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場所は変わり、メジロ家の別荘。
オフサイドトラップは、この日も別荘裏にある運動場で、淡々と調整を行っていた。
その様子を、生徒会から派遣されたビワハヤヒデは、他のメジロ家使用人と共に運転場の片隅で見守っていた。
陽が暮れる頃に、オフサイドは調整を終え、別荘に戻った。
ビワも使用人達と共に別荘に戻った。
オフサイドが調整後のケアをしている間、ビワは他の一室でニュースを観ていた。
ニュースの多くは、トレセン学園が下した断行のことだった。
オフサイドトラップの言動を糾弾してきた報道や世間は、学園の断行をこぞって非難していた。
ただ、何故だかどの報道も、以前のオフサイド糾弾の時と比べ、どこか歯切れが悪かった。
学園への非難より、学園の断行に対する衝撃の方が大きかったのだろうか。
既に夕方までに、学園&オフサイドへの被害を与えたとしてかなりの者が法的措置にされている。
報道関係者にすらその中に含まれていた。
前々から準備していたからとはいえその勢いの凄まじさに圧されたのか。
或いは、報道にされなかったが、先日ライスシャワーが受けた取材の影響があったのだろうか。
そんなことを考えていると。
「失礼します。」
ケアを終えたオフサイドが、ビワの部屋に来た。
制服姿で、右脚にはいつものように分厚い包帯が巻き直されていた。
「脚の具合はどうだ?」
「いつも通りです。」
ビワの問いに返答しながら、オフサイドは彼女の前に座った。
ビワは、妹のナリタブライアンを通じてこれまでにもオフサイドと何度か会っており、生徒会の中では彼女と最も顔見知りだった。
マックイーンの指示でビワがこの別荘に到着したのは午前中。
だが、ここに来た理由や生徒会の断行については、まだオフサイドに話していない。
オフサイドは朝から調整の方に集中しきっており、それをすぐ伝えられる雰囲気でもなかったから。
「何故、ビワ先輩がこちらに来られたのですか?」
向かいあって座ると、オフサイドは尋ねた。
「学園の今回の断行と、あなたの保護を兼ねてここに来た。」
「学園の断行?」
オフサイドは怪訝な表情を浮かべた。
彼女は報道を全く見てないので、それが起きたことすらまだ知らなかった。
ビワもそれは予測していた。
「これだ。」
ビワはスマホを取り出し、ニュースをオフサイドに見せた。
『天皇賞・秋後、所属する某生徒および某チームが多大な中傷被害を受けたとして、トレセン学園が法的措置を断行』
…。
その内容を見て、オフサイドの表情が僅かに蒼くなった。
「大丈夫だ。」
ビワは、彼女の不安をすぐに察して言った。
「ここにあなたがいることは極秘にされてる。万が一嗅ぎつけられたとしても、報道関係はメジロの敷居に一切踏み込ませないとマックイーン会長からの伝達だ。」
「有馬記念の方は…」
「それも大丈夫だ。有馬記念は予定通り行われる。」
「そうですか。」
その返答に、オフサイドの表情がほっとしたように緩んだ。
それ以上は何も尋ねず、彼女はスマホをビワに返した。
「何か、他に気になることはないのか?」
「ありません。」
オフサイドは首を振った。
「有馬記念さえ出れれば、それだけで良いですから。」
僅かに、口元に微笑が浮かんでみえた。
儚さを感じる澄んだ微笑だった。
「オフサイド、」
スマホをしまった後、ビワは眼鏡の奥の瞳を光らせ、重い口調で尋ねた。
「あなたは、本当に有馬記念で還るつもりなのか?」
「…。」
もう何度も同じ質問を受けたオフサイドは、ただ微笑をもって返した。
微笑でその意志を示したオフサイドに、ビワは少考後、重い口調で言った。
「今からでも遅くない。9月27日のことを世間に話せ。」
