1998年11月1日「消された天皇賞覇者」   作:防人の唄

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堕天使(1)

 

*****

 

 

夜遅く、療養施設。

 

もうこんな時間か…

特別病室で一人読書をしていたスズカは、就寝時間が近づいたのを確認すると本を閉じた。

 

今日は疲れたな。

ベッドに横になると、スズカは初めてのリハビリを行った身体の、疲労が残る箇所に手を当てた。

2ヶ月近く寝たきりだったから、軽めとはいえリハビリは思ったより大変だった。

ここ最近はずっと順調に快復してこれてたけど、今日は壁にぶつかったな…

昼間も感じたことを、再び思った。

 

とはいえ、復活への道のりは平坦じゃないことは分かっていたので、この程度は予測していた。

むしろ、疲れたもののショックとかはなかったから、安心もあった。

 

 

だけど、身体の疲労とは別に、スズカには気がかりなことが二つあった。

 

一つは、今日会える筈だったオフサイドトラップのこと。

ずっと待ち望んでいた慕う先輩と会えなかったのは残念だけど、有馬記念が終わったら会えるだろうから、そのこと自体はそこまで気にしていない。

ただ、彼女が体調を崩した、ということが気がかりだった。

もしかして、無理して会いに来てくれたのかな…

有馬記念に差し障りがなければ良いけどと願いつつ、スズカは彼女の体調が快復するよう祈った。

 

そして、もう一つ気がかりなのは、スペシャルウィークのこと。

いつも明るい天使のようなスペが、何故だか午後から表情が冴えず、元気もあまりなくなっていた。

気になって何度か尋ねたが、スペは気にしないで下さいとぎこちない笑顔で答えるだけだった。

そのまま今日は最後まで、スペはらしくない暗い表情のままだった。

夕食の量もいつもは5人分なのに4人分くらいだったし、ニンジンも10本くらいしか食べてなかった。

いつもは就寝直前までいてくれるのに、この日は一時間くらい前に自室へ戻ってしまった。

 

どうしたんだろう…

彼女の暗い様子が、スズカはかなり気になっていた。

レースで負けた悔しさで泣き顔になるスペなら何度も見てきたけど、明らかに暗い表情というのは殆ど見たことがなかった。

その理由も思い当たらない。

 

ただ一つ考えられるとすれば…

オフサイド先輩が会えなくなったという報告を私にした後から、スペさんは元気がなくなった気がする。

ということは、スペさんも、オフサイド先輩と私が会えなかったことが残念だったのかな。

スズカはそうかもしれないと思った。

スペさんに対してオフサイド先輩のことを語ったことはあまりないけど、私が先輩を尊敬していることは知ってたのかもしれない。

もしかして先輩が会いに来てくれた(会えなかったとはいえ)のは、スペさんが希望してくれたからなのかな?

だとしたら凄く嬉しいし、落ち込んで欲しくない。

スペさんには、ずっと笑顔でいて欲しいから。

 

親友以上に愛しているスペの心情を想いながら、スズカは毛布を被った。

 

 

 

*****

 

 

就寝時刻を過ぎた頃。

 

「…はあ。」

〈クッケン炎〉患者病棟の、ルソーの病室。

 

なかなか寝ることが出来ないルソーは、溜息を吐いた。

心がどうにも落ち着かないし、そのせいで〈死神〉を患っている脚も痛みが走る。

1階にある自販機で飲み物でも買ってこよう。

ルソーはベッドから下り、松葉杖をつきながら重い足取りで病室を出た。

 

まいったな。

既に消灯し、非常用蛍光灯だけが灯る暗い廊下を歩きながら、ルソーは険しい表情で何度か頭をコツコツ突いていた。

彼女を悩ませていたのは、オフサイドトラップへの不安だ。

 

『あとは、頼んだわ』

昼間、施設に訪れた先輩が別れ際に放った言葉と、そのどこか達観したような表情がずっと頭に残り続けている。

先輩のことだから大丈夫だと思うが、まさか…

ずっとその不安が、胸に残り続けている。

 

だが、今ルソーを最も苦しめているのはオフサイドへの不安ではなく、スペへの怒りだ。

 

昼間、スズカと会おうとした先輩をスペが阻止したと聞いた。

先輩は大分表現を抑えていたが、多分かなりきつい言葉と態度を浴びせたのだろうと、会いに行く前と後の先輩の状態の違いからそう推測している。

 

あの小娘…

直前までかなり気に入っていた後輩の姿と笑顔が、今は気に入ってしまった自分に怒りが湧く程、許し難い存在になっていた。

休めば少し落ち着くと思ったが、新たにオフサイドへの不安まで沸いた分、スペへの怒りがより大きくなってしまった。

 

落ち着いて…

ともすればそれを行動に移しかねない自分を、ルソーはなんとか制御していた。

ただでさえ先日、報道への怒りを爆発させ暴走しかけた自分だ。

もう、あんなことはしてはいけないんだ。

あの時、暴走した自分を必死に抑えた椎菜と後輩達のショックを受けた表情が、胸の痛みと共に蘇った。

 

抑えなきゃ、耐えなきゃ。

胸中を渦巻く苦悩の中、ルソーはポケットからシグナルライトの写真を取り出し、亡き彼女の笑顔を見つめた。

シグナル、助けて…

同胞への不安と怒りに苦しみながら、ルソーは自販機の側まで来た。

 

と、

「あ。」

ルソーは、ハッと足を止めた。

暗かったので側に来るまで気づかなかったが、自販機の傍には一人、ウマ娘が座り込みながら飲み物を飲んでいたからだ。

 

しかもそれは、寝巻き姿のスペだった。

 

 

 

「やあ。」

…っ?

暗闇の中から震える口調で声をかけられ、スペはちょっと驚いたように立ち上がり、声のした方を見た。

「あ、ルソー先輩でしたか。」

お化けかと思いました。

暗闇から現れたルソーの姿を見て、スペはほっとしたように息を吐き、努めて明るい声で声をかけ返した。

 

ところが。

「…。」

ルソーはコツコツと松葉杖をつきながら足早くスペの目の前まで近づくと、腕を伸ばしてスペの寝巻きの襟首をぐいっと掴んだ。

「⁉︎」

「スペ…」

驚愕したスペを、ルソーはそのまま持ち上げるような勢いと力で、廊下の壁に押し付けた。

 

 

*****

 

…?

眠りについていた特別病室のスズカは、不意に胸騒ぎを感じて目を覚ました。

 

何、この胸騒ぎは…

スズカは胸に手を当て、不安な表情を浮かべた。

スペさん?

胸騒ぎの中、何故か、今日ずっと表情が暗かったスペの姿が脳裏に蘇った。

 

 

*****

 

「ル、ルソー先輩?」

「スペシャルウィーク、覚悟はいい?」

 

自販機の灯りと非常用蛍光灯だけが灯る暗い廊下。

松葉杖をついたルソーは、壁際に押し付けられ怯えた様子のスペの襟首を震える腕で握り締めながら、我を失ったような蒼白な表情になっていた。

 

彼女の掌にあったシグナルの写真が、床にはらりと落ちた。

 


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