う…
眼を開けると、電灯の薄暗い灯りが眼に入った。
ここは…
「眼は覚めた?」
椎菜の声が聞こえ、スペは身を起こした。
いつのまにかスペは、椎菜の医務室のベッドに寝かされていた。
「あの、私は…」
「帰還室で倒れたのよ。」
現状を把握出来ていないスペに、椎菜は淹れたての温かいお茶を差し出した。
「身体に異常はなかったわ、どうやらかなりのショックを受けたようね。」
「そうだったんですか…」
頭痛が残っているのを感じながら、スペはお茶を受けとった。
手も若干、震えが残っていた。
その様子を見て、椎菜は聞いた。
「本当だと、分かったようね。」
「…はい。」
スペは暗い表情で、重たく頷いた。
「声が、聞こえました。」
「声?」
「還っていったみんなの、悲しみに満ちた叫び声が…」
言いながら、また全身に震えが走った。
「そう。」
スペの感受性の強さに、椎菜は少し驚いた。
そういえば彼女は、生まれた時から命の重さを感じて生きてきたウマ娘だったわね…。
椎菜も少し表情を俯かせ、お茶を飲んだ。
十分程経った頃。
「大丈夫?少しは落ち着いた。」
椎菜は改めて、スペに問いかけた。
「はい。」
まだ頭痛があったが、スペはベッド上で身を起こした姿勢で頷いた。
じゃあと、椎菜は続きを教えようと傍らの椅子に腰掛けた。
普通ならスペの身を慮って彼女を部屋に帰すのだが、今回は内容が内容だけにそうしなかった。
「さっきも言ったけど、あの地下にある部屋が、主に〈クッケン炎〉で未来を奪われたウマ娘達が還っていく場所よ。ここ4、5年だけで、100人以上の子があの部屋で還っていったわ。入ったら最後、二度と生きて出ることの出来ない最期の部屋。生きてあの部屋を出られたウマ娘は、多分あなたが二人目よ。」
「…。」
重い内容にスペはぞっとして、思わずシーツを握りしめてた。
…二人目?
椎菜の胸に言葉が引っかかった。
「もう一人は、誰なんでしょうか?」
「オフサイドトラップよ。」
「え?」
「最も、彼女が帰還に追い詰められた訳じゃないけどね。オフサイドは、何十回となくあの部屋で、〈死神〉に敗れて還っていく同胞達の最期を看取ってたの。自身、〈死神〉に蝕まれた身体で。」
「オフサイド先輩も、〈クッケン炎〉に罹っていたんですか?」
「え、それも知らなかったの?」
「度重なる大きな故障を乗り越えたということは知っていましたが、その症状までは知りませんでした。」
「あ、そう。」
天皇賞・秋関係のTV報道でも、彼女がクッケン炎を患っていたことは殆ど伝えられてなかったわね。
まあ長年の付き合いかチーム仲間でもない限り、病状までは知らなくても不思議じゃないか。
「そうよ、オフサイドトラップの故障は〈クッケン炎〉だわ。それも、1年や2年の闘病じゃない。ざっと4年半以上にわたる闘病よ。」
「…4年、半…?…」
「今のあなたの学年である2年生の夏に患って以降ずっとよ。4年半のうち、約3年の歳月をこの療養施設で過ごしたわ。」
「それってつまり、一度の発症じゃなかったということですか?」
「その通り。〈クッケン炎〉が〈死神〉と呼ばれる所以は不治かつ再発症する病であること。オフサイドもその例外じゃなかったわ。例外どころか、彼女は3度の〈死神〉発症、計4度の長期療養を余儀なくされたわ。」
「4度…」
「2年生の7月〜12月・3年生の2月〜12月・4年生の1月〜11月・5年生の5月〜6年生(今年)の3月。その間、他の闘病仲間は300人以上が引退し、うち100人余りがあの部屋で還っていった。」
「ターフに戻れた方は、どの位いるんですか?」
