「ガェッ……ぁ……ッッ──」
ビシャビシャと胃液をまき散らし、激しくえづきながら目の前に立つ黒い影をリランは怯えながら見上げた。
吐瀉物の海に蹲り小刻みに痩せ細った体躯を震わせる様は、誰が見ても哀れの一言に尽きるだろう。
小さく縮こまるリランを見やった影は満足そうに笑みを浮かべると、右手に握った細い革のベルトで小枝のような手首をきつく縛りつける。
呻き声を低く漏らすリランをよそに、影──マリア・メンターは歌うように口を開いた。
「ああ、私の可愛いエンジェル……! 素晴らしいわ、上手に吐き出せたわね!」
可憐な妙齢の女性が囁く言葉は慈愛に満ちていたが、リランが受けた残酷な仕打ちは紛れもなく彼女の所業だった。
腐卵臭が立ち込める掘っ立て小屋に不釣り合いな、豪奢な装いをしたマリアはブロンドの髪をかきあげながらリランの頬へ手を伸ばす。
「さあエンジェル。おめかしの時間よ」
綺麗にしなくっちゃね! と、マリアは無理矢理リランを立ち上がらせた。リランがふらつくのにも構わず、手首のベルトをリードのようにして半ば引きずるように歩み出す。
マリアが上機嫌で暗闇の庭園を足早に抜けるとき、リランは初めて今までの人形じみた表情を崩した。
虚ろだった瞳は理知に富んだ茶水晶に変わり、硬質な眼差しはありありと疑問符を浮かべていた。
リラン———もといクィリナス・クィレルは、“前„の記憶を取り戻したあの夜から約一ヶ月。自身を取り巻く現状を己を買い取った豪富メンター夫妻からの虐待に耐えながら徐々に探っていた。
リランが新たに得た情報は三つ。
一つ目は時代。現在は一九八二年、十月上旬。細かい日付までは把握することが出来なかったが周囲の人間の言動からして確実だった。
二つ目は国と州。ここはイングランド、ウェスト・ミッドランズ州。コチラは英語圏であることと言葉のアクセント、一つ目同様に召使い達の世間話から簡単に知ることが出来た。やはり詳しい住所などは得ることが出来なかったが、治安がとても悪い地域であることは間違いない。
そして三つ目。リランのご主人様についてである。これが一番大きな収穫であり、そして一段ととんでもない有様だったのだ。
先程からリランを無理やり歩かせているこの女。艶やかなブロンドとアイスブルーの瞳を持つマリア・メンターは、リランをエンジェルと呼び人形のように可愛がる。
これだけならばただのうっとおしい女で済むのだが、彼女は文字通りリランを愛玩具として扱う。
お人形は物を食べない、お人形は声を出さない。
常に美しく清潔で、何をしたって睫毛一本だって動かないと言った具合にリランをいたぶるのである。
そして信じられないことに自身の自慰にもリランを使う。
初めて遭遇した時には、生前の童貞故の自意識か無駄に緊張したものだが今となっては只々悍ましい出来事だ。
何せ人間には到底不可能な体制で吊し上げられ、未成熟で無防備な性器を思いっきりなじられるのである。快感など微塵もありはしない。
豊満な肢体と長身に抗う術もなくただ時が過ぎるのを待つことしか出来ない。奇跡的に処女は守られているが、マリアは性欲が強い為、この地獄は数日おきにやって来る。
美女の痴態を見ても全く興奮せず、むしろ恐怖しか湧かなくなったのは元男性としては若干ショックだった。
不幸中の幸いか、一度闇の帝王の配下についたことがある故に、常人よりも拷問に耐性があった。魔法使い相手ではないと言う点も異常事態にも屈せず何とか理性的でいられる理由の一つだが、正直なところだいぶキツい。