「…!」
ビワのその言葉に、オフサイドの表情から微笑が消えた。
明らかに動揺した様子が見てとれた。
「それは、絶対に出来ません。」
俯きがちに、小刻みに震えた口調でオフサイドは答えた。
「何故だ?そうすれば、世間があなたを見る眼は一変する筈だ。」
「だとしても、駄目です。」
二人がこの話をしたのはこれが初めてではなかった
天皇賞・秋後の騒動が始まった頃、ビワはオフサイドと会い、彼女を擁護する為にその日にあった出来事を話そうと相談していた。
だが、オフサイドはそれを断固拒否し、ビワにも絶対に話さないよう約束させていた。
ビワには、その理由が理解出来なかった。
「今一度尋ねる。何故あなたは、頑なにあの時の事を話そうとしないんだ?」
今また、表情を硬らせて拒否するオフサイドに、ビワは整然とした口調で尋ねた。
9月27日。
それは、ウマ娘界全体が大きな悲しみに暮れる出来事が起きた日。
ビワはオフサイドと共にその出来事の現場にいた。
そしてその出来事の時に、オフサイドに何があったのかも知っていた。
ビワだけでなく、マックイーンや『フォアマン』の面々も、そのことは気づいている。
ただその一部始終について全て知っているのは、ビワだけだった。
マックイーンがビワをオフサイドの元に派遣したのは、その出来事の全てを知って彼女なら、オフサイドの決意を翻意させられる望みがあると考えてのことで、ビワもそれを周知していた。
「あの時の事を話せば、あなたがどれだけの想いと決心であの天皇賞・秋を走ったか、世間だって理解出来る筈だ。あの勝利を貶める声もなくなる。」
ビワの言葉に、オフサイドは俯いたまま、消え入りそうな小声で答えた。
「そんな、卑怯なことは断じて出来ません。」
「卑怯だと?」
眉を顰めたビワに、オフサイドは続けて言った。
「帰還した偉大な同胞を盾に自らの名誉を回復させようなど、卑怯以外の何者でもありません。」
「あなたは、妹の想いを身に纏って走った。それだけを話せばいいんだ。」
「それは即ち、彼女の名誉も貶めることになります。史上最高のウマ娘の、最期の想いを抱いて出走したのに、私にはあの程度の走りしか出来なかったのですから。」
あの程度…
眉を顰めたまま、ビワは息を吐いた。
「あの程度とか言うな。〈死神〉を3度も患った上、年齢も6年生ということを顧みれば、相当な高レベルだった筈だ。」
第一、6年生の天皇賞覇者は、50年以上の天皇賞の歴史の中でもオフサイドが初めてではないか。
「身体も年齢も、レース内容の言い訳にはなりません。現実として、私は勝者と認められる走りでは全くなかった。第118回天皇賞・秋において望まれた勝者の内容とはかけ離れていた。それが全てです。」
「卑下し過ぎだ。」
「卑下ではありません。第一私は、悲劇が起きたレースの勝者の責任も果たせてませんから。」
「何?悲劇のレースの勝者の責任だと?」
「レースの内容で、悲劇の印象を少しでも減らすことです。ダイイチルビー先輩もダンツシアトル先輩も、メジロデュレン先輩もメジロパーマー先輩もマイシンザン先輩も、そしてホッカイルソーも、それを果たしてきました。私にはそれが全く出来なかった。」
「…。」
ビワは額に指を当てながら、苦悩する様に首を振った。
悲劇のレース勝者の責任など、聞いたことも想像したこともない。
「あなたはそう言うが、妹があのレースを見ていたならば、あなたの走りを称賛してるに違いないと思う。」
「…!」
その言葉を聞き、オフサイドの肩がビクッと震えた。
その反応を見て、ビワ更に続けた。
「幾千万の人間がなんと言おうとも、妹は絶対に君のことを」
「もうやめて下さい!」
ビワの言葉を遮り、オフサイドは耐え切れなくなったように立ち上がって叫んだ。
