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再び、現在。
療養施設のスペの宿泊室。
「私はシグナルに、さよならすら言えなかった。最期の願いも叶えられなかった。そしてシグナルは、悲しみと罪悪感に満ちたまま帰還したの。その最期を、オフサイド先輩は目の当たりにしていた。」
2年半前の出来事を述べた後、ルソーは言葉を続けつつ、スマホを懐にしまった。
「…。」
衝撃的な故障の映像と最期の内容に、傍らのスペは病人のように蒼白になっていた。
「これで分かったかしら。オフサイド先輩が天皇賞・秋のレース後に、笑顔を絶やさなかった理由が。」
「…スズカさんを、シグナル先輩と同じ思いにさせない為だったんですか…」
「シンプルに言えば、スズカの為だね。」
スペの言葉に、ルソーはふっと息を吐いた。
「スズカの悲劇を全く予期せずただオロオロするばかりだった人間と違って、先輩はスズカの為に、あのレース勝者としてどうするべきか、混乱しながらも言動に移した。それだけだわ。」
「混乱ですか?」
その台詞に、スペは反応した。
「うん。オフサイド先輩も混乱してたわ。あの天皇賞・秋は、ただでさえ先輩にとって重大なレースだったのに、更にスズカの悲劇まで背負うことになったんだから。その混乱が、あの『笑いが止まらない』発言になったであろうことは間違いないわ。」
言いながら、ルソーの表情が曇った。
「ルソー先輩も、あの言葉には違和感を感じていたんですか。」
「世間やあなたみたいに悪意として受け取ってはいないけどね。余り使われない喜びの表現の仕方に、先輩の動揺は感じてとれたよ。」
ルソーは口調にやや感情を込めた。
まあとはいえ、どう喜んでも滅多撃ちにされてただろうけどね。
あの時のオフサイド先輩の心情を理解する者も推して知ろうとする者も、殆どいなかったんだから。
思いつつ、ルソーは感情を込めた口調のまま続けた。
「先輩の心情を推し量らった上で、あの表現を批判するならまだ分かるわ。でも、あんたも含め殆どの人間が、何にも考えずに一方的な視点でそれを糾弾した。挙句の果てには勝者の尊厳すら踏みにじって、先輩の栄光の日曜日を沈黙の日曜日にした。それを知ったスズカがどう思うか、それも考えずにね。」
最後らへんの口調は、引き攣っていた。
「…。」
スペの表情は、蒼白から真っ暗になっていた。
それを横目で見ながら、ルソーは立ち上がった。
「伝えたいことは以上だわ。…」
絶望に叩き落とされたようなスペの様子を見ても、ルソーの心は特に動かなかった。
無知だったとはいえ、オフサイド先輩の存在抹消を是とした報いだ、同情の余地はない。
最も、同胞への無慈悲な私のこの思いも、自らに報いとなって返るだろうけどね…
と、
「…謝らなきゃ。」
ポツポツと、スペが声を洩らし出した。
「…?」
「私、オフサイド先輩に謝罪します。先輩は今何処に…」
「どういうこと?」
狼狽し始めたスペに、ルソーは冷ややかな視線で見下ろした。
「何、スズカのことが心配になったから、慌ててオフサイド先輩に謝るつもり?」
「違います!私、先輩に酷いこと言ってしまったから、それを謝罪に…」
スペは、偽りのない口調で言った。
「余計なことしなくて良いから。」
ルソーは冷たい口調で言い返した。
これ以上、オフサイド先輩を苦しめさせてたまるか。
「第一、あなたは昨晩“オフサイド先輩の酷い言動は消えない”とか吐き捨てたよね?それを忘れたの?」
「申し訳ありません。私が間違ってました。」
スペは床に膝をつき、声を振り絞って頭を下げた。
見苦しい…
それを見て、ルソーは更に冷ややかな視線になった。
彼女を無視して、部屋を出ようと足を踏み出した。
だが、ルソーは足を踏み出しかけた足を止めた。
『スズカとスペを、助けてあげて』
オフサイドの言葉が、脳裏に蘇ったから。
分かりましたよ、先輩…
ルソーは、胸のうちで呟いた。
「スペ、」
ルソーは振り返ると、膝をついたスペの側に屈み込み、その耳元に言った。
「謝罪よりも、あなたがすべきことがあるわ。」
「…何ですか?」
涙を浮かべているスペに、ルソーは淡々と言った。
「スズカに、天皇賞・秋後のことを全て話すの。」
「え…」
「オフサイド先輩の勝利が無価値と貶められたこと。勝利を喜んだことでいわれなき誹謗中傷を受けたこと。そして、自分自身もそれに加担してしまったことを、正直に伝えるのよ。」