一九八九年。
瑞々しい木々の香りを孕んだ、そよ風が吹き抜ける初夏のとある日の午後。霧と雨の国を冠するイギリスの珍しい晴れ間を、けたたましい声が打ち壊した。
「リランお嬢様!! 手紙! てがみ来たぜぇー!!」
「わかったから、その巨体で大声を出すな喧しい!!」
騒音の源は、バーミンガムの街の一角に立つメンター家の屋敷からだった。傍から聞けばこの慌ただしい男女のやり取りは、仲の良い使用人と令嬢のものに思えるだろうが、実際は全くもってそうではない。何故ならば、少女の中身は元成人男性の犯罪者であるし、呼びかける男の本性は人間に憑りついた愉快犯のポルターガイストだっただからだ。
「今行くから待ってろ!!」
リランと呼ばれた少女の声は、磨りガラスのような繊細なソプラノに似つかわしくない乱暴な怒鳴り声を上げると、忙しなく階段を駆け下りた。
「おはよう寝坊助! いい朝だね!」
「思いっきり午後だ阿保!」
勢い良く開けた扉の先で、嫌味と共に出迎えた体格の良い燕尾服の男、ピーブズを一蹴したリランは机に置かれた手紙に目を細めた。
手に取ったそれには『リラン・エアクイル様』とエメラルドのインクで綴られ、裏返して見れば大きな紫色の蝋で封がされていた。『H』のエンブレムを囲む四匹の動物は、間違えようもなくホグワーツの紋章でリランは顔をそらす。
「そろそろかと思っていたが……。相変わらずどのタイミングでくるか分からん」
「ホグワーツの七不思議だねぇ〜」
羊皮紙の封筒を眉間にしわを寄せ開封するリランに、ピーブズはブドウを摘まみながら返した。
「———親愛なるリラン・エアクイル殿
このたびホグワーツ魔法魔術学校にめでたく入学を許可されましたこと、心よりお喜び申し上げます。教科書ならびに必要な教材のリストを同封いたします。新学期は九月一日に始まります。七月三一日必着でふくろう便にてお返事をお待ち申しております。
敬具 副校長 ミネルバ・マクゴナガル──」
読み上げた内容は記憶にたがわないものだったが、生憎あの時の感動など一ミリも湧かない。むしろ全力でお呼びでない入学許可書だった。
同封されていた二枚目と三枚目を確認したリランは、憂鬱に満ちた心のままに叫びたい気分だ。
「『通達 来たる七月二十日、ホグワーツより教職員がお伺いします』だってさ! 誰が来るか楽しみだねぇ」
追い打ちをかけるピーブズを睨み付け、リランはとりあえず落ち着こうと紅茶に手を伸ばした。
涼しげなレモンの風味が火照った喉を潤していく。暑さと緊張に渇いた体に冷えた水分が心地よかった。
ごくごくと喉を鳴らして飲み干していると、右側から視線を感じた。ピーブズだ。おちょくる以外の目的でマナー違反を咎めるような輩でもないし、送られるそれは悪どい興味を滲ませていて中々に鬱陶しい。
「……紅茶くらい好きに飲ませろ」
オモチャではないのだと、負けじと見つめ返してやるとピーブズは弁解するようにニマニマと笑った。
「いやぁ〜なんか感慨深くなっちゃってさァ! だって死体歴五年ですみたいなツラしてたお前が天下のホグワーツに通うんだぜ! しかも、こーんなに美人になっちゃって! ピーブズ信じらんな〜い」
なよなよと涙を拭うフリをして、面白がる本音を隠さず告げるピーブズに『自分が一番信じられない』とリランは遠い目で背後の姿見に映る自身を見つめた。
椅子に腰掛ける少女は、ブルージュの珍しい髪色をしていた。聡明な茶水晶の瞳は切長で鋭く釣り上がっているが、絹糸のような頭髪と同色の長く豊かな睫毛に縁取られていることで伏目がちの甘い印象になっている。
透き通ったきめ細やかな白磁の肌に、スッと伸びた鼻筋と形の良い小鼻。今は不快気に窄まっているが、サクランボの薄い唇は実に柔らかそうだ。淡い白地にブルーベルが散りばめられた七分袖のワンピースも大層似合っており、彼女の纏う冬の妖精のような美麗な雰囲気を年相応に見せていた。
五年に及ぶ養生生活で、リランは見違えるほどに美しくなっていたのだ。
食事が重湯からお粥に変わった頃は、美少女の片鱗など皆無だった。が、固形物を食して数ヶ月。リランの姿は信じられないくらいに変貌を遂げたのである。もっとも、やつれたゾンビ同然の顔など見たくないと鏡を避けていたリランが、自身の変化に気付いたのは三ヶ月ぶりにホグワーツから帰ってきたピーブズに指摘されてからだ。凄まじいビフォーアフターに二人とも混乱しきったのは早く抹消したい記憶である。
