼女はとても異質な存在なのだ
誰の手も借りず、自身の誇りも失わず。冷静かつ、効率的な思考で判断を下した。大人顔負けという次元ではなく、本当に心底異常であるのだ。
大広間の騒動の後、彼女を取り巻く環境は大きく変わった。とは言っても、相変わらずスリザリンと他寮の仲は劣悪だし彼女自身の存在も浮いている。変わったのは、己の出生にコンプレックスを持つ生徒達だった。
『己の品位を墜としてどうする』
リラン・エアクイルが放った言葉に感化されたのは、偏にスリザリン生だけではなかった。
何かしら抱えている人間は自暴自棄になりやすい。救いの手すらも煩わしくなり、誰もが自分の敵だと思い込んでしまう。俗に言う『虐められっ子』は思春期も合わさり人の助けを酷く嫌う。
そのくせ心の奥底では救いを求めているのだからとても扱いにくい。『傍観』という手段は、一見、本人の意思を尊重するように見えて実際はその拗らせた思考や行動の具合を助長させるだけなのだ。捻くれるだけならまだマシだが、悪の道に走った場合を考えると悪手と言えるだろう。
スネイプも最初はリラン・エアクイルを助けるつもりだったのだ。繊細な心を傷つけないように、プライドを守りつつ慎重に、痛む胃を抑えてさりげなく動いていた。
そんな配慮を重ねていた彼の対応が、数日で『最低最悪』に変わったのは単にリランがそれに当てはまらなかったと言うことに他ならない。
堂々と自身を誇り、凛と前を見つめ、望まない形とは言え自分を見捨てた友の為に彼女は怒った。
あまりにも強く気高い心が、スネイプには眩しかった。
拗れきった自覚のある自分がこれだけ揺さぶられたのだ。意味は違えど『傍観』を決め込んでいたたかが学生がどれ程の衝撃を受けたかは想像に安い。
「……校長が気に掛けるわけだ」
ダンブルドアが、ある種の革命を興したリラン・エアクイルのカリスマ性に闇の帝王のそれを感じてしまうのも致し方無い。致し方がないが、正直なところ、些か考えすぎだと思っている。
確かにスネイプも、知れば知るほどにリラン・エアクイルと言う生徒をマグルでありながらもどの純血よりも実にスリザリンに相応しい人物と称していった。同時に、彼女の普段の生活態度に危険性などは皆無だとも感じていた。
他の生徒同様、迷惑なピーブズに苛立つこと。ウィーズリー双子に雪玉を投げられて驚く様。セドリック・ディゴリーに見せる控えめな笑み。食事にみせる意外な執着。リラン・エアクイルは危険な怪物などではなく、至って普遍的な等身大の少女だった。
そういえば、双子に付きまとわれた原因がピーブズを滅多打ちにしていたことだった。当時目撃してしまった少女の、珍しい素っ頓狂な表情には思わず吹き出しそうになったものである。
かつての悪夢の再来を忌避する気持ちもわかるが、早々に決めつけてしまうことは逆にそれこそ悪手である。
これが、リランへ抱くスネイプの見解であった。
「はあ……」
物思いに耽りながらも、採点を終わらせたスネイプはもう一度深くため息をついた。喉を潤そうとカップに口をつけるが中身は飲み干してしまったらしい。スネイプは至極気だるげに杖を振るうと、器の底にこびりついた紅茶の茶葉を虚ろに見やった。
オニキスの瞳は沈鬱に濡れていた。ランプの緑がテラテラと受け皿を舐め上げる。彼には残り香を漂わせごちゃごちゃとへばりつく茶葉が、己の薄汚い未練に見えていた。
リラン・エアクイルを密かに自分と重ねていたことを馬鹿らしいと笑い飛ばしたかった。
臆病に逃した自身のifを彼女の未来に押しつけて、救えなかった最愛を夢見るなど何ておこがましいのだろう。
歪み切った恋慕なぞとっくのとうに腐り切っているのに。
「……ッはは」
ふっと浮かんだ静謐な茶水晶が心底恨めしかった。二回りも年下の子供に嫉妬するあたり、自分の精根は余程澱んでいる。
「馬鹿は死ななきゃ治らないか」
治るものなら早く死にたいのだが、まだ自分は死に切れない。まだ地獄に落ちるわけにはいけない。
守らなければならない。最愛の人の守った命を、最も憎らしい男の子供を。スネイプは死守しなければならなかった。
生きるも地獄、死ぬも地獄。二人の悪魔を欺くのは文字通り命懸けだが、今更被る罪が増えても明るい未来が自分に訪れないことは確かなのだ。気にかけていても仕方がない。
低く地を揺らす雷鳴に、地下室の窓がカタカタと音をたてた。振り出した雨は、じきに嵐へ変わるだろう。
「……」
────