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「何故、そんなことを言うのですか?」
闇夜の中、療養施設の遊歩道のベンチ。
ライスは、感情が湧き出しているブルボンの両眼を見据えた。
「あなたの行動は間違っていると思うからです。」
普段感情を全く表さないブルボンの瞳は、親友のライスを睨みつけるように見据え返していた。
「本当に、オフサイドトラップもサイレンススズカも救いたいのならば、まずあなたが生きることに徹するべきだと、そう思います。」
「生きることに徹する、ですか。」
ブルボンの言葉に、ライスはほんの少し微笑した。
どうやらブルボンさんも、マックイーンさんから私の脚の状態を知ったようね。
「そう仰いますが、もう私の脚は限界が近いことは決まってます。どんなに生きる道を模索しても、私の命はあと一ヵ月程でしょう。」
ライスは、達観したような口調で言った。
「だから、私は余命を一日でも延ばすことではなく、限られた命を活かす道を選んでいるんです。お分かりいただけますか、ブルボンさん。」
「分かりません。」
ブルボンは首を振った。
どこか、泣きそうな表情に見えた。
「私のトレーナーも、ライスと同じことを言ってました。でも私は、トレーナーにはもっと自分の命を大切にして欲しかったですから。」
ミホノブルボン。
彼女は現役時代、“精密機械”と仇名される程の緻密かつスピードに長けた逃げ戦法を武器に、朝日杯・皐月賞・日本ダービーを制したスターウマ娘。
そんな彼女を育てあげたのは、一人のベテラントレーナーだった。
ブルボンとトレーナーの関係は、他の追随を許さない程の厳しさと親密さがあった。
だが、トレーナーはブルボンの現役中に病歿した。
ブルボンが菊花賞でライスに敗れ、その後相次ぐ怪我で長期療養している頃、トレーナーも末期の不治の病にかかっていた。
彼はそれを隠して、ブルボンの復活の為に尽力していたが、菊花賞から一年経った頃、この世を去った。
トレーナーの死後間もなく、ブルボンも引退を決断した。
ブルボンには、そういった過去があった。
「私は、トレーナーに生きることを諦めて欲しくなかったのです。トレーナーは“ブルボンを復活させることが俺の最後の務め”と言ってましたが、私は悲しかった。トレーナーが生きてさえいれば、それだけで良かったんです。でも、トレーナーは最後まで私の為に命を削って、この世を去りました。最期の時、“俺が死んでも泣くなよ、諦めるなよ”と言葉を遺されて。…泣かない約束は守れましたが、ターフに戻ることは出来ませんでした。トレーナーの死で、心が折れてしまったんです。」
「ライ。今あなたがオフサイド・スズカの為にどれだけ尽力しようと、そのことであなた命が削られているのであれば、あなたの帰還後に、二人はその事実を背負えるでしょうか?」
「…。」
「二人…スズカはまだ分かりませんが、オフサイドに生きていて欲しいのならば、自らが生きる姿を見せることが、余命を削ることよりも大切なことではないのですか?」
「そうですね、」
ライスは一呼吸おいてから、答えた。
「余命が限られていても、少しでも永く生きることを優先するべき…それはその通りです。私も、何事もなければそうしていました。でも、このようなことが起きた現状、そうする訳にはいかないのです。この、同胞達の危機的状況の中では、この私にしか出来ないことがある。これは、命をかけてもやらねばならないこと。それを遂行するのが、あの宝塚記念後に生きることを許されたこのライスシャワーの使命であり義務なんです。」
ライスは、淡々と続けた。
「また、私が還った後にオフサイドやスズカがどうなってしまうか。…それは確かに不安です。でも、私が既に余命僅かだったことを知れば、二人が責任を負うようなことはないでしょう。むしろ、この私の最期の祈りを受け入れてくれると信じています。」
言い終えると、ライスはまた少し微笑をみせた。
「駄目です!」
ライスの返答と微笑に対し、ブルボンは首を強く振り、彼女らしくなく語気を荒げた。
「余命僅かと諦めているのならば、あなたはこの件に関わるべきではありません!」
「ブルボンさん。」
「ライス、あなたは間違っています。生きることを諦めたウマ娘の言葉になど、なんの説得力もありません。悲しみを振り撒くだけです。だからあなたは何もせず、永く生きる為に尽力して下さい。お願いですから!」
ブルボンの言葉と、その怒りと悲しみが入り混じった両眼を見て、ライスは胸が詰まった。
ブルボンさんは…私が還ってしまうという現実を受け入れられないんだ…
しばらくの間、重たい沈黙が二人の間に流れた。
