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2年前の3月16日(土)、中山競バ場。
この日開催されたレースは全て終わり、静かになった場内の観客席に、二人のウマ娘が並んで座っていた。
共に3年生で、チーム『フォアマン』所属のホッカイルソーとシグナルライトだった。
「いよいよ、明日だね。」
「そうですね。」
曇り空の下、ルソーとシグナルは、高揚感が滲み出る口調で会話していた。
二人は明日開催される『日経賞(G2・2500m。天皇賞・春トライアルレース)』に出走する。
古バ戦線に参戦して以降、一番の大きなレースを迎えようとしていた。
「二人で1着・2着を取って、天皇賞・春に必ず出ような。」
「ええ!必ず天皇賞・春への切符を手にして、ブライアン先輩やローレル先輩と共に淀の舞台で闘いましょう!」
「しかし、ここまで来たんだね。」
両先輩の名を聞き、ルソーはつと曇り空を見上げた。
「ここまでとは?」
「チームの復活だよ。去年の今頃は本当に大変だったよね。『フォアマン』は終わりなのかとすら思った位だったし。」
「そうですね。」
シグナルも、感慨深そうに頷いた。
「ほんと苦しかったですね、昨年は。」
涙もろい彼女の眼はすぐに潤み出した。
昨年、『フォアマン』は不幸な出来事が相次いだ。
まず2月にオフサイドトラップが〈クッケン炎〉再発症で離脱。
3月末にはサクラローレルが危うく再起不能となりかけた重傷を負い離脱。
4月にはナリタブライアンが股関節の故障で離脱。
更にはフジキセキが重度の〈クッケン炎〉発症で引退に追い込まれた。
他の先輩もそれぞれ故障で離脱し、無事だったメンバーはルソーとシグナルの他にはチームリーダーのフジヤマケンザンだけという状況に陥ったのだ。
あの苦しい時期と比べれば、今のチーム状況は本当に良くなった。
昨秋復帰したブライアンは、しばらくは苦しいレースが続いていたけど、先週の阪神大賞典でマヤノトップガンとのウマ娘史上に残る死闘を制し復活勝利を挙げた。
翌日にはローレルが1年2ヵ月ぶりのレースである中山記念で圧巻の復活勝利を挙げた。
二人ともその勝利によって、天皇賞・春への出走を決めている。
オフサイドは依然として療養生活を続けているが、チーム仲間のレースがある日は応援に来てくれたり、ルソーら後輩の面倒を見てくれたりなどしてチームを支えている。
そしてリーダーのケンザンは、昨年末に出走した海外の大レースで悲願の優勝を果たし、日本のウマ娘史に新たなページを刻んだ。
彼女は7年生となる今年も現役続行しており、リーダーとしてチームを支えている。
他に昨年入った新メンバー2人も、それぞれ初勝利を挙げていた。
「『フォアマン』は復活したね。あとは、私達が結果を出さないとね。」
ルソーは自虐も込めた微笑と口調で呟いた。
「ですね。」
目元を拭い、シグナルはコクリと頷いた。
二人はデビュー以降、故障なくクラシック戦線から古バ戦線にかけてずっとレースに出走し続けチームを盛り上げてきたが、戦績は二人仲良く8連敗中、共に1年余り勝ち星から見放されている。
とはいえ惨敗ばかりでなく、シグナルは重賞で3着以内の成績を4回挙げているし、ルソーは三冠レースも含めて全て4着以内の好成績だ。
共にあと一歩の成績が続いていただけで、久々の勝利も近いと手応えを感じている。
そのレースが明日の日経賞だと、お互い思っていた。
共に長距離が得意な点、今度のレースは自信を持って臨む構えだ。
「天気予報によると、明日は朝からかなり雨が降るみたいなので、どうやらレースはかなりの重バ場になるようです。」
「だね。だとすると人気のカネツクロス先輩も中々思い通りにはレース運び出来なさそうだろうね。」
「だとするとチャンスですね!特に重バ場が得意な私にとっては!」
「はは、重バ場なら私も得意だよ。…それよりアンタは、菊花賞の時みたいに緊張し過ぎてイレ込まないないようにね。」
「むー!ルソーさんこそ、直線の末脚がすぐに止まらないように気をつけて下さい!」
膨れて言い返した後、シグナルはちょっと微笑した。
「どうしたの?」
「いえ、ルソーさんとレースで闘うのは、明日の日経賞で4度目だなーって思い出して。」
「ああ、そういえばそうね。」
昨年のダービー・セントライト記念・菊花賞に次いで4度目だ。
「過去3戦は、私の1勝2敗ですね。」
「その勝敗は、お互いレースには勝ってないから意味なくない?」
「確かにそうですね。」
そう頷きつつも、シグナルは微笑したままルソーを見た。
「でも、勝敗は別にして、私はルソーさんとレースを走るのがいつも楽しみです。」
「楽しみ?どうして?」
「だって、いつも競い合っている仲間と一緒に走れるって楽しいじゃありませんか。特にルソーさんは、私にとって憧れの同期ですから。」
「私があなたの憧れ?」
ルソーは吹き出した。
「あのねえ、どうせ同期に憧れるならトップガンとかジェニュインとか、大きな実績を挙げたウマ娘にしなよ。私みたいな善戦止まりじゃなくてさ。」
「そんなことないです!」
シグナルは首を振った。
「ルソーさんは、トップガンさんやジェニュインさんにも劣らない強さを持った同期の星です!G1制覇も必ず果たせるウマ娘だと、私は信じてます!」
「ありがと。」
ルソーはちょっと照れくさそうに頭を掻いた。
「ま、褒めてくれるのは嬉しいけどさ、あなたも自信持ちなよ。長距離での素質は同期の中でもかなり優れているんだからさ。」
「大丈夫です。私はいつでも自信に溢れていますから!明日の日経賞は、必ず勝ってみせます!」
「おーおー、私も負けないよ。」
自信たっぷりのシグナルに、ルソーも負けずに言い返した。
「日経賞を制して、天皇賞・春では昨年のクラシックの惜敗の雪辱を果たしてやるんだから。」
「それは私も同じです。今度のレースは、私が大きく羽ばたく為のものだと信じてますから!」
「いや、それでも勝つのは私だね。」
「私です!勝利の青信号を必ず灯します!」
「あんたいつもそう言って、イレこみ過ぎてレース運びに失敗してるくせに。」
「なんですかルソーさんこそ、直線では“5mの末脚”と言われる位すぐバテるくせにー!」
言い合った後、
「アハハハ。」
二人は顔を見合わせて笑った。
「シグナル、」
つと、ルソーはシグナルの手を握り、ターフを眺めながら言った。
「明日のレース、頑張ろうね。」
「はい!」
シグナルもターフの方に眼をやり、ルソーの手を握り返した。
「明日のレース、最高の走りをしましょう!勝っても負けても、笑顔で終えましょう!」
そう言ったシグナルは、とびきり明るい笑顔を見せていた。
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再び、現在の療養施設。
「…話せません。」
椎菜の頼みに対し、ルソーは膝を組んだまま断った。
「オフサイド先輩にも話すよう頼まれましたが、今の私には、まだあの出来事を話すことは出来ません。」
「ルソー。」
「やめて下さい!思い出すだけで胸が張り裂けそうなんです!」
何か言おうとした椎菜に対し、ルソーは両耳を塞ぎ叫んだ。
「私はまだ、あの日経賞を乗り越えきれていないんです。記憶が蘇るだけで、思わず還りたくなってしまう位に…。」
膝を抱えたルソーの腕は震えていた。