それから少し経った頃。
「ライス、ホッカイルソー。」
二人のいるベンチの側に来た人物がいた。
昨日、ライスと共に施設に訪れた三永美久だった。
「どうしたの、二人とも。」
温かい飲み物を手に現れた美久は、二人のただならない様子を見て心配そうに尋ねた。
「ちょっと、大切な話をしてたの。」
「そう。」
ライスの返答を聞いた後、美久はルソーの方を見た。
「久しぶりね、ルソー。」
「お久しぶりです、美久さん。」
ルソーは顔を上げ、やや赤くなった瞳を美久に向けた。
「あなた、顔色がかなり悪いわ。体調悪いの?」
ルソーの表情を見て、美久は心配そうに尋ねた。
「大したことはありません。」
ルソーは目を伏せながら答えると、ジャケットをライスに返し、松葉杖をついて立ち上がった。
「そろそろ脚の治療の時間なので、失礼します。」
「そう、頑張ってね。」
暗い表情のルソーに、ライスは左眼を優しく光らせて微笑みかけた。
その微笑をちらと見、ルソーはすぐに目を逸らすと、背を向けて言った。
「ライス先輩…何度も暴言を吐いてしまい、申し訳ありませんでした。」
最後に小声で謝ると、ルソーはベンチを去っていった。
「なんの話をしていたの?」
ルソーが去った後、美久はライスの傍らに座り、飲み物を渡しながら尋ねた。
「別に。」
ライスは飲み物を一口飲んだ。
ホットコーヒーの苦い味がした。
コーヒーを飲みながら、ライスはつと美久を見た。
「ねえ、サンキュー、」
「え?」
あ…
怪訝な表情をした美久に、ライスは視線を逸らして咳払いすると、何事もなかったように改めて美久を見た。
「ねえ美久。あなたは、ルソーさんが制した2年前の日経賞の時、現場にいた?」
「ああ、うん。」
学園専属カメラマンの美久は、ちょっと戸惑いながら頷いた。
「あの時、彼女は笑顔は見せていたかしら?」
「必死に笑顔になってたわ。」
美久は、その時の記憶を思い返しながら答えた。
「今回の天皇賞・秋のオフサイドさんと同じくらいに?」
「比べるものじゃないけど、同じかそれ以上に必死に見えたわ。」
「その写真は撮った?」
「撮ってない。」
美久は、悲しげに表情を歪ませて首を振った。
「とてもじゃないけど撮れなかったわ。ライスだって現場にはいなくとも知ってるでしょ?あのレースで何があったか、レース後に何があったか。」
「…。」
ライスは眼を瞑って無言で頷くと、ホットコーヒーをこくりと飲んだ。
その日経賞で起きたことを彼女も脳裏に思い返しながら、胸中で吐息をつきつつ思った。
天皇賞・秋後の騒動に、ルソーさんはものすごく傷ついたんだろうね…
もしかすると、オフサイドさん以上に。
一方。
施設内に戻ったルソーは、治療室で椎菜から脚の治療を受けていた。
…ハア…ハア…
患部にレーザーを当てる治療を受けているルソーは、かなり苦痛の表情を浮かべていた。
ここ数日の出来事のせいか、患部の状態は悪くなっていた。
いつもは治療中携えているシグナルの写真も、手元になかった。
数十分後。
治療が終わると、ルソーは椎菜に尋ねた。
「今朝は、スペシャルウィークと会いましたか?」
ルソーの質問に、椎菜は無表情で首を振った。
「いや、会ってないわ。来るのを待ってたけど。」
「逃げたのですか?」
「それは…ないと思う。」
不穏な気配を見せたルソーに対し、椎菜は落ち着いてと宥めた。
「昨晩、オフサイドのことを聞いた時かなりショック受けてたから、もしかすると体調崩したのかもしれないわ。」
「…。」
ルソーは少し考えた後、ぽつりと言った。
「昨晩、先生に頼まれたシグナルのことですが、…後でスペに話すことに決めました。」
「え。」
驚いた椎菜に、ルソーはさびしい微笑をみせた。
たとえ私が消えても、シグナルのことだけは、未来に忘れないで欲しいから。
*****
その頃、メジロ家の別荘。
この日もオフサイドは、朝早くから別荘の外にあるメジロ家専用の競走場で、黙々と有馬記念への調整を行なっていた。
昨日来たケンザンの姿が今朝から見当たらなかったが、オフサイドは気にせず調整に集中していた。
「オフサイドトラップ様。」
しばらくトレーニングを行なった後、ドリンクを飲みながら小休憩をしていたオフサイドのもとに、メジロ家の使用人が来た。
「なんでしょうか?」
「ただ今、オフサイド様とお会いしたいという方が別荘に来られました。」
椎菜先生か、学園生徒会の方かな。
「どなたでしょうか?」
「トレセン学園所属、チーム『スピカ』トレーナーの沖埜豊様です。」
え…
全く想像してなかった人物の名を聞き、オフサイドの手からドリンクの容器が落ちた。
〈「優勝タイムを見ても、スズカが怪我しなければ圧勝していたことは明白」〉
〈「スズカがあんなタイムにバテるわけがない。やっぱり千切ってた」〉
悪寒が全身に走った。