「これ以上ブライアンの名は出さないで下さい!もう彼女は、この世にいないんです!」
「オフサイド…」
「失礼しますっ。」
オフサイドはビワに頭を下げると、そのまま踵を返して逃げるように部屋を出ていった。
オフサイドが去った後、ビワはしばし茫然としていたが、やがて深い吐息をし眼鏡を外した。
理想的な走りが出来なかった自己を責め過ぎだ。
ハンカチでレンズを磨きながら、ビワは思った。
年齢は限界寸前の6年生。
身体は〈死神〉を3度患い満身創痍。
更に本番ではレース自体を壊しかねない悲劇まで発生。
この条件下で理想的な走りなど出来る筈がないのだ。
そんなこと、オフサイドだって分かっていただろう。
だから、優勝後はあんなに喜びを表したんじゃないのか。
内容はどうであれ、彼女にとって天皇賞の盾は全てを失ってでも手に入れたかった栄光なのだから。
やはり、あの9月27日のことを世に発信するべきだ。
ビワは眼鏡をかけ直した。
どのみち、このままではオフサイドの帰還決意は動かしようがない。
ならば、例え彼女がどんなに拒否しようともそれをした方が可能性が生まれる。
無論、発信した瞬間オフサイドが即座に帰還に踏み切る危険も高い。
先程の拒絶した態度を見てそう感じた。
会長とも相談して慎重にやらねば。
つと、ビワは胸を押さえた。
脳裏に、亡き妹の姿が浮かんだから。
ブライアン、妹のあなたが愛した同胞の命は、姉の私がなんとしても守るから。
一方、ビワの部屋を飛び出したオフサイドは、そのまま別荘の外に出ていた。
はあ…はあ…
競走場まで行くと、そこで脚を止め、悲嘆混じりの息を吐きながら夜闇に染まった空を見上げていた。
あの天皇賞・秋で、私の走りは、誰の心も動かせなかった。
栄光は、その走りの内容で一層燦然と輝く。
『フォアマン』の仲間達は皆そうだった。
トウカイテイオー先輩もウイニングチケット先輩も、ナリタブライアンもサクラローレルも、後輩のフサイチコンコルドも、そしてサイレンススズカも、観ている人々全ての心を動かす走りで栄光を手にした。
だから、その栄光はずっと燦然と輝き続けている。
でも、私は動かせなかった。
それも、絶対に動かなければならないレースだったのに。
動かせた自信は、あったんだけどな。
オフサイドは、運動場の芝生の上に腰を下ろした。
天皇賞・秋への切符を掴んだ時、このレースにバ生全て捧げると決意した。
右脚の不安に耳を貸すのはもうやめた。
壊れる危険性よりも勝てる可能性に懸け、死に物狂いで調整に励んだ。
そして、最高の走りが出来る状態にもっていけた。
最初で最後の、自分にとって最高の走りが出来る状態だった。
そして迎えた本番。
幾度も脚が悲鳴をあげた中、全ての力を出し切って、最後まで走り切った。
生涯でも最高の走りが出来たと、自分でもそう思えた。
そう思えたのに、観ていた人々の心には、全然届いてなかった。
「ブライアン…」
抱えた膝に顔を埋めて、オフサイドは呟いた。
「会いたい、あなたに会いたいよ…」
寂しい、冷たい…
永遠に会えないことは分かってる…会う資格がないことも分かってる。
それでも、それでも…
顔を埋めているオフサイドの両眼からは、涙は出なかった。
そして、少し時間が経った頃。
別荘の門前から、一台の車両が到着した音が聴こえた。
ちらっと眼を向けたもののオフサイドは気にせず、そのまま膝を抱えていた。
すると直後、こちらに駆け寄ってくる足音が聴こえた。
…?
オフサイドは、そちらに視線を向けた。
そして、駆け寄ってくる者の姿を見た。
…何故、あなたがここに?
夜闇の中、その姿を見たオフサイドの表情に、なんとも言えない微笑が洩れた。
時刻は、18時になろうとしていた。