1998年11月1日「消された天皇賞覇者」   作:防人の唄

120 / 267
終焉序曲(2)

 

*****

 

一方、施設の外の遊歩道。

この日は雲に覆われた寒気の強い空の下、ベンチに一人座っているルソーの姿があった。

 

凍えるような寒さなのに、ルソーは患者服のままジャケットも羽織らず、松葉杖を傍らに置いて黙念と座っていた。

昨晩、スペに対して怒りを爆発させた彼女だが、一晩経った今はその時の激しい感情は跡形もない様子だった。

だが、曇り空を見上げているその表情は、全てを諦めたような色に満ちていた。

 

オフサイド先輩、やはりあなたは、帰還の決意をしていたんですね…

 

 

先程、起床して間もない時、ルソーは椎菜に呼ばれた。

昨晩の話の続きかと思っていたが、彼女の口から聞いたのはオフサイドトラップの決意のことだった。

 

 

予感はしてました…

昨日ルソーは、別れ際にオフサイドが見せた、全てを達観したような姿を目の当たりした。

その時から、薄々だがその可能性を感じていた。

だから、椎菜からそのことを聞いてもそこまで衝撃は受けなかった。

衝撃は受けなかったが、心は奈落の底に落とされた。

 

〈死神〉に屈しなかったオフサイド先輩が、帰還の決意をした。

その決意がどれだけ重く固いことは、長年彼女と闘病生活を共にしてきたルソーには、骨身に沁みる位よく分かっていた。

 

脚の〈死神〉に勝ったオフサイド先輩も、この世界の不条理という〈死神〉には勝てなかったか。

ルソーは絶望に満ちた溜息を吐いた。

 

 

「ホッカイルソーさん。」

彼女を呼ぶ声が聞こえ、ルソーは虚ろな視線でその方を見た。

ルソーに声をかけたのは、黒いコートを纏って遊歩道を歩いていたライスだった。

 

「ライス先輩、療養施設にいらしてたんですか。」

「うん。」

ベンチに座ったままこちらを見たルソーの側に、ライスは歩み寄った。

「久しぶりね、去年の年末以来かしら。」

「そうですね。今年はずっとここにいるんで、それ以来ですね。ライス先輩は脚の検査でこちらに?」

「ううん、他の用事でね。」

 

言葉を交わしながら、ライスはルソーの絶望色に染まった表情を見た。

「大丈夫?顔色すごく悪いわ。」

「気になさらないでください。」

ルソーは何もさとられない為にそう答えたが、ライスにはその理由が分かっていた。

ホッカイルソーは、オフサイドトラップと同じチーム仲間にして、〈クッケン炎〉の病症仲間。

ということは…

「あなたも、オフサイドさんの決意を知ったのね。」

 

「え、“も”ということは、ライス先輩も知っていたのですか?」

ルソーは少し驚いた。

「うん。オフサイドさんは、私には色々と打ち明けてくれたから。」

答えながら、ライスはルソーの隣に座った。

 

 

「最悪な事態になってしまいましたね。」

ライスが隣に座ると、ルソーは足元に視線を向けてぽつりと言った。

「オフサイド先輩の決意は、絶対に揺るがないでしょう。長年〈死神〉の魔の手と闘いながらも決して絶望の言葉を口にしなかった先輩が、それを口にしたんですから。」

「諦めては駄目。」

ライスは自分が着ていたジャケットを、ルソーの肩にそっとにかけた。

「可能性は限りなく低くても、希望を必死に探せば、まだオフサイドさんを救う術はあるかもしれないわ。」

 

「ハハ、ライス先輩がそれを言いますか。」

突然、ルソーは語気を変え、生気がない瞳でライスを見つめた。

「〈死神〉から復活したシアトル先輩の栄光を、あなたは闇に葬って、闘病仲間達に打撃を与えたというのに。」

 

ライスは全身にぞっと慄えを覚え、俯いた。

同胞からあの宝塚記念を直接咎められたのは初めてだった。

 

「確かに、あの重い罪をおかした私には、あなた達に何かを言う資格などないわ。でも…」

「分かっているのなら、黙っていて下さい。」

先輩かつ慕っているライスを、ルソーは乱暴な口調で制した。

 

ライスを制した後、ルソーは深い溜息と共に、重々しく口を開いた。

「はっきり言って、私はもうこの世界というのが…ウマ娘界も人間界も、全てが嫌になってきました。」

「ルソーさん。」

「消えたいな。オフサイド先輩も私も…〈死神〉と闘う仲間達も皆一緒に、存在ごと消えてしまいたい。出来れば〈死神〉も一緒にね。それで、不幸のないウマ娘の世界が実現出来るのな一番良いかも。」