(まあ健康なのはいい事だが……)
はっきり言ってしまえばリランはこの外見を煩わしく思っていた。勿論、どストライクでガッチリ心を鷲づかまれたし、自分といえども本気で惚れかけた。だが、いくら好みのタイプとは言え目立ちたくない身としては非常に困る。
「マリアで、ある程度耐性がついた私がこんなに動揺したんだ。ただでさえ警戒してる相手の
「ぎゃははははッッ!!」
『向こう側』から転生した【クィレル】とこちらのクィレルは元は同一人物なのだ。自分同士の色恋沙汰なんて拷問は絶対にお断りだ。
笑ってんじゃねーよクソ悪霊。
「はぁ……いっそ記憶を消すか?」
「無理無理! 何度でも蘇るよ」
「それ好きだなお前。流石、悪趣味野郎」
先日公開されたばかりである日本作の映画をピーブズは気にいったようだ。世間の目もあり、リランは通信制の学校に通っている。元々マグル学の教授出会った故、早々に高校生レベルの知識を得た彼女は、尽きないマグルへの興味を満たす為様々な映画や書物に手を出していた。
その中でも特に日本は素晴らしい。リランは東洋の島国の食とアニメに心を盗まれた。ちなみに可憐な王女の心を盗んだ粋な怪盗の映画が好きである。
「そんなにビビんなくても、おれとピーバジーがいるしだいじょーぶだって」
「一番の不安要素なんだが。というか前から思っていたが、お前ら入れ替わりすぎじゃないか。絶対感づかれてるぞ?」
「平気だって! もう修羅場を乗り切ったし、五年もたってるんだ。万一知られてても、いつおれが分身したかなんてわかりゃしないぜ?」
「ああ、みみっちさは折り紙つきか」
リランは何の慰めにもならない励ましを切り捨て、手紙をたたむとバスケットのブドウを口に放った。甘い果汁に癒されるが、カレンダーの「20」に丸をつける右手は憤りに満ちている。
────ともかく、付き添いの教師がクィレルじゃありませんように
リランの
▼▽▼▽▼▽▼▽▼
「ホ、ホグワーツ魔法魔術学校から来ました……。ク、クィリナス・クィレルです。本日は、よ、宜しくお願い致します」
「ヨロシクオネガイシマス。ドウゾ、オアガリクダサイ」
戦々恐々の五日間を過ごし、当日の呼鈴に出てみればこれだ。フラグ回収おめでとう! と背後で嗤うピーブズに殺意を募らせ、リランは無感情にクィレルを招き入れた。
颯爽とお茶をだす洗脳済みの使用人にビクつきながら、クィレルはソファーに腰かけた。建前上、保護者のピーブズと慈悲深い雇い主のマリアに挟まれ、リランも座った。手紙は読んだかという確認に、愛想よく答えたピーブズに合わせてリランも薄く微笑んだ。
(社交辞令だ馬鹿野郎……! 真面目に照れるな!!)
案の定、動揺するクィレルを脳内でしばきたおし何とか取り繕う。リランは、出生の分かる孤児のマグル生まれだ(両親は非業の死を遂げたことになっている)。それ故、丁寧に魔法界を説明するクィレルを無心で眺め、機械的に相槌をうつ。長々と話したクィレルは、必要な書類に目を通したかと再び念を押し、教科書などの買い物をするには先ずはグリンゴッツ魔法銀行で換金しなければならないと締めくくった。
「さ、早速ですがダイアゴン横丁に向かいましょう。エアクイル殿、準備はよろしいでしょうか?」
「勿論です。魔法使いの街なんて楽しみですね。リランもそうでしょう?」
「エエ、トテモ」
昔と変わらない、唐突過ぎる出発と白々しいピーブズに疲弊しつつもリランはカーディガンを羽織り諦めた心持ちで家を出たのだった。
▼▽▼▽▼▽▼▽▼
「まあ! なんて綺麗なお嬢さんですこと! 腕がなるわ~! さぁ、こちらにどうぞ」
「……お願いします」
電車を乗り継ぎ、漏れ鍋を抜け、グリンゴッツの殺人トロッコを潜り抜けたリランは、現在マダム・マルキンの店で制服のサイズを測られていた。
ピーブズとクィレルは本屋で教科書と学用品を揃えにいっている。悪人ヅラのSPとターバン野郎と美少女の一行は人目をともかくひく。ろくに外出をしないリランは、人混みと好機の目に早々に気力を失っていた。幸いにして呉服店はいくらか人が少なかった。採寸中も衣服で隠されるので、リランはやっと一息つけた気分だった。手早く会計をすませ、通りで待っていたピーブズ達と合流したリランは、次に向かう店に心がざわついていた。