しかし、純粋な暴力の前にはリランの並外れた忍耐力も流石に陰りを帯びる。
先程マリアに吐き出させられた食物は、もう一人の狂人ジョセフ・メンターに食わされたものだ。
ジョセフはミルクティーの髪に優しく垂れたダークチョコレートの瞳、をもった甘い外見であり、愛嬌のある顔立ちと小柄な体型の一見すると紳士然とした男であるが、本性はとんだDV野郎である。
殴る蹴るの暴行は勿論、『皮膚が剥けるまで鞭で叩く』『蛆虫の湧いたヘドロで窒息させかける』『爪を剥いでネズミのいる蔵に放置する』等、悪魔も真っ青で逃げ出す非道の数々を尽くしている。
だが、マリアとは違い食事——と言っても残飯以下の屑だが——は与えてくれる為、人間の皮を被った化け物でもその時ばかりは聖父に見える。生きる上での三大欲求の一つであるし、飢えに飢えているのだから例え前提が狂っていてもありがたいものはありがたい。
メンター夫婦について分かったことは、互いの利益のために結婚した故に殆ど顔を合わせる事はないと言うこと。屋敷と敷地をそれぞれ東と西に分け完全に別離して生活していると言うこと。また、金持ちには珍しく——リランの偏見だが——使用人の数は片手で事足りるほど少ないと言うことなどなど、かなりの収穫だった。
人身売買といい虐待といい、いつお縄に頂戴されてもおかしくない所業であるから真実を知るものも少ない方が良いのだろう。
メンター家が中世の貴族ごっこを誰にも咎められることなく好き勝手にやっていられるということから鑑みるに、彼らの素性は恐らく一般人ではない。個人投資家、大地主、資産家、または親の金……マグルの職業については把握しきれていないために、何をやっているかは分からないが大方この辺りが妥当ではないだろうか。
仮面夫婦な彼らが、唯一干渉するのは、知っている限り事務的な関わり合いか、リランの主導権を交代するときだけだった。
交代時には絶対にお互いの領土には足を踏み入れず、屋敷の玄関ホールの隅にある物置の手錠にリランを繋ぐ。
零時を回った途端、リランは役を切り替える。マリアには人形として感情を殺し、ジョセフには巧みな言語で許しを請わなければならない。
正反対なサド人間の趣向はじりじりと命を蝕み削り取っていたが、ある程度のルーチンにリランは生来の冷静さを取り戻していた。が、どんな時でも慣れた瞬間が一番恐ろしい。
(……いつも通りなら『気絶してからのオメカシ』という流れだが……)
一度、今のようにマリアにつられリランが屋敷内を歩いて来た時、ジョセフは烈火のごとく怒鳴り散らした。
リランをゴミのように扱う彼にしてみれば、自分の屋敷をうろつかれるのは筆舌に尽くせぬほどに許し難いことなのだろう。
互いに無関心な夫婦は、この出来事から零時交代制を決め、以降それを正しく守っていた。
それ故に、想定外なマリアの行動にリランは動揺を隠しきれなかった。知らない事ほど恐ろしいものはなく予想だにしない出来事に対処出来るほど体は回復していない。
———落ち着け……コイツの前で焦るのだけはご法度だ
いつの間にか、庭園の門の前にたどり着いたことに気づいたリランは、焦燥にざわつく心中を必死に収めた。過剰な瞬きや呼吸の乱れだけでこの女は鬼と化す。
「うふふっ! なんて素敵な日でしょう!! これで、たあっぷりあなたを可愛がってあげられるわ」
何とか取り繕った無表情は闇夜に誤魔化されたのだろう。鈴を転がすように笑うマリアを見ながらリランはコッソリと安堵のため息をついた。
(クソ少し油断し過ぎたか? あぁ、一体なんだってんだ)
