「…。」
マックイーンの言葉に対し、沖埜は口元の手を結んだまま、何も言わなかった。
マックイーンも一旦言葉を止め、コーヒーを淹れたカップを手にとった。
沖埜トレーナー…
コーヒーを飲みながら、マックイーンは沖埜のやや窶れの色が残っている表情を見た。
体調は戻ったものの、まだあの天皇賞・秋のショックは心に深く刻まれたままのように映った。
沖埜とスズカの関係がどれだけ深いものだったか顧みれば、それは当然かもしれない。
マックイーン本人を始め、幾多のスターウマ娘をターフに輝かせてきた沖埜にとっても、スズカは特別な存在だったのだから。
サイレンススズカが、沖埜が率いる『スピカ』メンバーの一員になったのは今年始め。
昨秋までは、スズカは『フォアマン』に在籍し、離脱後の数ヶ月は幾つかのチームを渡り歩いていた。
当時はそれほど注目される実績を挙げてなかったスズカだが、彼女のデビュー当時からその走りと素質に注目していた沖埜は、彼女のチーム加入を強く望んでいた。
スズカも自らが目指す理想の走りを肯定する沖埜に信頼を寄せ、チームに入った。
以後、沖埜の指導のもとで、スズカの能力は一気に開花した。
技術や戦略関係なく、ただ思いっきり気持ちよく走るだけで、出走したレースを先頭で駆け抜け続けた。
また、かつて垣間見せていた精神的な弱さも克服し、ウマ娘でも傑出した落ち着きと優雅さを備えるようになった。
特にその点においては、沖埜の存在によるものが大きかった。
スズカは能力を見出してくれた沖埜に感謝し、彼の夢の為にも走り続けた
一方の沖埜も、想像以上の内容で連戦連勝していくスズカの能力に驚いた。
そして、彼女に対し、究極ともいえるウマ娘の姿を夢見た。
そう、『逃げて差すことが出来るウマ娘』。
スタートから先頭でレースを進め、最後は後続を引き離してゴールを駆け抜ける。
まるで夢物語のような、現実にはありえない理想的なこと。
だが沖埜は、スズカならばそれが出来るのではと、その稀に見る能力と素質を前に強く感じた。
そしてそれは、5月末に出走した金鯱賞で確信に近づいていく。
2000mのレースを前半58秒で逃げ、後半も1分を切るレース運びで、G1覇者を含めた後続に11バ身差という大差をつける圧勝劇。
その類い稀な美しい走りとスピード、そして強さに、ファンだけでなく沖埜自身も驚いた。
その翌月に出走した宝塚記念では、G1ということもあったかやや慎重なレース運びとなった。
それでも最初から最後まで危なげなく先頭を守りきり、G1制覇を果たした。
それまでのレースと違い後続との着差が殆どなかったが、G1であり距離が2200mだったことや少々苦手な右回りのコースであったことも考えれば、充分なレース内容だったと沖埜は思った。
そして、あの毎日王冠。
エルコンドルパサー・グラスワンダーといった無敗の新世代最強ウマ娘を相手に見せつけた、圧巻のレース運び。
1000mを57秒台のハイペースで逃げ、3、4コーナーで少しペースを抑えるという落ち着きをみせたあと、最後の3ハロンを35秒1という出走メンバー中最速のタイムで駆け抜けた。
それはまさに「逃げて差す」走りだった。
沖埜がスズカに抱いた夢は、このレースで確信に変わった。
だが。
マックイーンはコーヒーを飲みつつ、当時のことを思い出した。
あの毎日王冠の後、誰も気づかない中で、何かが少しずつおかしくなっていった気がした。
毎日王冠の完勝後、サイレンススズカの人気は頂点に達した。
夢の走りを体現出来るウマ娘、どんな戦略も小細工も一切通用しない圧巻の走りをする彼女には、もう日本で敵はいないと評された。
また、彼女のトレーナーが人気実績共に随一の沖埜であることも、スズカ人気と熱狂に拍車をかけた。
そして、間近に迫った天皇賞・秋。
権威ある大レースであるにも関わらず、このレースで勝敗を考える者は殆どいなかった。
勝者はサイレンススズカで決まり。
あとはどれくらいの差で勝つか、どれ程のレコードタイムを叩き出すのかに焦点が集まっていた。
レース前のスズカの調子と状態の良さは毎日王冠の時以上だった点、誰もがとてつもない彼女の走りを見れると信じた。
それは、沖埜も同じだった。
トレーナーとして彼女の指導を続ける中、「逃げて差す」ウマ娘の完成を目指した。
スズカ自身、その究極の走りを目指し、一層トレーニングに励んだ。
天皇賞・秋のレースで、毎日王冠以上の最高の走りを見せる為に。
そんな彼女を見守る中で、沖埜も天皇賞・秋の勝敗については考えなくなった。
毎日王冠の時のように意識すべき強敵がいるわけでもないし、そもそもスズカの走りの内容からして相手や勝負の駆け引きとかを考える必要はあまりないと思った。
だから沖埜は、レースを観るであろうファン達に、こう力強い宣言をした。
『今度の天皇賞・秋で、スズカはハイペース・オーバーペースで飛ばし、今までにないパフォーマンスをお見せします』と。
