オフサイドは、使用人と共に別荘に戻った。
別荘内の来客用の一室に案内されると、そこに沖埜が、ソファに座って待っていた。
「沖埜豊トレーナー…」
「オフサイドトラップ。」
入室し、自らの姿を見て茫然としているオフサイドに、沖埜は椅子から立ち上がって挨拶した。
沖埜とオフサイドは、学園やレース場で何度か会っており、初対面ではない。
ただ、一対一で対面するのは初めてだった。
「何の御用でしょうか。」
使用人が退がった後、オフサイドは沖埜の向かいのソファに座り、湧き上がる慄えを懸命に抑えながら尋ねた。
沖埜は答える前に、オフサイドのその様子に気づいた。
「慄えて、いるのか?」
「…いえ。」
「私が恐ろしいのか?」
…。
沖埜の言葉に、オフサイドは表情を伏せ、無言で小さく頷いた。
「私の、天皇賞・秋後の、メディアへの発言のせいか?」
「早く、御用を仰って下さい。」
オフサイドは、込み上げる慄えを歯の奥で噛み殺して催促した。
「…。」
オフサイドの尋常じゃない様子を見て、沖埜も少し表情を伏せた。
「用件は、その発言のについての謝罪だ。」
「え。」
「オフサイドトラップ、今更かもしれないが、」
沖埜は深々と頭を下げると、一言一言、絞り出すように言った。
「私の軽率な発言が、君の名誉を著しく損なわせ、君の心を深く傷つけてしまったことを、深くお詫びする。本当に、申し訳なかった。」
…。
オフサイドの身体から慄えが消えた。
蒼白だった表情は、茫然としたものに変わった。
そのまま、数十秒が経過した。
「お顔を上げて下さい。」
オフサイドは茫然とした表情を消し、努めて冷静な表情で促した。
「御用は、それだけですか?」
顔を上げた沖埜に、オフサイドは尋ねた。
「ああ、それだけだ。」
沖埜は静かに頷いた。
また少し、沈黙が流れた。
その沈黙を破り、オフサイドが口を開いた。
「何故、今になって謝罪にこられたのですか?」
「君が、私の発言のせいで深く傷ついたことに、ずっと気づかなかったからだ。…本当に済まない。」
なるほど…
その返答に、オフサイドは内心ですぐに察した。
マックイーンさんが、沖埜トレーナーと会ったのね。
そうでなければ、自分が身を隠しているこの場に彼が来る筈がない。
推察すると、再び尋ねた。
「マックイーンさんから、何を聞きましたか。」
「聞いた。私の発言が原因で、君が心身共にどれだけ追い詰められてしまったかを。」
包み隠さず、沖埜は明かした。
「それで、私のもとへ謝罪に来たということですか。」
「その通りだ。」
「あなたの為にですか?それとも、私の為にですか?」
オフサイドは、珍しく冷徹な口調で尋ねた。
「どちらでもない。私は軽率な発言をしたことを詫びる責任があったから、ここに来た。」
沖埜は、端正な表情を全く変えずに答えた。
「…。」
沖埜の返答を受け、オフサイドは用意されたお茶を一口飲んだ後、改めて口を開いた。
「あなた程のトレーナーが、何故あのような発言をされたのですか。」
オフサイドの質問に、沖埜もお茶を一口飲んから、悔いを込めた口調で返答した。
「現実を受け入れきれなかった。サイレンススズカが故障してしまったという現実を。」
「“レースに絶対はない”・“レースは怖い”。古来からウマ娘界にある、強い戒めの言葉。それを忘れてしまったということですか。」
オフサイドの言葉に、沖埜は眼を瞑って小さく首を振った。
「忘れてはいない。ただ、スズカだけはその言葉と無縁だと思っていた。」
スズカは、故障とは全く無縁の身体だった。
スズカ自身、あの天皇賞・秋まで身体の苦痛を感じたことがなかった位だ。
「スズカは、ウマ娘の理想を体現出来る稀有のウマ娘。私はそう信じていた。過信と言われるかもしれないが、遂に巡り逢えた最高の、本当に最高のウマ娘だと私は信じたんだ。」
沖埜は唇を噛み締めた。
端正な表情が、さすがに暗くなっていた。
沖埜の表情を見、オフサイドも彼の心の痛みを感じた。
だが表情には表さず、言葉を続けた。
「沖埜トレーナーは、チームのメンバーがレースで大怪我を負った経験は、今回のスズカが初めてでしたか?」
「ああ。」
「では、今後はもう同じ過ちを繰り返さないようにして下さい。“レースに絶対はない”。ウマ娘は、人間が思うほど強い生き物ではありません。それをどうか忘れないで。あなたはウマ娘界の未来を背負う存在なのですから。」
そう言うと、オフサイドは話は終わりですと言うようにソファからゆっくりと立ち上がった。
「オフサイド。」
部屋を去ろうとしたオフサイドの背に、沖埜はソファに座ったまま、意を決したように声をかけた。
「君は、本当に有馬記念で還るつもりなのか?」
「…。」
足を止めたオフサイドに、沖埜は更に言った。
「言えた立場ではないかもしれないが、ウマ娘を愛する人間の一人として、そんなことはして欲しくない。君には生きていて欲しいんだ。」
オフサイドが〈死神〉との闘病を乗り越えて栄光を手にしたウマ娘であることは、沖埜も知っていたし、それがどれだけ大変なことだということも分かっている。
かつて彼も、育てたスターウマ娘が何人も〈死神〉に罹り、レースを奪われ引退に追い込まれた経験があったから。
「生きていて欲しい、ですか。」
オフサイドは口元に微笑を浮かべて、沖埜を振り向いた。
「沖埜トレーナー。あなたにとって、生き甲斐と言えるものはなんですか?」
「生き甲斐?」
「エアグルーヴ・サイレンススズカ・スペシャルウィーク。その他あなたが尽力して育て上げた多くのウマ娘達。その存在が、あなたの生き甲斐なのではないでしょうか?」
「…。」
無言で頷いた沖埜に、オフサイドは寂しい微笑を浮かべたまま、言った。
「私にとって、あなたのサイレンススズカが、あの天皇賞・秋でした。」
しんと、冷たく重い空気が、室内を満たした。
「沖埜トレーナー、」
オフサイドは再び背を向け、扉に手をかけると、最後に言った。
「僭越ですが、私から一つお願い事をして宜しいでしょうか?」
「なんだ?」
「私を守る為に学園を去らざるを得なかった『フォアマン』の岡田トレーナーを、学園に復帰させてあげて下さい。同じ人間であるあなたなら、出来る筈ですから。」
そう言い残すと、オフサイドは部屋を出ていった。
部屋を出る間際、彼女の右脚に巻かれた分厚い包帯が、沖埜の眼に痛々しく映った。