こみ上げる不安を押し殺すリランだったが、そんなことをしてもムダなのだと、真鍮の表札に刻まれた【
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「うーん、なかなか汚れが落ちないわね……どうしましょう?」
(これがお前の入浴セオリーか? このイカレっぷりは、最早脱帽モノだな)
屋敷の風呂場に連れられたリランは、心臓が縮こまるほどの冷水を浴びながら砥石で身体中を洗われていた。
こびりついた垢に苛立ったのか、マリアは床ずれや青痣に構わずゴリゴリと力任せになじってくる。
いつもは胃の中身を筆頭に、内臓全てを空っぽにさせられ気絶してから入浴という流れの為、今回の『意識がある状態での行為』は初めてのパターンだった。
リランは酷く警戒していたが、突然無理矢理排泄行為を促されるという経験を得た身としては、幾分か余裕を保てていた。それでも痛いものは痛いのだが。
「いっそのこと漂白してみようかしら?」
(ぶっ殺したい)
あどけない童女の顔で小首を傾げるマリアに、リランは内に湧く殺意を堪え従順に振る舞った。
流石にこの荒れきった肌に化学物質は耐えられない。冷や汗に歯噛みしていたリランは、次のマリアが放った言葉に己の耳を疑った。
「まあいいわ! あの人も今はいないのだから、根気よくやりましょう」
マリアがあの人と呼ぶのはジョセフにほかならない。ソイツがいない? 一体どういうことなのだ。
混乱のままに、リランは思わず『お人形』の役を忘れ砥石を掲げるマリアを見上げた。
———不味い
途端、冷ややかな狂気を孕んだ空気にリランは失態に気づいた。
「なあに? 私のエンジェル?」
ドロリと濁ったアイスブルーは身の毛がよだつ憎悪に満ち、穏やかな声色は血なまぐささを滲ませている。
ガランとした浴室に響くシャワーの水音が、この場の異常を際立たせリランの緊張は限界まで引きあがっていた。
微動だにせず笑みを貼り付けたマリアに、リランは襲い来る痛みを覚悟してグッと息を止めた。
だが、彼女の決死の想いは杞憂に終わる。
「……そうよね! あなたはあの人より私が好きだったわね! 忘れていたわ、可愛いエンジェル」
マリアは先程の狂った姿がウソのように、パチンと一つ手を打ちニッコリと笑った。嘘のように愛らしくチャーミングな女性そのものである。
(『人形』に感情などありはしないのに、都合のイイ奴だな)
全くもって心外な捏造に、リランは否を唱えたくなるが傷が増えないに越したことはない。
柔らかなタオルで身体を拭かれながら、内心で皮肉を飛ばすリランは上機嫌に語るマリアに耳を傾けた。
「当主だからって威張り散らすからきっと天罰がくだったのよ。悪霊なり何なりと一人で騒ぐのは結構だけれど、私の稼いだお金なのだからあまり使わないで欲しいわ!」
「ああ本当、神様は見てくださるのね! 調子に乗った馬鹿な猿には、精神病院がお似合いよ!」
(成程……そういうことか)
興奮状態でまくしたてるマリアを横目にリランは情報を整理する。
どうやら、マリアのほうが金に関して優秀なようだ。彼女は女という立場で押しとどめられる理不尽に相当鬱憤が溜まっているが、夫も酷く屈辱的だったのだろう。ただでさえ嫌いあう仮面夫婦なのだから、しょうがない。
———まあ、幼子を虐待する時点で二人ともゴミとなんら大差はないがな
ケッと悪態をつきながらリランは『ジョセフ・メンターが心を病んで闘病している』という朗報に引っ掛かりを覚えた。
(マグルの世界で悪霊……? しかもこんな都合の良いタイミングで?)
