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その頃。
場は変わり、療養施設。
特別病室では、起床したばかりのスズカが、担当医師から朝の診察を受けていた。
「珍しいわね。スペが来てないなんて。」
診察をしながら、医師はスペの姿がないことに意外な表情をしていた。
「そうですね。」
スズカも、首を傾げつつ頷いた。
いつもはスズカが起きる大分前から病室に来てるのに、この日はまだ姿を見せていない。
昨日元気がなかったから、もしかして体調を崩したのかな。
昨晩遅く、妙な胸騒ぎを覚えて目を覚ましたことも思い出し、スズカは心配に思った。
診察が終わった頃。
「おはようございます。」
いつもよりかなり遅く、スペが病室にきた。
良かった。
彼女の声が聞こえると、スズカはほっとした。
だが、
「おはようございます、スズカさん。」
「…おはよう、スペさん。」
現れたスペの姿を見て、スズカは驚いた。
挨拶の口調こそ元気だったが、表情は殆ど寝てなかったのかと思うくらいに疲労の色が表れていたから。
「大丈夫ですか?」
「え、何がですか?」
「スペさん、かなり顔色悪いですよ。」
「あ…」
バレちゃいましたかーと、スペは恥ずかしそうに笑った。
その笑みも、いつもの明るい笑顔ではなく、翳のあるものだった。
「実は夕べ、うまく寝付くことが出来なかったんです。顔色が悪いのはそのせいです。」
「そうですか…。」
スズカは、それだけじゃないだろうと思った。
ただの寝不足だけでなく、体調もあまり良くなさそうにみえた。
昨日からそうだったけど、今朝はもっとひどくなってるわ。
「スペ、無理は駄目よ。」
スズカの診察を終えたばかりでまだ部屋にいた医師が、スペの額や脈にふれつつ注意するように言った。
「かなり体調悪そうだわ。今日はスズカの看護はやめて、体調が良くなるまで宿泊室で休んだ方がいいわ。」
「え、でも」
「あなたまで倒れたら本末転倒だわ。看護をする立場なら、自分の健康もちゃんとしないと。」
そう言い残すと、医師は出ていった。
「スペさん、今日は休みましょう。」
医師がいなくなった後、スズカはベッドの傍らに座ったスペを見た。
「私のことは心配しなくて大丈夫です。リハビリも頑張りますから。」
「でも、スズカさん」
「スペさん、」
まだ何か反論しようとしたスペの額に、スズカはめっと軽く指先を当てた。
「無理をしてはいけません。体調管理もウマ娘の大切な義務です。今日はゆっくり休んで。」
これは先輩の指示ですと、それっぽい微笑も含めて言った。
「…分かりました。」
スペは、申し訳なさそうに頷いた。
何も謝ることないですよと、スズカはその頭を撫で撫でした。
それにしても、スペさん元気ないな。
これまで何度か体調を崩すことはあったけど、こんなに顔色悪いのは見たことない。
昨日からずっとそうだし、やっぱりなにかあったのかな。
やはり気になり、スズカは尋ねてみた。
「スペさん、昨日なにかありましたか?」
「えっ?」
「昨日の午後あたりから急に元気がなくなっているので、何かあったのかなと。」
「い、いえ。何もないです。」
スペは首を振ったが、明らかに動揺していた。
…嘘はつけませんね、スペさんは。
スズカは思わず微笑し、言った。
「もしかしてスペさんは、昨日オフサイド先輩と私が会えなかったことを気にしているのでは?」
「えっ…」
スペは一瞬凍りついた。
…?
スズカはその反応を意外に思ったが、優しい口調で続けた。
「気にすることはありません。私も先輩とはすごく会いたかったですけど、今はそこまで残念でもありません。」
有馬記念が終わったら一緒に会いに来てくれると、ゴールドも言ってましたから。
「何もスペさんのせいで会えなくなったわけではないのですから、スペさんが落ち込む必要はないのですよ。」
「…。」
スズカの言葉に、スペは表情を隠すように俯いたまま何も言わなかった。
「大丈夫ですか?」
その反応に、流石に不安に思ったスズカが声をかけると、スペはゆっくりと顔を上げ、口を開いた。
「あの…スズカさんは…オフサイド先輩のことをどう思っているんですか?」
「オフサイド先輩のことですか?」
唐突な質問にスズカは内心驚いたが、すぐに笑顔で答えた。
「オフサイドトラップ先輩のことは、学園の先輩として、すごく尊敬してます。」
「尊敬…『フォアマン』に所属していた頃からですか?」
「ええ。当時から、今でもずっと。」
「尊敬してるのは、単に先輩だからですか?」
「まさか。」
スズカは首を振った。
『フォアマン』と特に縁がなかったスペさんは、オフサイド先輩のことをあまり知らないのかな?
