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場は変わり、療養施設。
夕食の時間を終え、落ち着いた夜の時間を迎えた施設に、二人の来訪者があった。
三永美久とライスシャワーだった。
昨日、体調を崩していたライスだが、今はそれも大分治ったのか、普段の穏やかな優しい表情を見せていた。
だが、僅かではあるが、左脚を庇って歩いているように見えた。
また、瞳にも僅かに蒼芒が帯びていた。
施設内に入ると、美久とライスは一旦別れた。
美久は食堂へ。
ライスの方は、椎菜の医務室へと向かった。
医務室の前に着くと、ライスは扉をノックした。
コンコン。
「?どうぞ。」
「失礼します。」
「ライスシャワー!」
入室してきたライスを見て、机で事務をしていた椎菜は驚きの声をあげた。
「お久しぶりです、渡辺椎菜先生。」
驚いた椎菜に対し、ライスは静かに、どこか重たい口調の挨拶と共に頭を下げた。
「久しぶりね。二年ぶりくらいかしら?」
椎菜は驚きながらも、向かいの椅子に座るよう促した。
「そうですね。ご無沙汰してました。」
ライスは促された通り、向かいの椅子にゆっくり腰掛けた。
ライスは、3年半前の宝塚記念で現役生活を断たれる重傷を負った後、1年以上この施設で療養生活を送っていた。
その間、椎菜とも顔見知りになっていた。
ただ、二人が親しい仲にあるという訳ではない。
むしろ、椎菜は医師でありながら、ライスに対してあまり良い感情を持ってなかった。
理由は、ライスが大怪我を負った宝塚記念を制した、ダンツシアトルが関係していた。
ライスの回想で触れたように、シアトルはかつて〈クッケン炎(死神)〉を発症し長期の闘病生活を送ったウマ娘で、それを乗り越えた後に宝塚記念を制覇した。
〈死神〉を克服してG1を制した非常に希少なウマ娘であり、〈死神〉専門医師の椎菜にとっては悲願の生還者だった。
だが、前述のライスの大怪我もあり、シアトルの不屈の軌跡が語られ大きく称賛されることは殆どなかった。
いや、彼女の宝塚記念での勝ち方が強いレースぶりかつレコードだった点、また4年生とまだそこまで衰える年齢でなかった点から、今後シアトルが活躍することは間違いないので、わざわざライスの悲劇のレースで称賛する必要もないと思われたのだ。
しかし、シアトルは宝塚記念後に再び〈死神〉の魔の手にかかった。
その後の懸命の闘病も及ばず、シアトルは遂に再びターフに戻ることなく引退せざるを得なかった。
宝塚記念を制したので引退後の未来も拓けていたものの、シアトルにとってどこか寂しさとやりきれなさが残る引退だった。
それは椎菜も同じだった。
彼女の闘病を間近で見、その治療に全力を尽くした人間として、シアトルが称賛される姿を見たかった。
その無念の思いが、自然と大怪我を負ったライスに対する微妙な感情になった。
また、ライスの故障ばかりクローズアップする世間・報道にも、やりきれない感情を抱いた。
なんで誰も、シアトルのことを触れないの?
やりきれなさが募る内、その反動からライスに対する感情はかなり暗くなってしまった。
ライスも、それを分かっていた。
いや椎菜に限らず、他の〈クッケン炎〉患者のウマ娘達は同じような感情を自分に抱いてるだろうとも思っている。
当然だわ。
私は自分の怪我ばかりにとらわれて、シアトルさん達のことを全く考えなかったのだから。
「あなたがここに来た理由は、大体推測がつくわ。」
椎菜は、蒼芒が滲み出ているライスの眼を見て言った。
「サイレンススズカに、会いに来たのね?」
「ええ。でもその前に、椎菜先生にお伺いしたいことがありまして。」
「あら、何かしら?」
「ダンツシアトルさんのことです。シアトルさんは現在、どうされているのかを教えて頂きたいのです。」
胸中に痛みを感じながら、ライスは尋ねた。
「シアトルね…」
椎菜は机の引き出しから、〈クッケン炎〉で引退しその後余生を送っているウマ娘達の資料が保存されているファイルを取り出した。
「ダンツシアトルは、現在は九州にいるわ。」
「九州ですか?」
「引退後、余生の探し道にかなりに苦労したみたいでね。なんとかそっちの方で彼女を迎え入れてくれたウマ娘関係者がいたようで、そこで静かな余生を過ごしてるみたいだわ。」
そうですか…
ライスはほっとしたような、罪悪感に包まれたようななんとも言えない表情をした。
椎菜の言葉の内に、あの宝塚記念でのライスの怪我の影響を示唆するものがあったから。
「シアトルさんは、私のことを恨んでいるでしょうね…」
彼女の最高のレースを壊してしまったのだから…
「シアトルはあなたのことは恨んでないわ。あなたを恨んでいるとしたら、この私だけよ。」
椎菜は、あまり感情のない声で言った。
「あの子は、私にとって…いや、〈死神〉の治療に長年尽力してきた者達にとって、初めてといっていい生還者だったからね。サクラチヨノオーもアイネスフウジンもナリタタイシンも、その他無数のウマ娘達も〈死神〉に敗れゆく中で、遂に現れた悲願の生還者だった。…それなのに、ね。」
「…。」
椎菜の視線から、ライスは眼を逸らして俯いた。
「まあでも、あなたをそこまで恨む気にもなれないけどね。一番責めたいのは、シアトルをほぼ無視した同じ人間連中よ。彼等がどれだけ反省も成長していないか、今回の天皇賞・秋のことでよく分かったわ。…サイレンススズカもそう。」
サイレンススズカ…
その名前を聞き、ライスは再び椎菜を見た。
「先生は、スズカのことを恨んでいるのですか?」
「恨んではいないわ。ただあなたに対してと同じく、どうしても複雑な感情があることは否定出来ない。」
椎菜は、心の奥を吐露する様に答えた。
「あの秋天後の一連の事…勿論、それはスズカの責任じゃないけどね。周囲の者達の影響が大きいだろうけど…ただ彼女もあまりに無自覚過ぎるから。」
椎菜の口調に、あまり見せなかった感情が湧きだした。
「一連の騒動に関しての情報がシャットアウトされてるのはスズカの状態を考えてもやむを得ないことだと思うけど、自身の怪我のせいで他走者達にどれだけの影響を与えてしまったのかという思考が彼女に全くないことには愕然としてるわ。レースに挑むにおいて最後まで無事に走りきることの重要さをちゃんと学んでなかったのかな。だとしたら勿論、一番悪いのはそれを教えてこなかった者達だけどね。」
言い終えると、椎菜はやりきれない思いがこもった溜息を吐いた。
「それをスズカに教える為に、私はここに来ました。」
感情を露わに喋った椎菜に、ライスは静かに、覚悟を込めた口調で言った。
両眼の蒼芒が、更に光って見えた。
その時。
コンコン。再び医務室の扉をノックする音がした。
「どうぞ。」
「失礼します。」
その声を聞いた時、ライスの肌がぞくっと震えた。
「やはりここにいましたか、ライス。」
入室するなり、ライスを見て無機質な口調でそう言ったのは、制服姿のミホノブルボンだった。