確かに魔法界同様、幽霊というものは存在している。それをタネに、ドキュメンタリー番組や霊媒師等が肥えているのを『マグル学教授の【クィレル】』として記憶しているから間違いない。
だがよっぽど呪いの意思が強くない限り、マグルの亡霊が悪霊になるのは難しい。霊現象に特化した東洋の魔術に『人を呪わば穴二つ』ということわざがあるが、事実そのとおりである。
魔力がある人間ですら地獄の苦しみなのだから、ただの人間などせいぜい耐えても3日が限度だろう。
マリアの話が本当ならば、ジョセフは金にものを言わせて霊媒師やエクソシストを呼んだということになるが、そういう輩は、大体が偽物という場合が多い。
が、少なくともリランが掘っ立て小屋に放置された3日とマリアの交代期間を含めれば、そこそこ手こずる悪霊がいる筈なので詐欺師の可能性は低いだろう。
(となると、魔法界の幽霊の線が濃厚になるが……)
シルクのリネンに着替えさせられたリランの頭には、自分が【リラン】となった元凶の一つであるポルターガイストの不快な嘲笑が蘇った。
(いやいや、ポルターガイストだけで結びつけるのは安直だ。別の厄介な奴というパターンさきっと)
何かが建築される気配を無視して、リランはマリアの腕の中で大人しく静止する。
「今日はもう遅いから、明日一日中遊びましょう!」
相変わらず字面だけなら微笑ましいマリアの死刑宣告に、抱き上げられた身体が震えかけるがグッとリランは堪えた。
これだけ機嫌がいいのだ。この分なら掘っ立て小屋には行かなくて済むかもしれない。あそこは北向きで秋の夜にはかなり厳しい。
玄関ホールを横切るマリアのコツコツとなる靴の足音を聞きながら、リランはひとまずベッドで眠れると虚ろな目先の幸せを喜んだ。
突然マリアが歩みを止める。
抱きかかえられている為、振り向くことが出来ないリランは耳をそばだて状況を探った。どうやら、誰かが廊下に立っているようだ。
「アラ……何の用かしらサボク・オー? 不備でもあって?」
「いえ、奥様。全て上々です。書類等々は直ぐにでも申請出来ます」
「なら結構よ。そのまま貴方に任せるわ」
「かしこまりました」
廊下に敷かれた赤暗色の絨毯にマリアとサボク・オーと呼ばれた使用人の男の会話が吸い込まれていく。
淡々としたやり取りを聞く限り、マリアの秘書のような人間なのだろう。
深い森を思わせる心地のよいテノールが言葉を続ける。
「明日のご予定は如何致しましょう? アヅーユ婦人からお茶会のお誘いがあります。リランお嬢様も是非とのことですが?」
「断って頂戴。ロンドンまで行くのも億劫だし、リランは誰にも見せる気はないわ」
「かしこまりました。旦那様の事ですが……」
「答えはNOよ。私もう眠いの。なにかあるならば明日聞くわ。貴方もお休みなさい」
(お茶会ねぇ……時代錯誤だよホントに。呑気なこって)
リランは随分と自由なマリアの言動に呆れつつも、歩き出したことで見えたサボク・オーの容姿を眺めた。
固そうな黒髪に、程よく焼けた肌とやや神経質な紅茶色の明るい瞳。オールバックのように撫でつけた髪型とガタイの良い体躯が、猟犬染みた強面との相乗効果で、秘書よりSPといったほうがしっくりくる雰囲気の男だ。
かなり背も高い。女性としては高身長であるマリアの頭が胸部に届かないくらいだ。パッとみて6.5フィートはあるだろう。指先に残る火傷の跡や荒れた拳、眉間の鋭い皺……やはりどう見てもカタギの面ではない。
暴力性を感じる風貌にコイツも屑の仲間かと怒りを滲ませたリランの視線に気づいたのか、ふと男はこちらを見やる。そしてニヤリと口角を上げた。
途端、リランは全身の血が一気に引いていくのを感じた。
アイツと同じ、腹立たしく神経を逆撫でするこの世の苛立ちを集めた小憎らしい嘲笑い。
(誰が間違えるかこの野郎……! 何でお前なんだよ!! 予感的中ってか? ふッッざけるなよ!?)
『センセイ』と唇だけで呟いたサボク・オー……またの名を悪霊ピーブズは、リランの殺気をものともせず、愉快犯そのものの厭らしいウィンクを飛ばしたのだった。