致命的に不幸にした?
椎菜の思いがけない言葉が、スペシャルの胸を氷のように冷たく侵食した。
「それは、どういう意味なんですか?」
スペは少し慄えながら、それでも口調は強気に問い返した。
…。
椎菜はその表情を見て、少し考えてから、言った。
「知りたいのなら、教えてあげるわ。」
そう言うと、暗い廊下を歩き出した。
「はい。」
スペは小さく頷き、彼女の後を追った。
椎菜はスペを連れて、自分の医務室に戻った。
「そういえば、ちゃんと自己紹介してなかったわね。」
室内の椅子に向かいあって座ると、椎菜は気づいたように言った。
スペとは何度も療養施設で会って会話も交わしている位の顔馴染みだが、自分が何の専門医かは教えてなかった。
「私は渡辺椎菜。〈クッケン炎〉専門医師として、十年以上前からここに勤めているの。」
「〈クッケン炎〉ですか。」
スペはちょっと驚いた。
彼女も、その病は知っている。
ウマ娘にとってかなり怖い、治るのが困難な脚の病気だと。
「だから、ホッカイルソーとは長年の付き合いでね、彼女のことをよく知ってるわ。」
「ルソー先輩も、〈クッケン炎〉を患っているんですか?」
「そうよ。あの子はもう3年近く闘病生活を続けているの。」
「え、そんなに長くですか。」
「ターフに一度も戻れないままね。」
「そんなに…大変なんですか。」
スペは思わず口元に手を当てた。
クッケン炎の病名は知っていたが、それを患っているウマ娘と会ったことは殆どなかった。
その病の恐ろしさは、スペが学園に入学して以後にマヤノトップガンやサニーブライアンといったG1覇者の先輩がそれに罹って引退に追い込まれているので、なんとなくだが感じてはいたが。
「本当に怖い病気なんですね、〈クッケン炎〉は。」
「“怖い”、ね。」
椎菜はスペが呟いたその台詞に、思わず苦笑いした。
「どうしたんですか。」
その苦笑に違和感を覚えたスペが尋ねると、椎菜は苦笑いしている口元に指を当てながら、言った。
「あなたが思う“怖い”は、“この病に罹ったら引退に追いこまれる”、だからでしょう?」
「はい。」
何も間違ったことは言ってないと思い、スペは素直に頷いた。
「あなたはダービーウマ娘だからね。そう思うのは無理ないわ。でもね、」
椎菜は笑みを消し、スぺの眼を見て、無感情な口調で言った。
「引退出来るのは、あなたみたいにターフで大きな実績を挙げたウマ娘だけ。そうでないウマ娘にとって、この〈クッケン炎〉は、〈死神〉も同じよ。」
「〈死神〉?」
「ええ、〈死神〉。それも、本当の意味でのね。」
「それは、罹ったが最後“帰還”に追いこまれるという意味、じゃないですよね?」
「その通り、帰還に追いこまれるのよ。」
信じられないというスペに対し、椎菜は冷然と答えた。
「それも、夢も希望も消え精魂尽き果てた末の、絶望しかない帰還だわ。」
「嘘ですよね。」
そんなこと、想像したこともないスペは耳を塞ぎながら首を振った。
「嘘じゃないわ。事実を言えば、ほんの2日前に、あなたと同期で〈クッケン炎〉〈死神〉に罹っていたウマ娘が帰還したわ。」
「私と同期の子が?」
「エルフェンリートという、1年以上闘病を続けてきた子でね。一度もターフに立てずに、〈死神〉に屈したわ。最期に、ターフへの想いの言葉を遺して、泣きながら帰還していった。」
「嘘ですっ!」
スペは、思わず叫んだ。
私と同期の、まだ2年生の仲間が一度もターフに立てないまま、絶望の果てに帰還した…?
「そんな悲しいこと、ある訳ありません!」
「残酷だけど、本当のことなの。」
「なんですか…椎菜先生、まるでその現場にいたような口ぶりですね。」
嘘だと願うスペはそう言って椎菜をキッと睨んだ。
だが、その視線と言葉に椎菜は即答した。
「現場にいたどころか、そのリートに帰還の処置を執行したのはこの私よ。」
「え?」
「リートだけじゃないわ。ここに勤めて以降、〈死神〉に未来を奪われたウマ娘達を、私はこの手で百人以上帰還させたわ。」
「そんな…」
普段、笑顔が絶えない明るい天使のようなスペは、想像しなかった残酷な世界の一端を耳にして、完全に青ざめていた。
「まだ信じられない?」
「…。」
スペが無言で頷くと、椎菜はまた少し思考した後、意を決したように立ち上がった。
「ついて来な。現実を見せてあげるから。」
「…。」
スペは、少しふらつきながら立ち上がった。
医務室を出た椎菜がスペを連れて行った先は、施設の奥にある地下通路の方だった。
なんですか、ここは…
施設内の他の通路と違う、不気味な程の静けさに覆われたその通路を、スペは何故だか込み上げてくる悪寒を押し殺しながら、椎菜の後ろに続いて歩いた。
やがて、その通路の奥にある、部屋の扉の前に着いた。
椎菜は持ってきた鍵で扉を開けて先に室内に入り、電気を点けた。
「入りな。」
「…?」
やや震える足で室内に入ったスペは、怪訝な表情を浮かべた。
室内の中心にベッドが一つあるだけの、殺風景な部屋。
医務室でも病室でも治療室でもないような部屋だ。
「ここは、何の部屋ですか?」
スペの問いかけに、椎菜は無感情な口調で答えた。
「ここは、病に未来を奪われたウマ娘の帰還室よ。」
「え…。」
スペは凍りつき、それからハッと部屋の中心にあるベッドに眼を向けた。
まさか、あそこで…
そう察した時。
“還りたくない”
スペの頭の中で叫び声が聞こえた。
“痛い、最期まで痛いの”
“嫌だ、還りたくない”
“誰でもいいから〈死神〉に勝って”
“先生、ごめんなさい”
“〈死神〉が憎いよ”
“一度でいいから、ターフに立ちたかった”
「あっ…あっ…ああ…」
スペは頭を抱え、眼を見開いて呻き声をあげた。
「スペ?」
椎菜が声をかけるよりより先に、スペは床に崩れ落ちた。
ほんとだった…
薄れゆく意識の中で無数に交錯する最期の叫びの数々に、スペはその事実を悟った。
こんな残酷な世界が、あったんだ…