『安楽帰還』。
その言葉に、室内はこれ以上ないくらい重たい空気に満たされた。
「そんな…」
ケンザンとブライアンに抱き止められているルソーは、全身が冷たくなるような悪寒を感じた。
…シグナルが帰還する?
…シグナルと永遠に別れるの?
「嫌だ、やめて!」
ルソーは叫ぶと、ケンザンとブライアンの腕を振り払い、シグナルのいるベッドに駆け出した。
「ルソー!」
岡田や医師の制止も無視して、ルソーはベッドを覆っているカーテンを開いた。
そこにはシグナルが、意識のない状態で横たわっていた。
応急手当てをされた左脚、その無残な開放骨折の箇所と包帯を紅く染めた鮮血の痕が、ルソーの眼に飛び込んだ。
シグナル…
ルソーの眼から涙が溢れた。
…絶対還らせないわ!
ぐったりしているシグナルの身体を、ルソーはベッド上から抱き上げた。
「何をするんだルソー!」
「来ないで下さい!」
シグナルを抱き抱えたまま、室内の角隅に逃げるように移動してルソーは叫んだ。
帰還させるか、帰還させてたまるか…
苦悶の表情のまま意識を失っているシグナルの顔を、ルソーは胸に強く抱きしめた。
「ルソー!一体何を!」
「あっち行け!シグナルに触らないで!」
駆け寄ろうとした岡田やケンザンを、ルソーは泣きながら睨みつけた。
「シグナルを安楽帰還になんてさせますか!絶対にさせるもんですか!」
ルソーの服が、シグナルの怪我部分から溢れる血で紅く濡れた。
「諦めなければ、まだ快復できる手立てはある筈だわ!ライスシャワー先輩だって助かったじゃないですか!ならシグナルだって…」
「ライスシャワーとは怪我の酷さが違うんだ。」
医師が沈痛な表情で説明した。
「ライスには数十分の一の可能性がある手術があったが、シグナルのこの怪我にはそれすらないんだ。重さが違い過ぎる。」
「だとしても諦める理由になりますか!万が一にも可能性を探せば…きっとある筈だわ!」
「ない。例えあったとしても、それはシグナルにとって地獄のような苦痛の日々を余儀なくされるだけだ。こればかりは諦めるしかないんだ。」
岡田もそう諭したが、それでもルソーは首を振った。
「嫌だ!絶対に帰還なんてさせないわ!絶対に、絶対に…」
「…ルソー、お前の気持ちは…よく分かる。」
泣き叫んで抗い続けるルソーを見て、ケンザンが必死に涙を堪えながら側に寄ってきて、震える声で言った。
「…私だって、もしテイオーが同じことになってたら、お前と同じ行動をとったかもしれない。でも…受け入れるしかないんだ…。」
「ケンザン先輩…シグナルを見捨てるんですか?」
ルソーの表情は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「昨年、先輩方が相次ぐ故障で離脱して、更にはフジキセキまで故障で引退して、チーム全体が非常に苦しい時期を迎えた時、必死にチームを鼓舞していたのは誰ですか…メンバーの相次ぐ故障に厳しい非難を受けたトレーナーを、故障に苦しむ先輩達を、明るく励まし続けたのは誰ですか…シグナルじゃないんですか?そんな彼女を、チームを誰よりも大切にしていたシグナルを…見捨てるんですか…。」
「…私達も、叶うならシグナルを帰還させたくないわ…」
ローレルも傍らに歩み寄り、同じように涙を堪えながらルソーに言った。
「でもね、このような快復不能の大怪我を負ってしまったら、安楽帰還の選択を受け入れるしかないのよ。テンポイント先輩や、私の一族のスターオー姉様のような悲しい悲劇をもう起こさない為にも…。」
テンポイント・サクラスターオー。
かつてターフに輝いたこの両スターウマ娘は、それぞれレースで予後不良と診断される大怪我を負った。
しかし、助命を願ったファン・チームの要望により安楽帰還の処置を行わなず、無理に近い手術を行った。
結果は報われず、テンポイントは蹄葉炎発症で1か月半後に帰還、スターオーは脚の限界で更に重度の骨折を発症し5ヶ月後に帰還。
共に最期まで苦しんだ末の帰還であり、社会的にも大きな衝撃を与えた出来事だった。
二人の悲劇が起きた時代からは、医学もかなり進歩した。
ライスやスズカのように奇跡的に助かるケースも出た(二人とも完全に治った訳ではない)。
だが今回のシグナルの怪我は、前述の二人以上といえる程の致命的な重傷だった。
なのでもう、安楽帰還の選択以外なかった。
「今、安楽帰還の選択をしなかったら、シグナルはもっと苦しみながら帰還することになるの。それは同時に、教訓を遺して下さったテンポイント先輩やスターオー先輩対しても申し訳ないことになるわ…それでもいいの?」
「でも…嫌です…永別れたくない!」
「ルソー…受け入れなさい。…私だって辛い。トレーナーだってケンザン先輩だって…みんな辛い…でも、受け入れなければならないの…。」
ケンザンとローレルの愉しに、ルソーはがっくりと項垂れた。
「…シグナルは、もう絶対に…助からないんですか…。」
「うん…。」
「なら、私もシグナルと一緒に帰還させて下さい!」
ルソーは絶望に満ちた口調で懇願した。
「ルソー…」
「私には、シグナルがいない世界なんて考えられません…。私にとってシグナルは…シグナルは…」
それ以上は、こみ上げる嗚咽で言葉にならなかった。
「もうやめろ。」
黙念と場を見守っていたブライアンが、ルソーの傍らに来た。
「これ以上シグナルを救おうと時間を延ばしても、それは却ってシグナルの苦しみになるだけだ。今お前が言った“一緒に帰還する”という言葉も、ただシグナルを悲しませるだけだ。」
「ブライアン先輩…。」
「今、私達がシグナルの為に出来ることは、一刻も早く…安らかに帰還させてあげること…それだけなんだ。」
最後は言葉を震わせながら、ブライアンはシグナルを抱きしめているルソーの指を一つ一つ解いた。
彼女の腕からシグナルを離させると、表情を俯かせてシグナルのぐったりした身体を抱き上げ、ベッド上に戻した。
「では、岡田トレーナー。」
シグナルの身が元のようにベッドに戻されたのを確認すると、医師は一枚の書類を岡田に差し出した。
シグナルの安楽帰還を執行する為の必要書類だ。
「手続きをお願いします。」
「…。」
岡田は黙って書類を受け取ると、必要事項を記入した。
〈〇〇年3月17日。第44回日経賞のレース中に故障発生し予後不良と診断された「シグナルライト」走者に対し、当人の所属するチーム『フォアマン』の責任者(トレーナー)である「岡田正貴」は、『安楽帰還』の処置の執行を医師側に要請し、医師側もそれに合意したことを、ここに証明する。〉
「シグナルライト…」
必要事項を全て記入すると、岡田は印鑑を取り出した。
「…済まない。」
印鑑を持つ手を震わせ、血が滲む位唇を噛み締めながら、岡田は印を押した。