「同胞の未来の為に闘い続けた方だから、です。」
「ウマ娘の未来の為に…」
「はい。」
呟いたスペに、スズカは笑顔で頷いた。
「スペさん、もしかしてオフサイド先輩のことが、気になるのですか?」
「え…」
「なら、先輩の競走生活を調べてみると良いですよ。凄い先輩だと分かりますから。」
「はい。」
スペは俯くように頷いた。
そして、少しの沈黙後、スペは思わず尋ねてしまった。
「でも、先の天皇賞・秋で、オフサイド先輩がスズカさんの怪我のおかげで勝てたと喜んでいたら、どう思いますか?」
「…はい?」
思わぬ質問に、スズカは一瞬呆気に取られた。
私の怪我を先輩が喜んだ?
「それは、どういう意味ですか?」
スペはしまったと思ったが、もう手遅れだった。
やむを得ず、内心の動揺を隠しながら続けた。
「例えばの話です。もし、先輩が内心でそのようなことを思っていたとしたら」
「例えにしても、それはオフサイド先輩に対する著しい侮辱です。」
みなまで言わせず、スズカは珍しく不快な表情を浮かべてピシャリと言った。
「そんなことを先輩が思う可能性は、先輩が歩んできた軌跡を振り返れば100%あり得ません。」
「そう、ですよね。ごめんなさい。」
出会って以来、スズカから険しい視線を初めて受け、スペは縮こまって謝った。
スズカも険しい視線を向けてしまったことを謝り、それから不審そうに尋ねた。
「でも、なぜそのような質問を?」
「いえ、特に意味はありません。」
スペは誤魔化しつつ立ち上がったが、スズカはその袖を掴んで食いついてきた。
「もしかして、天皇賞のレース後に何かあったんですか?」
その時。
「スズカ、朝食よ。」
病室の扉が急に開き、担当医師が食事を用意して現れた。
「あ、はい。」
スペの袖を掴んでいたスズカは、慌てて手を離した。
「スズカさん、失礼します。」
離されたスペは、明らかに動揺した様子のままスズカに頭を下げた。
「ええ。」
不審感は残ったままだが、スペの体調も考慮して、スズカはそれ以上は尋ねなかった。
「お大事にされて下さい、スペさん。」
「はい、スズカさん。」
互いにぎこちない笑顔で言葉を交わした後、スペは病室を出ていった。
「スズカ、さっきのスペの話は気にしないでね。」
スペがいなくなった後、この日は彼女に代わって朝食を食べるスズカのフォローをしながら、医師が口を開いた。
「話、聞いてたんですか?」
スズカが箸を止めると、医師はうんと頷き、説明する様に続けた。
「スペが話していたオフサイドトラップの思う云々は、ごく一部の心ない連中がしてた中傷の類だから。」
「中傷の類?」
「いるでしょ?なんでもかんでも他人の粗探しをするような連中。その連中が、オフサイドトラップの栄光にも文句つけたくて、ネットの掲示板とかで荒れてたみたい。それをスペは見ちゃって、ついあんな質問したただけみたいだわ。」
「なるほど、そうですか。」
医師の見解を聞き、スズカはこくりと頷くと、再び箸を進めた。
スズカが納得したような表情を浮かべたのを見て、医師は内心胸を撫で下ろしていた。
食事が終わると、医師は出ていった。
スズカはリハビリまでまだ時間があるので、ベッドに横になった。
何かおかしいわ…
ベッドに臥せつつ窓の外を眺めているスズカの胸の奥は、不穏にざわめき始めていた。
スペさんは、ネットの掲示板なんてみたりしないわ…