「こ、ここがオリバンダーの杖の店です。ここで貴女だけの杖を選ぶんですよ」
立ちすくすリランに感動していると捉えたのか、クィレルは誇らしげに語った。興味深そうに店内を見回すピーブズを横目にリランはひっそりとため息をつく。
(自分だけの杖と言われてもなぁ……)
魂がクィレルなのだ。どんな杖もきっと合わないだろう。
「これは、これは美しいお嬢さん。そんなに心配せずとも宜しいですよ。ここには全ての杖が揃っております故、安心なさい」
「っ!」
「さあ、杖腕をだしなされ」
滑るように現れたオリバンダーにリランは飛び上がった。驚く様をしたり顔で眺めるピーブズの手首に爪を突き立てリランはおずおずとクィレルを見上げる。
「……ぁ! き、利き腕をだすんですよ」
判断が遅い! 知らないふりも楽じゃないのだと、リランは動揺を見破られた腹立たしさをクィレルにぶつけた。
「まずはこちらを。黒檀とドラゴンの心臓の琴線、しなやか」
渡された杖をリランが振るか振らないうちに、オリバンダーにもぎ取られた。翁の予想外の握力に意表を突かれるも、リランは渡された杖を大人しく振った。
「サクラにウンディーネの羽。水魔法が得意」
ヒョイと振ったそれは杖の並ぶ棚を燃やした。水魔法はどこにいったんだ。
それからリランは何十本も杖を試した。
楓、不死鳥、葡萄にユニコーン……ありとあらゆる組み合わせは一向によい兆しを出さない。喜んでいるのはオリバンダーだけで、他の面子は疲れ切っていた。
「ほほう! 難しい客じゃのう……! まあ待て、キッチリ見つかるでな、そう慌てなさるな」
欠伸を堪えるピーブズにオリバンダーは笑いながら言った。ニヤニヤと奥の棚に入り込む翁にリランはかなりドン引きしていた。
──もうコイツの杖を奪ってやろうか
椅子に座りうつらうつらと首を傾けるクィレルに突拍子もない考えが浮かぶ。もう何でもいいから帰りたかった。
「おお、ありましたありました! これは中々珍しい一品でしてね────」
さっきも聞いたぞそのセリフ。何度も聞いた口上にいい加減疲れてきた。だが、彼女の眠気はすぐさま吹き飛ぶこととなった。
「──なんと! ユニコーンの血が付着したたてがみを使っているのですよ!」
(ファ────ッッッ!?)
オリバンダーの声を聞いたとたん、ピーブズは目を点にし、リランは白目を向いた。
何言ってんだこの爺さん! 何でそんなタイムリーなモノを持ってるんだ爺さん!! 爺さんッッ!!!
混乱に語彙が果てたリランに更なる追撃が襲いかかる。
「ハンノキとユニコーンの血の付着したたてがみ……おお! 一点を除けばちょうどそこのクィレル先生と同じですな」
「へぁッ……!? そ、そうですね」
──満更でもない顔するな童貞!! そのまま永眠していろ!!
最悪だ。変に親近感を湧かせてしまった。絶対めんどくさい。
「……ッ」
いっそハズレであれと懲りずに願うリランは、オリバンダーの圧に負けやけくそ気味に杖を受け取った。
リランが杖を手にしたとたん、じんわりと指先が温まった。
「……ッッ」
い、いやまだ……まだ焦る時間じゃない……!
いかにもな演出に泡を吹きそうになる。はるか昔に感じた記憶と違わないあの感覚。しかし抱いた感情は喜びの対極だった。
それでもリランは往生際悪く、最後の悪あがきとばかりに控えめに杖を振り下ろした。瞬間、月の煌めきが店内を包み込む。
「ブラボー!! ブラボー!! なんと美しい光景だ!!」
「す、素晴らしいですよ、Mrs.エアクイル!! って、ア……!?」
リランは舞い踊る羽と銀色の水が描く華々しい光景を死んだ瞳で見つめるしかなかった。
(知ってたよコンチクショウ)
無情な現実に耐えられなかったのかリランはいつのまにか涙を滲ませていた。ぼんやりとした視界の端で慌てるクィレルとしたり顔のオリバンダーが見える。何やら褒めちぎっているようだが、どれもリランには響かない。
感動の涙というならばそれで良い。頬を伝った一筋の本当の意味はピーブズにしか分からないだろう。