「あなた、一体何をしたの?」
ルソーは腕の力を緩めず、スペに詰問した。
「離して…下さい…」
襟首を強く掴まれたスペは苦しそうにもがき、両手でなんとかルソーの腕を襟首から引き剥がした。
「ゲホッ…ゴホッ…。ルソー先輩、突然どうしたんですか?」
咳込みながら訳わからないという表情で尋ね返したスペの前に立ちはだかったまま、ルソーは詰問を続けた。
「今日の昼間、オフサイド先輩に何をしたのか、尋ねているの…」
「オフサイド先輩とのこと…」
ああ、そういえばルソー先輩も、オフサイド先輩と同じ『フォアマン』の仲間でしたね。
合点がいったスペは息を整えながら、怯えていた眼をキッと強く見開き、ルソーを見返した。
「私はオフサイド先輩に対して、先の天皇賞・秋での言動について色々質問しました。」
「質問…具体的にどんなことを?」
「何故、スズカさんの怪我を喜んだのかを、尋ねました。」
やっぱりそうだったのか。
「喜んだ、ねえ。」
今度こそ手が出そうだったが、ルソーは深呼吸してそれを耐えた。
「それだけ?多分質問だけじゃなくて、先輩を責めたんでしょ?」
「はい、」
ルソーの殺気を肌に感じながらも恐怖を押し殺し、スペも強気の口調で答えた。
「あのような内容のレースで勝って嬉しいのか、良心の呵責はないのか、ウマ娘の使命を忘れてしまったのか詰問しました。」
「“あのような内容”?」
ルソーは松葉杖を足元にガンッと突き立てた。
「それ、どういう意味よ。」
「スズカさんが怪我した結果勝てた内容のレースなのに、という意味です。」
「あんた、それ言ったの?」
「ええ。」
愕然としたルソーに、スペは当然でしょうというように答えた。
「あの天皇賞・秋は、スタートから内容も展開も、スズカさんが圧倒してたレースです。怪我がなければ1分57秒代かそれ以下のゴールは確実だったでしょう。オフサイド先輩の優勝タイムは1分59秒3です。怪我さえなければスズカさんが圧勝していたことは間違いないのは明らかです。」
「何。つまりあんたは、オフサイド先輩の勝利を否定してるの?」
ルソーが唇を震わせながら尋ねると、スペは淡々と答えた。
「それは否定してません。結果的にとはいえ、オフサイド先輩があのレースを制したことは事実ですから。私が問い質したのは、何故レース内容やスズカさんの状態を全く慮ることない、謙虚さのない言動をして、ファンの人達の心を傷つけるような言動をしたのかです。かつては同じ『フォアマン』のチーム仲間だったのに…ご自身も故障を何度も経験して、その辛さを知ってる筈なのに。」
「ハハ、アハハハ…」
唐突に、ルソーは笑い出した。
「何がおかしいんですか。」
「いや、まあね。笑うしかないよ。人間だけならともかく、同胞でもこんな思考するウマ娘がいたなんてさ。」
「どういう意味ですか?」
「まあ当然か。絶望を知らないウマ娘達と、絶望の世界で生き続けているウマ娘の違いだから。あんたと同じ考えの同胞もきっと多いんだろうね。」
「絶望の世界?」
スペは、意味が分からないという表情をした。
「これは言葉で分かることじゃないから。」
笑っていたルソーはふーっと大きく深呼吸し、改めてスペを見据えた。
「あんたはオフサイド先輩のことを全く理解してないようだけど、先輩の方は、あんたのことを“生まれながらに命の重みが分かっているウマ娘”と言って、決して責めようとはしなかったわ。」
「え?」
「私も先輩にあんたを責めないよう命令された。でも、もう無理。例え悪気が全くなくても、私はあんたを許せない。」
そう言うと、ルソーは拳を握りしめた。
「私を逆に責める気ですか。」
怒りを露わにしたルソーを、スペは全く怯まない視線で睨み返した。
