オフサイドがメジロ家の別荘に戻ったのは、陽がすっかり暮れた頃だった。
別荘に戻った彼女を待っていた者がいた。
フジヤマケンザンだった。
「先輩。早かったですね。」
昨日別れる時に後日ここに来ると聞いていたけど、すぐ翌日に来るとは思わなかった。
「マックイーン先輩から、色々聞いてな。」
取り敢えず中に入ろうと、ケンザンは促した。
「スズカに会いにいったそうだな。」
オフサイドが寝起きしている部屋に戻ると、ケンザンは座りながら尋ねた。
「どんな話をしたんだ?」
「スズカには会ってません。」
オフサイドも向かいあって座り答えた。
「会ってない?」
「体調を崩してしまいましてね。ルソーと会っただけでした。」
「そうか。」
また吐いたのかなとケンザンは推測し胸が痛くなった。
「スズカに会って、どんな話をするつもりだったんだ?」
卒業したとはいえ先輩であるケンザンは、オフサイドに対して遠慮なく尋ねた。
オフサイドは小考した後、答えた。
「限界を知ることの大切さを、教えてあげようと思ってました。」
「それだけか。」
「あとは、トウカイテイオー先輩やローレルの事を伝えようかと思ってました。」
「テイオーとローレルのことを?」
「二人とも、大怪我から奇跡の復活を果たした偉大なウマ娘です。恐らく今のスズカが最も目指している存在でしょう。その二人を間近で見てきた私は、その復活までの軌跡をこの眼で見てきましたから、それがどのようなものだったか伝えたかったんです。」
「お前だって、奇跡の復活を果たしたウマ娘だろ。」
「私をテイオー先輩やローレルと比べるのは、二人に失礼です。」
ケンザンの言葉に、オフサイドは唇元に微かに笑みを浮かべて首を振った。
テイオーもローレルも、奇跡の復活を果たしたレースはその名に相応しい最強の走りだった。
それに引き換え私は…
「1分59秒3の天皇賞覇者。奇跡の名に値しません。」
「そんなこと、オグリキャップ先輩が聞いたら怒るぞ。」
8年前、凡庸な優勝タイムながら『奇跡のラストラン』と大称賛されたオグリキャップの有馬記念のを持ち出すと、オフサイドはまた首を振った。
「オグリ先輩は違います。私と違って先輩はそれまで幾つも栄光をものにして、しかも決して休むことなく、ファンの為に走り続けたのですから。その数々の偉業と生き様を顧れば、ラストの有馬記念の優勝タイムなんて関係ありません。私は競走生活の大半が闘病で、ファンの為に走れたことなんて一度もありませんでしたから。」
バカ…
自虐というか、何もかも諦めきったような後輩の言葉を聞いて、ケンザンは胸が痛んだ。
お前は何度も〈死神〉に襲われながらも生還した、唯一のウマ娘だろうが。
ケンザンの眼は、ここ数年僅かな者しか見ていないであろう、分厚い包帯が巻かれているオフサイドの右脚に向けられた。
彼女以外、皆〈死神〉に走りを奪われた。
幸いケンザンは〈死神〉に罹らなかったが、チームの後輩がその魔の手にかかり無念にもターフを奪われていく様を何人も見てきた。
フジキセキ・マイシンザン・そしてナリタブライアン。
唯一人オフサイドだけは、走りを取り返した。
「今朝、マックイーンさんからすぐに来て欲しいと連絡が来た。」
ケンザンは、口調を重く改めて、オフサイドに言った。
「聞いた話では、お前…不穏な決意をしてるそうだが…本当なのか?」
ケンザンの詰問に、オフサイドはすぐには答えなかった。
生徒会長、話しちゃったのか。
「まさか、そんな訳はありません。」
「ブライアンとローレルに誓って、そうでないと答えられるか?」
首を振った後輩に、ケンザンは無情に詰問を重ねた。
「…。」
それは無理です…
「どうなんだ?」
詰問を重ねたケンザンに対し、オフサイドは追い込まれたように黙った。
本当だったのか。
黙ったオフサイドを見て、ケンザンは深く嘆息した。
まさか、そんな決意をしていたとは。
でもその決意は、考えてみれば無理もないとも、思った。
何故なら、オフサイドは余りにも背負い過ぎた。
〈死神〉にレースも走りも奪われ、絶望と苦痛の中で還っていく同胞達の無念を。
あの天皇賞・秋。
サイレンススズカが、幾千万の人々の無限に明るい夢と希望を叶える為に走っていたとすれば、オフサイドは〈死神〉に散った幾千万の同胞の無念と未来を背負って走った。
背負う、という言葉だけなら簡単だけど、彼女の背負い方は尋常じゃなかった。
現役時代先輩として彼女のその闘病の様をずっと見守ってきたが、〈死神〉に勝つ為ならあれほど背負わなければいけないのかと、ケンザンですら思わず吐きそうになるくらいに、彼女は背負っていた。
全て背負って、決死の覚悟で走った結末があれだ。
それはもう全てに絶望してもおかしくないだろう。
ケンザンの脳裏に、富士山麓の自宅で何度も嘔吐し苦悩していた彼女の姿が蘇った。
「許してください、先輩。」
黙っていたオフサイドが、目線を下に向けたまま言った。
「敗北者の私の、最後の望みなんです。」