「勿論、一時的に治ってターフに復帰出来る子は多くいたわ。サクラチヨノオー、メジロライアン、ナリタタイシンとかね。でもそのうちの殆どが再発症、或いは成績不振に陥って、結局ターフを去らざるを得なかった。〈死神〉に罹った後にターフで実績を挙げることが出来たウマ娘は、私が勤めてからの十数年間で、5人もいないわ。そのうちの一人が、オフサイドトラップだったの。」
「…。」
椎菜の言葉の途中から、スペは頭に手を当てながら、ふらふらとベッドを下りた。
「どうしたの?」
「すみません。まだ理解が追いつかなくて…。今晩はもう休んでいいですか。」
そう言ったスペの表情は、普段の明るさが全くなく、悪夢でも見ているように蒼白だった。
「分かったわ。」
彼女の状態を慮り、椎菜は頷いた。「続きはまた明朝話してあげるから。」
「はい…。」
「一人で戻れる?」
「大丈夫です。お話、ありがとうございました…。」
スペは頭を下げると、おぼつかない足取りで医務室を出ていった。
スペが出ていった後、椎菜はしばしの間一人でお茶を飲んでいた。
お茶を飲み切った後、彼女も医務室を出た。
彼女が向かった先は、ルソーの病室だった。
病室に着くと、もう深夜だったが、ルソーは起きていた。
窓の側で椅子に座って、じっと真っ暗な外を眺めていた。
「椎菜先生。」
「落とし物よ。」
椎菜は先程拾ったシグナルの写真をルソーに差し出した。
「あ…」
…落としちゃいけないものを落としてた。
ルソーは暗い表情で溜息を吐きながらそれを受け取り、胸にしまった。
写真を渡した後、椎菜は立ったままルソーに言った。
「スペシャルウィークに、オフサイドトラップのことを少し教えたわ。」
「え?」
ルソーは表情を険しくさせた。
「先輩の、何をですか?」
「彼女が〈クッケン炎〉を患ったウマであること。そして〈クッケン炎〉がどんな病気であるかということと、その病に脚を奪われ走れなくなった同胞がどれだけ帰還していったのか、その場に連れて行って教えたわ。」
「その場?」
「帰還室。」
帰還室…
ルソーは思わず震えた。
出来れば想像もしたくないその部屋には、彼女も立ち入ったことはない。
「本当に連れていったのですか?」
「うん。彼女、同胞が数多く還っていった事実を信じようとしなかったから。」
「随分、恐ろしいことをしましたね。スペは大丈夫でしたか?」
「倒れたわ。」
「倒れた?」
「一時的にだけどね。相当なショックを受けたみたいだわ。還っていった仲間達の声が聞こえたって言ってた。」
「じゃあ、彼女も分かったんですね。絶望の世界の存在を。」
「うん。」
そうか…あの純真無垢で愚かなウマ娘も、知ったのか。
「スペ、苦しんでいたでしょうね。」
「真っ青になってたわ。仕方ないわね、レースの明るい世界しか知らなかったのだから。」
「同情の余地はありません。スペは苦しんで然るべきです。」
ルソーは冷たい口調で言った。
オフサイド先輩が彼女の言動でどれだけ心に傷を負ったか、それに比べれば大したことはない。
「許す気もありません。例え同胞であろうと、先輩を苦しめた者は…。」
「あなたが、それ程の重い感情を同胞に抱くとはね。」
ルソーの言葉を聞き、椎菜はやや嘆じるように言った。
…。
言葉が胸に突き刺さったように感じ、ルソーは眼を瞑った。
「絶対間違っていることですよね、同胞にこんな感情を抱くなんて。シグナルが今の私を見たら、どれだけ嘆くでしょうね。」
小声でそう言うと、ルソーは両膝を椅子の上に組み、顔を埋めた。
シグナルライト…
その名を聞き、
「ルソー。」
椎菜はつとルソーの側に寄った。
「なんですか?」
「あなたに、お願いがあるの。…2年前の日経賞の出来事を、スペに教えてあげて欲しい。」
「え…」
「これは、あなたにしか出来ないことなの。」
重い口調で、椎菜は頼んだ。