「どんなにことをしても結構ですが、そんなことでオフサイド先輩が酷い言動をしたことは消えません。」
「黙れ!全てが分かったようにオフサイド先輩を語るな!」
ルソーは声を荒げてスペの胸ぐらを掴み上げ、思わず拳を振り上げた。
「やめなさい!」
振り上げられたその拳を、背後から現れた何者かがギリギリで掴み止めた。
「誰よ⁉︎」
ルソーは怒声を上げて振り返った。
寸前で彼女を止めたのは、物音を聴いて駆けつけた椎菜だった。
「何があったの?ルソー。」
椎菜は、ルソーとスペを交互に見ながら、驚きと心配を込めた表情で尋ねた。
「…。」
椎菜の姿を前に、怒りを爆発させかけていたルソーは、大きく息を吐きながら、振り上げていた拳を下ろした。
だが質問には答えず、椎菜の腕を振り払うと、スペを再び見た。
「スペシャルウイーク。私はあんたを許さないわ。絶対に。」
最後にそう言うと、ルソーは松葉杖を突きながら荒い足取りでその場を去っていった。
「一体何があったの?」
ルソーが去った後、椎菜は床に腰をついているスペに尋ねた。
「はい。」
スペは胸元を握りしめて呼吸を整え、それから正直に答えた。
「今日の昼間、オフサイド先輩と会った際のことを、ルソー先輩にお話しました。」
「オフサイドトラップと会った?」
それが初耳の椎菜は驚いた。
昼間、スズカと会う予定だった彼女が急な体調不良を理由にそれを止めたということはスズカ担当医からの報告で聞いていたが、スペと会ったということは全く聞いていなかった。
「どこで会ったの?」
「屋上です。スズカさんに会いに来た先輩を私が呼び止めました。どうしても尋ねたいことがあったからです。」
その後スペは、先程ルソーに答えた内容同じことを、椎菜に全て伝えた。
「成る程ね。」
全てを聞き終えた椎菜は、表情は努めて変えなかったが、壁にもたれて大きな溜息を吐いた。
オフサイドが体調を崩したのはそういう訳か…
それは、ルソーも激昂するわね。
一足遅ければ、スペの命の危険もあったかもしれないわ。
先日の暴走しかけたルソーの姿を思い出し、汗を拭った。
「あ。」
つと、スペが何かに気づいたように声を上げ、足元に落ちていた何かを拾い上げた。
「これは、誰かの落とし物でしょうか?」
見知らぬウマ娘が満面の笑顔で写っている写真を見て、スペは呟いた。
「あら、それはルソーのものだわ。」
写っているウマ娘が誰だか知っている椎菜は、それを受け取った。
「…あなたは、これが誰だか知ってる?」
何を思ったのか、椎菜はその写真を再度スペに見せながら尋ねた。
「…いえ、知りません。」
…だよね。
「この子はね、ルソーの同期で『フォアマン』のチーム仲間だった、シグナルライトという子なの。」
「シグナルライト先輩ですか。笑顔が素敵な先輩ですね。」
彼女のことを全く知らないのか、スペはその名前を聞いても特に反応を見せなかった。
「あなた、シグナルライトのことは知らないの?」
「え、知りませんが?」
そうか…
椎菜は再び溜息を吐いた。
まあ、知らないウマ娘も多いだろうね。
シグナルライトは目立った実績のあるウマ娘じゃなかったし、何よりあの日経賞については、レース動画の配信も停止され、語ることが暗黙に禁じられている現状だし。
「あの、もしかしてその先輩が、今回のことに何か関係があるんでしょうか?」
椎菜の様子を見たスペは、鋭く尋ねてきた。
「私からは何も言えない。」
椎菜はそう言うと、写真をポケットにしまった。
そしてスペに対し、怒りよりも哀しさを込めた口調で言った。
「スペシャルウィーク。あなたはオフサイドトラップもサイレンススズカも、致命的に不幸にしてしまったかもしれないわ。」
暗い廊下で、その声は重く響いた。