「岡田トレーナー以外は、外へ。」
岡田から書類を受け取ると、医師は室内にいるメンバー達に退出を促した。
「うっ、うっ…シグナル先輩!」
「…行くぞ。」
大泣きしているタッチとコンコルドを伴って、ブライアンが退室した。
続いてローレルも。
二人とも目元を抑えていた。
「ルソー、出よう。」
ケンザンは、床に座り込んだまま嗚咽を洩らしているルソーの元に歩み寄り、彼女の腕をとって起こした。
「…。」
そのまま、彼女を抱き支えて退室しようとしたが、ルソーは動かなかった。
彼女の視線は、依然ベッド上のシグナルの注がれていた。
「トレーナー、」
ルソーは涙を拭いながら、岡田に言った。
「私も、シグナルの安楽帰還の執行に立ち会わせて下さい。」
「…何?」
「私、それを見届けなければならないと思うんです。」
「バカなことを言うな!」
ケンザンが、ルソーの腕を引いて声を上げた。
「これは、私達が見てはならないものなんだ!見たら最後、一生重い傷として残るものなんだ!」
「残ったって構いません。シグナルが帰還する以上の傷なんてありませんから。むしろ、傷として刻みつけさせて下さい。シグナルのことを永遠に忘れない為にも…」
「トレーナー、先生。ルソーの願いを聞き入れてあげて下さい。」
ルソーの言葉を聞き、ずっと沈黙していたオフサイドが、ルソーの側に歩み寄りながら懇願した。
「オフサイド。」
反論しようとした岡田と医師を、オフサイドは心底から願うような強い視線で見据えた。
「私にはルソーの思いがよく分かります。帰還する同胞の記憶を刻みつけたいという思いが。」
オフサイドの頬にも、涙がつたっていた。
「…駄目だ。見せる訳にはいかない。」
オフサイドの懸命な願いに対し、岡田は断固と首を振った。
「ケンザン、二人を連れて出ていってくれ。」
「トレーナー…」
「従え。これは命令だ。」
岡田は冷徹な口調で命じると、それ以上は何も言わなかった。
「…はい。」
オフサイドは従うしかなかった。
「…シグナル、シグナル…」
泣きじゃくるルソーをケンザンと共に抱き支えながら、オフサイドは医務室を出ていった。
ウマ娘のメンバーがいなくなると、医師は他の助手達と共に、安楽帰還の処置の準備に取りかかった。
「では、執行します。」
ベッド上のシグナルの身を固定させた後、医師は注射を用意し、岡田に問いかけた。
「はい。」
岡田は、険しい表情で頷いた。
医師はシグナルの腕に注射を当てた。
それを打つ瞬間を、岡田は眼を見開いて見届けた。
「終わりました。あと10分程で、シグナルライトは帰還します。」
処置が終わると、医師はベルトを外し、岡田に告げた。
「ありがとうございました。」
岡田は静かに頭を下げた。
そして、5分程経った時だった。
意識を失っていたシグナルの身体が、僅かに動いた。
「!」
「…トレ…ナー…」
シグナルの瞳が、薄らと開いた。
「シグナル!」
岡田は思わず声を上げた。
「!」
岡田の声が聞こえたのか、室外に待機していたメンバー全員が再び入室してきた。
「シグナル⁉︎」
誰よりも先に、ルソーが枕元に駆け込んだ。
「…ルソー…さん…」
「シグ…ナル…」
微かに意識が戻った彼女を見て、ルソーの眼から涙が溢れた。
もう、安楽帰還の処置をした後だということは分かっていた。
意識を戻したシグナルは、自分の身体の状態と集まった仲間達の様子を見て、全てを悟っていた。
「…私…還るん…ですね…」
「済まない、シグナルライト。」
岡田は、床に膝をついて謝った。
両手は膝元を、破りそうなくらいの力で握り締めていた。
「私のせいだ。私のせいで、こんなことになってしまった。…本当に済まない。」
シグナルの故障は決して彼のせいで起きたわけではないのだが、岡田は謝罪せずにはいられなかった。
「…謝らないで…下さい…謝るのは…私の…方です…」
シグナルは殆ど動かせなくなった身体を懸命に動かし、岡田の方を向いた。
「…ずっと私の…未来のために…身を削って…指導して下さったのに…こんな結末に…なってしまって…」
「シグナル、ごめん!」
ルソーは涙を溢れさせながら、シグナルの頭を抱きしめた。
「私、あなたの怪我に気づきながら、何も出来なかった。レースを続けることしか出来なかった。あなたを助けられなかった…」
「…いいんです…ルソーさん…それが正しいんです…」
シグナルはルソーの耳元で、声を振り絞った。
「…レースの結果は…どうだったんですか?…」
「…勝ったよ。」
「…ああ…良かったです…」
シグナルの頬に、僅かに微笑が浮かんだ。
「良くないよ。私、あなたと一緒に喜びを分かち合いたかったのに…」
ルソーはシグナルから顔を離し、涙を拭った。
「…でも…笑って下さい…」
悲しみの涙に溢れているルソーの表情を見上げ、シグナルは祈るように言った。
「…ルソーさんは勝ったんです…喜びの笑顔を…見せて下さい…」
「シグナル…」
「…最期の…お願いです…あなたの笑顔…見せて…」
最期の力を振り絞って伸ばされたシグナルの腕が、ルソーの頬に当てられた。
「……」
シグナルの最期の願いを叶えようと、ルソーは懸命に表情を動かした。
だが。
「ごめん、笑顔になれない…」
ルソーは表情に手を当てて嗚咽し、床に崩れ落ちた。
「こんなになってしまったあなたを前に、笑顔になんてなれないっ…」
「…う…」
崩れ落ちたルソーを見て、シグナルの眼から涙が滲んだ。
涙を浮かべたまま、彼女の眼はゆっくりとルソーからその傍らの岡田、そしてベッドを囲んでいる仲間達を見回した。
「…ごめん…なさい…」
悲しみに満ちている仲間達の姿に、シグナルは泣きながら、消えかけるように叫んだ。
「…みんなの笑顔…私が奪っちゃったんだねっ…」
その言葉を最後に、シグナルは力尽きたように眼を閉じた。
「…シグナル⁉︎…」
ルソーが身体を揺すって叫んだが、もうシグナルは反応しなかった。
彼女の閉じられた眼からは、溢れた涙が筋となって頬を伝い落ち、シーツを濡らしていた。
16時40分。
トレセン学園3年生・チーム『フォアマン』所属のシグナルライトは、その生涯を閉じた。