アハハと、ルソーは力なく笑った。

 

「消えたいなんて、そんな悲しいことは言っては…」

「黙ってといったでしょう!あなたは闘病仲間に絶望を与えた一人なんですよ!」

今度は突然叫び、ルソーは髪を掻きむしった。

「あなたは、絶え間なく続く苦痛の中で少しずつ追い詰められていく同胞の姿を見たことがありますか?帰還を決意し、最期の別れの際に精一杯笑顔を魅せる同胞を見たことがありますか?散り際、無念の言葉を残して還っていく姿を見たことがありますか?そして、ウマ娘界の華やかなところだけアピールし続けて、この絶望の現場に全く触れなかった同胞や人間達に、どれだけの無念と失望を抱いてきたかお分かりですか?」

 

「…。」

ライスは、罪人のように項垂れてルソーの言葉を聞いていた。

ルソーは平静さを失った様子で、更に続けた。

 

「ウマ娘界の綺麗な部分だけしか見ない人間達…時には苦しい部分にも触れたりするが、すぐに忘れるか、或いは見なかったことにしてそれを覆い隠す。苦しい部分に長く触れるのはスターウマ娘がそうなった時だけ。…今回のスズカとか、ライス先輩の時みたいにね。実に都合の良くて、成長のない連中だわ。」

「でももっと許せないのは、それを長年よしとしてきた同胞達だわ。ウマ娘の明るい華やかなことばかりアピールしてきて、暗い部分はなるべく隠そうとした。“弱く華のないウマ娘に存在価値はない”とでも言わんばかりにね。それはその通りだわ。勝てないウマ娘は生き続けることはできないということは、受け入れてる。でも、そう言ってる連中達は、その同胞が還っていくその刹那を一人でも目の当たりにしたことがあるのかと思ったら、誰も見たことない。それでよくもウマ娘の使命とか存在価値どうこうとか語れるわ。」

 

捲し立てるように言った後、ルソーは大きく吐息をつき、それから傍らのライスに眼を向けた。

「まあ…ライス先輩が悪い訳ではありませんけどね…。ライス先輩はヒーローですし、G1を3度も制したスターウマ娘で、人気ももの凄かったですから。たった一度の過ちなんて、大したことないですね。私達みたいに何の役にも立ってない無価値なウマ娘達などと比べれば、この世界への貢献度が桁違いですし。」

「無価値だなんて…」

「無価値ですよ。だってそうでしょう?ウマ娘は走る姿で人々を魅せることが使命。でも〈死神〉に罹ったら二度と理想の走りは出来ない。なのに無様に生きることに執着して、美しく散ることも出来ない者の集まりなんですから。」

「ルソーさん、その言い方はさすがに…」

「理想が叶わなくなった時点で、全て諦めて引退するか帰還するか、すぐに選択するべきなのかもしれないですね。私も。」

 

「まさかあなたも、引退するつもりなの?」

ライスの尋ねに、ルソーは首を傾げながら答えた。

「どうしましょう、引退よりは帰還するべきかもしれないですね。」

「なんですって?」

「私には、同胞達の為に何も出来なかった罪がありますから。とはいえ、オフサイド先輩に続いて私まで還ったら、ただでさえ絶望的な雰囲気に満ちている病症仲間達にとどめを刺しかねないので、それが恐ろしいです。もっとも、これ以上仲間に報われない現実を見せつけ続けるよりは、それも良いかもしれないですね。アハハハ…」

ルソーは笑いだした。

 

「…。」

壊れたように笑いだしたルソーの姿を、ライスは傍らでじっと見つめていた。

彼女に対して、憐憫とか哀れむような感情はなかった。

あの天皇賞・秋以降、ルソーは人知れずずっと苦しい立場に置かされて、それでも闘い続けてきたのだから。

 

やがて、ルソーは笑いを止めた。

錯乱の笑顔が消えると、彼女の瞳は曇り空に向けられていた。

「なんで、なんでこんなことになっちゃったんでしょうね。」

「…。」

「分からない。もう私には、この世界の意味が分からなくなりました。」

嘆くように呟くと、ルソーは両手に顔を埋めた。

 

「…。」

震え出したルソーの姿を、ライスはただじっと見つめていた。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。