ハイペースといってもスズカにとってはそれがマイペースだと評されていた点、沖埜の宣言によって、天皇賞・秋への夢は更に高まっていった。
とはいえ、沖埜トレーナーがレース前にこんな宣言をしたことは珍しかった。
スターウマ娘を何人も輩出している点、彼も勝負に関しては人一倍(ていうかトレーナー随一)こだわっていたし、レース前にこのようなことを言う(マックイーンの天春前に“天まで駆けます”と言ったことはあったが)ことも殆どなかった。
それだけ、彼にとってサイレンススズカは、強さも魅力も特別なウマ娘だったのだ。
沖埜も、その他ウマ娘関係者も、報道も、ファンも、あの天皇賞・秋はスズカの勝利は確定、あとはそれがどれだけの内容かということしか考えなくなっていた。
そしてサイレンススズカは、ファンの為に、仲間の為に、沖埜の為に、そして自分の為に、最高に気持ち良い美しい走りで、最後まで先頭で駆け抜ける。
それだけを考えていた。
そのような状況の中で、あの天皇賞・秋のレースを迎えたのだ。
スズカ陣営がしてた言動は何も悪いことじゃない。
勝敗があまり注目されない大レースはこれまでにも何度もあった。
マックイーン自身も、それを何度か経験した(ダイユウサクに負けたりしたが)。
だが、G1レースという大舞台で、ここまで極端に勝敗が注目されていないレースはなかっただろう。
マックイーンもスズカの勝利は間違いないと予想していたが、彼女に対する周囲の熱狂ぶりに、一抹の不安を覚えた。
勝負の世界に於いて度を超えた熱狂は何かを狂わせる…そんな予感がしたのだ。
とはいえ、そんなことを口に出来る雰囲気ではなかった。
そんな雰囲気になっていることも、更におかしいと感じた。
結果、その予感は、スズカの怪我〜天皇賞・秋後の騒動という、最悪な形で的中してしまった。
「沖埜トレーナー、」
マックイーンはカップを置き、沖埜に話しかけた。
「あなたがどれだけサイレンススズカを愛し、彼女に大きな夢を抱いていたことは私にも分かります。ですがあのレースでは、サイレンススズカは負けたんです。それに、競走中止した時の状況からして、『ニホンピロスタディの悲劇』の再来になってもおかしくなかったですわ。」
『ニホンピロスタディの悲劇』とは、2年前のスプリンターズステークスで起きた出来事のこと。
出走メンバー中最低人気で出走したスタディは、スタート後は先頭勢につけてレースを進めた。
だが最終コーナーを迎えた際、突然故障を発生して競走中止した。
その際、スタディのすぐ後ろにいた2番人気のビコーペガサスが彼女の故障の煽りを受けて進路を失い、唯一人致命的な不利を受けてしまった。
結果、ペガサスは全く勝負をかけることが出来ず惨敗した。
その為、競走中止したスタディは故障者とはいえあまり同情されず、ターフから運び出される際には一部のファンからはバッシングに近い声すら受けた。
だが、スタディの怪我は想像以上に重傷で、懸命の治療も実らず、彼女は帰還に追い込まれてしまった。
故障を責められながら帰還してしまうという、勝負の世界とはいえ胸が痛む最期だった。
その悲劇ほどではないが、今度の天皇賞・秋も、スズカの故障によって進路の不利を受けたウマ娘が2人(2番人気メジロブライトと8番人気サイレントハンター)いた。
二人とも結果は5着と4着と上位入線だった点、その不利がなければ勝利の可能性もあった。
スズカがスタディと違ってなんの非難も受けていないのは、スズカが一番人気だったことと、悲劇の衝撃とそれを悲しむ人の規模が違ったからだ。
「勿論、レースには運要素も大きいです。緊急時の対応力も実力ですから、ブライトもハンターも結果を受け入れてますわ。」
「二人には済まないと思っている。」
沖埜は重たい口調で呟いた。
「スズカの故障によってその二人に不利を受けさせてしまったことは事実だ。それは本当に申し訳なく思う。」
「それを聞いて、少し安心しましたわ。」
マックイーンは少しほっとした。
流石に沖埜トレーナーは、そのことを分かっていたのか。
でも…
「そのことは大した大事にはなりませんでしたが、問題はオフサイドトラップです。」
マックイーンは、再び冷徹な口調で言った。
「今、彼女の命は、断崖絶壁の瀬戸際まで来ているのです。」
「何だって?」
想像だにしてなかった言葉を聞き、沖埜は思わず顔を上げた。
「どういうことだ?」
「あの秋天後、理多くの不尽な仕打ちを受けたオフサイドトラップは、夢も希望も生きる意味も失い、今度の有馬記念を死場所として帰還の決意をしたんです。」
「まさか、嘘だろ?」
「事実ですわ。言動へのバッシングだけなら、彼女も耐えられたかもしれません。彼女が絶望したのは、勝者の誇りまでも理不尽に奪われたからです。あの天皇賞・秋で、サイレンススズカだけしか見てなかった者達に。」
表情を変えた沖埜にマックイーンは淡々と言うと、再びカップを手に取った。