やがて、
「ごめんなさい。」
ライスが、沈黙を破った。
「ブルボンさんの言葉には従えません。」
ライスの瞳は、泣きそうになってるブルボンの瞳に注がれていた。
「私は、どうなろうとも使命を遂行しないといけません。例え、マックイーンさんやあなたとの友情に亀裂が入ろうとも、です。」
「友情に亀裂が入る覚悟は私にもあります!私はただ、あなたがそのような状態で何が出来るのかと…」
「ミホノブルボン!」
なおも反論しようとするブルボンに対し、ライスは意を決したように大きな声を出して立ち上がり、黒髪を寒風に靡かせつつ蒼く光る両眼でブルボンを見下ろした。
「これ以上、私を止めようとしても無駄です!3年半前のあの宝塚記念で脚が砕けて以降、私は苦痛と罪悪感の中で必死に生きている理由を探してました!今、その理由がようやく見つかったんです。私と同じような怪我を負い、私よりも悪い状況下に置かれてしまったサイレンススズカを救う為に、私は生きてきたのだと!」
「ライス…」
「ブルボンさん。もうこれ以上私の状態を心配するのはやめて下さい。」
まだ何か言おうとする親友の言葉をライスは遮った。
「私に残された時間はもう僅かです。間もなく、このライスシャワーと永遠の別れの時が訪れる。どうかそれを受け入れて下さい。だから、これ以上私を苦しめないで。」
「…。」
ライスの血を吐くような言葉と眼光を受け、ブルボンはがっくりと項垂れた。
また、重たい沈黙が流れた。
聴こえるのは、闇夜を吹きつける冷たい寒風の音だけだった。
「先に戻ります。」
重く冷たい沈黙の中、ライスは最後にそうぽつりと言うと、項垂れたままの親友をおいて施設へ戻っていった。
駄目です…
ライスが去った後も、ブルボンは一人暗闇の中ベンチに座っていた。
私は受け入れられません。
ライスシャワー…あなたがもうすぐ還ってしまうなんて…
普段、感情を決して表に表さないブルボンは、眼に涙を浮かべて唇を震わせていた。
施設に戻ったライスは、食堂で待たしてした美久のもとへ向かった。
「ライス、どうしたの?」
食堂に来たライスを見るなり、美久は心配そうに声をかけた。
表情がなんか落ち込んでたし、心なしか左脚を引き摺っているようにも見えたから。
「大丈夫よ、宿泊部屋にいきましょう。」
ライスは努めて笑顔で答えると、美久と共に来訪者用の宿泊部屋へ移動していった。
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場は再び、メジロ家の別荘。
別荘の一室で、メジロ家の使用人を伴いながら、ケンザンは誰かに電話をかけていた。
『プルルル・プルルル…おかけになった電話は、現在…』
く…。
何度かけても繋がらない電話に、ケンザンは唇を噛んだ。
直接行くしかないな。
そう呟くと、ケンザンはすぐさまコートを羽織り、外出の支度をした。
「お出かけですか?」
「ええ、今晩はもう戻りません。」
外出の支度をととのえ別荘を出たケンザンは、使用人にこう告げた。
「マックイーンさんに、私は『フォアマン』のトレーナーに会いにいったとお伝え下さい。」
そのマックイーンは、別荘の自室でこちらも電話をかけていた。
マックイーンが電話をかけていた相手はパーマーだった。
彼女に、昨晩に話した計画は白紙にし、そして明日に緊急生徒会会議を行うことを伝えた。
『何があったの?』
「全ては会議でお話ししますわ。」
戸惑いと疑問だらけのパーマーを手短に説得し、マックイーンは電話を切った。
その後、少し間を置いてから、マックイーンはまた電話をかけた。
相手は、『スピカ』のトレーナーだった。
「もしもし、沖埜トレーナーですか?…はい、お久しぶりですわ。体調は…それは良かったですわ。…明日早朝、生徒会室へ来てください…宜しくお願いします…では…」
『スピカ』トレーナーとの電話を終えると、マックイーンはまたぐったりと椅子にもたれた。
止むを得ないことですわ…
もたれながら、マックイーンは机の引き出しから幾つかの報道紙の記録を取り出し、厳しい表情でそれを見た。
その報道紙には先の天皇賞・秋に関する記事が書かれており、その中にはサイレンススズカの所属するチーム『スピカ』のトレーナーのコメントが大きく書かれていた。
〈「優勝タイムを見ても、スズカが怪我しなければ圧勝していたことは明白」〉
〈「スズカがあんなタイムにバテるわけがない。やっぱり千切ってた」〉
〈「無事なら、10バ身以上の差で大レコード勝ちだった」〉
重いですわ、でもこれは仕方ないことなのです…
責任は負って頂かねば。
厳しい表情のまま、マックイーンは唇を噛み締めた。